城跡

小田城跡(つくば市)~鎌倉初期に八田知家が築城し、戦国時代の小田氏15代の居城でした。

小田城址(つくば市)



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小田城

小田城(おだじょう)は、
現在の茨城県つくば市に存在した日本の城です。
国の史跡に指定されています。

小田城址 復元図

【城郭構造】
平城

【築城主】
八田知家

【築城年】
文治元年(1185年)

【主な城主】
小田氏

【廃城年】
慶長7年(1602年)

【遺構】
曲輪、堀、土塁、櫓台、虎口、桝形

【指定文化財】
国の史跡

【概要】
鎌倉期から戦国期まで小田氏の居城でした。
その始まりは小田氏の祖である八田知家
文治元年(1185年)に常陸国守護に
任命されて当地に移って
居館を構えたことによると云われています。

小田城 ジオラマ

その後、南北朝期には、
時の当主であった小田治久が南朝方に属し、
小田城は常陸南部における
南朝方の拠点となり、
北畠親房や春日顕国なども入城しています。

下って戦国時代の弘治・永禄年間、
その時の当主であった小田氏治
佐竹氏・多賀谷氏・真壁氏や
越後の上杉謙信小田原北条氏らと
抗争を繰り返していました。
小田原北条氏と結んだ小田氏治は、
永禄7年(1564年)に
山王堂の戦いで上杉謙信に敗れるなど
苦戦を強いられ、
激しい小田城争奪戦が繰り広げられました。
何度も落城と奪還を繰り返しましたが、
天正元年(1573年)の
手這坂の戦いに敗れて
小田城は佐竹氏のものとなり、
以降小田氏の手には戻らなかったのでした。

小田氏治の頃の小田氏領域図

なお手這坂の戦いには
永禄12年(1569年)説も有り、
翌年の元亀元年(1570年)に
太田資正が城主になり、
同3年(1572年)に
資正の子の梶原政景が城主になったとのことです。

のち、佐竹氏の一族・小場義宗が
城主になりましたが、
慶長7年(1602年)に
佐竹氏の秋田移封に伴って廃城になりました。




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【小田城の遺構】
【地理地形】
小田城は、小田山の麓の交通と
水利に恵まれた場所にあります。
築城当初は、本丸跡を中心に、
四方に濠と土塁を廻らした
単郭式の館であったといわれています。
その後、戦国期になると
城域を拡張して約40haになる
平城が築かれました。
当時、小田城の近くまで
霞ケ浦の低湿地が広がっていたとされ、
湿地や桜川を通じた水運で藤沢城、
土浦城と連絡が取れていたとも
考えられています。

小田城址(つくば市)付近の航空写真

【防御に気を配る造り】
何度も落城と奪還を繰り返していることから、
防御に難のある城と言われていますが、
発掘調査の結果では
水堀は底が障子掘となっており、
本丸の三方の虎口には
馬出が設けられるなど、
相応に防御に気を配っていることが伺えます。
北虎口の馬出は、火災の後に
構築されたことが判明しており、
落城後に防御強化のために
設けられたと考えられています。
これらの改修が小田氏時代のものなのか、
佐竹氏時代のものかは判然とはしていません。

小田城 本丸の変遷

【庭園の遺構】
本丸からは二つの池を含む
庭園の遺構が確認されており、
小田家の格式の高さを示すものと
認識されています。

小田城 遺構復元広場

【曲輪の遺構】
本丸北側は市街地化が激しいですが、
水田となっている本丸南側は
曲輪の遺構がかなり良好に検出されており、
馬出などが復元されています。

小田城跡

【りんりんロードの迂回】
かつては、筑波鉄道の線路が
本丸の南東部から北西隅にかけて
斜めに横切っていましたが、
筑波鉄道廃線後に
路線の跡地がつくばりんりんロードとして
整備される際、
小田城本丸を横断する部分は、
本丸土塁外側の南から西を周って
迂回するコースに変更されました。
土塁北西隅部の線路跡は
切通しとして残され、
小田城歴史ひろば案内所から
本丸を見学する際の誘導路
および土塁の断面の展示として
利用されています。
トイレも設置されています。

小田城 土塁跡とりんりんロード

【小田城廓見取図】
一の濠と二の濠の間には、
小田家一門の屋敷があり、
三の濠と四の濠の間には
旗本屋敷や米蔵、武器庫などがありました。
城の北側に大手門があり、
西には旗本屋敷や竜勝寺、長久寺等があります。

小田城跡 曲輪(廓)見取り図

【小田城平面図】
小田城は、宝篋山の南西の
尾根のふもとに造られている東西約1km、
南北約700mの平山城です。
戦国時代は湿地帯であったので、
城附近の堀のほとんどが
水堀であったと考えられていますが、
現在は多く水田になっています。
城の中心部に東西120m、
南北140mの方形の主郭があり、
土塁と濠に囲まれています。
土塁の西・東・南の隅には
櫓台が認められています。
主郭周辺の郭には、
馬出しや帯曲輪跡があります。
濠や土塁には、随所に折りや喰違いがあり、
虎口には馬出しの他に枡形も多く見られます。

