鎌倉殿の13人

巴御前~強弓の名手で荒馬乗りの美貌の女武者、常に木曾義仲の傍にいたが最期の時だけは叶わず。

琵琶湖 近江大橋




巴御前

巴御前(ともえごぜん、生没年不詳)は、
平安時代末期の信濃国の女性です。
女武者として伝えられています。
字は鞆、鞆絵とも。
「平家物語」では、源義仲に仕える女武者。
「源平闘諍録」では樋口兼光の娘。
「源平盛衰記」では中原兼遠の娘で、
樋口兼光・今井兼平の姉妹であり、源義仲の愛妾です。

【時代】
平安時代末期

【生誕】
不詳

【死没】
不詳

【墓所】
大津市、木祖村など

【主君】
源義仲

【氏族】
木曽中原氏か?

【父】
中原兼遠か?

【母】
千鶴御前か?

【兄弟】
樋口兼光?、今井兼平?
巴御前、今井兼光?山吹御前

【子】
義高?、義重?、義基?、義宗?

【経歴】
軍記物語「平家物語」の「覚一本」で
「木曾最期」の章段だけに登場し、
木曾四天王とともに
源義仲の平氏討伐に従軍し、
源平合戦(治承・寿永の乱)で戦う
大力と強弓の女武者として描かれています。
「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、
二人の便女を具せられたり。
山吹はいたはりあって、都にとどまりぬ。
中にも巴は色白く髪長く、
容顔まことに優れたり。
強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」
と記されています。
宇治川の戦いで敗れ落ち延びる木曾義仲に従い、
最後の7騎、5騎になっても
討たれなかったということです。
木曾義仲は
「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。
自分は討ち死にする覚悟だから、
最後に女を連れていたなどと
言われるのはよろしくない」
と巴御前を落ち延びさせようとします。
けれども巴御前はなおも落ちようとしませんでした。
が、再三言われたので
「最後のいくさしてみせ奉らん(最後の奉公でございます)」
と言い、大力と評判の敵将である
御田(恩田)八郎師重が現れると、
馬を押し並べて引き落とし、首を切ったのでした。
その後、巴御前は鎧や甲冑を脱ぎ捨てて
東国の方へ落ち延びた所で
物語からは姿を消します。

【巴御前のその後】
八坂流の「百二十句本」では、
巴御前を追ってきた敵将を
返り討ちにした後、
木曾義仲に落ちるように言われ、
後世を弔うことが最後の奉公であると諭されて
東へ向かい行方知れずとなったとされています。
また「長門本」では、
落ち延びた後、越後国友杉に住んで
尼となったとされています。





【最古態の「延慶本」】
最も古態を示すと言われる
「延慶本」では、
幼少より木曾義仲と共に育ち、
力技・組打ちの武芸の稽古相手として
木曾義仲に大力を見いだされ、
長じて戦にも召し使われたとされています。
京を落ちる木曾義仲勢が7騎になった時に、
巴御前は左右から襲いかかってきた武者を
左右の脇に挟みこんで絞め、
2人の武者は頭がもげて死んだということです。
粟津の戦いにて粟津に着いたときには
木曾義仲勢は5騎になっていましたが、
既にその中に巴御前の姿はなく、
討ち死にしたのか落ちのびたのか、
その消息はわからなくなったとされています。

【「源平盛衰記」での記述】
「源平盛衰記」では、
倶利伽羅峠の戦いにも
大将の一人として登場しています。
横田河原の戦いでも
七騎を討ち取って
高名を上げたとされています。
なお、「長門本」にも同様の記述があります。
宇治川の戦いでは畠山重忠との戦いも描かれ、
畠山重忠に巴御前が何者か問われた
半沢六郎は
「木曾殿の御乳母に、
中三権頭が娘巴といふ女なり。
強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。
乳母子ながら妾(おもひもの)にして、
内には童を仕ふ様にもてなし、
軍には一方の大将軍して、
更に不覚の名を取らず。
今井・樋口と兄弟にて、
怖ろしき者にて候」と答えているとのことです。
敵将との組合いや木曾義仲との別れが
より詳しく描写され、
木曾義仲に
「我去年の春信濃国を出しとき妻子を捨て置き、
また再び見ずして、
永き別れの道に入ん事こそ悲しけれ。
されば無らん跡までも、
このことを知らせて
後の世を弔はばやと思へば、
最後の伴よりもしかるべきと存ずるなり。
疾く疾く忍び落ちて信濃へ下り、
この有様を人々に語れ」と、
自らの最後の有様を
人々に語り伝えることで
その後世を弔うよう諭されて戦場を去っています。
落ち延びた後に
源頼朝から鎌倉へ召され、
和田義盛の妻となって
朝比奈義秀を生んだとされています。
和田合戦の後に、越中国礪波郡福光の
石黒氏の元に身を寄せ、
出家して主・親・子の菩提を弔う日々を送り、
91歳の長寿を全うし、
生涯を終えたという後日談が語られています。

山 紅葉

【巴御前が木曾義仲と別れた年齢】
なお、「覚一本」では年齢は記されていませんが、
「百二十句本」では22~23歳、
「延慶本」では30歳ばかり、
「長門本」では32歳、
「源平盛衰記」では28歳としています。

【史実における巴御前】
巴御前が登場するのは
軍記物語の「平家物語」「源平盛衰記」のみです。
当時の一次史料や
鎌倉幕府編纂書の「吾妻鏡」には、
その存在は確認されてはいません。
女武将であるという
物語の記述は史実としては疑問があり、
文学的脚色である可能性が高いとのことです。
「平家物語」における
巴御前の記述は至って簡略で
木曾義仲との関係も書かれてはおらず、
より後の時代に書かれた
「源平盛衰記」において
大きく人物像が書き加えられているとのことです。





