城跡

関城跡(常陸国)~南北朝時代に南朝方であった関宗祐・宗政親子が北朝の標的に晒されながらも戦いました。

関城跡・関親子の宝篋印塔



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関城常陸国)】

関城(せきじょう)は、常陸国真壁郡
(現在の茨城県筑西市関館)にあった日本の城です。
国の史跡に指定されています。

関城跡 案内図

【城郭構造】
平城

【築城主】
関氏

【築城年】
不明(鎌倉時代)

【主な城主】
関宗祐・関宗政

【廃城年】
1343年(康永2年/興国4年)

【遺構】
曲輪

【指定文化財】
国の史跡

【関城について】
鎌倉時代結城氏の一族である
藤姓関氏によって築かれた平城です。

南北朝時代に入ると、
関宗祐・宗政親子は南朝方でしたが、
暦応4年/興国2年(1341)に
小田治久の離反によって
小田城を追われた北畠親房
この城に逃げ込んだことによって、
近隣の大宝城とともに
北朝方の標的となりました。
戦いは2年にわたりましたが、
康永2年/興国4年11月11日
(1343年11月28日)に
北朝側からの総攻撃を受けて翌日陥落、
関親子は討死し、
北畠親房は辛うじて脱出しました。
(関城・大宝城の戦い)

関城跡 説明板

この戦いの最中に北畠親房が
白河城の結城親朝に対して
送ったとされる「関城書」は有名です。

城主であった関宗祐父子の墓と伝えられる
宝篋印塔、「関城之碑」も建てられています。
国指定文化財となっています。
関城跡史跡近隣には、坑道跡や土塁、
堀も残されています。

【地理地形】
周辺は田畑、ナシ園等が広がっており、
筑波山も眺望でき、のどかな風景と共に
城跡の散策を楽しむことができます。
市の南端にあり、
東・南・西の三方が大宝沼に囲まれ、
北部は台地続きで数重の土塁と東から
西側の大宝沼に通じる堀割をめぐらせ、
天然の要害地とした城郭でした。

関城・大宝城の周辺

【南北朝とは?】
延元元年(1336年)、
後醍醐天皇が神器を奉じて
吉野に入ってから朝廷は二つに分かれ
相争うこととなり、吉野朝を南朝、
京都朝を北朝として
南北朝時代の動乱が幕開けしました。




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【北畠親房の小田城入り】
延元3年(1338年)、
南朝方は奥羽地方の兵力を結集して
再興を計ろうと、義良親王を奉じ、
その補佐役の北畠親房らとともに
伊勢を出航しましたが、
途中暴風に遭い四散し、
親王の船は伊勢に吹き戻され、
北畠親房の船は常陸東条浦に漂着しました。
いくつかの城を経て
小田城に入った北畠親房のもとに、
関宗祐父子も馳せて北朝軍と戦いました。
この時、後醍醐天皇の崩御と
義良親王の即位を知り、
北畠親房はここで神皇正統記などを
執筆しました。

【小田城の降伏と関城入り】
その後、小田城は高師冬軍に攻められ
城主である小田治久が北朝軍に降ったために、
北畠親房は関城に入り、
関宗祐父子は大宝城主である
下妻政泰とともに北朝軍と戦いました。
関城を巡る攻防戦の中で
北畠親房は神皇正統記を
完成させましたが、
四方に敵を受けた関宗祐は、
ここで北畠親房を
重囲の中から吉野に脱出させたのでした。

【関城の落城】
興国4年(1343年)11月11日、
関城は大宝城とともについに落城し、
関宗祐父子も城と運命を共にしたとのことです。
関城跡には、関宗祐父子の墓と伝えられる
宝篋印塔があり、
墓の南側には「関城之碑」(明治3年建立)もあります。
小山弘の文になるこの碑は、
関宗祐と北畠親房の偉業を讃えています。
また、この墓前域においては、
地域の人たちによって
落城の日を命日として
墓前祭が行われています。
ほかに坑道跡や土塁、堀も残されています。

関城跡 土塁

【所在地】
〒308-0113 茨城県筑西市関舘

【駐車場】
関城跡 駐車場 トイレ

【簡易トイレ】
男女兼用です。
トイレットペーパーの有無は未確認です。

【関城・大宝城の戦い】
関城・大宝城の戦い
(せきじょう・だいほうじょうのたたかい)は、
南北朝時代に常陸国筑波山西麓にあった
関城・大宝城(現在の茨城県筑西市・下妻市)
を巡って争われた攻防戦のことです。

常陸国・下総国の諸将は
建武政権に従いながらも所領を巡って
対立を続け、延元の乱をきっかけに
北朝側と南朝側に分かれて争うことになりました。
結城氏・小山氏・佐竹氏・大掾氏などは北朝側、
小田氏や結城氏の庶流である
白河結城氏・関氏・下妻氏などは南朝側につきました。

延元2年/建武4年(1337年)頃より
北朝方の攻勢によって
関氏と下妻氏はそれぞれの居城である
関城と大宝城での籠城を
余儀なくされていました。
翌年9月に東国及び多賀城の掌握を目指した
北畠親房の船が常陸国に漂着しました。
11月に北朝側の襲撃を避けるために
小田氏の本拠である小田城に入ると、
翌年には南朝方として
小山氏などと戦っていた春日顕国も合流、
南朝側はこうした集結の動きによって
勢いづいたのでした。

ところが、興国2年/暦応4年(1341年)に入ると、
吉野から浄光が後村上天皇の綸旨を奉じて
東国に下って独自の命令を発し、
関白である近衛経忠が
自らを盟主として東国の南朝方勢力を結集する
「藤氏一揆」の構想が明らかになりますと、
東国における北畠親房の政治的立場は動揺し、
これに乗じた北朝方高師冬の工作も活発化しました。
同年11月には小田治久が北朝方に離反、
これを知った北畠親房は関城へ、
春日顕国は大宝城に逃れたのでした。

