朝廷

安倍晴明の生誕地の一つを訪ねて~平安時代に実在した陰陽師で現在でいう天文博士です。

晴明橋公園 筑西市 生誕地



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【関東における安倍晴明の生誕地】

<晴明橋公園>
所在地:茨城県筑西市猫島762) 
「簠簋抄(ほきしょう)」に書かれた
「簠簋内伝」の由来に、
ここ猫島に安倍晴明誕生の伝承が
記されているとのことです。
公園内に「安倍晴明生誕の地」の石碑があります。
となりの立て札には晴明橋の由来となる逸話があります。

晴明橋公園 筑西市 生誕地

むかし、この地は湿地帯で雨が降ると
近くの観音川が増水して
水田が水浸しになったとのことです。
それに心を痛めた安倍晴明は、
地形を利用して石橋をかけました。
橋は川の水をしっかりと防いだので、
災害から救われた村人は
安倍晴明にとても感謝したとのことです。

橋は現在では残ってはいませんが、
その伝説にちなんでつくられた公園とのことです。
駐車場は5台ほど駐車可能です。

所在地: 〒300-4501 茨城県筑西市猫島762

<信太という地名>
安倍晴明の母は信太姫という名前です。
信太(しのだ)は大阪の地名ですが、
むかし、茨城にもありました。
読み方は大阪とは異なり信太(しだ)で、
1300年も前からあります。
現在の土浦、牛久、稲敷、美浦あたりです。

<女化伝説>
猟師から救われた白キツネが、
助けた男に嫁ぐ物語は茨城にもあります。
牛久市と龍ケ崎に残る「女化伝説」です。
けれども、最後は子どもと別れてしまいます。
そしてそのときに和歌を残しています。




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<安倍晴明出生の伝承>
安倍晴明出生の伝承では、
母は和泉国信太の森(大阪府)の白狐です。
ある日遊女姿で旅に出た白狐は、
常陸国筑波山麓猫島(筑西市猫島)に
3年間滞在しました。
この地で安倍(阿部)仲麻呂の子孫と
出逢い恋に落ちたのでした。
やがて童子(晴明)が生まれました。
ある時、童子に狐の寝姿を
見られてしまった母は、
「恋しくば・・」の歌を残して
この地を去ったとのことです。

  恋しくば 尋ねきて見よ 和泉なる
  信太の森の うらみ 葛くずの葉

恋しくば 石碑 安倍晴明 葛葉

神童と呼ばれた童子はやがて都に上り、
晴明と名乗り陰陽の道を学んでいました。
けれども、母恋しさのあまり、
信太の森を訪ね母と再会するのでした。
この時、母が信太大明神の
化身であった事を知ったのでした。
簠簋抄(慶長年間成立)には、
安倍晴明の筑西市出生が明記されており、
後の様々な晴明伝の原点となっているとのことです。

安倍晴明展示館 内部

【宮山ふるさとふれあい公園】
明野の豊かな自然を思いきり楽しめる施設です。
バーベキュー設備を始め、キャンプ場、
水遊び用のジャブジャブ池、
散歩しながら利用できる健康遊具、
陶芸工房など多彩な施設がそろっています。
自然のままのどんぐりの林、
歴史のロマンに満ちた宮山石倉遺跡もあります。、
その公園の一角に安倍晴明展示館があります。

安倍晴明展示館

所在地: 〒300-4504 茨城県筑西市宮山504

<由緒地>
高松家(茨城県筑西市猫島)
私有地内に氏神として
「晴明神社」が祀られています。
敷地内には「晴明井戸」もありますが、
神社、井戸とも非公開となっています。

高松家(茨城県筑西市猫島)

【安倍晴明】

安倍 晴明(あべ の せいめい/ はるあき/
はるあきら / はれあきら、921年(延喜21年)⇒
1005年10月31日(寛弘2年9月26日))は、
平安時代陰陽師です。
「晴明」を「せいめい」と読むことが多いですが、
これは音読みであり、諱本来の読み方は
確定してはいないとのことです。
鎌倉時代から明治時代初めまで
陰陽寮を統括した安倍氏流土御門家の祖です。
官位は従四位下・播磨守。