【武家の女性の地位】
中世前期、武家の女性は
地位が高かったことを背景として、
また大力は女性の血筋で伝えられるという
信仰のもとに造形化された
女性であるともされています。

【武家における女性の戦闘訓練の有無】
ただし、「吾妻鏡」に
越後の城氏の一族である
板額御前の健闘により
討伐軍に大被害が生じたとの記事があります。
このことから、
当時の甲信越地方の武士の家庭では
女性も第一線級として
通用する戦闘訓練を受けている例は
存在しています。
鎌倉時代においては、
女性も男性と平等に
財産分与がなされており、
女性であれ認められていたのでした。

【薙刀「巴型」】
薙刀(なぎなた)は、
日本の長柄武器の一種で、
平安時代に登場した武具です。
一説には平清盛が普及したとも云われています。
薙刀にうち、身幅が広く反りの大きいものを
巴御前にちなんで
「巴型(ともえがた)」と呼ぶとのことです。
現存する薙刀で拵えと共に
現存するもののうち、
柄の短いものの刀身は
殆どが巴型であるそうです。
巴型は反りが大きいために、
少ない力で斬り付け易く、
馬上で用いるものや婦女子を含めて
体格の小さいものが
使うことに有利であったためと考えられています。
けれども斬り付け易い代わりに
操法が難しくなるため、
馬上用、体格の小さい者用としての
形状であるという説には異論もあるとのことです。
なお、この「巴型」は別名女薙刀ともいわれ、
江戸時代に入ってから生まれた薙刀です。

一方、刀身の身幅が細く反りが少ないものを
静御前にちなんで
「静型(しずかがた)」と呼んでいるとのことです。
但し、この「静型」は、
志津三郎兼氏作の薙刀を由来とした
「志津型」という説もあるのとの事です。

【巴御前の墓】
富山県南砺市の他にも、
神奈川県横須賀市、
長野県木曽郡木曽町、
新潟県上越市など
各地に巴御前の墓とされるものが
現存しています。

【芸能】
能に「巴」があります。

【あらすじ】
木曾義仲終焉の地である
琵琶湖のほとりの粟津ヶ原を訪れた僧侶の一行。
季節は初春の頃のことでした。
ここは木曾義仲の終焉の地です。
当時の面影はなく、
湖のさざ波がただ穏やかに聞こえてくるばかりです。
するとその場に一人の美しい女性が現れ、
すすり泣いています。
僧の一人が尋ねると、
この女性はこの原の松蔭に祀られた
神の前で泣いているのだと語ります。
更に僧の出身地が木曾であることを明かすと、
その美しき女性は、
ならば何故神の名を知らないのかといい、
祀られている神は木曾義仲であることを告げます。
そしてその僧はこれもご縁ということで
お経を唱えます。
やがて日が傾いていきます。
女性は自分もこの世のものではない事を告げると
すうっと消えていくのでした。

そこへ土地の男が通りかかり、
男は僧に尋ねられるままに
木曾義仲の故事を語ります。
そして僧が先ほどの美貌の女性の話をすると
男はそれは木曾義仲に仕えていた
女武者の巴御前の霊だといいます。
そして男は彼女の為にも
弔ってやることを勧めるのでした。

僧が弔っていると、先ほどの女性の霊が現れ、
鎧兜を身にまとい、長刀を手にした
美しくも勇ましい姿でした。
彼女こそ、木曾義仲に仕えた女武者の
巴御前でした。





巴御前は語ります。
女性であることから、
武者として木曾義仲の
最期の供を出来なかった執念から
亡霊となってこの粟津ヶ原に
留まり続けているとのことです。

それから巴御前は在りし日の
合戦の様を語り続けます。

やがて木曾義仲の最期の時が迫ります。
すでに深手の傷を負っている木曾義仲に
自害を勧め、自分も供に死すと言ったのだと。
けれども木曾義仲は女だからと許さず、
「女の身ならば生き延びる手立てもあろう」と
形見となる小袖と刀を預けられたとのことです。

そうした中、敵が迫ってきます。
これで最期の戦ができる、嬉しいと
巴御前は思い、
技の限りを尽くして切り畳みます。
敵は恐れをなして逃げていったのでした。

そして木曾義仲のほうをみると、
すでに自害を遂げた後だったのでした。
傍に置かれた小袖と守り刀を手に取り、
あまりの悲しさにどこかへ行くことも出来ず、
名残は尽きずとしばしその場に寄り添っていたと。
けれども遺言には背くことはできず、
やがて木曾義仲の遺体に別れを告げ、
静かに鎧を脱ぎ、小袖を身にまとい、
刀を抱き隠して、ただ一人、
涙と共に木曾に落ちのびていったのだと。

そのように語り、舞いながら
執念からの解放を願いつつ、
巴御前の霊は消えていったのでした。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
秋元 才加(あきもと さやか)さんが
演じられます。

木曾義仲(源義仲)河内源氏の一族で源頼朝とは従兄弟、美男子で信義と情を備えていたが武骨で公家文化には疎かった

源頼家~悲劇の2代目~北条VS比企、時々朝廷、そして東国武士の権力闘争が渦巻く時期。

菅谷館跡と鶴ヶ峰・二俣川の古戦場散策~畠山重忠公の足跡を訪ねて。

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山吹御前~木曾義仲(源義仲)の妻妾で木曾義高(源義高)の生母とも伝えられています。

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