城跡

水戸城~馬場氏が平安時代に築城し、江戸氏、佐竹氏が居城、その後は御三家・水戸徳川家の居城になりました。

水戸城 大手門



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水戸城

水戸城(みとじょう)は、
常陸国茨城郡水戸
(現在の茨城県水戸市三の丸)
にあった日本の城です。
水戸城 説明
江戸時代には、
徳川御三家の一つ水戸徳川家の居城で、
水戸藩の政庁が置かれました。
茨城県指定史跡。
三の丸にある藩校・弘道館は国の特別史跡です。
弘道館

【別名】
馬場城、水府城

【城郭構造】
連郭式平山城

【御三階櫓】
独立式層塔型3重5階
(1766年再建、非現存)

【築城主】
馬場資幹

【築城年】
建久年間(1190年⇒1198年)

【主な改修者】
佐竹義宣、徳川頼房

【主な城主】
大掾氏(馬場氏)、
江戸氏佐竹氏
徳川氏

【廃城年】
明治4年(1871年)

【遺構】
薬医門1棟・藩校、
土塁、空堀

【指定文化財】
茨城県史跡、国の特別史跡(藩校)

【城について】
水戸市の中心部、水戸駅の北側に隣接する
丘陵に築城された連郭式平山城です。
北部を流れる那珂川と南部に
広がっていた千波湖を天然の堀としていました。
台地東端の下の丸(東二の丸)、
から西に向かって本丸、二の丸、
三の丸が配され、それぞれが
空堀で仕切られていました。
城郭は主に土塁と空堀で構成された
戦国期東国の典型的な城です。
水戸市街 千波湖 地図
城の歴史は平安時代まで遡ります。
当初は馬場氏の居館が
現在の本丸付近にあったと
考えられていました。
その後、馬場氏を追いやった
江戸氏が水戸城を居城としました。
江戸氏の時代には二の丸か築かれ、
現在の本丸が内城
二の丸が重臣の屋敷地などに
なったとされています。
1590年、小田原参陣の功により
所領安堵を得た佐竹氏は水戸城を強襲し、
江戸氏は滅亡しました。
佐竹氏は本拠を太田城から水戸城に移し、
水戸城は常陸国主佐竹氏の居城となりました。
佐竹氏時代に、三の丸、二の丸、本丸、
下の丸が連なる、現在の縄張りの基礎が
できたと考えられています。
佐竹氏は関ケ原の戦いで
中立を守ったことで秋田に転封となり、
徳川家の城として水戸城には
武田信吉が封じられました。
けれども信吉は翌年、
嗣子なく急死した事から、
徳川頼宣が封じられ、
以後御三家(水戸徳川家)の居城として
明治を迎えました。
同じ御三家の尾張藩の名古屋城
紀州藩和歌山城と違って
戦国遺風が濃い連郭式の城となります。
水戸徳川家は参勤交代を行わない
江戸定府大名であったため、
水戸城が藩主の居城として
使われることは少なく、
城内の建築物は質素でありました。




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江戸時代の御殿は、
二の丸に現在の茨城県立水戸第三高等学校と
茨城大学教育学部附属小学校・附属幼稚園に
またがる形で存在していました。

<二の丸角櫓>
水戸城 二の丸角櫓

<二の丸角櫓・通路>
二の丸角櫓・通路
三の丸には藩校などがあり、
本丸は主に倉庫として
使用されていたとされています。
本丸を中心として使用していたのは
江戸氏の頃とされています。
江戸近隣の城は
江戸幕府に憚り天守建造はしませんでしたが、
御三家の水戸も例外ではありませんでした。
けれども、外見は三層、
中は五階建ての御三階櫓と称する
大型の櫓があり
天守閣の代用とされていました。
御三階櫓は明治の解体を免れましたが、
太平洋戦争時の水戸空襲で焼失し、
以後再建はされていません。
水戸城の縄張り図と
水戸市街の地図
三の丸付近が城址として整備されており、
土塁・空堀が現存しています。
三の丸には水戸藩藩校であった
弘道館(国の重要文化財、特別史跡)
が現存しており、弘道館の西側には
旧茨城県庁舎が建っています。

