平安時代

伊勢大輔~「小倉百人一首」にもある「いにしへの」の歌が有名な平安時代の女流歌人です。

興福寺 三重塔 桜



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【伊勢大輔】

伊勢大輔(いせのたいふ / いせのおおすけ、
永祚元年〈989年〉?⇒康平3年〈1060年〉?)は、
平安時代中期の日本の女流歌人。
大中臣輔親の娘。
高階成順に嫁し、
康資王母・筑前乳母・源兼俊母など
優れた歌人を生みました。
中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。

【生涯と経歴】
伊勢大輔は大中臣輔親の娘として誕生しました。
もともと大中臣氏は
祭祀をつかさどる貴族でしたが、
伊勢大輔の祖父である大中臣能宣や
父・輔親は歌人としても有名でした。
その影響もあってか、
伊勢大輔は和歌に優れた女性
として育っていきます。
伊勢大輔は寛弘5年(1008年)頃に
一条天皇の中宮・上東門院藤原彰子に仕えます。
このときの年齢は20歳前後だと
考えられています。
上東門院藤原彰子のもとには
才能ある女房が揃っており、
源氏物語」で知られている
紫式部も先輩女房として仕えていました。
また、のちに和泉式部
赤染衛門らも彰子に仕えることになります。

紫式部の代わりに八重桜を受け取る役目】
伊勢大輔が上東門院藤原彰子に
仕えてからまもなく、
藤原氏の氏寺だった
奈良の興福寺が朝廷に
八重桜を献上することになりました。
この八重桜は当初、
紫式部が受け取る予定でした。
ですが急遽、伊勢大輔が
代わりに受け取ることになります。
紫式部が新参女房である
伊勢大輔に八重桜を受け取る役目を
譲ったとのことでした。

八重桜を受け取った伊勢大輔は
藤原道長の奨めで即興で
以下の歌を詠みました。

いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重に 匂ひぬるかな

<現代語の意味>
古い都があった奈良の八重桜は、
献上された今日、ここ平安京の
九重の宮中で色美しく咲き匂うのだった。

「百人一首」にも採られており
とても有名な歌の一つとなっています。

あまりの出来栄えに周囲の者は驚き、
上東門院をはじめとする
人々の賞賛を受け、
一気に彼女の評判は
高まったとのことです。
彼女は自らの歌才によって
華々しい宮仕生活を
開始させることに成功します。

なお、この出来事は当時の人々の
記憶に深く刻まれたこととなり、
後年、後冷泉天皇の皇后・寛子も
話題にし、それに対して
伊勢大輔は返歌を送ったといいます。




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【結婚と娘たち】
上東門院藤原彰子のもとで
歌才を発揮した伊勢大輔はその後、
高階成順と結婚します。
そして、康資王母や筑前乳母、
源兼俊母を産みます。
この3人の娘はいずれも歌才に
優れていたといいます。

伊勢大輔はそれからも
数多くの歌合に出詠。
上東門院彰子の側近として、
長元5年(1032年)
上東門院菊合(きくあわせ)より
天喜4年(1056年)に
至る公私の歌合に活躍、
多くの賀歌、屏風歌(びょうぶうた)
を残しました。

【歌風】
歌風は縁語、懸詞(かけことば)を
駆使した技巧に特色があるとのことです。

【晩年】
晩年には
温厚な人柄から一時、
貞仁親王(白河天皇)の
傅育の任にあたったとされています。
康平3年(1060年)、
志賀僧正90歳の賀歌を最後に、
まもなくかなりな高齢で
亡くなったとされています。
けれども、彼女の明確な没年までは
わかってはいないとのことです。

