鎌倉殿の13人

比企掃部允~比企尼の夫、ナゾ多き人物で居住していた三門館跡にもナゾがあります。

三門館への道




【比企掃部允】

比企 掃部允
(ひき かもんのじょう、生没年未詳)は、
平安時代末期の貴族よりの武士です。
源頼朝の乳母・比企尼の夫で実名は不明です。
藤原秀郷の系譜とされ、
波多野氏の系図で
実名を遠宗とするものもあります。
官職は掃部允です。
娘に丹後局、河越尼、三女がいます。
所領は武蔵国比企郡
(現在の埼玉県比企郡と東松山市)でした。
源頼朝の伊豆配流に伴い、
武蔵国比企郡の郡司職となって
妻と共に都から領地に下向したとのことです。
「吾妻鏡」治承4年8月9日
(1180年8月31日)条に、
平家が比企掃部允と
北条時政が源頼朝を大将に立てて
謀反を企てていると警戒していた事が
記されているのことですが、
比企掃部允はこの時すでに
死去しているとのことです。

比企郡

比企氏の祖は波多野氏】
比企氏は藤原秀郷の末裔とされていますが、
比企氏の祖は波多野氏で、
波多野三郎遠光とされています。
波多野三郎遠光の父親は
波多野秀遠で鳥羽院の蔵人所衆に仕えており、
役職は刑部丞でした。
「千載和歌集」に藤原成親の名前で
歌を残す教養人でもありました。

波多野城址・秦野市

【波多野氏の祖は佐伯経範】
波多野秀遠の祖父は佐伯経範で
波多野氏の祖とされています。
佐伯経範は前九年の役で活躍し、
河内源氏の源頼義の家人として仕えていました。
佐伯経範の父親である佐伯経資が
源頼義の相模守補任に際して、
その目代となって相模国へ下向し、
波多野氏が起こったと考えられています。
佐伯経範の妻は藤原秀郷流藤原氏で、
のちに波多野氏は佐伯氏から
藤原氏に改め、藤原秀郷流を称しています。

【佐伯氏について】
佐伯氏(さえきうじ)は、
「佐伯」を氏の名とする氏族です。
中央伴造として佐伯部を率い、
宮門警備や武力勢力として朝廷に仕えました。
天孫降臨の時に彦火瓊々杵尊を先導した
天押日命(あめのおしひのみこと)を祖とし、
大伴室屋の時に大伴氏から分かれた
神別氏族であるとされています。

【佐伯部について】
佐伯部(さえきべ)は
古代日本における品部の1つです。
なお、品部とは古代日本の人的集団
及び組織のことです。
ヤマト王権の拡大過程において、
中部地方以東の東日本を平定する際、
捕虜となった現地の人々
(ヤマト王権側からは
「蝦夷・毛人」と呼ばれていた)を、
近畿地方以西の西日本に
移住させて編成した集団です。

「日本書紀」では、
日本武尊が東征で捕虜にした蝦夷を
初めは伊勢神宮に献じていましたが、
昼夜の別なく騒いで
神宮にも無礼を働く、ということで、
倭姫命によって朝廷に差し出され、
次にこれを三諸山(三輪山)の
山麓に住まわせたところ、
今度は大神神社に無礼を働き
里人を脅かすので、
「畿内に住むべからず」との
景行天皇の命がでたとのことです。
そして播磨・讃岐・伊予・
安芸・阿波の5ヶ国に送られ、
それぞれその祖になったとの
起源を伝えています。
また、猪名県(現在の吹田市から尼崎市)
の佐伯部の者が、
仁徳天皇が秘かに愛でていた鹿を
それとは知らずに狩って献上したため、
恨めしく思った天皇によって
安芸国渟田(ぬた)に移されたのが
「(安芸国)渟田の佐伯部」
であるとも伝えています。
(安芸・高木山城があった沼田(ぬた)荘かな?)





これらの伝承が史実か否かの
信ぴょう性の是非はともかくとして、
古墳時代の中頃(5~6世紀)には、
東国人の捕虜を上記5ヶ国に移住させ、
佐伯部として設定・編成したのは事実とのことです。
のちに「佐伯直」や「佐伯造」といった
在地の豪族が伴造としてこれを管掌し、
これら地方豪族が更に畿内の
中央豪族佐伯連
(後に宿祢に改賜姓された)
に管掌されたため、
佐伯部は間接的に
中央佐伯氏の部民とされ、
その中からは宮廷警衛の任務に
上番させられた者もいたと見られています。
なお空海は、讃岐の佐伯氏出身と
見られており、
安芸国の佐伯氏は後に
厳島神社の神主家となりました。