高師冬はこれを知って関城・大宝城を攻めます。
当時の両城は大宝沼と呼ばれ、
沼(現存しない)の北畔と南畔の高台に築かれ、
三方を水に囲まれた堅城でした。
高師冬は周囲の南朝方を
攻略を続けながら両城の包囲を続け、
北畠親房は白河結城氏の
結城親朝に救援を求めました。
この時、北畠親房が
結城親朝に書いたとされるのが、
「関城書」です。




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けれども、関城・大宝城の水路での
連絡を絶つことに成功した北朝方に対し、
南朝方が来援を期待していた
結城親朝は本領である白河荘が
北朝側の攻撃にさらされて孤立し、
興国4年/康永2年(1343年)8月に
北朝方に離反したのでした。
そして、同年11月11日に
北朝方による総攻撃が行われて、
翌日に関城・大宝城が相次いで陥落し、
北畠親房・春日顕国は辛うじて
脱出したのですが、
関宗祐・宗政親子及び
下妻政泰は討死したのでした。

【関城書】

関城書(かんじょうしょ)は、
南北朝時代に常陸国関郡の関城
(現在の茨城県筑西市)に
籠城していた北畠親房が、
南朝方の有力武将結城宗広の子である
親朝に対して充てた書状のことです。
全部で約70通ですが、
特に興国3年2月15日
(康永元年/1342年3月22日)付の
書状を指すのが一般的であるとのことです。

北畠親房とともに
関東地方を北朝方足利氏から奪還すべく
奮闘して志半ばで客死した結城宗広の没後、
奥州の入口である白河関を支配している
後継者の結城親朝の動向は
南北双方が注目していました。
常陸で孤軍奮闘する北畠親房は
結城親朝を味方にすべく
書状による説得工作を続けていましたが、
その中の1通が関城書となります。

全文格調高い漢文によって
記された関城書は南朝と
自己の苦戦振りを率直に伝える一方で、
日本の神代以来の国体を論じ、
朝廷に対して忠節を尽くすことが
武士の本分であると説いて
結城親朝の決起を促したのでした。

kれども、所領の給付と官位の任命は
朝廷にあると信じる北畠親房の主張は
自らの手で所領を守り続けてきたと
自負する結城親朝の失望を買って、
結果的には北朝方への離反を
促す事になったのでした。

江戸時代に「本朝通鑑」や
「大日本史」に採録されて、
後世の南朝正統論・尊皇思想に影響を与えたとのことです。

大宝城(茨城県)~関東最古の八幡宮である大宝八幡宮境内にあり下妻氏によって築城された城です。

伊佐城~伊達氏の祖とされる一族の伊佐氏が築城し、南北朝時代には南朝側について戦いました。

下館城~藤原秀郷が築いた三館の下館との伝承あり、江戸時代は下館藩でした。

小田城跡(つくば市)~鎌倉初期に八田知家が築城し、戦国時代の小田氏15代の居城でした。

藤沢城~小田城主の小田氏の支城であり、小田城を奪われた際には何度も拠点とした城です。

阿波崎城~南北朝時代に南朝方の北畠親房が転戦した古城跡です。

神宮寺城(常陸国)~南北朝時代に築城された南朝方の城で遺構が良好な状態で残っています。

土浦城~伝説上では平将門の砦、文献上では八田知家後裔の若泉氏が築城、戦国期を経て土浦藩となる。

笠間城~鎌倉時代に笠間氏が築城し18代治めた後、江戸時代は笠間藩庁が置かれました。

鹿島城(常陸国)~平安時代末期に鹿島氏によって築城されました。築城者の平姓鹿島氏とは?

塚原城~大掾氏一族で鹿島氏分流の塚原氏が居城し、剣聖として有名な塚原卜伝も城主となりました。

島崎城~常陸大掾氏の一族である島崎氏の居城、よく整備され遺構もわかりやすく登城しやすい城です。

常陸・長山城~大掾氏の庶流行方氏の一族の長山氏が居城し、同族の島崎氏に攻められました。

古渡城(常陸国)~築城は山岡景友、後に丹羽長重が大名再スタートとなった城です。

江戸崎城~常陸土岐氏である土岐原氏が築城し約200年の統治後に、蘆名氏(佐竹氏)、丹羽長重が入封しました。

木原城~土岐氏の家臣であった近藤氏の居城と伝えられており、城主の近藤利勝の肖像画が発見されました。

豊田城(常陸国)(常総市)~桓武平氏の豊田氏が築城、平安時代から戦国時代まで豊田郡を本拠としました。

平将門公本據豊田館跡~平将門誕生の地と伝わる場所、後に豊田氏の向石毛(向石下)城址となりました。

伝・源護館跡陣営~平将門の乱の始まりの戦と嵯峨源氏である源護という人物について。

白川城(搦目城) ~国の史跡で築城は伝・結城祐広であり、白河結城氏の旧本拠地でした。

結城朝光~誇り高く抜け目ない政治力と巧みな弁舌で鎌倉幕府に重きを成していきます。

白河小峰城(日本100名城)~東北三名城、東北では珍しい総石垣造りのお城です。

関宿城跡~利根川と江戸川に囲まれた関東の水運の拠点~北条が上杉を制した場所。

結城秀康~徳川家康の次男、父から冷遇され兄の信康の計らいで対面を果たし、秀吉、結城氏の養子となる。

飛山城~宇都宮氏の家臣である芳賀氏の居城で築城は鎌倉時代、国指定の史跡です。

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