【作品】
<後拾遺和歌集>
伊勢大輔:27

<金葉和歌集>
伊勢大輔:1
別巻 三奏本にありて
底本になき歌 として
「詞花和歌集」と同じ歌を
掲載しています。

<詞花和歌集>
伊勢大輔:1

<新古今和歌集>
伊勢大輔:7

<新勅撰和歌集>
伊勢大輔:3

<続後撰和歌集>
伊勢大輔:1

<続古今和歌集>
伊勢大輔:2

<玉葉和歌集>
伊勢大輔:1

<続千載和歌集>
伊勢大輔:1

<続後拾遺和歌集>
伊勢大輔:2

<新千載和歌集>
伊勢大輔:2

<新拾遺和歌集>
伊勢大輔:3

<新続古今和歌集>
伊勢大輔:1

<定数歌・歌合>
上東門院彰子菊合:
長元5年(1032年)10月

弘徽殿女御生子歌合:
長久2年(1041年)2月

内裏歌合:
永承4年(1049年)11月

祐子内親王家歌合:
永承5年(1050年)6月

皇后宮寛子春秋歌合:
天喜4年(1056年)

志賀僧正明尊の九十賀:
康保3年(1060年)




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<私家集>
「伊勢大輔集」

<百人一首・61番>
  一条院御時 ならの八重桜を人の奉りけるを そのおり御前に侍けれは
  そのはなをたいにて うたよめとおほせことありけれは     伊勢大輔
いにしへのならのみやこの八重桜 けふ九重ににほひぬる哉

—「詞花和歌集」 巻第一 春

  奈良の八重桜を内にもてまいりたるを うへ御覧して歌とおほせことありけれは 伊勢大輔
いにしへのならのみやこのやへさくら けふこゝのへににほひぬるかな

—「金葉和歌集」 別巻 三奏本にありて底本になき歌

一条天皇~「叡哲欽明」と評された賢王は笛の名手で皇后との「純愛」を育み、やがて平安王朝文化が開花。

藤原彰子~真面目で努力家で控えめな少女は成長して国母となり政治力を発揮し「賢后」となりました。

藤原道長~初めは目立たずも後に政権を掌握、「一家立三后」をなし「この世をば わが世とぞ思ふ」と詠む。

源倫子~6人の子供に恵まれ、夫である藤原道長の外戚政権を 実質的に完成させた女性です。

藤原頼通~藤原氏の栄華の象徴である平等院鳳凰堂を造営、摂関政治から院政と武士が台頭する時代へ。

藤原教通~同母兄の頼通への卑屈なまでの従順と確執、やがて藤原摂関家の衰退を招いていきます。

紫式部~世界最古の長編小説とされる「源氏物語」を執筆した女流小説家で平安時代きっての才女。

大弐三位(紫式部娘・藤原賢子)~母からは和歌や文才を、父からは明朗で自由快活な気性を受け継ぎ、行動力溢れ長寿を全うしました。

和泉式部~和歌の才能にあふれた恋多き自由奔放な女性、娘への哀傷歌が有名です。

赤染衛門~理知的で優美な諷詠の女流歌人、おしどり夫婦であり良き妻良き母、「栄花物語」正編の作者とも。

藤原伊周~藤原道隆の嫡男、急速に出世するも叔父・道長との政争に敗れ失意のうち世を去る。

藤原隆家~藤原道隆の四男、「刀伊の入寇」で武勇を挙げ政敵・道長も一目置いた気骨ある人物です。

藤原公任~藤原北家小野宮流で政治的・芸術手的にも名門の出で「お坊ちゃま」、藤原道長とは同い年で四納言。

藤原斉信~藤原道長の従兄弟で当初は道隆に仕えるも後に道長の腹心へ、清少納言との交流があり「枕草子」に登場します。

藤原行成~世尊寺流の祖、実務に高い能力を発揮し人徳高く当代の能書家として後世「権蹟」と称されました。

源俊賢~一条朝の四納言の一人、父の源高明が政変で失脚するもバランス感覚に優れ権大納言まで昇進します。

清少納言~末娘で父親からとても可愛がられて育ち、定子に仕え世界最古の随筆である「枕草子」を執筆します。

興福寺~藤原鎌足・不比等ゆかりの寺で世界遺産に登録されており阿修羅像が著名です。

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