城跡

白川城(搦目城) ~国の史跡で築城は伝・結城祐広であり、白河結城氏の旧本拠地でした。

白川城(福島県白河市)



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【陸奥・白川城(搦目城) 】

白川城(しらかわじょう)は、
福島県白河市藤沢山にあった日本の城です。
別名は、搦目城(からめじょう)、
結城白川城(ゆうきしらかわじょう)。
2016年(平成28年)に
国の史跡に指定されています。
指定名称は「白川城跡」です。
同市内には日本100名城の1つである
白河小峰城が存在するため、
弁別の必要から白河城とは
あまり呼ばれてはいません。

白川城(白河市)

【別名】
搦目城、結城白川城

【城郭構造】
山城

【築城主】
結城祐広と伝わる

【築城年】
不明

【主な城主】
結城祐広

【廃城年】
不明

【遺構】
曲輪・土塁・堀・柱列・竪穴遺構

【指定文化財】
史跡(国指定)

【陸奥・白川城(搦目城)について】
白川城は、中世、白河荘を拠点として
陸奥国南部を支配した
白河結城氏歴代の居城跡でした。

白川城は、東北本線白河駅より
東へ約3kmの藤沢山にあり、
通称「搦目(からめ)城」ともいわれています。
阿武隈川と社川の支流である
藤野川に挟まれた、
標高約400m級の
丘陵地を利用し築かれた、
中世の山城となります。
史跡の面積は366,597.43平方メートルです。

【歴史】
文治5年(1189年)、
源頼朝の奥州征伐に参加し、
功名をたてた結城朝光は、
その恩賞として
白河庄の地頭職(じとうしき)を与えられました。
その後、結城朝光の孫である
結城祐広(すけひろ)が
正応2年(1289年)頃、
下総結城より移住して、
この白川城を本拠としたと
伝えられています。

結城祐広の嫡子である結城宗広は、
後醍醐天皇の命により
新田義貞らと共に鎌倉幕府を倒し、
建武の中興(1334年)を実現させました。
その後、南北朝時代には
義良親王(のりながしんのう)(後村上天皇)を奉じて、
北畠顕家と共に、
北朝方の足利尊氏と戦った
奥州南朝派の中心人物です。

正確な築城年代は不明ですが、
南北朝時代の文書に
その名が見られることや、
「山城」という城の形態から、
築城年代は南北朝時代と考えられています。
また「白河風土記」
(1805年(文化2年))では
「列封略伝等も祐広を白川城跡の始めと記しぬ」
とし、白川城を本拠としていたと記されています。

白川城(白河市) 近景

室町時代には奥州南部から
北関東まで勢力を拡大しましたが、
永正7年(1510年)、
惣領の7代目当主の結城政朝が
一族の小峰氏によって追放されました。
これは永正の変と呼ばれています。
そして小峰氏の血統による
新たな白河結城氏が成立しました。
また、この時期に結城氏の本拠も
白川城から小峰城に移ったとされています。
なお天正3年(1575年)、
小峰義親が宗家の11代目当主の
結城義顕を追放した際に
本拠が移されたともいわれています。
天正18年(1590年)の奥羽仕置で
白河結城氏は改易となり、
約400年に及ぶ南奥支配は終焉を迎えました。
白河結城氏の衰退と共に、
白川城は廃城となった模様です。
正確な廃城年代も判明してはいません。




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【調査】
2010年(平成22年)から
2015年(平成27年)にかけて、
白河市教育委員会の発掘調査が実施され、
14世紀から16世紀の遺構や、
遺物が確認されています。

現在、白川城は御本城山と呼ばれる主郭、
その北側藤沢山には二之郭、
主郭の東側には鐘撞堂とされる平場があります。
これらの郭の周囲には、
幾段かの帯曲輪が構築されています。
また、郭と郭の間には
土塁や空堀などの遺構が確認されています。

なお、近年の踏査により
指定区域の南西部の丘陵にも
遺構の存在が明らかとなり、
城域がさらに拡大するものと考えられています。

【文化財】
2016年(平成28年)10月3日付で、
「白川城跡」の名称で、
国の史跡に指定されています。

【所在地】
〒961-0044 福島県白河市藤沢山

【交通アクセス】
(電車)
JR東北本線「白河」駅から徒歩40分程度。

(車)
東北自動車道・白河中央スマートICから15分程度。
東北自動車道・白河愛Cから25分程度。

【駐車場】
石碑周辺に車2~3台分の駐車スペースがあり
舗装された広めの道路を進み、
案内板が出てるところからは、
林の中を進んでいく感じです。

遠景でよければ、
スーパーマーケット
「リオンドール結城店」の
屋上駐車場から
撮影できます。

お買い物もどうぞ。

【白河結城氏】

白河結城氏(しらかわゆうきし)は、
日本の氏族です。
下総結城氏庶流で
宗家と区別するため、
白河氏或いは
陸奥結城氏とも呼ばれています。
なお清和源氏満政流の
飛騨白川氏とは別系統になります。

