平安時代

藤原斉信~藤原道長の従兄弟で当初は道隆に仕えるも後に道長の腹心へ、清少納言との交流があり「枕草子」に登場します。

興福寺 五重塔



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藤原斉信

藤原 斉信(ふじわら の ただのぶ)は、
平安時代中期の公卿・歌人。
藤原北家、太政大臣・藤原為光の次男。
官位は正二位・大納言。四納言の一人です。
藤原道長とは従兄弟の関係になります。

【生誕】
康保4年(967年)

【死没】
長元8年3月23日(1035年5月3日)

【官位】
正二位、大納言

【主君】
円融天皇⇒花山天皇⇒
一条天皇⇒三条天皇⇒後一条天皇

【氏族】
藤原北家九条流

【父】
藤原為光

【母】
藤原敦敏の娘

【兄弟】
誠信、斉信、藤原義懐室、
忯子、長信、尋光、道信、
公信、寝殿の御方、儼子、
穠子、良光、藤原隆家室、
安芸守家平室

【子】
永慶、良斉、
源頼清室、
源宗家室、
藤原長家室、
源定宗室

【養子】
公信、経任、斉長

【生涯と経歴】
円融朝の天元4年(981年)、
従五位下に叙爵し、
花山朝初頭の永観2年(984年)、
従五位上・侍従に叙任されました。

【順調な昇進】
寛和元年(985年)、
右兵衛佐に任ぜられますと、
寛和2年(986年)、
従四位下・左近衛少将、
永延3年(989年)右近衛中将、
永祚2年(990年)左近衛中将、
正暦2年(991年)従四位上と
花山朝から一条朝前期にかけて
武官を務めながら順調に昇進しています。




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【蔵人頭になれなかった】
しかし、正暦3年(992年)、
頭中将・藤原公任が参議に
昇進したことから、
後任の蔵人頭の選定が行われました。
通常ですと従四位上・左近衛中将であった
藤原斉信が適任であったところ、
正五位下・右中弁の源俊賢
任じられたのでした。
この時、藤原斉信も自分こそが
蔵人頭になるはずと
思っていたとのことですが、
参内して会った源俊賢に対して
誰が蔵人頭に補せられたか
尋ねたところ、
源俊賢自らが補せられた旨を聞き、
藤原斉信は赤面して
退朝したということです。

【念願の蔵人頭と変わり身の早さ】
正暦5年(994年)、
藤原斉信は蔵人頭(頭中将)となります。
振る舞いが非常に高貴で、
随身を召して使う様子は
まるで近衛大将のようであったと
されていたとか。
藤原斉信は蔵人頭としての
職掌もあって中関白家出身の中宮である
藤原定子のサロンに近しく
出入りしていた様子がうかがえます。
けれども長徳元年(995年)4月の
関白・藤原道隆の薨去を通じて、
中関白家から距離を置いて
藤原道長に接近したようで、
長徳2年(996年)に発生した
長徳の変により、中関白家の
藤原伊周・隆家兄弟が左遷された当日に、
藤原斉信は参議に任ぜられ
公卿に列しています。
なお、左近衛中将を引き続き兼帯しました。

【兄である藤原誠信よりも昇進】
参議任官時の年齢は30歳と、
兄である藤原誠信の25歳に比べて
ここまでの昇進は遅れましたが、
その後は長保元年(999年) 正四位下、
長保2年(1000年)従三位と
急速に昇進し、参議任官後4年余りで
官位面で藤原誠信に肩を並べました。
長保3年(1001年)には
藤原懐平・菅原輔正・藤原誠信の
上位者3名を越えて権中納言に任ぜられます。
これは藤原斉信の能力が
優れていたために、
兄である藤原誠信を越えて
昇進したともされています。




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【兄・藤原誠信の壮絶な死】
しかしながら、
兄の藤原誠信はこの昇進に関して、
自分が権中納言への昇任申請をするので、
藤原斉信に対して今回は
辞退するように念押ししていた
とのことですが、左大臣・藤原道長から
藤原誠信は昇任できそうもないため
昇任申請をするように勧められた
藤原斉信が結局申請して
権中納言に任ぜられ、
この経緯を知った藤原誠信が
藤原道長と弟である斉信に
騙されたとして深く恨み、
憤激・絶食の末に病となり
間もなく没してしまいました。
その憤怒の有様は握り締めた
手の指が手の甲を突き破るほど
凄まじいものであったということです。

【藤原道長の腹心の一人として】
藤原斉信は藤原道長の
腹心の一人として一条天皇の治世を支え、
藤原公任・藤原行成・源俊賢と共に
一条朝の四納言と称されました。
中でも藤原斉信はいわゆる属文の卿相として、
藤原行成と共に公私に亘る詩会に
熱心に参加しました。