<弘道館>
弘道館

<弘道館・説明>
弘道館・説明

また、薬医門(茨城県指定有形文化財)は
銅板葺に変更されましたが現存。
現在は旧本丸にある
茨城県立水戸第一高等学校・附属中学校に
移築されています。
この門は佐竹氏時代の建物と
言われており現存する
水戸城の建物で最古のものとなります。

<薬医門>
水戸城・薬医門

<薬医門・説明>
水戸城・薬医門 説明

<薬医門 見学エリア>
水戸城・薬医門 見学エリア

現在の城跡は文教地区となっており、
立ち入り禁止のエリアが多いです。
水戸一高の他、水戸三高、
水戸市立水戸第二中学校、
水戸市立三の丸小学校、
茨城大附属小・幼稚園が建っています。
三の丸小学校は校門や塀、
校舎の多くを和風にしています。
水戸城跡 現在
明治期に二の丸と三の丸の間の堀は
道路用地(県道232号市毛水戸線)、
本丸と二の丸の間の堀は
鉄道用地(JR水郡線)になりました。




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【水戸城三階櫓】
水戸城の御三階櫓の初代は
「三階物見」と呼ばれる三重櫓です。
明和元年(1764年)に焼失した当時は
銅板葺でしたが、以前は茅葺であり
極めて簡素であったということです。
焼失後、明和3年(1766年)に再建され
三階櫓という実質上の天守となりました。
2代目の御三階櫓は、外観3重内部5階の
最上重の入母屋以外の破風のない層塔型で、
櫓台はなく、地面に敷かれた礎石の上に
建っているものであったとのことです。
下の部分、一階二階部分は海鼠壁であり、
三階四階五階部分が白壁で、
外見は三層、中身は五階でした。
昭和戦前期までは残っていましたが、
昭和20年(1945年)8月2日の
水戸空襲により焼失しました。
なお、空襲等太平洋戦争の戦災で焼失した
天守相当の建築のうち
復元されていないのは現在は
水戸城だけとなっています。
予算の関係で三階櫓と本丸隅櫓、
二の丸多聞櫓を復元する予定はないとのことです。

【歴史】
【馬場・佐竹時代】
築城は古く平安時代末期まで遡ります。
常陸国の大掾であった
平国香の子孫である
馬場資幹により建久年間(1190年⇒1198年)
に築かれたとされています。
以後、大掾氏(馬場氏)の居城となりました。
このため、佐竹氏が入城するまで
「馬場城」と呼ばれていました。

室町時代の応永23年(1416年)、
上杉禅秀の乱で、当主の大掾満幹は
上杉禅秀側に加担しましたが、
足利幕府側についた江戸通房に敗れました。
これにより、代わって江戸氏が新城主となり、
その支配は以後7代、約170年間続きました。
以後、江戸氏は度々主家である
佐竹氏と対立します。

応永34年(1427年)、
大掾満幹が鹿島社の青屋祭に
奉仕するために
常陸府中(石岡)に向かった隙を突いて、
江戸通房が水戸城を占拠します。
鹿島神宮駅
永正7年(1510年) 、
通雅・通泰の父子は主家と
同格の地位を得ました。
天正18年(1590年) 、
豊臣秀吉小田原征伐の際に
江戸重通は北条氏側に加担し、
逆に佐竹義重・義宣父子は
秀吉軍に参陣しました。
これにより佐竹氏は秀吉より
常陸一国54万石を与えられました。
義重・義宣は江戸氏の籠城する
馬場城を攻め、文禄3年(1594年)に
江戸重通を敗走させました。
佐竹義宣はそれまでの居城であった太田城から、
水戸城を重要な拠点と定め
ここに本拠を移しました。
佐竹義宣は入城するとすぐに
城を大改修し、城名もそれまでの
馬場城から水戸城に改めました。
ところが、佐竹義宣は慶長5年(1600年)の
関ヶ原の戦いでは曖昧な態度で終始したため、
慶長7年(1602年)には
徳川家康によって水戸から追放され、
出羽国秋田、久保田藩として転封させられました。