戦国時代には陸奥国南部の
白河地方を支配する戦国大名となりました。
搦目城(白川城)を居城としましたが、
白河結城氏の衰退と共に同城は廃城になり、
小峰城が白河結城氏の本拠地となりました。
なお、白川城(搦目城)が
廃城になった正確な時期は不明となっています。

【白河結城氏のはじまり】
鎌倉時代に結城氏の祖である
小山朝光が得た白河庄に、
結城朝光の孫である結城祐広が
移り住んだのが
白河結城氏の始まりとされています。

【建武の新政】
後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して挙兵すると、
結城祐広の子供である結城宗広が
新田義貞の鎌倉攻めに参加し、
後に後醍醐天皇より宗家に代わって
結城氏の惣領と認められました。
建武の新政においては結城宗広の子である
結城親光が三木一草と称される
有力武士の一人となり、
結城親光の兄である結城親朝は
奥州府の式評定衆として
陸奥守である北畠親房・顕家父子を補佐しました。




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【南北朝時代】
やがて、足利尊氏が建武政権から離反して
南北朝時代に突入すると、
結城宗広親子は南朝方に属しました。
結城親光は足利尊氏が九州から
入京を果たした際に
足利尊氏暗殺を試みましたが
失敗して殺されました。
結城宗広は北畠父子に従い、
結城親朝は白河に戻って勢力を拡大して
伊達氏をも凌ぐ奥州随一の勢力にまで成長。
常陸国に渡り関東地方における
南朝勢力を確保しようとした
北畠親房の救援要請に応じたとされています。
けれども、北朝方についた周辺諸氏の侵攻や
北畠親房との意見対立などによって
興国3年/康永2年(1343年)に
足利方に転じました。

【結城氏と小峰氏の所領分割】
結城宗広・結城親朝の没後、
結城親朝の長男である結城顕朝と
次男の小峰朝常の間で所領が分割され、
惣領家は結城顕朝が継ぎ、
小峰朝常には小峰城が与えられて
小峰氏(こみねし)を称しました。
両氏の所領分割は互いの所領を
混在させる形で行われましたが
両氏はおおむね協調関係にあり、
白河結城氏惣領家に
後継者がいない場合には
小峰氏から養子を迎えていたのでした。

【惣領家と小峰氏の対立】
室町時代には室町幕府と
鎌倉府の対立の中を巧みに生き残り、
小峰氏から入った結城直朝と
その子である結城政朝の時代に
全盛期を迎えます。
けれども、戦国時代に入ると、
惣領家と小峰氏の対立など
内紛が絶えず発生するようになりました。

【小峰氏が惣領家となる】
内紛の結果、小峰氏が惣領家を放逐して
白河結城氏を継承することになり、
本拠地も搦手城から
小峰城(白河城)に移ることになります。
その時期については
永正の乱か天正の乱(かつての通説)
の間で議論があり、各停には至ってはいません。

【衰退と奥州仕置】
さらに佐竹氏や那須氏の侵攻を受けたため、
衰退の一途をたどっていきます。
天正18年(1590年)、
豊臣秀吉小田原征伐に参陣しなかったため
奥州仕置により改易となりました。

【子孫たち】
子孫に秋田白川氏(嫡流)、
仙台白河氏(小峰氏が復姓)、
甲斐結城氏などがいます。




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【水戸藩士になった子孫たち】
水戸白河結城氏
(縁戚関係にある陸奥石川氏の養子となった
中畠氏(中畑氏)が復姓)は、
天和3年(1683年)に
結城晴定が水戸光圀に請われ、
水戸藩士となったことに始まっています。
宇都宮氏、小山氏とともに
水戸徳川家に仕え、水戸藩の藩政に寄与したとのことです。

また、読売ジャイアンツの元プロ野球選手で
横浜DeNAベイスターズの監督を務めた
中畑清氏も、白河結城氏の血筋を引いているとのことです。

小山城~小山氏の始祖である小山政光が平安時代に築城、下野国最大の武士団を率いていました。

結城朝光~誇り高く抜け目ない政治力と巧みな弁舌で鎌倉幕府に重きを成していきます。

結城城~結城朝光が築城、室町時代の結城合戦の舞台、その後廃城になるも水野宗家が入り幕末まで続きました。

網戸城と寒川尼墓~網戸郷の地頭となった寒河尼と築城した孫の網戸朝村。

白河小峰城(日本100名城)~東北三名城、東北では珍しい総石垣造りのお城です。

南湖公園~「士民共楽」の理念で松平定信によって造園された日本最古の公園で国の史跡・名勝。

関城跡(常陸国)~南北朝時代に南朝方であった関宗祐・宗政親子が北朝の標的に晒されながらも戦いました。

水戸城~馬場氏が平安時代に築城し、江戸氏、佐竹氏が居城、その後は御三家・水戸徳川家の居城になりました。

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