鎌倉殿の13人

北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。

願成就院



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北条時政

北条時政(ほうじょうときまさ)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士でした。
北条氏の一門。
伊豆国の在地豪族の北条時家か
北条時方(もしくは時兼)の子です。
北条政子の父であり、鎌倉幕府の初代執権です。

家系は桓武平氏平直方流を称する北条氏であるが、
伊豆国の土豪出身という説もあります。

【生誕】
保延4年(1138年)

【死没】
建保3年1月6日(1215年2月6日)

【別名】
北条四郎

【墓所】
伊豆の国市寺家願成就院

北条時政公 墓所

【官位】
駿河・伊豆守護、従五位下・遠江守

【幕府】
鎌倉幕府十三人の合議制、京都守護、初代執権

【主君】
源頼朝、頼家、実朝

【氏族】
北条氏(自称・桓武平氏)

【父】
北条時方か時家、または時兼

【母】
伊豆掾伴為房の娘

【妻】
伊東祐親の娘
牧の方

【子】
宗時、政子、時子、
義時、阿波局、時房、政範、
畠山重忠室(後に畠山義純室)、
※畠山義純に嫁いだのは
畠山重忠と北条時政の娘との間に
生まれた女性説あり。

稲毛重成室、平賀朝雅室、三条実宣室、
宇都宮頼綱室、坊門忠清室、河野通信室、
大岡時親室

【北条氏の家系や系図】
北条氏は桓武平氏高望流の平直方の子孫と称し、
伊豆国田方郡北条
(静岡県伊豆の国市)を拠点とした
在地豪族です。
北条時政以前の系譜は系図により
全て異なっており、
桓武平氏の流れであることを
疑問や否定する研究者も少なくないそうです。
けれども祖父が北条時家、
父が時方(または時兼)という点は
諸系図でほぼ一致しています。
北条時家の「尊卑分脈」傍注には
「伊豆介」とあります。
「源平闘諍録」では北条時家が
「北条介の婿」と説明されていることや
北条氏の婚姻関係が
具体的に明らかになるのが
北条時家以降であることから、
北条時家を実在が確認できる
北条氏の祖とする説もあります。

【北条時政は傍流か?】
「吾妻鏡」は40歳を越えた北条時政に
「介」や都の官位等を付けず、
ただ「北条四郎」「当国の豪傑」とのみ記しています。
保有武力に関しても
石橋山の戦い源頼朝軍の構成を見る限り
突出した戦力を有していたとは考えにくく、
北条時政は北条氏の当主ではなく傍流であり、
国衙在庁から排除されていたのではないか?
とする見解があるとのことです。
最も河越太郎重頼(武蔵国留守所惣検校職)、
小山四郎政光(下野大掾)のように
国衙最有力在庁でも
太郎・四郎と表記される例があります。
また後年の護良親王令旨や
吉田定房の「吉口伝」のように
北条時政を在庁官人とする史料もあり、
北条時政が在庁官人でなかったとは
現在では断定することができません。

北条氏の本拠は国府のある三島や
狩野川流域に近接しており、
軍事・交通の要衝といえる位置にあります。
このため国衙と無関係とするのは
考えにくい、とする見解もあります。

【北条氏嫡流は北条時定?】
北条氏の嫡流であった可能性が高い
北条時定(北条時政の弟とも従弟ともされる)が
早くから京都に出仕しているため、
傍流の北条時政が在庁していたとも考えられています。




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【少なすぎる史料】
いずれにしても、北条時政の前半生
及び内乱以前の北条氏については
謎に包まれています。
ほぼ一代で天下第一の権力を
掌握したにもかかわらず、
兄弟や従兄弟が全く歴史に登場してきません。
また粛清された記録もありません。
弟或いは従弟とされており
北条氏嫡流の可能性があった
北条時定についても記録が乏しく、
嫡子に必要な母親の名前も出自も不明です。
・・・北条時政に不都合なことは
消されたのでしょうか?