【部名の由来】
平安時代以来、
「叫ぶ」に由来するとされてきました。
「常陸国風土記」茨城郡条には、
土着民である
「山の佐伯、野の佐伯」が
王権に反抗したことが
記されており、
「障(さへ)ぎる者(き)」で、
朝廷の命に反抗する者の意味
との説があります。
更に景行天皇紀に「騒い」だとあり、
「大声を発して邪霊や
邪力を追いはらったり、
相手を威嚇するといった
呪術的儀礼に従事」するのが彼らの職掌であり、
佐伯部は「サハグ部」であるとの説があるそうです。
あるいは、聞きなれない言葉を話すので
「騒(さえ)ぐ」ように
聞こえたことに由来するとする説も
あるとのことです。

【波多野三郎遠光、比企郡へ】
康和2年(1100年)、
波多野三郎遠光は比企郡司として
京より下り、比企郡に住んだと云われています。
そして比企氏も名乗る様になったとのことです。

比企郡 泉福寺(遠景)

【波多野三郎遠光の孫が比企遠宗】
比企遠宗は波多野三郎遠光の孫となります。
早くから京に上がり、
源為義と源義朝に仕えたと言います。
やがて、源義朝と熱田神宮の大宮司である
藤原季範の娘との間に嫡男となる
源頼朝が生まれると
比企遠宗と比企尼の夫妻は
乳母夫に選ばれました。
その理由としては、
比企遠宗は誠実な人格者であったことと、
比企遠宗と比企尼の出自が、
藤原季範と同じ藤原氏であったこと、
とのことです。

比企尼も藤原氏の出であったのですね。





【比企氏は阿保朝臣人上が祖とする説】
阿保 人上(あぼ の ひとかみ)は、
奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。
氏姓は建部(または健部)公のち
建部朝臣、阿保朝臣。
武蔵少掾・建部牛養の子とする系図があります。
官位は正五位下・陰陽頭。
天応元年(781年)
勅旨少輔に昇格したのち、
翌天応2年(782年)武蔵介、
延暦5年(786年)、
武蔵守と桓武朝初頭は
武蔵国司を務め、
この間の延暦3年(784年)には
従五位上に叙せられると共に、
以下言上を行い
建部朝臣から阿保朝臣に
改姓を許されています。
その子の大国が武蔵に土着して
比企郡司大領の子の芳公、
以下は宗人、只上、中宗と続いて
歴代が比企郡ないし賀美郡の郡司をつとめ、
中宗は武蔵介源経基に従って
武蔵武芝を伐ったときに
軍功があったということです。
中宗以降も比企郡領を世襲しつつ
源家に仕え、その八世孫に
掃部允宗員がおり、
その子が掃部允遠宗とされています。
そしてこの妻が比企尼で、
藤四郎能員の養母とのことです。

【比企氏は一度断絶し猶子を迎えた?】
一方、以下の説もあります。
比企掃部允遠宗の父である
比企掃部允宗員が他家との
猶子関係が入ってきている
可能性があるとのことです。
何しろ比企掃部允宗員自身が
藤原秀郷流の
佐藤大夫清郷の猶子とも
実子との説があります。
更にその子におかれる
比企遠宗が実は
左馬允藤原有清(清郷の子)の子とも
いわれているとのことです。
となると比企尼の夫は婿殿・・となるのでしょうか?

【比企尼の兄】
比企遠宗が妻とした比企尼は、
藤原公員の妹であるという説があります。
従って藤原公員の子の能員を
養子に迎えたと伝えられていますが、
藤原公員は藤原秀郷流藤原季清
(西行法師の祖父)の曾孫ともいわれています。

比企能員は比企尼の姉妹の子?】
一方で比企能員は比企尼の姉妹の子であるとも
されている文献もあるのとのことです。

・・・まだまだ
調べなければならないことが沢山ありますね。

【掃部寮】

掃部寮(かもんりょう・かもんづかさ・
かんもりのつかさ)は、
律令制において宮内省に属する令外官です。
「倭名抄」ではかにもりのつかさとされています。
唐名は、守宮署。
掃部寮は宮中行事に際して設営を行い、ま
た殿中の清掃を行います。
そのため宮中の施設管理・維持を行う
主殿寮と職掌が重なるところがありました。
伴部の掃部が付属して
清掃・設営にあたっていました。
また大量の人員を必要とする官司に
配属される駆使丁が80人
配属され実務にあたっていました。





掃部寮は弘仁11年(820年)に
行政改革の一環として
職掌の同じ大蔵省掃部司と
宮内省内掃部司が統合されて成立しました。

【職員】
<頭>
(従五位下相当)
<助>
(従六位上相当)
<允>
(従七位上相当)
<属>
(大属:従八位下相当・少属:大初位上相当 )
●史生
●寮掌
●使部
●直丁
●駆使丁
●掃部

【三門館跡】

三門館(みかど-やかた)は、
埼玉県滑川町和泉にある丘城(屋敷跡)になります。
和泉にあることから、
和泉の陣城とも言い、
遺構として堀と土塁が残っていますが
築城年代は不明とのことです。
一般的に、三門館は、
比企遠宗と妻である比企尼が
武蔵国比企郡にて暮らした居館と言われています。

