鎌倉殿の13人

中村宗平~中村党の祖で源頼朝を支えてきた武士団で、鎌倉党とは大庭御厨を巡る対立がありました。

五所八幡宮(中村荘司御殿跡付近)



スポンサーリンク



【伝中村氏居館跡】

中村宗平の本領は中村川に沿った中井町から
小田原市東部にかけての一帯であったと伝わります。
しかしながら館があった
正確な位置は現在の処、
確定はしていません。
代表的な場所は小田原市小竹の
「殿ノ窪」と呼ばれる一帯です。
この一帯の奥にある東向きに開けた
山裾に残る数基の五輪塔が
一族の墓所と伝わっています。

伝・中村氏居館跡(殿ノ窪)

【所在地】: 〒256-0802 神奈川県小田原市小竹

【中村荘司御殿跡付近】
五所八幡宮の南側は地元では
「荘司御殿」と呼ばれているとの事です。
五所八幡宮の石段上から見下ろした地域一帯です。

中村荘司御殿跡

五所八幡宮は中村党の守護神社で
源頼朝の祈願所の一つでもありました。
創建は保元2年(1157年)です。
なお五所宮の由来は
欽明天皇の御代豊前国(大分県)宇佐に
初めて八幡宮の勧請有りしより、
八幡宮の勧請が5番目とされる
からであるということです。

◆一:宇佐(宇佐神宮)、
◆二:男山(京都石清水八幡宮)、
◆三:鎌倉(鶴岡八幡宮)、
◆四:河内(大阪壷井八幡宮)、
◆五:当社(五所八幡宮)

【五所八幡宮・所在地】
神奈川県足柄上郡中井町遠藤104

【交通アクセス】
<電車・バス>
JR東日本「二宮」駅南口より
神奈川中央交通バス「中井町役場入口行」行き
(二30)(二32)「五所の宮バス停」下車すぐ。

<車>
西湘バイパス橘IC(上りのみ)約10分、
または西湘二宮ICより 約15分

<駐車スペース>
五所八幡宮の石段脇にある坂道を上がった処。

【五所八幡宮・祭事】
4月29日には例大祭(神幸祭)が行われます。
この例大祭で演じられる「鷺の舞」は
日本全国に3例しかないとされ、
昭和52年(1977年)に
「かながわの民俗芸能50選」及び
中井町の文化財指定を受けています(指定第1号)。

【中村氏】

中村氏(なかむらし)は、日本の氏族のひとつです。
坂東平氏の一つで、
相模国西部に勢力を持ち、
源頼朝挙兵時にその軍の中核をなしました。

中村氏は平良文の子である忠頼の次男、
山辺禅師頼尊を祖とすると伝わっています。
上総国山辺郡に住み、山伏であったそうです。
山辺禅師頼尊は剛力で知られ、
俗に悪禅師と呼ばれていたとのことです。
山辺禅師頼尊の子である常(恒)遠は
武蔵国押領使、
その子・常宗(太郎)は
相模国笠間村(横浜市栄区笠間)に移り住み、
笠間押領使と称されました。
そしてその子である中村宗平が
相模国中村郷
(神奈川県小田原市東端部~
足柄上郡中井町西部)に住んで中村を称し、
中村庄の荘官となって中村庄司を号し、
初めて中村の名字を名乗ったとされています。

【中村党の勢力拡大】
中村宗平は相模国余綾郡中村荘
にちなんで中村荘司と称しました。
中村氏の実質的な始まりですが、
一族も発展することとなります。
そうして中村党が形成されました。
本宗である中村氏は嫡男が
病弱で早世したこともあり
あまり振るわなかったようです。
中村宗平は中村荘を嫡孫の中村景平に継承させ、
土肥実平・土屋宗平・二宮友平ら息子たちを
相模国西部一帯に扶植し平安時代末期には
現在の平塚・早川から
湯河原(真名鶴・土肥・箱根)までを
支配下に収めていました。
そして次第に土肥・土屋一族が
その中核を占めるようになります。
ちなみに早川荘の荘園領主は藤原摂関家、
ニ宮の河匂荘は八条院です。