安倍晴明公像

【出自】
安倍晴明の系譜は不詳ですが、
大膳大夫・安倍益材(あべのますき)
あるいは淡路守・安倍春材の子と伝わっています。

各種史書では「竹取物語」にも
その名が登場する右大臣阿倍御主人の
子孫とあり、他に、阿倍仲麻呂の子孫とする説話や、

阿倍仲麻呂公像

一部の古文書では安倍朝臣晴明ではなく
安倍宿禰晴明と記載されるものも散見しています。
阿倍御主人と同じ阿倍氏の一族である
難波氏(難波吉士、のち忌寸、宿禰)の末裔説もあります。

【経歴】
延喜21年(921年)に
生まれたとされています。
生地については生誕地とされている
場所が複数あります。
幼少の頃については
確かな記録はありませんが、
陰陽師賀茂忠行・保憲父子に
陰陽道を学び、天文道を
伝授されたということです。
賀茂氏の門下生であり、
のちに両家は二大陰陽道宗家となります。




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天暦2年(948年)大舎人。
天徳4年(960年)40歳で
天文得業生(陰陽寮に所属し
天文博士から天文道を学ぶ学生の職)
であった安倍晴明は村上天皇に
占いを命ぜられており、
出世は遅れていましたが、
占いの才能は既に貴族社会で
認められていたことが伺えます。
その後の経歴は記録によって
複数の説がありますが、
高田義人氏の整理によりますと、
天徳4年に発生した内裏火災で焼損した
霊剣鋳造の功労によって
翌年の応和元年(961年)6月以降に
陰陽師(官職)に任じられ、
天禄元年(970年)に
陰陽少属に昇進、
翌2年(971年)には51歳で
天文博士の兼任が認められたということです。

晴明橋公園 樹木

貞元2年(977年)、
保憲が没した頃から
陰陽道内で頭角を現したとのことです。
陰陽寮を束ねる陰陽頭に
就任することは無かったのですが、
位階はその頭よりも上位にあったとのことです。

【花山天皇の命】
天元2年(979年)、
59歳の安倍晴明は当時の皇太子である
師貞親王(後の花山天皇)の命で
那智山の天狗を封ずる儀式を行いました。

【花山天皇からの信頼】
このころから花山天皇の
信頼を受けるようになったようで、
記録にしばしば阿部晴明が
占いや陰陽道の儀式を行った様子が
見られるようになります。
花山天皇の退位後は、
一条天皇や藤原道長の信頼を
集めるようになったことが、
藤原道長の日記「御堂関白記」などの
当時の貴族の日記から覗えます。
そのほか、「小右記」では、
正暦4年(993年)2月、
一条天皇が急な病にかかった際、
安部晴明が禊を奉仕したところ、
たちまち病は回復したため
正五位上に叙されたとのことです。
また、「御堂関白記」では、
寛弘元年(1004年)7月には
深刻な干魃が続いたため、
安倍晴明に雨乞いの
五龍祭を行わせたところ雨が降り、
一条天皇は安倍晴明の力によるものと認め
被物(かずけもの)を与えたことなどが
記されているとのことです。

【一代で陰陽道の家を成す】
陰陽師として名声を極めた安倍晴明は、
天文道で培った計算能力をかわれて
主計寮に異動し主計権助を務めました。
その後、左京権大夫、穀倉院別当、
播磨守などの官職を歴任し、
位階は従四位下に昇進しました。
さらに安倍晴明の2人の息子である
安倍吉昌と安倍吉平が天文博士や
陰陽助に任ぜられますと、
安倍氏は晴明一代の間に
師である忠行の賀茂氏と並ぶ
陰陽道の家としての地位を確立したのでした。

【末裔】
系譜上、安倍晴明の後裔とされる
家柄としては、堂上家では、
安倍氏嫡流の土御門家と、
江戸時代にそこから分家した
庶流である倉橋家があります。
明治以降は共に子爵に列せられ、
子孫が現存しています。
また、地下家の幸徳井家も、
系譜上は賀茂氏ではありますが、
家祖友幸が安倍氏出身であり、
安土桃山時代の当主・友豊まで
安倍晴明の男系血脈が続いていました。