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同年に徳川家康は、奥州を睨む好地として
五男の武田信吉を15万石で
水戸に入城させましたが、
翌年の慶長8年(1603年)に
嗣子無く没したので、
十男の徳川頼宣を20万石で入城させました。

【徳川時代】
慶長14年(1609年)
徳川頼宣には駿府藩50万石を与え
末子で十一男の徳川頼房が
下妻城より25万石で入城して以降、
廃城まで水戸徳川家の居城となりました。
徳川頼房は城と城下町を拡充して
二の丸に居館を構えました。
天守と称するものは幕府に憚って構えず、
破風などのない、
巨大な三階櫓(内部は5階建て)を
二の丸に建造しました。
また、櫓・多聞(長屋)も極端に少なく
塀を多用しましたが、
この質朴さは水戸徳川家の家風を
よく表しているとのことです。
藩校の弘道館は天保12年(1841年)に
9代藩主の斉昭によって開かれました。
9代藩主 徳川斉昭
更に徳川斉昭
翌年の天保13年(1842年)に
日本三名園の一つである偕楽園
城の西部に開いています。
偕楽園

幕末には水戸藩の藩論が分かれ、
改革派の天狗党と
保守派の諸生党の対立が起きました。
元治元年(1864年)、
遂に天狗党が筑波山で挙兵して
天狗党の乱が起こりました。
この対立は明治維新まで続き、
明示元年(1868年)には
水戸城下で戦闘が行われ、
弘道館に立て籠もる諸生党を
天狗党が攻撃しました。
この際に城内の多くの建物が焼失となりました。

筑波山事件・天狗党の乱について~幕末の水戸藩の大悲劇~水戸幕末争乱

【近現代】
水戸城は明治4年(1871年) の
廃藩置県により廃城となりました。
翌年の明治5年(1872年)7月19日に
東京鎮台の歩兵2個小隊が駐屯し、
東京鎮台の第4分営となりました。
同年に放火事件が起こり
本丸隅櫓を焼失。
他藩出身者の入城に反発した
犯行とみられ、容疑者として
江橋厚が挙げられましたが釈放されています。
その後は犯人も捕まえられてはいません。

昭和20年(1945年)8月2日
水戸空襲により三階櫓を焼失。
昭和27年(1952年)
弘道館が国の特別史跡に指定されました。




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昭和39年(1964年)
弘道館正庁、至善堂、正門および塀が
国の重要文化財に指定されました。
(塀は附(つけたり)指定)。
<弘道館・正門>
弘道館 正門
様式:本瓦葺四脚門(ほんがわらぶきよつあしもん)

昭和42年(1967年)
土塁と空堀が茨城県の史跡に指定されました。

昭和58年(1983年)
薬医門が茨城県の指定建造物となりました。

2006年4月6日
日本100名城(14番)に選定されました。

【復元された大手門】
平成に入ってから
水戸市によって大手門や二の丸角櫓などの
整備計画が策定され
復元などが進められております。
2015(平成27)年4月には
水戸城南側の出入り口だった「柵町坂下門」と、
同じく北側の出入り口だった「杉山門」が復元されました。
2019年(令和元年)に弘道館北側に
北柵御門及び土塁、
2020年(令和2年)に大手門、
2021年(令和3年)二の丸角櫓と
土塀が復元されました。

