鎌倉殿の13人

板額御前~鎌倉時代初期に実在した女武将、後に弓の名手の浅利与一の妻になりました。

板額塚



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板額御前

板額御前は、
「吾妻鏡」に登場する、
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて
活躍したとされる女武将です。
「坂額」(はんがく)と記されることもあります。

板額御前は、越後一帯に勢力を張っていた
平家の流れを組む城一族の
城資国(じょうのすけくに)の娘でした。
板額御前の父である城資国は、
白鳥山(新潟県胎内市=たいないし)
に難攻不落とうたわれた
鳥坂城(とっさかじょう)を築き、
広い越後を支配していました。

板額御前 説明

城資国の妻であり、
板額御前の母は、
奥州藤原氏の基を築いた藤原清衡の孫娘です。
板額御前は、その2人の娘として、
一説によりますと1172年に
飯角(いいずみ)と呼ばれる地区で
生まれたと言われています。
この「飯角」が「はんがく」とも
読めたことから、
板額御前と呼ばれたのではないかと
云われています。
板額御前が10歳の頃、1180年に
源頼朝木曽義仲などが、
後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)
の平家追討の令旨(りょうじ)を受け、挙兵します。
板額御前には兄が2人おり、
このときの城氏の当主は、
長兄である城資永(すけなが)でした。

平清盛から支援を頼まれた城資永は、
木曽義仲を討伐すべく信濃への出兵を決めます。
しかしながら出陣直後に急死します。
跡を継いだ弟の城長茂(ながもち)が
4万の大軍を率いて信濃の横田河原で
木曽義仲と対戦となります。
けれどもわずか数千の木曾義仲軍の
奇襲戦法に敗れ、これ以降、
城氏の勢力は急速に衰退します。

1185年、壇ノ浦の戦いで
敗れた平家は滅亡します。
平家の流れを組む城氏は、
鎌倉幕府が成立後は
一族の存亡をかけた時代を
送ることになるのでした。




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城長茂は、鎌倉に囚われの身となり、
板額御前は、亡くなった長兄である
城資永の子の
城資盛(すけもり)の後見人として
鳥坂城を切り盛りします。
やがて武術・学術に優れた
女武将に成長していたのでした。
そして1201年、鎌倉幽閉後、
一時は源頼朝の家臣となっていた城長茂は、
京都で幕府打倒の行動を起こしましたが失敗し、
源頼朝の追手により斬首されたのでした。

板額御前は、甥である若き当主の城資盛と共に
鳥坂城に立てこもり、
鎌倉幕府討幕を掲げ挙兵します。
そして鎌倉幕府軍と
板額御前率いる城軍による合戦に突入します。

「吾妻鏡」では、
このときに目覚ましい活躍をし、
ひときわ優れた強弓の持ち主が
板額御前だったと詳細に伝えています。
白鳥山の麓から鳥坂城を目指して
攻め上ってくる幕府軍に対し、
武者の姿になって櫓に上がり、
次々と弓を引き、射倒したとのことです。

そのあまりの命中率と、
当たると確実に死ぬほどの強い威力に、
幕府軍は足が止まったとのことでした。
そして、板額御前をはじめとする
城軍の必死の反撃で、
幕府軍を率いる武将も負傷し、
多くの兵士が死傷っしたとのことです。

けれども次第に城軍は追い詰められ、
敗色が濃厚となり、
板額御前は城資盛を逃がします。
その後、幕府軍は板額御前の後方の高みに
回るという策を講じ、
鎧からはずれた腿を弓矢で狙います。

そして藤沢清親の放った矢が
板額御前の両脚に当たってしまい、
それとともに反乱軍は崩壊しました。

鳥坂城の合戦(建仁の乱=けんにんのらん)で
目覚ましい活躍をした板額御前の名は
一躍天下に響き渡りました。
2代将軍である源頼家は、
その女武者の姿を一目見たいと
彼女を生け捕りにし、
鎌倉に護送するように命じたのでした。

