平安時代

藤原教通~同母兄の頼通への卑屈なまでの従順と確執、やがて藤原摂関家の衰退を招いていきます。

興福寺 北円堂



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【藤原教通】

藤原 教通(ふじわら の のりみち)は、
平安時代中期から後期にかけての公卿。
藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の五男です。
官位は従一位・関白、太政大臣、贈正一位。

【生誕】
長徳2年6月7日(996年6月25日)

【死没】
承保2年9月25日(1075年11月6日)

【別名】
大二条殿

【官位】
従一位、関白、太政大臣、贈正一位

【主君】
一条天皇⇒三条天皇⇒後一条天皇⇒
後朱雀天皇⇒後冷泉天皇⇒
後三条天皇⇒白河天皇

【氏族】
藤原北家御堂流

【父】
藤原道長

【母】
源倫子

【兄弟】
彰子、頼通、頼宗、妍子、顕信、
能信、教通、寛子、威子、
尊子、長家、嬉子、長信

【妻】
正室:藤原公任の娘
継室:禔子内親王(三条天皇の皇女)
継々室:嫥子女王(具平親王の三女)

【子】
生子、真子、静円、信家、
通基、歓子、信長、静覚、
藤原経家室

【生涯と経歴】
【嫡子扱い】
藤原道長の五男でしたが、
同母兄である藤原頼通と同じく
嫡子として扱われたとのことです。
寛弘3年(1006年)、
元服して正五位下に直叙され、
侍従に任ぜられました。
兵衛佐・近衛少将/中将を経て、
寛弘7年(1010年)従三位に叙せられ、
ここでも藤原頼通と同様に
弱冠15歳で公卿に列しました。

【兄同様の急速な昇進】
寛弘8年(1011年)正三位、
長和2年(1013年)には
庶兄である藤原頼宗を越えて
参議を経ずに従二位・権中納言に
叙任されました。
長和4年(1015年)正二位、
寛仁3年(1019年)、
正官の中納言であった藤原行成、
藤原隆家を越えて
権大納言に叙任されるなど、
若年にして急速な昇進を果たします。
寛仁5年(1021年)、
左大臣・藤原顕光が没して
大臣の座が2つ空きますと、
筆頭大納言の藤原実資
右大臣に昇任したと同時に、
藤原教通は寛弘の四納言として知られ
長く朝廷で活躍していた
大納言・藤原斉信と
権大納言・藤原公任を越えて
26歳で内大臣に昇任します。
かつて、父の藤原道長から
内大臣就任の示唆を受けた際、
まず藤原実資が昇進してから
自らも同時に大臣に任ぜられ、
藤原実資の輔導を得て
大臣の勤めを果たしたい旨を、
藤原教通は述べたということです。




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【後宮対策に乗り出すも断念】
内大臣となった藤原教通は
後宮対策に乗り出し、
長元3年(1030年)に
後一条天皇に対して
長女である生子の入内打診を奏上し、
天皇も受諾の意向を見せたのでした。
けれども、同母妹で
後一条天皇の中宮であった
藤原威子が里下りして
身を隠そうとする行為に
出たことに加え、
母である源倫子による直接の諫めや、
兄である藤原頼通の反対意向もあって、
入内は断念せざるを得なかったのでした。

【娘の生子入内と頼通の反対】
後朱雀天皇が即位しますと、
長暦3年(1039年)8月に
藤原頼通の養女で
後朱雀天皇の中宮であった
藤原嫄子が死去し、
後宮は皇后・禎子内親王(三条天皇皇女)
ただ一人の状況となりました。
ここで、藤原教通は
既に26歳になっていた生子入内の
最後の機会と捉えたらしく、
藤原頼通の強い反対と妨害を
押し切って暮れも押し迫った
12月に入内を強行しました。
入内に際しては、藤原頼通が
最後まで反対して輦車を貸与せず、
藤原教通は自前で輦車を
新しく作って準備せざるを
得なかったとのことです。
さらに藤原頼通への遠慮から
入内に随行した殿上人は
僅か5名
(藤原経通、藤原定頼、藤原信長、
藤原経家、藤原顕家)という
有様であったとのことです。

