平安時代

藤原行成~世尊寺流の祖、実務に高い能力を発揮し人徳高く当代の能書家として後世「権蹟」と称されました。

長谷寺 桜



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藤原行成

藤原 行成(ふじわら の ゆきなり/こうぜい)は、
平安時代中期の公卿。藤原北家
右少将・藤原義孝の長男です。
官位は正二位・権大納言。
一条朝四納言(「寛弘の四納言」)の一。
世尊寺家の祖です。
当代の能書家として三蹟の一人に数えられ、
その書は後世「権蹟」(ごんせき)
と称されました。
書道世尊寺流の祖です。

【生誕】
天禄3年(972年)

【死没】
万寿4年12月4日(1028年1月3日)

【官位】
正二位、権大納言

【主君】
一条天皇⇒三条天皇⇒
後一条天皇、敦康親王

【氏族】
藤原北家世尊寺流

【父】
藤原義孝

【母】
源保光の娘

【兄弟】
行成、三松俊興室、基忠

【妻】
源泰清の娘(姉)、
源泰清の娘(妹)、
橘為政の娘

【子】
薬助、実経、良経、
源顕基室、
源経頼室、
藤原長家室、
行経、永親

【生涯と経歴】
【誕生から官途への出発】
天禄3年(972年)、
右少将・藤原義孝の長男として生まれ、
祖父の摂政・藤原伊尹(藤原兼家とは兄弟)
の猶子となりました。
しかし、祖父は同年中に薨去し、
さらに天延2年(974年)、
父・義孝も急死したため、
一族の没落を受けて外祖父である
源保光の庇護を受けて成長しました。
源保光は文章生から式部大輔を務めた
紀伝道の学者である一方、
太政官の行政事務の中枢である
弁官を歴任し蔵人頭も務めるなど、
漢学に造詣が深く、
内廷・外廷(太政官)両方の吏務に
通じていたらしく、
この学問や知識をもって
孫の藤原行成に十分な教育を
施したと想定されるとのことです。

天元5年(982年)桃園邸で元服し、
永観2年(984年)、
外戚関係(従兄弟)にある
春宮・師貞親王の年爵によって
従五位下に叙爵となります。
同年、師貞親王が花山天皇として即位すると、
藤原行成は寛和元年(985年)、
侍従に任ぜられ、翌年の寛和2年(986年)、
昇殿を許されるなど、天皇の身近に仕えました。




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【寛和の変とその後の待遇】
けれども同年6月に
右大臣・藤原兼家の策謀により
花山天皇は出家・譲位してしまい、
藤原行成は外戚の地位を失いました。
この事件によって藤原行成は
少なからず影響を受けたと
想定されますが、
その後も寛和3年(987年)従五位上、
正暦2年(991年)正五位下、
正暦4年(993年)従四位下と
位階の上ではそれなりに
立身を続けます。
これについては、
藤原行成の家柄・資質のほか、
外祖父である権中納言・源保光の庇護も
働いていたと考えられています。
しかし、従四位下への叙位によって
左兵衛権佐を解かれた後、
遙任の備後介のみを帯びて
しばらく他の京官に任じられた形跡がなく、
任官面での不遇は否めませんでした。

【結婚】
なお、この間の永祚元年(989年)には
源泰清の娘と結婚しています。

【一条天皇の蔵人頭】
長徳元年(995年)、
蔵人頭権左中弁・源俊賢
参議に昇進し、後任として
藤原行成が蔵人頭に任ぜられました。
これについては、前任の源俊賢が
一条天皇に対して藤原行成を推挙したため、
地下人から一躍蔵人頭に
抜擢されたとの逸話があります。
実際には殿上であったか、
少なくとも長く地下に沈淪していた
状態ではないと考えられていますが、
備後介のみを帯びたほぼ
散位に等しい藤原行成の登用は、
人々に驚きの目をもって
迎えられたと考えられています。

【蔵人頭に抜擢された理由】
この抜擢については
源俊賢の推挙が大きいとのことですが、
これまで藤原行成が積み重ねてきた
真面目な努力が、
一条天皇をはじめ
人々の認めるところと
なっていたことも
背景にあったと考えられているとのことです。
なお、藤原行成は蔵人頭になって
すぐには弁官になってはいませんが、
さすがに異例の抜擢によって
蔵人頭になった上に、
すぐに弁官を兼ねるのは
憚られたとのことです。

【正左中弁に昇格】
けれども、ここで藤原行成は
力量を認められます。
翌年の長徳2年(996年)4月、
権左中弁に任官しています。
さらに同年8月に
正左中弁の藤原忠輔が右大弁に昇ると、
後任に源相方が任ぜられますが、
一条天皇の意向で正左中弁・源相方と
権左中弁・藤原行成が入れ替えられ、
藤原行成は上﨟の相方を差し置いて
正左中弁に昇格したのでした。