生け捕りにされた板額御前は
鎌倉へと移送されます。
これにより、5代にわたって
越後で栄華を誇った城氏は滅亡しました。
板額御前はそのとき、
推定年齢30歳であったと言われています。

鎌倉で居並ぶ重臣の中を
源頼家の前に進み出た
板額御前の凛とした様子を
吾妻鏡は次のように記しています。

「板額の容色は花のように美しく、
まるで陵園の妾(りょうえんのしょう=唐の詩人・
白楽天の詩に詠われた薄命の美女)であった」

死罪か流刑か、そのどちらかだろうと
覚悟を決めていた板額御前でしたが、
幕府の御家人のひとりであった
甲斐源氏の一族で弓の名手で
三与一と称された
浅利与一義成が、
板額御前の堂々たる姿に
深く感銘を受け、
源頼家に、
「彼女を妻として迎えたい」と申し出ました。

「幕府に弓を引いた不届き者を、何故?」
と問う源頼家に対し、
浅利与一義成は
「別に深い理由がある訳ではなく、
夫婦となって男子をもうければ、
必ずや幕府のお役に立てる武将になりましょう」
と答えたとのことです。
浅利与一義成は同じく弓の名手で、
源平最後の合戦となった
壇ノ浦の戦いでは平家の弓の名手を
射落とした武将でした。

源頼家は、その願いを許したと伝わります。
こうして、板額御前は、
浅利与一義成の妻として甲斐に移り住み、
そこで生涯を終えたとされています。

生誕地とされる
熊野若宮神社(新潟県胎内市飯角)には、
鳥坂城奮戦800年を記念した
石碑が建てられています。




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一説には身長は6尺2寸(約188cm)
といわれています。
ただし「吾妻鏡」などでは
その記述は見当たりません。
兄の城長茂が長身であった為に
その対比として描かれたものだと
考えられています。

・・・東北や越後や長野の人々の中には
高身長で色白で目鼻立ちがはっきりとした
風貌の人々がいます。
歴史上でも高身長の人物がいますし、
淀君も当時の女性としては高身長だったそうです。
実際に父親の浅井氏が高身長でした。
真田信繁の兄である真田信之も高身長でした。
東北出身の私の父方の祖母は高身長ではないですが、
色白で彫りの深い顔立ちをしていました。
板額御前の風貌も高身長・色白・彫りの深い顔立ち
だったのかもしれませんね。

【板額塚】
板額御前の生んだ女子が
武田五郎信光の七男で、
今の笛吹市境川町に住んでいた
石橋八郎信継に嫁いだといわれています。
その境川には、「板額坂」、「板額塚」
といった地名が残り、
また板額御前が瀬立不動に詣でた時、
そこに座わり腰帯を締め直したという
帯石も伝わっています。
また、笛吹市春日居町の
賀茂春日神社の神官奥山家は、
板額御前の実家であった
越後国の城氏の流れをくむ一族であり、
そのためか板額が使用したといわれる
長刀や弓が伝わっています。

板額塚

「甲陽随筆」に
「建仁元年六月廿九日坂額女を乞受妻とし、
嫡子六郎和義を生む」とあります。
板額御前に子どもがいたことが記されています。
また、「尊卑分脈」には、
浅利与一義成の子どもとして
「知義(浅利太郎)」とあり、
和義と同一人物と考えられています。

板額塚 案内

【所在地】
〒406-0851 山梨県笛吹市境川町小黒坂

浅利与一義成(浅利義遠)~甲斐源氏の一族で弓の名手であり武田信義・加賀美遠光とは兄弟です。

源頼家~悲劇の2代目~北条VS比企、時々朝廷、そして東国武士の権力闘争が渦巻く時期。

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藤原秀衡~奥州藤原三代当主にて最も平泉を繁栄させ、源義経を二度庇護した人物です。

巴御前~強弓の名手で荒馬乗りの美貌の女武者、常に木曾義仲の傍にいたが最期の時だけは叶わず。

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