不遇の死であったにもかかわらず、
得宗家以外にも名越、金沢、大仏などの名で
大きく枝葉を広げていく
北条一族はすべて北条時政一人の系統となります。

北条氏の館跡 解説板

【時政には身分コンプレックスがあった?】
源頼家が自分の祖父である北条時政に
呼び捨てで「時政!」と
言っていたエピソードがありますが、
上記の説を読むと納得してしまいます。
比企氏」の方が全然格上ですものね。
下っ端と見下されていた北条時政が
「今に見ていろ!」と持ち前の強い野心に
更なる火をつけてしまったような気もします。
そして源頼家は悲劇的かつ
壮絶な最期を迎える羽目になってしまいました・・。

北条時政には「身分コンプレックス」があったのでしょうか?

【源頼朝の舅として】
平治の乱で敗死した源義朝の嫡男である
源頼朝が伊豆国へ配流された事により
その監視役となりました。

継室である牧の方の実家は平頼盛の家人として
駿河国大岡牧を知行していました。
この婚姻時期については、
源頼朝が流刑する前とみる説と
頼朝挙兵後とみる説が存在しています。

やがて源頼朝と娘の政子が恋仲となります。
当初はこの交際に反対していた
北条時政でしたが、
やがては二人の婚姻を認めることとなり、
その結果として源頼朝の後援者となりました。

伊豆山神社 こころむすび

【迫りくる平氏方の追及の手】
治承4年(1180年)4月27日、
平氏打倒を促す以仁王の令旨が
伊豆の源頼朝に届きますが、
源頼朝は動かずしばらく事態を静観していました。
けれども源頼政の敗死に伴い、
伊豆の知行国主が平時忠に交代すると、
伊豆国衙の実権は伊東氏が掌握して
工藤氏や北条氏を圧迫しました。

さらに流刑者として伊豆に滞在していた
平時忠の元側近山木兼隆
伊豆国目代となり、
また源頼政の孫である源有綱は伊豆にいましたが、
この追捕のために
大庭景親が本領に下向するなど、
平氏方の追及の手が
いよいよ東国にも伸びてきました。
自分の身の危険が迫っていると
悟った源頼朝は挙兵を決意し、
安達盛長を使者として
源義朝の時代から縁故のある
坂東の各豪族に協力を呼びかけました。

【源頼朝、挙兵を前に】
北条時政は源頼朝と挙兵の計画を練り、
山木兼隆を攻撃目標に定めます。
挙兵を前に、源頼朝は
工藤茂光土肥実平、岡崎義実、
天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉らを
一人ずつ私室に呼び、
それぞれと密談を行い
「未だ口外せざるといえども、
ひとえに汝を頼むによって話す」と言い、
彼らに自分だけが
特に頼りにされていると思わせ奮起させます。
が、「真実の密事」については北条時政のみが
知っていたと「吾妻鏡」には記されています。
(治承4年8月6日条)。

【山木館襲撃と伊豆国国衙の掌握】
8月17日、
源頼朝軍は伊豆国目代山木兼隆を襲撃して討ち取りました。
この襲撃は北条時政の館が拠点となり、
山木館襲撃には北条時政自身も加わっていました。
この襲撃の後、源頼朝は伊豆国国衙を掌握しました。

山木館跡 表示

【石橋山の戦い】
その後、源頼朝は三浦氏との合流を図り、
8月20日、伊豆を出て土肥実平の所領である
相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)まで進出しました。
北条時政父子もほかの伊豆国武士らと共に
源頼朝に従軍しています。
けれどもしかしその前に平氏方の
大庭景親ら3000余騎が立ち塞がりました。
23日、大庭景親は夜戦を仕掛け、
源頼朝軍は大敗して四散してしまいました。

【嫡男・北条時宗の死】
この時、北条時政の嫡男である北条宗時
大庭方の伊東祐親の軍勢に囲まれて
討ち死にしています。
源頼朝、土肥実平らは
箱根権現社別当行実に匿われた後に
箱根山から真鶴半島へ逃れ、
28日、真鶴岬(神奈川県真鶴町)から
出航して安房国に脱出しています。




