鎌倉殿の13人

大庭景親~坂東八平氏の鎌倉氏の一族~最期まで平家に忠誠を尽くした人物です。

大庭城址公園 芝生広場



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大庭景親

大庭 景親(おおば かげちか)は、
平安時代末期の相模国の武将です。
平良文の末裔である
鎌倉景正の流れを汲む
大庭氏の一族です。
大庭景親は鎌倉(景正)景政の曾孫にあたります。

平治の乱後に平家の忠実な家人になり、
治承4年(1180年)に
源義朝の遺児である源頼朝が挙兵すると
平家方の武士を率いて
石橋山の戦い源頼朝を撃破しました。
けれども、安房国へ逃れた源頼朝が再挙して
多くの東国武士に迎えられて
鎌倉へ入ると抗する術を失います。
源頼朝が富士川の戦いで
平氏に大勝した後に降伏し、処刑されました。

【時代】
平安時代末期

【生誕】
不詳

strong>【死没】
治承4年10月26日
(1180年11月15日)

【別名】
三郎

【氏族】
桓武平氏良文流、鎌倉氏、大庭氏

【父】
大庭景宗

【兄弟】
景義、豊田景俊、景親、俣野景久、
波多野義常室

【大庭御厨事件】
大庭氏は坂東八平氏の鎌倉氏の流れを汲む一族です。、
相模国大庭御厨
(神奈川県寒川町、茅ヶ崎市、藤沢市)
の下司職を相伝していました。
天養元年(1144年)に
源義朝の郎党が
相模国田所目代と共に三浦氏、
中村氏を率いて大庭御厨に
侵攻しました。
この源義朝らの行動は
朝廷からは不問に付されました。

【兄の大庭景義が負傷】
保元元年(1156年)の保元の乱では
源義朝の軍勢に属し、兄の大庭景義とともに
白河北殿の西門を守る源為朝に挑みかかり、
後三年の役で源義家のもとで戦った
鎌倉景正の末裔であると名乗りを上げました。
強弓の勇者である源為朝は
鏑矢を放ち大庭景義の左の膝を砕いたのでした。
大庭景親は落馬した兄を
助け出して退散しています。




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【平家への接近で大庭氏の立場は強化】
保元の乱は源義朝の属する
後白河天皇方の勝利に終わりました。
しかし平治元年(1159年)の
平治の乱で源義朝は敗死して
源氏は没落しました。
その後、相模国の国衙在庁系豪族の
三浦氏や中村氏は源義朝に
近い立場であったため
相模国内においては劣勢に立たされます。
逆に源義朝とは疎遠であったと
思われる大庭景親は平家への接近に成功し、
それによって相模国内の
大庭氏の立場は強化されたのでした。

【以仁王の挙兵】
治承4年(1180年)5月、
以仁王と源頼政が平氏打倒の兵を挙げると、
足利忠綱らとともに追討の任にあたり、
これを破りました。
その後も在京していた大庭景親は
平家の家人の上総介・伊藤忠清に呼ばれ、
駿河国の長田入道から北条時政(頼朝の舅)と
比企掃部允(源頼朝の乳母の夫でこの時には既に死去)
が伊豆国の流人の頼朝を擁立して
謀反を企てているとの
密書があったと知らされました。

【源頼朝の挙兵の決意】
実際に源頼朝は挙兵を決意し、
内々に準備を進めていたのでした。
源頼朝に同心する者の中には
兄である大庭景義もいたのでした。

【源頼朝挙兵を急ぐ】
8月2日に東国の所領へ帰国した大庭景親は、
9日に佐々木秀義を自邸へ招いて
源頼朝に謀反の疑いあることを相談しました。
佐々木秀義の息子たち
(定綱、経高、盛綱、高綱)は
既に源頼朝と意を通じており、
驚愕した佐々木秀義は直ちに源頼朝に
使者を送り告げたのでした。
この報告を受けて、
源頼朝は挙兵を急ぐことを決めたそうですおとおと。
17日、ついに源頼朝は挙兵し、
伊豆目代・山木兼隆の館を襲撃して殺害。
源頼朝は300余騎をもって
土肥実平の所領のある
相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)
まで進出しました。

石橋山の戦い
大庭景親は源頼朝を迎え撃つべく
弟の俣野景久をはじめ
渋谷重国、糟屋盛久、熊谷直実ら
平氏方3000余騎を集めて
石橋山(神奈川県小田原市)で
源頼朝の軍と対峙しました。
23日、三浦一族の軍勢が
源頼朝と合流すべく迫っているのを知った
大庭景親は大雨の上にすでに
日が暮れているにもかかわらず
攻撃をしかけたとのことです。
数に勝る大庭勢は圧勝し、
寡兵の源頼朝軍は壊滅して
山中へ逃げ込んだのでした。