藤原実資から批判される】
同じく漢詩を好んだ藤原道長が
開催した詩会の常連で、
時には藤原道長らと
長時間作詩に没頭するといった
藤原道長に対する忠勤ぶりを、
藤原実資からは
「親昵の卿相」「恪勤の上達部」
と呼ばれて痛烈に批判されています。

【四納言の筆頭格へ】
権中納言昇進後も、中宮(権)大夫として
藤原道長の長女である
中宮・藤原彰子に仕える一方で、
寛弘元年(1004年)従二位、
寛弘5年(1008年)正二位と
順調に昇進し、
寛弘6年(1009年)には
権大納言に昇進しました。
藤原公任を越えて、
四納言の筆頭格となりました。

【郁芳門を提供】
長和2年(1013年)、
藤原道長の娘で
三条天皇の中宮であった
藤原妍子の御所として
使用されていた東三条殿が
焼亡しました。
すると藤原斉信は直ちに
郁芳門殿を空けて、
藤原妍子の
滞在場所とするために
提供したのでした。
藤原道長はこれに非常に
感動したことを日記に
書きとどめています。




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【藤原道長の息子達に先を越される】
寛仁元年(1017年)、
藤原道長が左大臣から太政大臣に昇進し、
順送り人事で内大臣職が空席となります。
6名の(権)大納言の内で一番若い、
藤原道長嫡子である
藤原頼通が内大臣に昇進しました。
斉信はここで公卿昇進後、
初めて他者に官位を超えられます。
寛仁4年(1020年)、
大納言に昇進し、
太政官の第4位の席次を占めます。
治安元年(1021年)5月に
左大臣・藤原顕光の死没を
受けての人事異動で、大臣の席が2つ空き、
右大臣には上席の大納言・藤原実資が任ぜられ、
内大臣には20歳近く若い
藤原道長五男の権大納言・藤原教通が任ぜられ、
藤原斉信は再び藤原道長の子息に
昇進面で後塵を拝したのでした。

【娘を藤原道長の子供に嫁がせる】
同年10月に藤原斉信は娘を
藤原道長六男である藤原長家の室に望みます。
藤原長家は前年に室(藤原行成の娘)を
亡くしたばかりでもあり
一旦この話を拒絶しますが、
藤原道長の仲介もあってまもなく
藤原長家は同意し
婚儀は行われました。
けれども、藤原斉信家での
頓死者の存在を隠して
婚儀を強引に行ったようで、
直後の豊明節会において
大歌所別当を務めるはずであった
藤原斉信は参上せず、
その後の臨時祭でも
藤原長家が祭使を辞任し、
舞人を務めた藤原経輔も
婚礼の夜に藤原斉信邸を訪問していて
觸穢が及ぶ事態となったとのことでした。

【娘と孫となるはずの胎児の死去】
このように強引に進めた婚儀でしたが、
万寿2年(1025年)、
流行していた赤斑瘡のために、
藤原長家室は妊娠7ヶ月で
早産して胎児は死亡、母は尼となり、
藤原斉信は一生涯
魚鳥を食さないとの
大願をかけたのですが、
間もなく室本人も
病死してしまったのでした。
娘を亡くした藤原斉信の悲嘆は
甚だしく、父親である藤原為光が
娘の忯子の追善のために
建立した法住寺で
開催した七十七日法要では、
言葉を発することができず、
力を落として歩くことすら
困難な様子であったということでした。

【渇望した大臣任官、ついにならず】
治安元年(1021年)以降は
唯一の正官の大納言であった
藤原斉信は大臣への任官を
強く望んでいたらしく、
治安3年(1022年)に父である
藤原為光が大臣任官を望んで
建立した安禅寺で、
藤原斉信は子・永慶に
内大臣任官の祈祷をさせているとの
噂が出たり、
長元2年(1029年)9月には
関白である藤原頼通が
一時重態に陥りますが、
藤原斉信が大臣を
望んでいたこととの関連が
取り沙汰されたということでした。
けれども、同年10月に
太政大臣・藤原公季が薨じますが
太政大臣の後任は立てられず、
その後も高齢の右大臣である
藤原実資は90歳近い長寿を保ち、
左大臣・藤原頼通、
内大臣・藤原教通との
3人の大臣体制が
長く続いたため、
ついに藤原斉信の大臣任官は
叶うことがありませんでした。




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【最期】
長元8年(1035年)3月23日薨去。
享年は69歳でした。
最終官位は大納言正二位
民部卿兼中宮大夫。
病に苦しむことなく
没したということです。