小田城 本丸 平面図

【小田城の歴史】
鎌倉時代
源頼朝が平家を滅亡させて
鎌倉幕府を作った時に
源頼朝とともに戦った八田知家は、
有力御家人の一人として
常陸国の守護職を得て小田城を築き、
小田氏の祖となりました。
それまでの常陸国南部は、
平将門を亡ぼした
常陸平氏が支配していましたが、
小田氏はやがて常陸平氏を従えて
常南地方で最大の大名になりました。
けれどもやがて鎌倉幕府の政権が
北条氏に移り、常南地方の小田領も
北条氏に多くを奪われるとともに
守護職も失ったのでした。

鎌倉幕府 八田知家の館

【南北朝時代】
後醍醐天皇が中心となって
鎌倉幕府が倒されましたが、
元弘の乱で小田氏は幕府軍に従っており、
幕府滅亡後にその罪を問われることを恐れて、
幕命で常陸国に流罪とされていた
万里小路藤房を助けて上洛し、
新田義貞に味方し赦免を得ることができました。
続いて足利尊氏の北朝と
後醍醐天皇の南朝に分かれて
激しい戦いが続いた南北朝時代になると、
小田城は常南地方の南朝の中心になりました。
南朝勢力の参謀役であった北畠親房は、
天皇領の庄園で小田氏の支配下にあった
信太荘に海路上陸し、
やがて小田城に在城して
東国の勢力挽回を図ったのでした。
北畠親房の著した「神皇正統記」が
小田城で執筆されたことは名高いです。

南北朝 小田城をめぐる攻防

【室町時代】
旧領の回復を願って小田氏は
南朝に味方して戦ったのですが、
期待した恩賞が得られず、
北朝の足利尊氏勢から
小田城が攻撃されることになり、
やがて小田氏は足利尊氏に
従うことになりました。
室町幕府は、東国経営を目的に
鎌倉府を設置して
鎌倉公方(足利氏)を置き、
鎌倉府の下に東国武士を支配する
関東管領上杉氏)を置きました。
常陸国の守護職には、
当初から北朝側にあった佐竹氏が
任命されたのでした。




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やがて鎌倉公方は、
室町幕府からの独立経営を望み
幕府に従わなくなってきたことから、
幕府は関東管領に指示して
鎌倉公方との戦いが始まりました。
後に鎌倉公方は鎌倉から古河に逃れ、
古河公方と呼ばれるようになりました。

県南地方は、古河公方側と関東管領側に分れて、
激しい戦いを繰り広げた場所となりました。
また、上杉氏も同族争いがあり、
山内上杉氏と扇谷上杉氏との戦いとなりました。
県南地方は長期の戦いが続き、
小田氏は存続のための
厳しい選択をせまられたのでした。

【戦国時代】
室町幕府の勢力が弱まり、
古河公方は小田原北条氏の傀儡になりました。
また上杉氏は関東管領職を
長尾景虎(上杉謙信)に
譲り渡すことになりました。
上杉謙信が小田原攻撃を行って、
帰路に鎌倉で関東管領職の
就任式を行った時、
小田氏は上杉勢に加わっていました。

やがて、小田原北条氏が
勢力を拡大して下総国を統合し、
常陸国へ進出した頃、
小田氏は小田原北条氏と同盟を結びました。
これに怒った上杉謙信は、
小田城攻撃を行い、
小田氏は敗走することになりました。
上杉謙信が帰った後、
小田氏は小田城を奪還しましたが、
上杉勢の佐竹氏や多賀谷氏に攻められ、
手這坂の戦を最後に
小田氏は小田城を失うことになったのでした。

【保存整備事業】
昭和10年(1935年)6月7日、
城跡周辺約21.5haが国の史跡に指定されました。

その後、つくば市による
保存・整備事業が昭和59年(1983年)の
「保存管理計画」を皮切りに始まり、
1997年から発掘調査が
実施されるようになりました。
これにより、三重の堀や
大小の曲輪が東西500m、
南北600mに渡って
巡らされていたことが判明しました。
また2004年から
本格的な長期間調査を開始され、
2014年には
発掘調査結果を発表しました。
2016年4月29日、
一旦の発掘調査と整備を終えて
中世の小田城の姿を復元した
「小田城跡歴史ひろば」として
公開されることになりました。

りんりんロード 小田城跡へ

【所在地(遺構復元広場)】
〒300-4223 つくば市小田2377
※遺構復元広場(手洗所を除く)は
常時開放しています。




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(小田城跡歴史ひろば案内所)
【所在地】
〒300-4223 茨城県つくば市小田2532−2
029-867-4070
<開所時間>
午前9時~午後4時30分