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【甲斐源氏との合流】
北条時政はそこまでの途中経過は
文献によって異なりますが、
源頼朝とは一旦離れ、
甲斐国に赴き同地で挙兵した武田信義
甲斐源氏と合流することになったとのことです。
ですが、
「延慶本平家物語」では、
「時政は敗戦後に頼朝とはぐれて
そのまま甲斐に逃れた」
「頼朝は時政の生死を知らずに、
土屋宗遠(土肥実平の弟)を
甲斐に使者として送った」という記述があり、
「吾妻鏡』の記述と異なっています。
このことから北条時政は単純に
甲斐に亡命していただけ、という解釈もあるとのことです。

【鉢田の戦い】
10月13日、
甲斐源氏は北条時政と共に駿河に進攻します。

【富士川の戦い】
房総・武蔵を制圧して
勢力を盛り返した源頼朝軍も黄瀬川に到達。
源頼朝と甲斐源氏の大軍を見た平氏軍からは
脱落者が相次ぎ、
目立った交戦もないまま
平氏軍は敗走していったそうです。

【鎌倉へ】
その後、佐竹氏征伐を経て
鎌倉に戻った源頼朝は、
12月12日、
新造の大倉亭に移徙の儀を行い、
北条時政も他の御家人と共に列しています。

亀の前事件】
治承4年(1180)末以降、
北条時政の動向は鎌倉政権下において
他の有力御家人の
比重が高まったこともあり
目立たなくなりました。
寿永元年(1182年)、
源頼朝は愛妾である亀の前を
伏見広綱の宅に置いて寵愛していましたが、
源頼家出産後にこの事を
継母である牧の方から知らされた北条政子は激怒。
11月10日、牧の方の父、もしくは兄である
牧宗親に命じて伏見広綱宅を
破壊するという事件が起きました。

12日、怒った源頼朝は牧宗親を呼び出して叱責し、
牧宗親の髻を切って辱めます。
これを知った北条時政は舅の牧宗親への仕打ちに怒り、
一族を率いて伊豆へ立ち退いてしまいます。

この騒動の顛末がどうなったかは、
「吾妻鏡」の寿永2年(1183年)が
欠文のため追うことができません。
元暦元年(1184年)も北条時政は、
3月に土佐に書状を出したことが知られる程度で
ほとんど表に出てこなくなります。

【北条時政、駿河守護へ】
この年は甲斐源氏主流の
武田信義が失脚していますが、
武田信義の後の駿河守護は
北条時政と見られています。
駿河には牧氏の所領・大岡牧に加え、
娘婿である阿野全成の名字の地である
阿野荘もあり、縁戚の所領を足掛かりに
空白地帯となった駿河への進出を
図っていたと考えられています。

【後白河院の状況】
文治元年(1185年)3月の平氏滅亡で
5年近くに及んだ治承・寿永の乱は終結しました。
けれども10月になると
源義経及び源行家の源頼朝に対する
謀叛が露顕します。
10月18日、
後白河院(後白河法皇・天皇)は
源義経の要請により
源頼朝追討宣旨を下しますが、
翌月の源義経没落で
苦しい状況に追い込まれました。




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【文治の勅許】
11月24日、源頼朝の命を受けた北条時政は
千騎の兵を率いて入京し、
源頼朝の憤怒を院に告げて交渉に入ったとのことです。
28日に北条時政は吉田経房を通じて
源義経らの追捕のためとして
「守護・地頭の設置」を認めさせる事に
成功したのでした。

