徳川家臣

奥平信昌~攻防最前線である奥三河の国人、徳川家康の娘婿となり、武田軍猛攻の中長篠城を死守する。

長篠城 堀



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奥平信昌

奥平 信昌(おくだいら のぶまさ)は、
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。
上野小幡藩初代藩主、後に美濃加納藩初代藩主。
初名は貞昌(さだまさ)。
徳川家康の長女・亀姫を正室とし、
徳川家康に娘婿として重用されました。
亀姫との間に家昌など4男1女を儲けました。

【生誕】
弘治元年(1555年)

【死没】
慶長20年3月14日
(1615年4月11日)

【改名】
九八郎(幼名)、貞昌、信昌

【別名】
定昌

【墓所】
美濃国加納の盛徳寺(臨済宗妙心寺派)

【官位】
従五位下・美作守

【幕府】
江戸幕府京都所司代

【主君】
徳川家康⇒武田信玄武田勝頼
徳川家康⇒徳川秀忠

【藩】
上野小幡藩主⇒美濃加納藩主

【氏族】
奥平氏

【父】
奥平定能

【母】
牧野成種の娘

【兄弟】
信昌、昌勝

【妻】
正室:亀姫(徳川家康長女)
最初の妻:おふう

【子】
家昌、松平家治、
忠政、松平忠明
女(大久保忠常室)

【生涯】
【服従と離反】
三河国作手(つくで)の
有力国人・奥平定能(貞能)の長男です。
母は牧野成種の娘です。

奥平氏は祖父である奥平貞勝の代までは
今川氏に属していました。
しかし桶狭間の戦い後に
三河における今川氏の影響力が
後退すると、徳川家康の傘下となり
遠江掛川城攻めに加わっています。
元亀元年(1570年)の
姉川の戦には父と共に従軍しています。
姉川の古戦場

上村合戦
元亀元年(1570年)12月、
武田氏の重臣の秋山虎繁
2500余騎を率いて
東美濃の遠山氏の領地の一部を通って
奥三河へ侵攻しようとした際に、
奥平信昌と父の奥平定能は
徳川方として山家三方衆と
三河衆2500人と共に、
同盟する遠山氏と伴に
武田(秋山軍)と対峙。
三河との国境の美濃国恵那郡上村にて
戦闘が行われました。
数の上で有利だった
遠山・徳川連合軍でしたが、
遠山氏が惨敗した様子を見て、
既に武田方とも内通していた
奥平定能親子ら山家三方衆と
三河衆は殆ど戦わずして城へ逃げ入り、
その後は武田氏に属しました。
そして結婚したばかりであった
奥平信昌の最初の妻であった
おふう13歳、奥平信昌の弟である
仙千代丸10歳、
更に奥平周防守勝次の息子
虎之介13歳はともに
武田勝頼へ人質に出されました。




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【徳川家康の考え】
元亀4年(1573年)ごろ、
徳川家康は奥三河における
武田氏の勢力を牽制するため
有力な武士団である奥平氏を
味方に引き入れることを考えます。
そこで奥平氏に使者を送りましたが、
奥平貞能の返答は「御厚意に感謝します」
という程度のものだったとのことです。

織田信長に相談】
そのため徳川家康は織田信長に相談します。
織田信長は「家康の長女・亀姫を
貞能の長男である貞昌(信昌)に与えるべし」
との意見を伝えてきたとのことです。
崇福寺・織田信長肖像画

【奥平貞能に提示した内容】
徳川家康は織田信長の意見を入れ、
奥平貞能に以下のことを提示しました。
●亀姫と貞昌の婚約
●領地加増
●奥平貞能の娘を本多重純(本多広孝の次男)に入嫁させる

【奥平貞能の回答】
元亀4年6月22日、
奥平貞能は徳川家康に以下のことを
伝えました。

●武田信玄の死は確実なこと
●貞能・貞昌親子の徳川帰参の意向

その後、亀姫との婚約を提案された
奥平貞昌は、
武田家に人質として送っていた
妻おふうと離縁しました。
徳川家康の家臣である
本多豊後守広孝を介して
再び出仕することになり、
しばらくして徳川氏の家臣となりました。
のち三河長篠城の守りをまかされました。

【おふう・子供たちの処刑】
一方の武田勝頼は
奥平貞能・貞昌親子の徳川帰参を受け、
見せしめとして山県昌景により
天正元年(1573年)9月21日
奥平貞昌の妻であったおふう(16歳)(磔)・
奥平貞昌の弟仙千代(13歳)(鋸引)、
虎之介(16歳頃)(磔)を
同日別々の場所で処刑しました。
おふうの処刑地は
コオリ坂(愛知県新城市玖老勢地造入)
という場所で鳳来寺小学校から
南側に旧道を通り
旧田口鉄道をくぐった左側とのことです。
「於フウ処刑の地」の碑があり
坂の上には墓も建てられています。

【祖母が奪還】
処刑された三人の首は
鳳来寺山麗さらされたとのことです。
けれどもおふうの祖母の貞子姫により
奪還され、生まれ故郷の
日近城(広祥院)に貞子姫、
仙千代と並んで埋葬されているとのことです。
なお、仙千代(仙丸君)は
大分県所在の奥平神社中津城隣)に
父や兄・甥と共に祀られています。