<休所日>
毎週月曜日
(月曜日が祝日の場合は、その翌日)、
祝日の翌日(土曜日及び日曜日を除く)、
年末年始(12月28日から1月4日)

<入館料>
無料

<交通アクセス>
つくばエクスプレス
「つくば」駅から
「つくバス」小田シャトルで「小田東部」、
「小田中部」下車。徒歩約5分程度。

JR常磐線「土浦駅」から
関東鉄道バス
「筑波山口行、下妻駅行」で
「小田」下車。徒歩約10分程度。

山王堂の戦い~上杉謙信VS小田氏治の野戦で激戦、上杉勢の「神速」で小田勢は敗退し小田城が陥落。

海老ヶ島城~室町時代に結城成朝が築城、子が海老原氏と名乗り、やがて結城氏と小田氏で城の争奪戦となり勝者は佐竹氏。

水戸城~馬場氏が平安時代に築城し、江戸氏、佐竹氏が居城、その後は御三家・水戸徳川家の居城になりました。

八田知家~小田氏の始祖であり十三人の合議制の一人で源氏4代に仕えた人物です。

多気城 (常陸国)~伝承では大掾氏の平維幹が築城した「多気の山城」、現時点は戦国時代に築城とされる謎の城。

茂木城(桔梗城)~宇都宮一族の茂木氏の居城で現在は綺麗に整備されています。

関城跡(常陸国)~南北朝時代に南朝方であった関宗祐・宗政親子が北朝の標的に晒されながらも戦いました。

大宝城(茨城県)~関東最古の八幡宮である大宝八幡宮境内にあり下妻氏によって築城された城です。

伊佐城~伊達氏の祖とされる一族の伊佐氏が築城し、南北朝時代には南朝側について戦いました。

下館城~藤原秀郷が築いた三館の下館との伝承あり、江戸時代は下館藩でした。

土浦城~伝説上では平将門の砦、文献上では八田知家後裔の若泉氏が築城、戦国期を経て土浦藩となる。

筑波山神社~万葉集にも登場する「筑波」~山頂からの眺め良し!日本史を見守ってきた山。

藤沢城~小田城主の小田氏の支城であり、小田城を奪われた際には何度も拠点とした城です。

阿波崎城~南北朝時代に南朝方の北畠親房が転戦した古城跡です。

神宮寺城(常陸国)~南北朝時代に築城された南朝方の城で遺構が良好な状態で残っています。

古河公方館跡~古河公方とは?関東における戦国時代の幕開けの存在

足利公方邸跡(鎌倉)、鎌倉時代初期に足利義兼が構えた屋敷は足利尊氏も住みやがて激動の室町時代を迎えます。

扇谷上杉管領屋敷跡~扇谷上杉氏の遠祖は足利尊氏の叔父。鎌倉公方を補佐する関東管領家として鎌倉に居住。

安倍晴明の生誕地の一つを訪ねて~平安時代に実在した陰陽師で現在でいう天文博士です。

武田氏館と湫尾神社~ひたちなか市武田は甲斐武田氏発祥の地でした。

笠間城~鎌倉時代に笠間氏が築城し18代治めた後、江戸時代は笠間藩庁が置かれました。

小栗城~坂東平氏の流れをくむ常陸小栗氏が築城、室町期の関東地方の激動の渦にのまれていきました。

坂戸城(常陸国)~宇都宮氏家臣の小宅氏の居城、この城を巡り宇都宮氏と小田氏で激戦が繰り広げられました。

真壁城~大掾氏の一族である真壁氏が支配、江戸時代に浅野長政が真壁藩5万石を与えられます。

鹿島城(常陸国)~平安時代末期に鹿島氏によって築城されました。築城者の平姓鹿島氏とは?

塚原城~大掾氏一族で鹿島氏分流の塚原氏が居城し、剣聖として有名な塚原卜伝も城主となりました。

島崎城~常陸大掾氏の一族である島崎氏の居城、よく整備され遺構もわかりやすく登城しやすい城です。

常陸・長山城~大掾氏の庶流行方氏の一族の長山氏が居城し、同族の島崎氏に攻められました。

古渡城(常陸国)~築城は山岡景友、後に丹羽長重が大名再スタートとなった城です。

江戸崎城~常陸土岐氏である土岐原氏が築城し約200年の統治後に、蘆名氏(佐竹氏)、丹羽長重が入封しました。

木原城~土岐氏の家臣であった近藤氏の居城と伝えられており、城主の近藤利勝の肖像画が発見されました。

平将門公本據豊田館跡~平将門誕生の地と伝わる場所、後に豊田氏の向石毛(向石下)城址となりました。

豊田城(常陸国)(常総市)~桓武平氏の豊田氏が築城、平安時代から戦国時代まで豊田郡を本拠としました。

臼井城~築城は平安時代で千葉氏の一族の臼井氏、上杉謙信が攻め落とせなかったお城です。

飛山城~宇都宮氏の家臣である芳賀氏の居城で築城は鎌倉時代、国指定の史跡です。

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