【兄・藤原頼通がまたもや阻む】
後朱雀天皇と生子の仲は
睦まじかったとのことですが、
皇子女を授かることは
ありませんでした。
また、天皇は生子を
立后しようとしましたが、
藤原頼通が摂関の娘でなく
皇子を生んでもいないことを理由に
反対したため、
これも実現できなかったのでした。




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【待望の皇子を出産するが・・・】
次代の後冷泉天皇に対しては、
兄の藤原頼通に先んじて
永承2年(1047年)に
三女である歓子を入内させます。
歓子は永承4年(1049年)に
待望の皇子を出産したのですが
皇子は即日亡くなり、
永承6年(1051年)ごろからは
兄の静円の僧坊がある
洛北の小野に籠居してしまい、
皇子女に恵まれませんでした。

【卑屈なまでの頼通への従順】
関白職を獲得するまでの
藤原教通の忍従、
特に藤原頼通に対して
従順であることは、
ほとんど卑屈の域に達したと
評されることもあるとのことです。
藤原頼通が太政大臣に
昇進したことの祝賀に際して、
左大臣藤原教通は
藤原頼通にひざまづいて
礼をしたということです。
これを聞きつけた異母兄である
藤原能信が
「大臣ともあろう者がひざまづいて
礼をするなど聞いたこともない」
と批判しました。
これに対し藤原教通は
「自分は道長から
『頼通を父と思え』と言われたのだ。
父に対する礼儀として
ひざまづいて礼をするのは
当たり前のことだ。
能信は道長から
そんなことを言われたことは
ないだろう」と、
死ぬまで権大納言どまりで
関白など望むべくもなかった
異母兄の能信を逆に
皮肉ったといわれています。

【藤氏長者と関白職】
康平7年(1064年)に
藤原頼通から藤氏長者を譲られます。
治暦3年(1067年)12月、
藤原頼通が関白を辞任します。
藤原頼通は実子の右大臣・師実に
関白職を譲ることを望んだ
とのことですが、
姉の上東門院(藤原彰子)が
藤原道長の遺言を理由に
これを許さず、
しばらくの間関白職が空席となります。
翌年の治暦4年(1068年)4月、
後冷泉天皇が重態となり、
藤原氏と関係が疎遠な
後三条天皇の即位が
確実となる状況下で、
やむなく藤原頼通は藤原教通への
関白職譲渡に同意し、
4月16日に藤原教通が
関白に任ぜられます。
この関白任命は
後冷泉天皇在位中ですが、
任命から3日後には
後冷泉天皇が死去して
後三条天皇が践祚しているため、
藤原教通の関白任命は
新帝(後三条天皇)即位に
対応した人事であるといえるとのことです。




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【藤原教通と陽明門院・後三条天皇母子】
なお、藤原教通は三条天皇の娘である
禔子内親王を後室とし、
さらに息子・信家の室に
三条天皇の孫で
その養女となった
儇子内親王(実父は小一条院)を
迎えていることなどにより、
もともと三条天皇系の
陽明門院・後三条天皇母子と
藤原教通の関係は、
藤原頼通との関係ほど
疎遠ではなかったとの説も
あるそうです。
また、後冷泉天皇の意向により、
藤原教通の関白就任の
翌日となる17日に
歓子が皇后に冊立されています。

【藤原教通の死去とその後】
承保2年(1075年)に
80歳で亡くなりました。

藤原教通の死後、子である藤原信長は
従弟・師実との政争に敗北し、
太政大臣として位人臣を極めつつも
実権を奪われて失意のうちに没します。
その子孫は公卿への昇進もかなわずに
教通流は衰微していくのでした。

【後三条天皇との関係】
後三条天皇は
藤原氏との関係が
疎遠であったために
藤原教通の時代に
藤原摂関家が衰退したと
見られていますが、
藤原教通が兄である
藤原頼通との約束に反して
子・信長への関白譲位を
図った事から兄弟の不仲が深刻となり、
藤原頼通の影響力を抑制したい
後三条天皇と藤原教通の思惑が
合致したことによって
両者は接近していきます。
栄花物語」には
後三条天皇が自己の主張を貫きつつも
藤原教通との関係を
重視したことが記されています。
そのため、藤原頼通の財政的な基盤を
切り崩すために後三条天皇が行った
延久の荘園整理令の施行を
事実上容認したとも言われています。