【京都守護へ】
北条時政の任務は京都の治安維持、
平氏残党の捜索、源義経問題の処理、
朝廷との政治折衝など多岐に渡ったとのことです。
その職務はやがて京都守護と呼ばれるようになりました。
在京中の北条時政は、郡盗を検非違使庁に渡さず
処刑するなど強権的な面も見られたそうですが、
その施策は「事において賢直、
貴賎の美談するところなり」、
「公平を思い私を忘るるが故なり」と
概ね好評だったそうです。
けれども3月1日になると、
北条時政は「七ヶ国地頭」を辞任して
惣追捕使の地位のみを
保持するつもりでいることを
後白河院に院奏しました。

【七ヶ国地頭とは?】
「七ヶ国地頭」の設置対象地域は
畿内近国と推定されていますが詳細は不明で、
惣追捕使との関係も明瞭ではありません。
現在ではこの「七ヶ国地頭」は
鎌倉時代に一般的だった
大犯三ヶ条を職務とする
守護、荘園・公領に
設置された地頭ではなく、
段別五升の兵粮米の徴収・
田地の知行権・国内武士の動員権など
強大な権限を持つ「国地頭」であり、
守護の前段階とする説が有力となっているそうです。

【惣追捕使を望んだ理由は?】
「国地頭」のデメリットは、
強大な権限を持つ反面、
荘園領主である貴族・寺社との紛争処理や
国衙行政の監督、後白河院からの要望など、
対応しなければならない諸問題も多く、
北条時政は源義経と源行家の捜索に
専念したい思惑から
軍事・検断関係を職務とする
惣追捕使となることを
望んだのではないかとする考えがあるそうです。

【鎌倉への帰還】
その月の終わりに一族の北条時定以下35名を
洛中警衛に残して北条時政は離京しました。
後任の京都守護には一条能保が就任したとのことです。
北条時政の在任期間は4ヶ月間と短いものでした。
がその間には、源義経失脚後の混乱を収拾して
幕府の畿内軍事体制を再構築し、
後任に引き継ぐ役割を果たしたとのことです。

鶴岡八幡宮 源平池

鎌倉に帰還した北条時政は京都とは打って変わって
表立った活動を見せなくなります。
文治5年(1189年)6月6日、
奥州征伐の戦勝祈願のため
北条の地に願成就院を建立しますが、
寺に残る運慶作の諸仏は
その3年前の文治2年(1186年)から
造り始められており、
本拠地である伊豆の掌握に
力を入れていたと見られています。




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【願成就院】
「願成就院(がんじょうじゅいん)」。
1189年に北条時政が建立しました。
大御堂にある仏像は
鎌倉時代の仏師である運慶によって
作られた数少ない真作で、国宝に指定されています。
拝観料はかかりますが貴重な仏像が
ガラスや網などに遮られることなく、
目の前で見ることができます。
撮影はできません。
境内には、北条時政の墓や、
足利茶々丸の墓があります。

願成就院 門

伊豆の国市公式サイトより⇓
頼朝・北条の里と花のお寺めぐりマップが完成しました。

<奥州征伐の戦勝祈願のため建立>
願成就院 奥州征伐の為

【富士の巻狩り】
建久4年(1193年)3月、
後白河院の崩御から
1年が過ぎて殺生禁断が解けると、
源頼朝は下野国・那須野、
次いで信濃国・三原野で御家人を召集して
大規模な巻狩りを催しました。
これは奥州合戦以来となる
大規模な動員であり、
軍事演習に加えて
関東周辺地域に対する示威行動の狙いも
あったと見られています。
5月から巻狩りの場は富士方面に移り、
駿河守護である北条時政が狩場や宿所を設営しました。

<巻狩り>
遊興や神事祭礼や軍事訓練のために
行われた狩競(かりくら)の一種です。
鹿や猪などが生息する狩場を
多人数で四方から取り囲み、
囲いを縮めながら
獲物を追いつめて射止める
大規模な狩猟のことです。
「巻狩」とも表記します。

曽我兄弟の仇討】
けれども5月28日の夜、雷雨の中で、
曾我祐成と曾我時致の兄弟が
父の仇である工藤祐経を襲撃して
討ち取るという事件が勃発します。
混乱の中で多くの武士が殺傷され、
兄の曾我祐成は仁田忠常に討たれ、
弟の曾我時致は源頼朝の宿所に
突進しようとして生け捕られました。

曾我兄弟の仇討の黒幕は?】
これは曾我時致の
烏帽子親が方丈時政であることから、
実は北条時政こそが
事件の黒幕とする説もありますが、
真相は今だ不明のままとなっています。
伊豆の有力者だった工藤祐経の横死は
北条時政には有利に働いたようです。
・・となると・・・??