【人となり】
和歌や漢詩を始め、
朗詠や管絃にも通じ、
当代随一の文化人としての
名声も高かったとのことです。
清少納言との交流でも知られ、
「枕草子」の中にもたびたび登場し、
その艶やかな振る舞いを
描写されています。
勅撰歌人として
「後拾遺和歌集」(1首)以下の
勅撰和歌集に6首が
入首しているとのことです。

2024年NHK大河ドラマ
光る君へ」では
金田 哲(かなだ さとし)さんが
演じられます。

一条天皇~「叡哲欽明」と評された賢王は笛の名手で皇后との「純愛」を育み、やがて平安王朝文化が開花。

花山天皇~藤原氏の策略で19歳で出家、独創的な発想の持ち主で好色、観音巡礼が後に「西国三十三所巡礼」として継承。

藤原道長~初めは目立たずも後に政権を掌握、「一家立三后」をなし「この世をば わが世とぞ思ふ」と詠む。

藤原頼通~藤原氏の栄華の象徴である平等院鳳凰堂を造営、摂関政治から院政と武士が台頭する時代へ。

藤原教通~同母兄の頼通への卑屈なまでの従順と確執、やがて藤原摂関家の衰退を招いていきます。

藤原道隆~藤原道長の長兄、容姿端正、明朗で豪快、気配り上手な優れた跡継ぎでしたが病で急逝します。

藤原伊周~藤原道隆の嫡男、急速に出世するも叔父・道長との政争に敗れ失意のうち世を去る。

藤原隆家~藤原道隆の四男、「刀伊の入寇」で武勇を挙げ政敵・道長も一目置いた気骨ある人物です。

藤原実資~藤原北家嫡流の小野宮流の家領を継ぎ「賢人右府」と呼ばれ、貴重な資料である「小右記」を残す。

源俊賢~一条朝の四納言の一人、父の源高明が政変で失脚するもバランス感覚に優れ権大納言まで昇進します。

藤原公任~藤原北家小野宮流で政治的・芸術手的にも名門の出で「お坊ちゃま」、藤原道長とは同い年で四納言。

藤原行成~世尊寺流の祖、実務に高い能力を発揮し人徳高く当代の能書家として後世「権蹟」と称されました。

藤原道兼~父は藤原兼家、兄は藤原道隆、弟は藤原道長、待望の関白に就くも数日でこの世を去る。

清少納言~末娘で父親からとても可愛がられて育ち、定子に仕え世界最古の随筆である「枕草子」を執筆します。

高階貴子~身分は高くないが和歌と漢詩に秀でた才媛で藤原道隆の嫡妻、百人一首54番の情熱的な和歌が有名。

藤原兼家~熾烈な権力闘争に勝ち、のちの藤原氏最盛期を築いた人物です。

藤原詮子~藤原道長の姉、国母となりやがて日本最初の女院となって、権力を握り政治に介入する。

藤原彰子~真面目で努力家で控えめな少女は成長して国母となり政治力を発揮し「賢后」となりました。

藤原時姫~藤原兼家の妻で藤原道隆・道兼・道長・超子・詮子の生母、一条・三条両天皇の祖母です。

源雅信~皇室の血筋で源倫子の父、藤原兼家にとっては邪魔な存在、宇多源氏の始祖で子孫は近江源氏・出雲源氏へと繋がっていく。

源倫子~6人の子供に恵まれ、夫である藤原道長の外戚政権を 実質的に完成させた女性です。

源明子(源高明の娘)~藤原道長の妾妻で源俊賢の異母妹、明子の家系はやがて五摂家に繋がっていくのです。

藤原頼忠~従兄弟の兼通とは親しく兼家とはライバル、天皇の外戚になれず失意のうちに世を去る。

紫式部~世界最古の長編小説とされる「源氏物語」を執筆した女流小説家で平安時代きっての才女。

和泉式部~和歌の才能にあふれた恋多き自由奔放な女性、娘への哀傷歌が有名です。

赤染衛門~理知的で優美な諷詠の女流歌人、おしどり夫婦であり良き妻良き母、「栄花物語」正編の作者とも。

伊勢大輔~「小倉百人一首」にもある「いにしへの」の歌が有名な平安時代の女流歌人です。

大弐三位(紫式部娘・藤原賢子)~母からは和歌や文才を、父からは明朗で自由快活な気性を受け継ぎ、行動力溢れ長寿を全うしました。

藤原為時~漢詩の才能に長け、人格形成で紫式部に影響を与えたとされており、子らに先立たれる。

藤原惟規~紫式部の兄弟で和歌の才能があったが、越後にて父より先に亡くなる。

藤原宣孝~性格も女性関係も華やかで20歳以上も年上であった紫式部の夫。

春日大社~藤原氏の氏神を祀る全国の春日神社の総本社で世界遺産に登録されています。

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