スポンサーリンク



<中村氏・人物>
中村宗平: 中村荘司
中村重平: 中村次郎?中村太郎?
中村景平:(?~1180年?)・ 中村太郎
中村盛平:(?~1180年?)・ 中村次郎
摩々局:
源義朝の乳母とされています。
所領が早川庄内であることから、
中村氏出身と見られています。

【中村宗平】

平安末・鎌倉初期の武士です。
相模国(神奈川県)出身。
中村荘の荘官で、
相模国国衙にもかかわりを持っていました。
天養元年(1144年)、
源義朝の家人として
大庭御厨乱入事件に加わっています。
治承4年(1180年)の源頼朝挙兵には、
西相模最大の武士団の長として
子の土肥実平らを遣わし、
源頼朝の政権樹立に大きく貢献しました。

治承4年(1180年)10月、
再挙した源頼朝が相模国府に入るにあたり、
源頼朝の逗留する館の修理を命ぜらました。
さらに文治2年(1186年)、
相模国内有力百姓への人別1斗の白米給与を、
三浦義澄とともに挙行しています。
このことから中村宗平が
三浦義澄と同様に相模国の
国衙の有力な在庁官人であったことを
示しています。
中村宗平の長男の中村重平は
中村荘を相伝して中村太郎と称しました。
次男の土肥実平は土肥郷、
三男の土屋宗遠は土屋、
四男の二宮友平は二宮河勾荘、
五男の頼平は中村荘に
北接する堺を分領して
おのおのの名字の地として
独立発展したのでした。

また、中村宗平の娘である桂御前は、
同じく相模国の豪族である
三浦党の岡崎義実に嫁ぎ、
真田与一義忠と土屋義清兄弟をもうけています。
この内、義忠は真田(佐奈田)氏を称していますが、
弟の土屋義清は母方の叔父である
土屋宗遠の養子となり、土屋氏を称しています。

大乗院 境内

もう一人の中村宗平の娘である満江御前は
伊豆国の伊東祐親に嫁いでいますが、
諸系図を見ると中村党と伊東(久須見)一族とは
密接に婚姻関係を結んでいたことがわかります。

伊東祐親公の像

中村宗平の娘と伊東祐親の間には、
河津祐泰、伊東祐清、八重姫
万劫御前らが生まれました。
万劫御前は最初は工藤祐経の妻でしたが、
後に土肥遠平と再婚しています。
なお土肥遠平の娘は、
工藤祐経の子である伊東祐時に嫁いでいます。
河津祐泰は曾我兄弟の父ですが、
河津祐泰の妻である満江御前は
最初は源仲成に嫁ぎ、
最初の夫との間に出来た娘は
二宮友平の息子である
二宮友忠に嫁いでいます。

花月院知足寺

石橋山の戦いと中村党(土肥・土屋の一族)】
治承4年(1180年)に起きた
石橋山の戦いは源頼朝勢の大敗に終わり、
多くの中村党の人物が討死しました。
真田(佐奈田)義忠の戦死は有名ですが、
土屋宗遠の嫡子である
土屋忠光も討ち死にしており、
中村重平の子供である
中村景平・中村盛平兄弟も
後に記録に見えないことから、
この時に討死にした可能性が
高いと見られています。
北条時政の長男である北条宗時
討死にしています。
彼は中村宗平の曾孫となります。

狩野茂光・北条宗時の墓 説明板

和田合戦と中村党(土肥・土屋の一族)】
源頼朝が再起しますと、中村党もこれに従い、
平家追討、奥州合戦に参加し、
鎌倉幕府樹立に功を立てています。
なお、このころまでに中村氏の本宗は絶え、
土肥・土屋一族が中枢を担うようになります。
中村党とは「土肥・土屋の一族」となります。
実際には土屋氏が中村氏の面倒を
いろいろと見ていたのでした。