【十三人の合議制として】
建久5年(1194年)11月1日、
伊豆国一宮である
三島神社の神事経営を初めて沙汰しています。
なお、この年の8月には長年に亘って
遠江国を実効支配していた
安田義定が反逆の疑いで処刑されています。
そして安田義定の後の遠江守護は
北条時政と見られています。
伊豆・駿河・遠江3ヶ国に
強固な足場を築いた北条時政は、
正治元年(1199年)に
源頼朝が死去すると
十三人の合議制に名を連ね、
幕府の有力者として姿を現すことになるのです。

梶原景時の変】
源頼朝の死後は嫡男である
源頼家が跡を継ぎました。
けれども源頼朝在世中に抑えられていた
有力御家人の不満が噴出し、
御家人統制に辣腕を振るっていた
侍所別当である梶原景時
弾劾を受けて失脚し、
12月に鎌倉から追放されてしまいます。
「玉葉」(正治2年正月2日条)によりますと、
梶原景時は、源頼家の弟である
源実朝を将軍に立てようとする
陰謀があると源頼家に報告し、
他の武士たちと対決しましたが
言い負かされ、
一族とともに追放されてしまったということです。

【梶原景時失脚の関与説】
北条時政は弾劾の連判状に署名をしていませんが、
梶原景時糾弾のきっかけとなったのは
北条時政の娘である阿波局であり、
梶原景時一族が討滅された
駿河国清見関は
北条時政の勢力圏であることから
梶原景時失脚に関与していた
可能性が高いとされています。




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【御家人として初の国司】
正治2年(1200年)4月1日、
北条時政は遠江守に任じられ、
源氏一門以外で御家人として
初めて守としての国司となりました。

【比企氏との対立】
北条時政の幕府内における地位は
大いに向上しましたが、
将軍家外戚の地位は
北条氏から源頼家の乳母父で
舅である比企能員に移り、
北条時政と比企氏の対立が
激しくなっていきます。

【比企能員の変】
建仁3年(1203年)7月に
源頼家が病に倒れると、
9月2日に
北条時政は比企能員を自邸に呼び出して謀殺し、
源頼家の嫡子である一幡の邸である小御所に
軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼします。
次いで源頼家の将軍位を廃して
伊豆国修善寺へ追放したのでした。

【鎌倉幕府の実権の掌握】
北条時政は源頼家の弟で
阿波局が乳母を務めた12歳の源実朝
3代将軍に擁立し、自邸の名越亭に迎えて実権を握ります。
9月16日には幼い源実朝に代わって
北条時政が単独で署名する
「関東下知状」という文書が発給され、
御家人たちの所領安堵以下の政務を行いました。
10月9日には大江広元と並んで
政所別当に就任しました。

【初代執権として】
この時期の北条時政は鎌倉殿である
源実朝はもちろん、
同じ政所別当である大江広元の権限を抑えて
幕府における専制を確立していました。

建仁3年(1203年)に
北条時政が初代執権に就いたとされるのは、
こうした政治的状況を示すものと
考えられています。
また、源頼朝在世中の北条時政は
表向きは地味な存在であり、
有力幕臣として頭角を現したのは
十三人合議制あたりからとなります。
ただ、その間に領土的な地盤は拡充されています。
かつて旗揚げ時にも
僅かな兵しか動かせなかった小豪族であった北条家は、
三浦や畠山といった大族に
対抗し得るだけの軍事力をも
蔵するようになってきていたのでした。

