【高天神城】
高天神城(たかてんじんじょう)は、
遠江国城東郡土方(ひじかた)、
現在の静岡県掛川市上土方・下土方
にあった日本の城です。
小規模ながら、山城としての
堅固さを誇り、
戦国時代末期には武田信玄・勝頼と
徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げました。
優美な山の形から
鶴舞城の別称を持っています。
国の史跡に指定されています。
「高天神を制するものは遠州を制する」
といわれた要衝です。
戦国時代に徳川・武田の両雄が
標高132mの鶴翁山の地形を
巧みに活かした高天神城は
「難攻不落の名城」と呼ばれていましたが、
徳川家康の兵糧攻めに遭い落城しました。
うっそうとした杉や檜に覆われた
昼なお暗い石段は、時を重ねています。
城跡は国の文化財に指定されています。
平成29年4月6日に
「続日本100名城」に認定されました。
【別名】
鶴舞城
【城郭構造】
連郭式山城
【天守構造】
建造されず
【築城主】
不明
【築城年】
16世紀初頭
【主な改修者】
武田勝頼
【主な城主】
福島氏、小笠原氏、岡部氏
【廃城年】
天正9年(1581年)
【遺構】
曲輪、土塁
【指定文化財】
国の史跡
【立地】
高天神城は菊川下流域の平地部から
やや離れた北西部に位置しています。
北の小笠山を中心とした
標高200m前後の低い山地帯を抜けると
掛川(現掛川市中心部)
を中心とした盆地に出ます。
遠州灘に面した河口には
浜野浦という港があり、
中世には水軍の拠点として
知られていたとのことです。
【城郭について】
山の高さは海抜132m、
周囲との比高は100m程度と、
それほど大きな山ではなく、
城郭全体の面積もそれほど多くはありません。
しかしながら、山自体が急斜面かつ、
効果的な曲輪の配置が施されたことで、
堅固な中世城郭となったのでした。
石垣はなく、多くの土塁が
曲輪の周囲を取り囲み、
掘割も設けられていました。
非常に実践的で、
乱世ならではの城と云えるとのことです。
また、急斜面の山であるために
通路以外からよじ登ることは
かなり困難なことでした。
南側の大手門から東側の段丘面に
武家屋敷がありました。
北側は搦手ですが、
同時に高天神社の参拝道でもあります。
現在では曲輪の構造や、
土塁・掘割をうかがい知ることができます。
現在は、地元の掛川市(合併以前の大東町)が
史跡としてよく整備しており、
登山は比較的容易となっています。
また、本丸にはふもとの
土方(ひじかた)村(現在の掛川市下土方・上土方)
の住民が兵隊として
西南戦争・日清戦争等に出征した
記念碑がいくつもあり、
明治以降に地元民にとってこの山が
どのような存在であるか、
うかがい知ることができます。
また明治維新の元勲の一人である
土方久元(土佐-高知県出身)の祖先が
土方村の出です。あり、
太平洋戦争前の時期に
模擬天守が建造されたこともあったそうです。
なお、戦国時代に天守が建造されたことはありません。
この模擬天守はその後は落雷で焼失しました。
現在はコンクリートの土台のみが残っています。
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【築城について】
高天神城には治承・寿永の乱(源平合戦)の際に
築城されたとの伝承がありますが、
それと確認できる文献も
考古学的発見もなされてはいません。
確実な文献としては16世紀初頭に
今川氏の家臣であった福島助春が
城代として土方の城
(土方は高天神城のある地域の地名)
に駐屯したとの記述が初見となります。
ただし、発掘調査によると
15世紀後半から16世紀初頭と
推定できる陶器などの出土があり、
今川氏進出以前に菊川下流域の在地勢力が
「詰めの城」とした可能性が指摘されています。
【今川氏の支城】
福島氏は天文5年(1536年)の
花倉の乱により没落し、その後は、
今川氏に服属した国である
小笠原氏が城代となりました。
今川氏は今川義元のときに
大きく領土を広げたのですが、
永禄3年(1560年)5月の
桶狭間の戦いで敗れ、
今川義元自身も討死しました。
永禄12年(1569年)、
今川氏は甲斐国の武田氏との同盟が手切となり、
武田信玄は三河の徳川家康と同盟して
駿河侵攻を開始し、
これにより今川氏は滅亡しました。
小笠原氏の当時の当主であった
小笠原氏興、小笠原氏助父子は
徳川氏の家臣となりました。
しかし、まもなく武田・徳川両氏は
敵対関係に入り、
駿河・遠江の国境近くにある
高天神城もその角逐の舞台となるのでした。
【武田・徳川氏の戦い】
元亀2年(1571年)3月から5月にかけて、
武田信玄は高天神城や東三河の足助城、
野田城、吉田城を攻略したとされていますが、
これは関係文書の年次比定の再考から
天正3年(1575年)の
出来事であったことが指摘されています。
【第一次高天神城の戦い】
武田信玄の死後、その子である
武田勝頼も天正2年(1574年)に
高天神城を攻撃し、
猛攻を加えて結果として二ノ丸が落城しました。
城主であった小笠原氏助は
織田・徳川の援軍を期待しましたが、
徳川単独で援軍を出す力はなく、