スポンサーリンク



建保元年(1213年)に起きた和田合戦には、
土肥・土屋・岡崎一族は和田方に加わり、
多数の者や嫡子などが討ち死にし、
土肥・土屋・岡崎一族は
壊滅に近い状態になってしまいます。

和田塚(鎌倉市)

その後、かろうじて生き残った一族は、
甲斐、越中、安芸などの豪族として
発展していくことになったとのことです。
また室町時代まで残った一族もありました。
けれども室町時代の、応永23年(1416年)、
上杉禅秀の乱にて、上杉禅秀側につき、
残った一族の多くが亡くなったり、
所領を追われる事となったのでした。

【大庭御厨】

大庭御厨(おおばみくりや)は、
相模国高座郡の南部
(現在の茅ヶ崎市、藤沢市)にあった、
寄進型荘園の一つです。
鎌倉時代末期には13の郷が存在した
相模国最大の御厨(伊勢神宮領)です。

【鎌倉・大庭党】
鎌倉・大庭党の成立は、
平良文の子孫である忠通が源頼光、源頼国に仕え、
岡郷(現在の藤沢市村岡)を本拠にして
村岡五郎を名乗りました。
そして村岡五郎忠通の三男である景成の子である
鎌倉権五郎景正が長治年間(1104年~1106年)に
大庭郷を中心に相模国高座郡の南部を開拓したのでした。

大庭城址公園 芝生広場

【大庭御厨の成立】
そして伊勢恒吉の斡旋で
永久5年(1117年)に伊勢神宮に寄進しました。
鎌倉景正は後三年の役(1083年⇒1087年)
の勇者として名をはせた武将です。
大庭御厨の境界は、東は俣野川(藤沢市の境川)、
西は神郷(寒川)、南は海、北は大牧崎でした。
田地の面積は、久安元年(1145年)で95町、
鎌倉時代末期には150町に達したとのことです。

大庭の「大庭」「庭」も祭司の場を
意味するとのことです。
現在も藤沢市西部に大庭の地名が残っています。
御厨は天皇家や伊勢神宮、
下鴨神社の領地を意味しています。

【官省符荘への昇格】
大庭御厨は国司免判によって
成立した国免荘だったため、
常に収公・停廃の危険性があったのでした。
実際に国司による特権の取り消しは
再三行われており、
寄進した翌年の元永元年(1118年)、
大治6年(1131年)、
天承2年(1132年)に
特権を再付与(奉免立券)されています。
またこの他にも国司の交替の毎に、
周囲の開発領主と思われる
国衙の在庁官人によって強奪・掠奪されたと
伊勢神宮側は訴えていたとのことです。

中村宗平の祖先である
山辺禅師頼尊の息子の武蔵押領使常遠で、
更にその息子で横浜市栄区笠間に住した
荘園内の治安の維持にあたったとされていた
笠間押領使常宗が鎌倉景正に
討たれた事件が起こっています。

伊勢神宮はその不安定な状態を打開するため、
国司の承認による「国免荘」ではなく、
より確実な朝廷の承認による荘園とすべく
運動を始め、永治元年(1141年)に
官省符荘に昇格させたのでした。




スポンサーリンク



この間、鎌倉景正の後裔である
大庭御厨の下司にも動きがあったのでした。
長承4年(1134年)当時の大庭御厨の下司は
鎌倉景正の子の景継でした。
けれども10年後の
天養元年(1144年)の下司は、
鎌倉景正の直系でなく庶流の大庭景宗でした。
大庭景宗は鎌倉景正の甥の子とも、
従兄弟の孫とも言われています。
また大庭城を築城した人物とされています。
但しこの間の事情は不明な点も多いとの事です。