梶原景時が見逃す】
大庭景親は山中をくまなく捜索させましたが、
梶原景時が頼朝の所在を知りながら
大庭景親らを別の
山峯へ導いたために
取り逃がました。
源頼朝は土肥実平の手引きで
船を仕立て安房国へ逃れたのでした。

【源頼朝軍2万騎超】
9月2日に源頼朝挙兵を知らせる
大庭景親の早馬が
平清盛のいる福原に到着し、
追討軍の派遣が決められましたが、
編成は遅々として進まなかったとのことです。
その間に、源頼朝は安房国で再挙して
房総半島を進軍し、
千葉常胤、上総広常がこれに加わり、
武蔵国と下総国との国境の
隅田川に達した9月末には
2万騎以上になっていました。

【源頼朝、鎌倉に入る】
10月には豊島清元、葛西清重、足立遠元、
河越重頼、江戸重長、畠山重忠
東国武士が続々と源頼朝に参陣して
数万騎に膨れ上がり、
大庭景親には抵抗する術が
なくなってしまいました。
10月6日、
源頼朝は抵抗を受けることなく
鎌倉に入ったのでした。




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【グダグダの追討軍】
平維盛を総大将とする
追討軍の進発は遅れに遅れ、
諸国の駆武者をかき集めながら
進軍したのですが、
西国の飢饉のために
士気は低下していました。

【鉢田の戦い】
10月13日にようやく駿河国へ入ったのですが、
その直後に現地の平氏方の駿河目代の
橘遠茂が甲斐源氏に撃破されてしまったのでした。

【富士川の戦い】
18日、大庭景親は平氏軍と合流するために
1000騎を率いて出発しましたが、
西方はすでに敵方に固められていたため、や
むなく兵を解いて河村山へ逃げ去ったのでした。
20日、富士川で源氏の大軍と
対峙していた平維盛の
平氏軍は戦わずして敗走したのでした。

23日、大庭景親は遂に降伏し、
上総広常に預けられました。
26日に固瀬川
(現在の境川、神奈川県藤沢市片瀬)
で処刑され梟首されました。

<境川と片瀬海岸(現代)>
江ノ島塔から

なお、源頼朝の挙兵に
早くから参じていた兄の
大庭景義は御家人に列し、
鎌倉幕府に仕えて長寿を全うしています。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
國村 隼(くにむら じゅん)さんが演じられます。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

石橋山の戦い~源頼朝旗揚げの地!300VS敵3000!大敗するも真鶴から安房へ逃れて再挙を図る。

三浦義澄~源頼朝を支えた宿老の一人で13人の合議制のメンバーで相模守護。三浦一族の栄枯盛衰。

渋谷氏長後居跡~河崎基家が館を構え、その子である河崎重家、さらに孫である渋谷重国が居住しました。

中村宗平~中村党の祖で源頼朝を支えてきた武士団で、鎌倉党とは大庭御厨を巡る対立がありました。

つつじ(辻殿)~源頼家の正室で「吾妻鏡」では公暁の生母、父は足助重長、祖父は源氏の勇者と名高い源為朝です。

しとどの窟(湯河原)・(真鶴)、隠れながら追手をかわして岩海岸から安房国へ船出しました。

富士塚城址~飯田五郎家義の居館跡で、石橋山の戦いで源頼朝を救った武将で渋谷重国の子です。

神明大神宮 (しんめいだいしんぐう)~懐嶋城址~大庭景義の館址

鶴嶺八幡宮~相模国茅ケ崎の総社~源頼義・義家、大庭景義~

大庭城址公園

柏山稲荷神社・厳島千人力弁天社~大庭景親創建、吉田将監の屋敷跡~

長尾城跡(大船)・鎌倉氏系長尾氏発祥の地、南北朝から戦国時代おいて長尾氏は上杉氏の家宰職でした。

土肥実平とその妻~武士団「中村党」の中心であり頼朝から厚い信頼を受けた宿老~小早川家の祖。

真田城~神奈川県平塚市にある真田の郷、真田與一義忠(佐奈田義忠)について。

梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。

上総広常~房総平氏の惣領家で源義朝の郎党~平家政権の打倒よりも関東の自立を目指し殺される

山内首藤経俊~源頼朝からは無益な者との評価でも母のお陰で地位は保全されました。

千葉常胤~桓武平氏の流れをくむ千葉氏の中興の祖~鎌倉幕府成立に大きく貢献した人物です。

山木判官平兼隆館跡~源氏再興の狼煙はここから始まりました。

比企尼~源頼朝の乳母~ずっと支え続けた偉大なゴッドマザーで鎌倉幕府創立の陰の功労者。

横山党館~八幡八雲神社(八王子)・横山党は武蔵七党の一つで関東最大勢力の武士団です。

更に下流にある大庭城址公園の東側にある引地川沿岸の公園です⇓⇓⇓
引地川親水公園散策~桜・藤・ツツジ~大庭城址や大庭景親、古道に吾妻鏡記述の地名など歴史がいっぱい!!

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