<「於フウ処刑の地」・所在地>
〒441-1945 愛知県新城市玖老勢地造入
※足場はよくなくて、草生い茂る地とのこと。

<広祥院・所在地>
〒444-3435 愛知県岡崎市桜形町般興11
※寺の東側に登城用の駐車場はあるそうです。




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長篠の戦い
奥平氏の離反に武田勝頼は、
天正3年(1575年)5月、
1万5千の軍を率いて
長篠城へ押し寄せ、包囲します。
これが長篠の戦いの発端となりました。
奥平貞昌は長篠城に籠城し、
家臣の鳥居強右衛門に援軍を要請させ、
酒井忠次率いる織田・徳川連合軍の分遣隊が
包囲を破って救出に来るまで
武田軍の攻勢を凌ぎきりました。
その結果、同月21日の長篠の戦いにおいて
織田・徳川連合軍は武田軍を破り、
勝利をおさめることができたのでした。
長篠・設楽原の戦い布陣図

【改名とその背景】
この時の戦いぶりを織田信長から賞賛され、
織田信長の偏諱「信」を与えられて
名を信昌と改めました。
織田信長の直臣ではありせんが
偏諱を与えられた者は、
奥平信昌の他に長宗我部信親
松平信康などがいますが、
これらはいずれも
外交的儀礼の意味合いでの
一字贈与であると考えられています。
ただし、近年になって、
武田信玄こと晴信の偏諱
「信」を与えられて
信昌と称したものの、
後世の奥平氏がこの事情を憚って
織田信長からの偏諱の話を
創作したとする説も
出されているとのことです。

【賞賛と異次元の高待遇】
徳川家康もまた、名刀大般若長光を授けて
奥平信昌を賞賛しました。
徳川家康はそれだけに留まらず、
奥平信昌の籠城を支えた
奥平の重臣12名に対して
一人一人に労いの言葉をかけた上に、
彼らの知行地に関する約束事など
子々孫々に至るまで
その待遇を保障するという
特異な御墨付きまで与えました。
戦後、父である奥平貞能から
正式に家督を譲られました。

【その後の戦功】
天正9年の遠江高天神城攻めで
戦功をあげています。
天正10年(1582年)の
天正壬午の乱では
酒井忠次と共に
武田家遺領へ侵攻しました。
また天正12年の小牧の戦では
羽柴秀吉方の武将森長可を羽黒で破り、
敵の首級200を
あげたといわれています。
羽黒城跡(犬山市)

石川数正の出奔と軍制改革】
天正13年(1585)、
徳川氏の宿老・石川数正
豊臣秀吉のもとへ出奔し、
石川数正によって豊臣秀吉に
自家の軍事機密が流出したことに
対抗するため、
徳川家康は急遽三河以来の軍制を
武田信玄の軍制に改めました。
かつて武田家に臣従していた奥平信昌は、
この軍制改革に貢献したということです。

【上野国甘楽郡宮崎3万石】
天正18年(1590年)7月、
関東へ国替えとなった徳川家康と共に
関東に移転しました。
同年8月23日、上野国甘楽郡宮崎3万石に入封。




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関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)、
関ヶ原の戦いでは本戦に参加しています。
一方で家史・中津藩史では、
徳川秀忠軍に属していたとの記載があります。
戦後は京都の治安維持のため、
京都所司代を翌年まで務めました。
この時、京都潜伏中の安国寺恵瓊を捕縛。
安国寺恵瓊が所持していたという
短刀・庖丁正宗は、奥平信昌が
徳川家康に献じたものですが、
改めて奥平信昌に下されています。
一方で太秦に潜伏していた
宇喜多秀家には逃げられています。
関ヶ原

【美濃国加納10万石】
慶長6年(1601年)3月には、
関ヶ原の戦いに関する一連の功として、
上野小幡3万石から
美濃国加納10万石へ加増転封。
慶長7年(1602年)、
加納で隠居し、
三男・奥平忠政に
藩主の座を譲りました。

【大坂の陣と最期】
慶長19年(1614年)には、
奥平忠政と下野国宇都宮10万石の長男である
奥平家昌に先立たれてしまいますが、
高齢を案じられてか、
息子たちに代わる大坂の陣への
参陣を免除されています。
そこで、唯一参戦した末子の松平忠明の下へ
美濃加納の戦力だけは派兵しています。
翌年3月に死去しました。

【奥平神社と「たにし祭」】
奥平信昌の長篠籠城を偲んで、
大分県中津市に所在する奥平神社
(中津城の隣)では例年ですと
毎年5月に例大祭「たにし祭」が
開催されているとのことです。

<御祭神>
奥平貞能霊神(智勇の神)
奥平信昌霊神(開運の神)
奥平家昌霊神(天徳除災の神)
奥平仙丸君霊神(護国の神)




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<奥平神社・所在地>
〒871-0050 大分県中津市二ノ丁

2023年NHK大河ドラマ
どうする家康」では
白洲 迅(しらす じん)さんが
演じられます。

亀山城~群馬からやってきた奥平氏が築城し、やがては山家三方衆と呼ばれる有力土豪になった。

奥平貞勝と亀穴(滝山)城~松平氏・今川氏・織田氏・徳川氏・武田氏と戦国の世を渡り歩き84歳まで生きた。

石橋城(慈昌院)~石橋奥平氏の居館跡で奥平貞勝に対して謀反を企むも逆に討ち取られる。

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