鎌倉殿の13人

横山党館~八幡八雲神社(八王子)・横山党は武蔵七党の一つで関東最大勢力の武士団です。

横山党根拠地



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横山党館】

横山党館(横山氏館跡)は、
京都八王子市元横山町にある平城(館跡)です。
武蔵七党の最大勢力でその筆頭である
横山氏の本拠地でした。
最も横山党は、鎌倉時代初期に没落し、
八王子の街もアメリカ軍の空襲で
焼け野原になったりしているため、
横山党の屋敷がどこにあったのかは、
正確には判明しておりません。
そのため、八幡八雲神社の境内にある
「横山神社」の付近に、
横山氏の館があったものと
推定されています。
なお、「横山神社」には
武蔵七党の一つである
横山党の始祖である
横山義孝が祀られております。
横山義孝は八幡宮を中心に
祭政一致を行ないました。

ちなみに横山神社は
建保2年(1214年)、
大江広元によって創建されています。

【横山党】

横山党(よこやまとう)は、
平安時代後期から鎌倉時代にかけて、
武蔵国多摩郡(現・東京都八王子市)横山荘を中心として、
大里郡(現埼玉県北部の熊谷市や深谷市とその周辺地域)
および比企郡から橘樹郡
(現在の神奈川県川崎市の市域に相当)
にかけての武蔵国、さらには相模国高座郡
(神奈川県の相模川左岸流域一帯)
にまで勢力があった武士団です。
武蔵七党系図筆頭であります。
一族は横山氏を中心に
海老名氏愛甲氏、大串氏、
小俣氏、成田氏、本間氏などが挙げられます。
先祖は小野篁とされています。
また武蔵国造の末裔とする説もあります。

横山党館 説明板

有名人としては、
中条家長(初代評定衆として御成敗式目の策定に関与)や
愛甲季隆(弓の名手。畠山重忠を討ち取る)、
横山時兼(正治2年)(淡路国の守護)などがいます。
横山時兼の叔母は
鎌倉幕府侍所別当であった和田義盛の妻、
妹は和田義盛の長男である和田常盛の妻でした。
建暦3年(1213年)、
和田義盛と2代目執権北条義時とが対峙した
和田合戦で姻戚関係にあった
和田氏に側となり敗れ、
多くの滅亡となりましたが、
一部の武士は生き延びました。
本間氏などは佐渡の地頭として繁栄しました。

なお猪俣党も一族であり、
横山義孝の弟である時範(時資)が
猪俣氏となりました。

【横山荘】
横山党が本拠地とした
武蔵国多摩郡横山(現・東京都八王子市元横山町)。
当時「横山」とは多摩丘陵を指し、
「万葉集」に「多摩の横山」と詠われています。
また別名は船木田荘(ふなきだのしょう)とも。
横山荘に属していたとされる村々と
中世後期に船木田荘の領主であった
東福寺の文書に登場する
船木田荘の村々が合致することから、
多摩丘陵の古称である「多摩の横山」に
因んで船木田荘の「新荘」
と呼ばれる地域を指して横山荘と称した、
あるいは船木田荘そのものの別称が
横山荘であったと考えられています。

横山党館付近

古代から横山がある多摩の小高い丘は、
馬の飼育に適しており、
平安時代に横山荘(船木田荘・舟木田荘)は、
陽成天皇の私牧(御料牧場)とされていました。
その横山荘(よこやましょう)の
別当(管理者)として、
京から派遣されたのが、
小野篁(おの の たかむら)の
4男である小野保衡(おののやすひら)とされています。
遣隋使となった小野妹子や、
小野小町の末柄である小野一族とされています。

もちろん、馬を扱うため馬術にも優れており、
武士団として勢力を伸ばして
行くようになったとされています。
また、小野篁は身長六尺二寸
(約188cm)の巨漢でもあったとされ、
その子供たちもまた
体格に恵まれていた可能性もあります。




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<平安時代>
延長2年(924年)、
小野氏が武蔵守として着任した際、
石清水八幡宮を勧請して、
八幡八雲神社を建立しました。
天永4年(1113年)、
愛甲内記太郎の殺害事件により
追討を受けます。
源為義に服属しました。
保元元年(1156年)の保元の乱
および平治元年(1159年)の
平治の乱では、源義朝麾下
(畠山氏に従属との説もあり)に
従軍し活躍しました。

<鎌倉時代>
「平家物語」によりますと、
治承・寿永の乱でも活躍し、
小野成綱は尾張守護に補任されました。
源頼朝が鎌倉幕府を開くと、
横山党の横山時広は
軍功により横山荘の所領を安堵されました。
建暦3年(1213年)の和田合戦で、
姻戚関係にあった和田義盛に加勢し、
和田氏と共に敗れ横山時兼とその一党は、
その後横山党としては
歴史の表舞台から消えたのでした。
横山党本拠地であった横山荘は
大江広元に与えられたのでした。
なお、横山氏末裔として、
横山氏居館のあった八幡八雲神社に並ぶ
妙薬寺(みょうやくじ)には、
横山将監小野秀綱の供養塔があります。
この宝篋印塔は永禄3年(1560年)に
造立されたもので、
東京都指定旧跡となっています。