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けれども土御門・倉橋両家に関しますと、
安倍晴明の男系血脈は、
宇多源氏綾小路家の子で
倉橋家の養子となった
倉橋有儀(1738年⇒1784年)と、
その息子で土御門家の養子となった
土御門泰栄(1758年⇒1806年)の代で
断絶しており、現在の土御門家・倉橋家当主は
いずれも更に養子相続を繰り返した結果、
戦国時代の安倍氏当主土御門有脩から数えて
共に4回の女系を経ることで
存続しているとのことです。

一方、土御門有脩の娘が勧修寺晴豊の妻、
土御門泰福の娘が倉橋泰章
(土御門久脩から5代目の男系子孫)の妻、
さらにその泰章の娘が萩原員領の妻になり、
みなそれぞれ子を残しているため、
勧修寺家・萩原家をはじめとする
幾つかの堂上公家・華族の子孫、
および現皇室に、女系を経て
安倍晴明の血脈が受け継がれているとのことです。

【伝承の人物像】
平安時代では最先端の学問
(呪術・科学)であった
「天文道」や占いなどを、
体系としてまとめた思想としての
陰陽道に関して、
卓越した知識を持った陰陽師とも
いわれていました。
当時の朝廷や貴族たちの信頼を受け、
その事跡は神秘化されて
数多くの伝説的逸話を生んでいきました。
蘆屋道満こと道摩法師とは
ライバル関係にあったとのことです。

安倍晴明が亡くなった11世紀の内に、
早くも安倍晴明は神秘化されていきました。
歴史物語の「大鏡」「十訓抄」や
説話集の「今昔物語集」「宇治拾遺物語」は
いくつかの安倍晴明に関する
神秘的な逸話を載せているとのことです。

後世に陰陽道の経典となる
秘伝書「簠簋内伝」(別名『金烏玉兎集』)
の著者に仮託されています。
実際の安倍晴明の著作としては
土御門家に伝わった占事略决があるとのことです。

他にも「源平盛衰記」「北条九代記」「古事談」
などがあります。

【奉祀】
<晴明神社>
京都市上京区)

<安倍晴明神社>
(大阪市阿倍野区)

<名古屋晴明神社>
(名古屋市千種区)

<安倍文殊院>
(奈良県桜井市)
安倍晴明が陰陽道の
修行をした場と伝えられています。

安倍文殊院

<安倍晴明像>
(安倍晴明神社・大阪市)
墓所は京都嵯峨にあり、
渡月橋の近くにひっそりと
眠っているとのことです。

安倍晴明を祀る神社は、
屋敷跡に建てられたという
一条戻橋近くの晴明神社や、
生誕地とされている(ほかの土地の説もあり)
大阪市阿倍野区に建てられた安倍晴明神社、
東国では数少ない
安倍晴明ゆかりの社立石熊野神社、
尾張で毒蛇退治をした際に
居住していた屋敷跡の
名古屋晴明神社など全国各地に存在します。

後世の陰陽師が、
安倍晴明にあやかろうと
信仰したため、
日本各地に晴明塚といわれる塚を建立し、
祀ったとのことです。

2024年NHK大河ドラマでは
安倍晴明(あべのはるあきら)として
ユースケ・サンタマリアさんが
演じられます。

安倍文殊院~安倍一族の氏寺として大化元年に創建、日本三文殊に数えられています。

小田城跡(つくば市)~鎌倉初期に八田知家が築城し、戦国時代の小田氏15代の居城でした。

海老ヶ島城~室町時代に結城成朝が築城、子が海老原氏と名乗り、やがて結城氏と小田氏で城の争奪戦となり勝者は佐竹氏。

武田氏館と湫尾神社~ひたちなか市武田は甲斐武田氏発祥の地でした。

紫式部~世界最古の長編小説とされる「源氏物語」を執筆した女流小説家で平安時代きっての才女。

花山天皇~藤原氏の策略で19歳で出家、独創的な発想の持ち主で好色、観音巡礼が後に「西国三十三所巡礼」として継承。

笠間城~鎌倉時代に笠間氏が築城し18代治めた後、江戸時代は笠間藩庁が置かれました。

伊佐城~伊達氏の祖とされる一族の伊佐氏が築城し、南北朝時代には南朝側について戦いました。

下館城~藤原秀郷が築いた三館の下館との伝承あり、江戸時代は下館藩でした。

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