【生品神社】
生品神社(いくしなじんじゃ)は、
群馬県太田市新田市野井町にある神社。
主祭神は大穴牟遅神(大国主)。
旧社格は県社。
境内は国の史跡「新田荘遺跡」の一部として
指定されています。
【概要】
平安時代の上野国神名帳に
「新田郡従三位生階明神」として記載される古社です。
主祭神は表向きは大国主ですが、
実は平将門を祀っているという伝説もあるそうです。
元弘3年(1333年)5月8日、
新田義貞が後醍醐天皇より
鎌倉幕府倒幕の綸旨を受けた際に、
産土神である生品神社境内で旗揚げをし、
鎌倉に攻め込んだと伝えられています。
このとき、旗揚げに参集した武将は
150騎だったと伝えられています。
境内には社殿の他、
新田義貞公像、義貞公旗揚げ塚、
神木、記念碑等があります。
毎年5月8日には例祭として鏑矢祭が行なわれています。
【境内】
境内は1934年(昭和9年)3月13日、
「生品神社境内(新田義貞挙兵伝説地)」として
国の史跡に指定されました。
更に、2000年(平成12年)11月1日、
新田荘関連の他の10箇所の遺跡とともに
「新田荘遺跡」として国の史跡に指定されました。
【新田義貞像】
1983年(昭和58年)、
挙兵650年を記念して
新田義貞像が生品神社境内に安置されました。
この像は1941年に
地元の教師や児童によって
勤労活動による集金で建立されたものであったとのことです。
ところが2010年2月、
銅像が盗難にあう事件が起きてしまいました。
銅像の行方は分からず、再建を求める声が高まり、
2011年に
「新田義貞公銅像再建委員会」が発足しました。
新たな銅像は彫刻家の脇谷幸正氏が製作し、
2012年5月8日に除幕式が行われました。
なお、脇谷幸正氏は新田義貞公の弟である
脇屋義助の24代目子孫となるとのことです。
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【所在地】
〒370-0314 群馬県太田市新田市野井町645
<場所>
青印は駐車場付近です。
【新田庄遺跡】
新田荘遺跡(にったのしょういせき)は、
上野国新田郡(群馬県太田市)にあった
荘園新田荘に関わる遺跡。
荘域は上野国新田郡全域・勢多郡・佐位郡・
武蔵国榛沢郡の一部に及びます。
おもに大間々扇状地と利根川左岸氾濫原からなっています。
「延喜式」には上野国新田駅、
「和名類聚抄」では新田郡駅家郷と記されています。
中世武士団新田氏一族の根源地として成立し、
長楽寺文書、正木文書によって
文献史料の裏付けを可能とする
東国の中世荘園として稀有な例であるといえます。
2000年(平成12年)、
新田氏遺構群のうち11箇所が国の史跡に指定され、
「新田荘遺跡」として保存されています。
【史跡新田荘遺跡】
新田氏遺構群のうち
下記の11箇所が新田荘遺跡として
国の史跡に指定されています。
◆円福寺境内(太田市別所町)
◆十二所神社境内(太田市別所町)
◆総持寺境内(太田市世良田町)
◆長楽寺境内(太田市世良田町)
◆東照宮境内(太田市世良田町)
◆明王院境内(太田市安養寺町)
◆生品神社境内(太田市新田市野井町)
◆反町館跡(太田市新田反町)
◆江田館跡(太田市新田上江田町)
◆重殿水源(太田市新田市野井町)
◆矢太神水源(太田市新田大根町)
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