<大手門>
水戸城 大手門
< strong><二の丸角櫓>
水戸城 二の丸角櫓

【交通アクセス】
JR常磐線水戸駅から徒歩約10分

<一般公開状況>
旧水戸城の城郭は、
見学できる場所とできない場所に
分かれています。

<旧本丸>
茨城県立水戸第一高等学校・
附属中学校の敷地になっており、
見学目的での立ち入りも可能。

<旧二の丸>
道路以外の学校敷地内には立ち入り不可。

<旧三の丸>
水戸市立三の丸小学校を除き、
弘道館は有料で、その他の敷地は
無料で立ち入りができます。

【トイレ】
弘道館と大手門の間に
男女別の新しい水洗トイレがあります。

【所在地】
〒310-0011 茨城県水戸市三の丸2-9-22
(水戸第二中学校・二の丸展示館所在地)

【交通アクセス】
(電車)
JR常磐線「水戸」駅北口から
徒歩約10分

(車)
常磐自動車道「水戸」ICから約30分、
北関東自動車道「水戸南」ICから約15分

【駐車場】
周辺の駐車場をご利用ください。

【日本100名城スタンプ】
弘道館料金所窓口

【御城印】
◆一般社団法人 水戸観光コンベンション協会
<所在地>
〒310-0011 水戸市三の丸1-5-38 
茨城県三の丸庁舎1階
<販売時間>
午前8時30分~午後5時15分
<定休日>
土日祝

◆水戸観光案内所
<所在地>
〒310-0015 茨城県水戸市宮町1丁目1−1
JR水戸駅構内(エレベーター表示で3階)
<販売時間>
午前9時~午後5時45分
<定休日>
12月30日~1月3日

◆北澤売店(弘道館内)
<販売時間>
午前10時~午後4時
定休日:不定休
※別途、弘道館入館料が必要

※御城印は各種あり期間限定もあるとのこと。
※御城印台帳は売り切れ情報があり要確認。

滞在所要時間:15分~
(二の丸角櫓含まず)




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【弘道館・入館料】
◆令和元年11月1日より料金が改定。
大人:400円(300円)、
小中学生:200円(150円)、
シルバー(70歳以上):
200円(200円)
※(  )内は20名以上の団体料金
※小学生未満は無料です。
弘道館

【所在地】
〒310-0011茨城県水戸市三の丸1-6-29

【電話番号】
029-231-4725

【時間】
(2月20日~9月30日)
午前9時~午後5時 
(10月1日~2月19日)
午前9時~午後4時30分 

【定休日】
12月29日~31日

【交通アクセス(弘道館)】
(電車・バス)
JR「水戸駅」より徒歩約10分より
(車)
常磐自動車道「水戸IC」より約30分

【駐車場】
無料駐車場
普通車13台
※三の丸庁舎駐車場を利用の場合は3時間無料

滞在所要時間:25分~

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笠間城~鎌倉時代に笠間氏が築城し18代治めた後、江戸時代は笠間藩庁が置かれました。

唐沢山城~藤原秀郷の築城と伝わる「関東一の山城」と称される関東七名城。

伊佐城~伊達氏の祖とされる一族の伊佐氏が築城し、南北朝時代には南朝側について戦いました。

下館城~藤原秀郷が築いた三館の下館との伝承あり、江戸時代は下館藩でした。

小栗城~坂東平氏の流れをくむ常陸小栗氏が築城、室町期の関東地方の激動の渦にのまれていきました。

山王堂の戦い~上杉謙信VS小田氏治の野戦で激戦、上杉勢の「神速」で小田勢は敗退し小田城が陥落。

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江戸太郎重長と武蔵江戸氏について~武蔵国の武家で秩父氏一族であり所領のあった場所が東京の地名に今も残っています。

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小山城~小山氏の始祖である小山政光が平安時代に築城、下野国最大の武士団を率いていました。

館林城~戦国時代は北条氏が支配、江戸時代は守りの城沼に浮く「将軍の城」となりました。

白川城(搦目城) ~国の史跡で築城は伝・結城祐広であり、白河結城氏の旧本拠地でした。

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