【「二東記」】
藤原教通の日記は「二東記」と
呼ばれていますが、
散逸し一部のみが
伝わっているとのことです。
また、舞を尾張兼時に
師事していたということです。




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【香炉】
「古事談」によりますと
香炉という名の遊女を
右大臣藤原実資と
競ったということです。

小式部内侍との間】
和泉式部の娘である
小式部内侍(こしきぶ の ないし)との
間に寛仁2年(1018年)、
男児(静円)をもうけています。
藤原教通の父である
藤原道長も喜びで
小式部内侍の母である
和泉式部に歌を贈ったとのことです。
けれども、急速な昇進をして
内大臣になったときに、
身分の差がありすぎて
次第に二人の仲は
疎遠になったとのことです。

一条天皇~「叡哲欽明」と評された賢王は笛の名手で皇后との「純愛」を育み、やがて平安王朝文化が開花。

藤原道長~初めは目立たずも後に政権を掌握、「一家立三后」をなし「この世をば わが世とぞ思ふ」と詠む。

藤原頼通~藤原氏の栄華の象徴である平等院鳳凰堂を造営、摂関政治から院政と武士が台頭する時代へ。

藤原彰子~真面目で努力家で控えめな少女は成長して国母となり政治力を発揮し「賢后」となりました。

源倫子~6人の子供に恵まれ、夫である藤原道長の外戚政権を 実質的に完成させた女性です。

藤原道兼~父は藤原兼家、兄は藤原道隆、弟は藤原道長、待望の関白に就くも数日でこの世を去る。

藤原詮子~藤原道長の姉、国母となりやがて日本最初の女院となって、権力を握り政治に介入する。

紫式部~世界最古の長編小説とされる「源氏物語」を執筆した女流小説家で平安時代きっての才女。

大弐三位(紫式部娘・藤原賢子)~母からは和歌や文才を、父からは明朗で自由快活な気性を受け継ぎ、行動力溢れ長寿を全うしました。

和泉式部~和歌の才能にあふれた恋多き自由奔放な女性、娘への哀傷歌が有名です。

赤染衛門~理知的で優美な諷詠の女流歌人、おしどり夫婦であり良き妻良き母、「栄花物語」正編の作者とも。

伊勢大輔~「小倉百人一首」にもある「いにしへの」の歌が有名な平安時代の女流歌人です。

藤原兼家~熾烈な権力闘争に勝ち、のちの藤原氏最盛期を築いた人物です。

藤原道隆~藤原道長の長兄、容姿端正、明朗で豪快、気配り上手な優れた跡継ぎでしたが病で急逝します。

藤原伊周~藤原道隆の嫡男、急速に出世するも叔父・道長との政争に敗れ失意のうち世を去る。

藤原隆家~藤原道隆の四男、「刀伊の入寇」で武勇を挙げ政敵・道長も一目置いた気骨ある人物です。

藤原定子~朗らかで才気に満ち華やかで美しい女性、父道隆の死で状況は一変し若くして散る。

高階貴子~身分は高くないが和歌と漢詩に秀でた才媛で藤原道隆の嫡妻、百人一首54番の情熱的な和歌が有名。

藤原公任~藤原北家小野宮流で政治的・芸術手的にも名門の出で「お坊ちゃま」、藤原道長とは同い年で四納言。

藤原実資~藤原北家嫡流の小野宮流の家領を継ぎ「賢人右府」と呼ばれ、貴重な資料である「小右記」を残す。

藤原斉信~藤原道長の従兄弟で当初は道隆に仕えるも後に道長の腹心へ、清少納言との交流があり「枕草子」に登場します。

藤原行成~世尊寺流の祖、実務に高い能力を発揮し人徳高く当代の能書家として後世「権蹟」と称されました。

春日大社~藤原氏の氏神を祀る全国の春日神社の総本社で世界遺産に登録されています。

源俊賢~一条朝の四納言の一人、父の源高明が政変で失脚するもバランス感覚に優れ権大納言まで昇進します。

源明子(源高明の娘)~藤原道長の妾妻で源俊賢の異母妹、明子の家系はやがて五摂家に繋がっていくのです。

清少納言~末娘で父親からとても可愛がられて育ち、定子に仕え世界最古の随筆である「枕草子」を執筆します。

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