織田軍は各地の一向一揆の対処のために
援軍が送れずにいました。
こうした状況に絶望した小笠原氏助は
ついに降伏し、高天神城は開城しました。
小笠原氏助(信興)は武田方に臣従を誓い、
ともに籠城していた大須賀康高などは
逃がされて浜松まで落ち延びていきました。
武田信玄でも陥とせなかった
高天神城を落城させたことは、
当時の武田勝頼の武名を
大きく上げることとなったのでした。
【甲越同盟】
天正3年(1575年)5月、
武田氏は長篠の戦いで
大きな損害を受けました。
さらに上杉謙信没後に発生した
御館の乱において、
上杉景勝の和睦要請に応じました。
武田勝頼は北条方の
上杉景虎との間に和睦を成立させましたが、
武田勝頼の撤兵中に
上杉景勝・上杉景虎間の和睦が破綻し、
上杉景虎は滅亡しました。
これにより武田氏と
北条氏の甲相同盟が破綻し、
武田勝頼は上杉景勝との
同盟を強化して甲越同盟を結んだのでした。
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【城代・岡部元信】
こうした外交関係の変化により、
武田氏は駿河方面において西の織田氏や
東の北条氏を同時に対応することとなりました。
この間、武田勝頼は高天神城の拡張を行って
縄張りを西側の峰・現在の高天神社の範囲まで広げ、
城代として今川氏の旧臣である
岡部元信(真幸)を任命しています。
【第二次高天神城の戦い】
一方、徳川家康は光明・犬居・二俣といった城を
奪取攻略し、殊に諏訪原城を
奪取したことで大井川沿いの補給路を封じました。
さらに付城として横須賀城のほか、
6箇所の拠点(高天神六砦)を築いて
締め付けを強化し、
高天神城は利点の裏で
維持のための補給線が長く
負担も大きなものとなっていったのでした。
そして天正8年(1580年)9月、
徳川軍は満を持して高天神城を攻撃しました
岡部は千程度の軍を率いて
激しく抗戦しましたが、
兵糧攻めにあって
兵の士気が大きく衰えました。
武田勝頼も援軍を送ろうとしましたが、
東西に敵を抱える有様で
それがかなわない状況が続いたのでした。
ついに翌年の天正9年(1581年)3月下旬、
岡部以下の将兵が突撃を敢行し
討死して高天神城は陥落しました。
わずかに生き残った城兵は
およそ助命されましたが、
脱出したけれども捕縛された武者奉行も
孕石元泰のみが翌日に切腹させられました。
これは、徳川家康が
今川氏の人質であった時代に
隣家住民であった孕石との諍いを、
迷惑をかけた側の徳川家康が
遺恨に思っていたためであったと伝えられています。
また、西側の尾根を伝って
軍監の横田尹松が脱出に成功し、
甲斐(山梨県)の武田勝頼に
落城の事実を報告したとのことです。
ちなみにこの脱出道は
現在も残っているとのことです。
【織田信長の策略】
なお、この高天神城の攻防戦に
最後まで援軍が送れなかった
武田勝頼の声望が致命的に低下し、
翌年に木曾氏・保科氏など豪族が
寝返っていく理由となったといわれています。
「信長公記」でもことさらに
そのあたりを強調する記述となっています。
織田信長が籠城側の降伏を拒否するよう、
徳川家康に指示した書簡が
現在残っています。
このことから、
籠城側が既に早い時点で
降伏の意思を徳川家康に
伝えていたにもかかわらず、
籠城戦を長期化・劇的なものとすることで、
援軍の出せない武田勝頼の声望を
意図的に下げようとした
織田信長の策略だったのではないかとも
考えられています。
落城後、高天神城は廃城となり、
その後も城郭として
整備されることはありませんでした。
ただし城の山頂に高天神社があることからも、
山自体は地元のシンボル的存在としての
役割を継続することとなったのでした。
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【ハイキングコース】
4キロメートル
JR掛川駅(バス25分)⇒「土方」下車 ⇒
追手門入口⇒高天神城跡⇒林の谷池⇒
松本亀次郎公園⇒高天神入口⇒
(バス25分)⇒JR掛川駅
【所在地】
〒 437ー1435
掛川市上土方嶺向3136
【交通アクセス】
(車)
東名「掛川IC」より車で15分程度。
(電車・バス)
掛川駅北口3番大東浜岡線「土方」下車。
追手門駐車場まで徒歩15分。
搦手門駐車場まで徒歩25分。
【駐車場】
駐車場北側に
搦手門駐車場(大型バス可)。
南側に追手門駐車場。
無料です。
【トイレ】
搦手門駐車場にあります。
【スタンプ設置場所】
<大東北公民館>
<所在地>
静岡県掛川市下土方267-1
時間:
午前9時~午後5時
(休館日 月曜、12月28日~1月4日)
大東北公民館が休館の場合は
下記施設でスタンプを押すことができます。
<掛川観光協会ビジターセンター「旅のスイッチ」>
所在地:
静岡県掛川市南1-1-1
時間:
午前9時~午後5時
(休館日 12月29日~1月3日)
<掛川南部観光案内処>
所在地:
静岡県掛川市西大渕4334
時間:
午前9時~午後4時
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