願成就院 境内

【武蔵国の国務も代行】
北条時政が政所別当に就任した同日、
北条時政と牧の方との間に生まれた
長女の婿で武蔵守である平賀朝雅が
京都守護の職務のため鎌倉を離れました。
武蔵国の国務は
岳父の北条時政が代行することになり、
侍所別当・和田義盛の奉行により
武蔵国御家人に対し、
北条時政に忠誠を尽くす旨が命じられています。
11月には比企能員の変において
逃げ延びた一幡が捕らえられ、
北条時政の子である北条義時の手勢に殺されました。
なお、一幡は比企一族と共に
焼死したとも伝えられています。

【北条義時が相模国守護になる】
元久元年(1204年)3月6日には
北条義時が相模守に任じられ、
北条氏は父子で幕府の枢要国である
武蔵・相模の国務を掌握したのでした。

【源頼家の死に関与】
同年7月18日、
前将軍であった源頼家が伊豆国修禅寺で死去。
源頼家は北条義時の送った手勢により
入浴中を襲撃されて暗殺されたとの史料があります。

修禅寺

【時政と牧の方の男子の死】
11月5日、源実朝が坊門信子を
正室に迎えるための使者として
上洛した嫡男の北条政範が、
京で病にかかり16歳で急死しました。
北条時政と牧の方の鍾愛の子であり
牧の方所生唯一の男子であった
北条政範の死が、
畠山重忠の乱から
牧氏事件へと続く一族内紛の
きっかけとなっていくのでした。

【畠山重忠の乱】
北条時政による武蔵支配の強化は、
武蔵国留守所惣検校職として
国内武士団を統率する立場にあった
畠山重忠との間に
軋轢を生じさせることになったのでした。
畠山重忠は北条時政の娘婿でしたが、
元久2年(1205年)6月、
北条時政は娘婿である平
賀朝雅・稲毛重成の讒訴を受けて、
邪魔になった
畠山重忠を事実無根である謀反の罪で滅ぼしたのでした。




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【源実朝の暗殺計画】
閏7月、北条時政は牧の方と共謀して
やはり邪魔になった
将軍の源実朝を殺害し、
牧の方との間にできた
娘婿の平賀朝雅を新将軍として
擁立しようと画策しました。

【牧氏事件】
けれども閏7月19日に
北条政子と北条義時らは結城朝光や三浦義村
長沼宗政らを遣わして、
北条時政邸にいた源実朝を
北条義時邸に迎え入れました。
この時、それまで北条時政側についていた
御家人の大半も北条義時に味方したため、
陰謀は完全に失敗に終わりました。
なお、北条時政本人は
自らの外孫である源実朝殺害には消極的で、
その殺害に積極的だったのは
牧の方であったとする見解があります。

幕府内で完全に孤立無援になった北条時政は
同日に出家し、
翌日には鎌倉から追放され
伊豆国の北条へ
隠居させられることになったのでした。

【牧氏事件と北条時政の関与度】
この牧氏事件に関しては
「六代勝事記」では北条時政が
陰謀の計画を企てた、
「北条九代記」では北条時政の謀計、
「保暦間記」では北条時政と牧の方による
源実朝殺害が成功直前だったとしています。

畠山重忠殺害に関して
反対の立場であった北条義時は
北条時政との対立を深めており、
北条時政と政子及び北条義時らの
政治的対立も背景にあったと
推測されています。
なお、畠山重忠の乱後に
畠山重忠の無罪が明らかになると、
北条時政派であった稲毛重成、
榛谷重朝(稲葉重成の弟)が
三浦義村に誅殺されています。