【源義朝の大庭御厨乱入事件】
天養元年(1144年)9月、
源義朝の大庭御厨乱入事件が起きます。
源義朝は相模国衙の田所目代(税務の代官)である
源頼清と組んで、
「大庭御厨内の鵠沼郷は鎌倉郡に属する公領である」
と主張し、在庁官人とともに
大庭御厨に侵攻して強奪・掠奪を行い、
神人に重傷を負わせています。
伊勢神宮は直ちに政府に提訴しました。
けれどもその最中に源義朝は、
源頼清や在庁官人である
三浦義継や中村宗平らの
「千余騎」によって大庭御厨に再侵攻し、
大庭御厨の停廃を宣言して
大規模な収奪を行ったのでした。

下司である大庭景宗は
伊勢神宮を通じ太政官に訴え、
伊勢神宮は、まず源義朝の処罰を
相模国司に要求しましたが、
国司は「義朝濫行のことにおいては
国司の進止にあたはず」と返答する有様でした。

そして天養元年(1144)以降の大庭御厨は
三浦・中村を率いた源義朝が武力で占有しました。

【大庭御厨の領有者】
けれども平治の乱(1159年)が起きた以後は
平家の後ろ楯を得た鎌倉党の支配に戻りました。
が、源頼朝が挙兵した治承5年(1180年)には
平家側の大庭景親・俣野景久兄弟が
鎌倉党を率いて戦いました。
しかしながら源頼朝勝利の後は
大庭景親兄弟(大庭景義は頼朝側)
を除く鎌倉党の大部分が
源頼朝御家人として服属し、
その結果大庭御厨は三浦一族や
北条氏が領有することになりました。

【石橋山の戦いの裏にあるもう一つの戦い】
治承4年(1180年)に、
源義朝の息子の源頼朝が挙兵すると
中村宗平も、これに参加し、
一族を引き連れて山木館襲撃に参加しています。

山木館跡 表示

その後、頼朝勢は石橋山に進撃し、
石橋山の戦いが始まります。
これを迎え撃った平家方の大将は
鎌倉党の大庭景親であり、
その許には梶原、俣野、長尾と言った
鎌倉氏の一族が多数馳せ参じていました。
一方、頼朝勢には、
中村宗平嫡孫の中村景平・盛平兄弟(中村重平の子)、
土肥実平親子、土屋宗遠親子、
岡崎義実・佐奈田義忠親子と言った
中村党の面々が多数参加していました。

石橋山周辺

他にも、源頼朝勢には、
佐々木、北条、工藤氏など
多数の諸氏が加わっていましたが、
実質的には中村党が中枢を占めていたのでした。
源頼朝が本陣を置いたのが
中村宗平の次男である
土肥実平の所領であり、
石橋山の戦いは、別の側面では
中村党と鎌倉党の戦いでもあったとも言えます。
現に中村党が有する中村荘は、
東側を鎌倉党(大庭・梶原・長尾・長江など)
の大庭御厨、
そして北側には波多野荘(現在の秦野)
と接して敵対関係にあったのでした。

なお波多野荘を有する波多野氏とは後年、
三浦一族で中村党でもある岡崎義実が
相模国波多野本庄北方(神奈川県秦野市)
の所領を巡って波多野義景と訴訟になっています。

岡崎義実公の像

また平家方には縁戚である
伊東祐親一族も参加しており、
その伊東氏と縁戚である
狩野(工藤)氏は源頼朝側です。
伊東氏と親戚関係であった北条氏も源頼朝側です。
こちらも新旧知行国主系豪族の
戦いの側面があったのでした。