建保2年(1214年)、
大江広元は横山党の始祖である
横山義孝を祀った横山神社を
八幡八雲神社の境内に創建しました。

承久3年(1221年)、
承久の乱で院側についた
小野成綱の子である
尾張守護小野盛綱は、
乱後逃亡し守護職を没収されています。

小野盛綱逐電後、跡職には
中条家長が就いたといい、
1225年に評定衆に抜擢されています。
中条氏繁栄の礎を築きあげていきます。

【横山党の諸氏】
東京多摩・神奈川などに
お馴染みの地名がありますね。
横山、椚田、海老名、野部(野辺、矢部)、
藍原(相原、粟飯原)、淵辺(淵野辺)、
平子(現在は三浦氏族とする説が有力)、
山崎、鳴瀬(成瀬)、古郡、小倉、由木、
室伏、大串、千与宇、伊平、樫井、
古市、田屋、八国府、山口、愛甲、
小子、平山、石川、古沢、小野、古庄、
中村、大貫、田名、小沢、小俣、本間、
中野、成田、中条、
横瀬氏(由良氏、新田氏と自称)、小山など。




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【横山氏の系譜】
女子については系図には
記さない事が殆どですが、
秩父党の秩父氏や
藤原(佐伯氏)氏系の波多野氏、
鎌倉党の梶原氏や三浦氏族の和田氏、
渋谷氏、村上源氏で相模守源有兼との
通婚関係がみられます。
横山隆兼(孝兼)の娘は秩父重弘の妻となり
畠山重能・小山田有重を産んでいます。
末娘は梶原景清に嫁ぎ、
梶原景時を産んでいます。
さらに横山隆兼の孫娘のうち一人は
三浦一族の和田義盛、
一人は高座渋谷の
渋谷高重の妻となっています。

【武蔵七党】

武蔵七党(むさししちとう)は、
平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、
武蔵国を中心として
下野、上野、相模といった
近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた
同族的武士団の総称です。

<構成氏族>
なお「七党」を構成する氏族は
文献によって異なるとのことです。

それぞれの説の異同を整理すると
横山党(八王子市)、猪俣党(児玉郡美里町)、
児玉党(本庄市児玉郡)、村山党(多摩郡村山郷)、
野与党(加須市野与庄)、
丹党(丹治党)(入間郡・秩父郡・児玉郡)、
西党(西野党)(日野市)、
綴党(横浜市都筑区)、
私市党(加須市騎西)となり、
全部で九党あります。
七党という表現は鎌倉時代末期に成立した
「吾妻鏡」にはないことから
南北朝時代以降の呼び方と
考えられているとのことです。

【八幡八雲神社(八王子)】

八幡八雲神社(はちまんやぐもじんじゃ)は、
東京都八王子市元横山町にある神社です。
八幡神社(八幡宮)と八雲神社(天王宮)
とを合祀したもので、
誉田別尊(応神天皇)と
素盞鳴尊をご祭神としています。
八王子では東の鎮守・八幡八雲神社、
西の鎮守・多賀神社(八王子市元本郷町所在)
として尊崇されています。

八幡八雲神社

【八幡神社の創立】
八幡神社は、延長2年(924年)、
武蔵守小野隆泰が武蔵国多摩郡横山に
石清水八幡宮を勧請したことが
始まりとされています。

天慶2年(939年)、
横山牧が勅旨牧(国営牧場)となり、
武蔵権守となった小野義孝は
横山に館を構え、
横山姓(横山党)に改め、
横山義孝(小野義孝)が
武蔵七党の一つである
横山党の始祖となったのでした。

その後、横山氏は
鎌倉幕府の有力御家人として活躍しました。
けれども建暦3年(1212年)、
和田合戦で横山時兼が
和田義盛に加担し領地を没収され凋落しました。

建保2年(1214年)、
同地を与えられた
鎌倉幕府政所別当大江広元により、
八幡神社内に開祖である
横山義孝の御霊を鎮めるため
横山神社を創建しました。




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<八幡神社ご祭神>
誉田別尊(ほんだわけのみこと)

<ご神徳>
開運・厄除・家内安全・
交通安全・安産・学業成就など

【八雲神社の創立】
八雲神社は、俗に天王様というそうです、。
延喜16年(916年)、
大伴妙行が深沢山(元八王子城山の古い名称)
の頂上に奉斎しました。
それから長い月日が流れて天正年間になって、
北条氏照が此山に城を築き、
氏神として崇敬しました。
天正18年(1590年)6月の落城の時、
城兵は天王の神体を奉戴し、
川口村黒沢の地に密かに逃れ、
北条残党の氏神として崇敬していました。