【政治生命及び人生の終焉】
そして出家した北条時政は
二度と表舞台に立つことなく
政治生命を終えたのでした。

建保3年(1215年)1月6日、
腫瘍のため北条の地で死去しました。
享年は78歳でした。

北条時政 墓所 願成就院

【子孫からの評判は存在否定される程】
北条時政が流人だった
源頼朝に賭けて
平氏政権に反旗を翻したことは、
時勢を察知しうる優れた
先見性があったからであると評価されています。
名もない東国の一豪族に過ぎなかった
北条氏を一代で鎌倉幕府の権力者に
押し上げた北条時政でしたが、
その一方では
畠山重忠謀殺や源実朝暗殺未遂で
晩節を汚したためか、
子孫からは初代を北条義時として
祭祀から外されるなど、
あまり評判は良くありませんでした。

【孫の北条泰時
北条時政の孫で第3代執権であった
北条泰時は清廉で知られ、
源頼朝・北条政子・北条義時らを
幕府の祖廟として事あるごとに参詣して
歳末の年中行事も欠かすことはなかったそうです。
けれども祖父である北条時政だけは。
牧氏事件で源実朝を殺害しようとした
謀反人であるとして
仏事を行うことなく、
存在を否定していきたとのことです。

常楽寺 説明板

【北条時政の子】
【生母:伊東入道の娘(もしくは妹)】
男子:北条宗時
女子:阿波局(阿野全成妻)
男子:北条義時

【生母:牧の方】
女子:平賀朝雅および源国通妻
女子:滋野井実宣妻
女子:宇都宮頼綱妻
男子:北条政範

【生母不明】
女子:政子(源頼朝妻)
女子:時子(足利義兼妻/母は政子母と同一)
女子:稲毛女房(稲毛重成妻・子に綾小路師季妻)
女子:畠山重忠(子:畠山重保)および足利義純妻
男子:北条時房
女子:坊門忠清妻
女子:河野通信妻
女子:大岡時親妻

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
坂東彌十郎(ばんどう やじゅうろう)さんが
演じられます。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

平賀義信~源氏御門葉及び御家人筆頭として権勢を誇る。平賀氏は2つの系統があります。

牧の方~北条時政を操り?陰謀を巡らせジャマな将軍や御家人たちを消したヤバすぎる人

平賀朝雅~源氏門葉の一族で妻は北条時政と牧の方の娘、故に権力争いの渦中に巻き込まれていきます。

後白河院(後白河院天皇)(後白河法皇)「治天の君」の地位を保持した「日本一の大天狗」の異名をとる人物。

牧宗親~北条時政の継室である牧の方の兄(もしくは父)、源頼朝と北条時政に仕えており板挟みでツライよ?

八田知家~小田氏の始祖であり十三人の合議制の一人で源氏4代に仕えた人物です。

北条氏邸跡(円成寺跡)~北条氏の本拠地で鎌倉幕府滅亡後は尼寺として一族の冥福と鎮魂を祈った地

山木判官平兼隆館跡~源氏再興の狼煙はここから始まりました。

堤信遠~山木兼隆の後見人で伊豆の権守、源氏が平家を征する最初に放った矢となりました。

石橋山の戦い~源頼朝旗揚げの地!300VS敵3000!大敗するも真鶴から安房へ逃れて再挙を図る。

北条宗時~北条時政の嫡男であったが石橋山の戦いで散る~異説有り。

北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。

北条時子~足利義兼の正室で北条政子の同母妹、身の潔白の為に自害。お腹が膨れた原因は寄生虫の可能性あり。

北条義時~鎌倉幕府2代執権~冷酷無情・現実を客観視して行動できる理想家なのか?