石橋山の戦い~源頼朝旗揚げの地!300VS敵3000!大敗するも真鶴から安房へ逃れて再挙を図る。

佐奈田霊社~石橋山の戦いで壮絶な死を遂げた真田(佐奈田)与一を祀っています。

土肥実平とその妻~武士団「中村党」の中心であり頼朝から厚い信頼を受けた宿老~小早川家の祖。

城願寺~神奈川県指定文化財となっている土肥一族のお墓と国指定天然記念物・ビャクシンがあります。

大乗院~土屋氏屋敷跡、土屋宗遠を祖とする土屋氏は北条氏・足利氏・武田氏・北条氏政・徳川家に仕えました。

岡崎義実~代々源氏の家人で特に忠義心厚い人物。三浦一族だが中村党とも深い関係で真田与一の父親です。

和田義盛と和田合戦~三浦一族~鎌倉幕府創始の功臣だが北条義時に嵌められる

三浦義澄~源頼朝を支えた宿老の一人で13人の合議制のメンバーで相模守護。三浦一族の栄枯盛衰。

真田城~神奈川県平塚市にある真田の郷、真田與一義忠(佐奈田義忠)について。

しとどの窟(湯河原)・(真鶴)、隠れながら追手をかわして岩海岸から安房国へ船出しました。

北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。

天野遠景~工藤氏の一族で天野氏の祖~初代の鎮西奉行に就任。子孫が各地で根付き繁栄します。

工藤(狩野)茂光~伊豆半島最大の勢力を築いた狩野氏~末裔に絵師集団「狩野派」がいます。

北条宗時~北条時政の嫡男で北条政子、北条義時の兄であったが石橋山の戦いで散る、異説有り。

横山党館~八幡八雲神社(八王子)・横山党は武蔵七党の一つで関東最大勢力の武士団です。

大庭景親~坂東八平氏の鎌倉氏の一族~最期まで平家に忠誠を尽くした人物です。

梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。

長尾城跡(大船)・鎌倉氏系長尾氏発祥の地、南北朝から戦国時代おいて長尾氏は上杉氏の家宰職でした。

伊東佑親~源頼朝の配流地の監視役で八重姫の父であり、北条義時・曽我兄弟・三浦義村の祖父。

伊東佑清~八重姫の兄で曽我兄弟の叔父、親交のあった源頼朝を父から助けるが平家方につく。

山木判官平兼隆館跡~源氏再興の狼煙はここから始まりました。

曾我城跡~曾我兄弟が育った曽我氏の館。北条氏康に滅ぼされたが嫡流は足利将軍や徳川家に仕え出世した。

満江(万劫)御前~曽我兄弟を含めて5人の子供のお母さんで狩野茂光の孫娘です。屋敷跡やお墓があります。

河内源氏の栄枯盛衰~形成から興隆、衰退、初の武家政権となった鎌倉幕府と次の室町時代。

関連記事

  1. 佐藤忠能 佐藤忠能・佐藤忠康父子と娘の八重緑と加治田城攻防~織田信長の東美…
  2. 通化寺 風景 通化寺~天野隆重夫妻の墓・天野元嘉の墓・繁沢元氏の墓(毛利元氏の…
  3. 大森氏頼居館跡(紫雲寺) 大森氏頼~兄弟親子の分裂を経て当主になり西相模で勢力をのばしまし…
  4. 相良城跡 相良城跡~相良氏館⇒相良古城⇒相良御殿⇒相良陣屋⇒老中・田沼意次…
  5. 幸神屋敷(日の出町) 幸神屋敷~平山左衛門尉綱景の屋敷とも土豪の幸神氏の屋敷跡とも伝わ…
  6. 海蔵寺(鎌倉) 海蔵寺(鎌倉)鎌倉奥の静かな佇まいの花と井戸、そして数々の伝説を…
  7. 村上武吉永眠の地 村上武吉夫妻の墓(宝篋印塔)~能島村上水軍の当主で「日本最大の海…
  8. 甘利氏館と扇子平山城 甘利氏館と扇子平山城~甘利氏は甲斐源氏で、戦国時代には武田家臣の…



スポンサーリンク




コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (1)

    • 芝崎あやのり
    • 2022年 2月 25日

    中村宗平公の墓 あるよ 殿の窪(館跡)の北

おすすめ記事

  1. 梶原景季~梶原景時の嫡男で治承・寿永の乱や宇治川の先陣争い、箙に梅花の枝など軍記で華やかな逸話がある人物。 梅の花の枝

ピックアップ記事

  1. 明智光秀の死因は
  2. 明智光近 明智巳蔵
  3. 武田信玄公の像
  4. 興聖寺
  5. 本證寺(城郭伽藍)
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
PAGE TOP