慶長3年(1596年)6月、
大洪水のため神体は流失し、
遂に八王子新町の北なる板谷ヶ淵に
漂着しました。
暗夜に御光を放ち現れた神体を、
6月13日未明に
新町百姓五兵衛という者が
このご神体を発見し、
自宅土間の臼上に移しました。
その後初穂の小麦を煎って供物とし、
朝夕礼拝している内、
或夜夢の中に不思議な神勅を受け、
宿長の長田作左衛門の助力を乞い、
八幡の社内に遷座したのでした。

<八雲神社ご祭神>
素盞鳴尊(すさのおのみこと)

<ご神徳>
国土安全・厄除・商売繁盛・
身体健全・学問・縁結びなど

【その後】
慶長3年(1598年)、
八幡神社と合祀され
八幡八雲神社となりました。
なお、合祀は
承応2年(1653年)とも
言われているそうです。

【受付時間】
ご祈祷は午前9時~午後4時30分です。
不在時もあるのでなるべく
電話にて問い合わせくださいとのことです。

御神札・御守りなどの授与:
午前9時~午後5時。
ご祈祷・授与品の申し込みは、
社殿右側の社務所、
または鳥居北側(右側)の社務所となります。

【電話】
042-623-0720

【御朱印】
あり(書き置き対応中)

【交通アクセス】
JR中央本線・京王線
「八王子駅」徒歩10~15分程度。

<バス>
追分・高尾方面行き乗車
「横山町3丁目」下車 徒歩3分程度。

【駐車場】
参拝者用駐車場があります。
神社前の車道は一方通行です。
「八幡八雲神社北」信号よりお入りください。
カーナビの場合、
一方通行を逆走するように
案内することがあるようです。
くれぐれもご注意ください。

【所在地】
〒192-0063 東京都八王子市元横山町2丁目15−27

梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。

三浦義村~鎌倉幕府の創設期から執権政治の確立まで仕え権謀術数に優れた策略家

菅谷館跡と鶴ヶ峰・二俣川の古戦場散策~畠山重忠公の足跡を訪ねて。

神明大神宮 (しんめいだいしんぐう)~懐嶋城址~大庭景義の館址

糟屋有季~糟屋(糟谷)氏の所領は伊勢原市一帯で横山党とも繋がりがあります。糟屋氏一族の城所城跡があります。

中村宗平~中村党の祖で源頼朝を支えてきた武士団で、鎌倉党とは大庭御厨を巡る対立がありました。

和田義盛と和田合戦~三浦一族~鎌倉幕府創始の功臣だが北条義時に嵌められる

三浦義澄~源頼朝を支えた宿老の一人で13人の合議制のメンバーで相模守護。三浦一族の栄枯盛衰。

河崎氏館について~渋谷氏の祖でありやがて近江源氏の佐々木氏を援助し間宮氏に続く

渋谷氏長後居跡~河崎基家が館を構え、その子である河崎重家、さらに孫である渋谷重国が居住しました。

花園城~築城は平安末期、猪俣党の一族で山内上杉氏の重臣を代々務めた藤田氏の居城です。

大庭景親~坂東八平氏の鎌倉氏の一族~最期まで平家に忠誠を尽くした人物です。

長尾城跡(大船)・鎌倉氏系長尾氏発祥の地、南北朝から戦国時代おいて長尾氏は上杉氏の家宰職でした。

大江広元~四男の毛利季光は毛利氏の祖となりやがて戦国大名の毛利氏へと続きます。

郷御前(里)~父は河越重頼で祖母は比企尼、源義経に寄り添い最期を共にした正妻です。

川和城跡~源義経の郎党であり、武蔵武士である熊井太郎忠基の名が刻まれた碑があります。

江戸太郎重長と武蔵江戸氏について~武蔵国の武家で秩父氏一族であり所領のあった場所が東京の地名に今も残っています

檜原城~鎌倉武士の花形の末裔で武蔵七党・西党の一族の平山氏が築城、豊臣方には徹底抗戦しました。

阿伎留野城~武州南一揆の三宮氏(三内氏)が築城との推定、南一揆の統率者は平山氏、小宮氏、梶原氏など。

武蔵・小川城 (宝清寺)~築城は武蔵七党・西党の小川氏で寺の開基は甲斐武田氏縁者の青木氏。

金子家忠~大剛勇の強者として活躍した武蔵七党・村山党の金子一族で入間に墓と屋敷跡があります。

武蔵・村山城~福正寺の境内は武蔵七党・村山党の城跡・推定地、最後の当主村山土佐守義光。

中山家範館~武蔵七党の丹党、中山家範は八王子城で戦死、子の中山信吉は水戸藩附家老に出世。

金鑚神社~武蔵国五宮、社名は砂鉄からとの伝承があり、神体山を祀る古代祭祀の面影を残す神社です。

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