北条時房~初代連署で六波羅探題南方、北条義時の弟で甥の北条泰時とは最高の相棒であり好敵手でした。

阿波局(北条時政の娘)~梶原一族滅亡の火付け役?夫は源頼朝の弟で源実朝の乳母だが姉同様に我が子を失う

源頼家~悲劇の2代目~北条VS比企、時々朝廷、そして東国武士の権力闘争が渦巻く時期。

阿野全成~源頼朝の異母弟で源義経の同母兄~妻の実家側について甥の源頼家とやがて対立する。

源実朝~3代将軍にて天才歌人~繊細で思慮深く秘めた志あり、やがて雪の中に散っていく。

つつじ(辻殿)~源頼家の正室で「吾妻鏡」では公暁の生母、父は足助重長、祖父は源氏の勇者と名高い源為朝です。

足利義兼~足利宗家2代目で足利尊氏のご先祖様さま、源頼朝の門葉で妻は北条時子で足利公方邸を構えました。

天野遠景~工藤氏の一族で天野氏の祖~初代の鎮西奉行に就任。子孫が各地で根付き繁栄します。

北条泰時~道理の人~北条執権政治の中興の祖で御成敗式目を制定した。

梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。

三浦義澄~源頼朝を支えた宿老の一人で13人の合議制のメンバーで相模守護。三浦一族の栄枯盛衰。

三浦胤義~三浦義村の弟で妻は源頼家の側室、承久の乱では京方として三浦一族と激闘の末、自害します。

比企尼~源頼朝の乳母~ずっと支え続けた偉大なゴッドマザーで鎌倉幕府創立の陰の功労者。

比企能員~源頼朝を支え有力御家人として権勢を握るも北条氏に嵌められ1日で滅ぶ。

比企能員の妻~渋河刑部丞兼忠の娘・「鎌倉殿の13人」では道、二つの渋河氏、比企氏と源氏の深い関係と安房国

畠山重保~畠山重忠の嫡男「六郎さま」・訳も知らぬまま謀反の疑いをかけられあえなく散る。

菅谷館跡と鶴ヶ峰・二俣川の古戦場散策~畠山重忠公の足跡を訪ねて。

稲毛重成と枡形城~秩父一族で畠山重忠とは従兄弟、相模川の橋を架橋したと伝わる人物です。

大江広元~四男の毛利季光は毛利氏の祖となりやがて戦国大名の毛利氏へと続きます。

中原親能~朝廷と幕府の交渉役のエキスパート~実務官吏でありながら戦にも従軍する

足立遠元~十三人の合議制のメンバー、平治の乱で活躍し、東国武士ながらも文官の素養を持つ人物でした。

三浦義村~鎌倉幕府の創設期から執権政治の確立まで仕え権謀術数に優れた策略家

亀の前~頼朝が流人時代から寵愛していた女性~そして政子の諸事情について

武田信義~甲斐源氏であり武田氏の初代当主となり、武田信玄の遠いご先祖様です。

土肥実平とその妻~武士団「中村党」の中心であり頼朝から厚い信頼を受けた宿老~小早川家の祖。

大乗院~土屋氏屋敷跡、土屋宗遠を祖とする土屋氏は北条氏・足利氏・武田氏・北条氏政・徳川家に仕えました。

伊東佑親~源頼朝の配流地の監視役で八重姫の父であり、北条義時・曽我兄弟・三浦義村の祖父。

曽我兄弟の縁の地・富士宮市~井出の代官屋敷・曽我八幡宮・曽我兄弟の供養塔・曽我の隠れ岩・音止の滝 

曽我兄弟の縁の場所(富士市)~化粧坂少将(姫宮神社)・曽我寺・曽我八幡宮・五郎の首洗い井戸

加藤景廉~頼朝挙兵以来の側近で承久の乱まで生き残る。長男は遠山氏の祖で有名となった子孫あり!

安達盛長~源頼朝を流人時代から支え続け厚い信頼を得た人物。

源義経~戦略家且つ戦術家であった若き天才~その悲運な生き様はやがて伝説となった。

天野政景、承久の乱で活躍し、遠江・武蔵・安芸国・信濃国等の各地に多くの所領を得ます。

曾我城跡~曾我兄弟が育った曽我氏の館。北条氏康に滅ぼされたが嫡流は足利将軍や徳川家に仕え出世した。

中村宗平~中村党の祖で源頼朝を支えてきた武士団で、鎌倉党とは大庭御厨を巡る対立がありました。

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