三門館へ続く道

【五所五郎丸】
なお、地元の伝承では、
五所五郎丸の居館だとされます。
御所氏(五所氏)は、
尾張・熱田神宮の代官を務めていました。
五所五郎丸(御所五郎丸)は、
源頼朝の近習になっており、
曾我兄弟の仇討ちの際に、
女装した状態で知られており、
曾我時致を捕縛しています。

【毛呂太郎季綱】
他に、三門館には、
鎌倉時代の武将である
毛呂太郎季綱が入っていたともされます。
毛呂季光の子が、
毛呂季綱(毛呂太郎季綱)になります。
毛呂季綱の父である毛呂季光は、
藤原季光とも言い、
源頼朝が伊豆にて
流罪となっていたときから、
助けたともあります。
その恩義を感じていた源頼朝は、
1193年2月10日、
毛呂季綱に対して、
武蔵国泉勝田(泉弥田)の領地を
与えたとあります。
この泉勝田(泉弥田)の場所が
ここ滑川町和泉と
嵐山町勝田だとされています。
比企氏が滅亡するのは、1203年で、
比企氏滅亡以前に、
比企氏の領地だったところを、
毛呂氏に与えるとは考えにくく、
そもそも比企能員が、黙っていないでしょう。
なお、毛呂山町内には
泉と伊与田(いよた)(旧名・弥田)が
ありますので、もしかしたらそちらかもしれません。
が、今となってはどちらとも言えないです。

よって三門館に関しては、
屋敷の有無については、
ありました、ということですが、
誰が住んでいたのかは、不明となっています。

【所在地】
〒355-0807 埼玉県比企郡滑川町和泉1237

【駐車場】
付近には一切ありません。

【公共交通機関】
路線バスは通っていない模様です。
最寄り駅:「小川町」駅
(東武鉄道の東上本線と、JR東日本の八高線)
徒歩:2時間強
「小川町」駅近くにある
小川町観光案内所よりレンタサイクルがある模様です。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

比企尼~源頼朝の乳母~ずっと支え続けた偉大なゴッドマザーで鎌倉幕府創立の陰の功労者。

比企朝宗~比企一族で源頼朝と朝廷に仕えており才色兼備である姫の前の父親です。

源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく

比企能員~源頼朝を支え有力御家人として権勢を握るも北条氏に嵌められ1日で滅ぶ。

比企能員の妻~渋河刑部丞兼忠の娘・「鎌倉殿の13人」では道、二つの渋河氏、比企氏と源氏の深い関係と安房国

1分でわかる姫の前~北条義時の正室、源頼朝お気に入りの女官で絶世の美女だが、比企一族の乱で離縁。

安楽寺(吉見観音)、比企三山の一つで源範頼が身を隠したと伝わる名刹です。

安芸高木山城について・沼田荘の開発領主であった沼田氏の居城であり、平家と共に壇ノ浦で滅びました。

河津三郎祐泰と血塚・伊東祐親の嫡男で曽我兄弟の父親であり曽我兄弟の仇討はここから始まりました。

満江(万劫)御前~曽我兄弟を含めて5人の子供のお母さんで狩野茂光の孫娘です。屋敷跡やお墓があります。

曾我城跡~曾我兄弟が育った曽我氏の館。北条氏康に滅ぼされたが嫡流は足利将軍や徳川家に仕え出世した。

関連記事

  1. 宗悟寺 比企一族顕彰碑 比企尼~源頼朝の乳母~ずっと支え続けた偉大なゴッドマザーで鎌倉幕…
  2. 報国寺 竹の庭 伊賀の方~北条義時の継室で7代執権の北条政村の生母、伊賀氏の変は…
  3. 報国寺 竹の庭 平賀義信~源氏御門葉及び御家人筆頭として権勢を誇る。平賀氏は2つ…
  4. 鶴岡八幡宮 源氏池 結城朝光~誇り高く抜け目ない政治力と巧みな弁舌で鎌倉幕府に重きを…
  5. 丹後局 供養塔(横浜市戸塚) 丹後局(丹後内侍)、源頼朝の妻妾で比企一族ともされています。供養…
  6. 大庭城址公園 芝生広場 大庭景親~坂東八平氏の鎌倉氏の一族~最期まで平家に忠誠を尽くした…
  7. 大見城跡 伊豆 大見城跡(伊豆)~鎌倉御家人の大見氏はやがて越後に行き、水原氏か…
  8. 音無神社 頼朝と八重姫 音無神社~源頼朝が八重姫との逢瀬を重ねた伝承の地~ひぐらしの森で…

コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

おすすめ記事

  1. 一乗谷館跡と朝倉氏~一乗谷朝倉氏遺跡・国の三重指定、103年間の栄華の跡 一乗谷 朝倉氏館跡

ピックアップ記事

  1. 稲毛神社 河崎氏館
  2. 小山田城址
  3. 月山富田城跡(山中御殿付近)
  4. 宇都宮城址
  5. 佐和山城下 庭園
PAGE TOP