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【ポストを巡り再びの競合】
長徳4年(998年)正月に
これまでの精励ぶりを
一条天皇から賞されて臨時に
従四位上に叙せられました。
7月に左大弁・源扶義が没したため
右大弁のポストが空き、
これに対して再び藤原行成と
源相方が競合します。
源相方が右大弁を
望んでいることを
源相方の縁者でもある
左大臣・藤原道長から告げられますと、
藤原行成は以下の通り
競望の不条理に反論し、
藤原道長もこの反論を
容認したとのことです。

(1)
中弁から大弁への転任は、
必ずしも位階によらず
任日の前後による場合もある
(なお位階は源相方の方が上もしくは先叙、
中弁への任官は藤原行成が先)。
(2)
自分は蔵人頭で将来は
参議を望む官職にある。
ここで大弁に任ぜられ、
参議昇任後も大弁を
兼任することを望む。
(右大弁は参議や蔵人頭が
兼任する例が多い)。
(3)
現今の新制により、
受領の任期を終えて2年以内に
官に納める物が未済の者は
次の官職に任用してはならない。
源相方は播磨守在任中十分に
役目を果たさず、
任期終了後3年にして
官へ未済の事が多い。

【27歳で右大弁に昇格】
10月には藤原行成は右大弁に昇格。
日記には
「時に年27。年未だ30に
及ばずして大弁に任ずるは、
貞信公(藤原忠平)21・
八条大将(藤原保忠)年25のみなり。」
と誇らしげに記しているとのことです。
なお、行成の後任の左中弁には
高階信順が任ぜられており、
この人事の前に源相方は
病没したとみられているそうです。

【彰子立后の意見具申を行う】
こうした中、
長保元年(999年)11月に
藤原道長の長女である藤原彰子
一条天皇の後宮に
入内し女御となりました。
そして12月に太皇太后・昌子内親王が
崩御したことをきっかけに、
藤原道長は第一皇子・敦康親王を
産んでいる中宮・藤原定子に
対抗するために
一帝二后となる
彰子の立后を希望します。
藤原行成は藤原道長の
意向を受けて一条天皇に対して
彰子立后の意見具申を行ったのでした。

(1)
現在の藤原氏出身の后妃は、
東三条院(藤原詮子)・
皇太后(藤原遵子)・
中宮(藤原定子)と
何れも出家しており神事を勤めない。
(2)
后位に対する納物には
神事に用いるべき公費が
含まれているが、
神事が行われず全て
私用に費やされている。
(3)
藤原氏出身の皇后が所掌する
大原野祭について、
現在は氏長者・藤原道長が
代行しているが、
これも神の本意に叶わぬ
「神事違例」で、
行成自身も
藤原氏の末葉の身として
氏の祭のことを心配している。
(4)
諸司(神祇官・陰陽寮か)より
「神事違例」の卜占が出ている。
(5)
既に永祚年間に
二后並立の前例がある
(円融皇后・藤原遵子と
一条中宮・藤原定子)。
(6)
中宮(藤原定子)は正妃であるが、
既に出家して神事を勤めず、
(天皇の)私恩によって
職号を止めず封戸も納めている。
従って重ねて彰子を
皇后に立て神事を掌るように
させるのがよいのではないか。




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【一条天皇は許諾の意向を示す】
以上の藤原行成の具申に対して
一条天皇は許諾の意向を示したそうです。
このことについて藤原道長から
「行成が蔵人頭として
天皇の身近に仕えるようになって以来、
折に触れて自分のために
取り計らっていてくれたことは
知っていたが、
感謝の気持ちを示すことが
できなかった。
今こそこの厚い恩の深さを知った。
行成自身のことについては
勿論何も心配することはなく、
お互いに子の代になっても
必ずこの恩に報い、
兄弟のように親しくするように
言い含めておく」と
感謝の言葉を受けたとのこと。
鬼ケ城

【別の見方として】
最もこの藤原行成の
具申の論旨に対しては、
藤原道長に対する
へつらいに基づく詭弁や
曲論とする見方も多いとのことです。
一方で、后位にある者全員が
神事を勤めないことや、
出家しながら再び入内して
皇子を儲けた定子に対する批判など、
当時の貴族・官人社会の中で
納得できる理由を並べているのも事実で、
既に彰子立后の必然性を理解し
その大義名分を模索していた
一条天皇に代わって、
その正当性を裏付ける議論を
展開したものとする意見もあるとのことです。

【彰子が立后】
こうして藤原行成の尽力もあり、
翌年の長保2年(1000年)2月に
彰子は立后しました。
女雛

藤原繁子との諍い】
同年8月に彰子の従兄弟にあたる、
故関白・藤原道兼の娘である
藤原尊子が女御となりました。
尊子の母である藤原繁子が
この女御宣下の勅旨を奉じた
藤原行成に纏頭(祝儀の被物)を
贈ろうとします。
が、藤原行成はこれを察して
忌避するために繁子がいる
尊子の曹司(暗戸屋曹司)へ行かずに、
陣に行って仰下しました。
そこで繁子は藤原行成の従者に
渡そうとして失敗します。
執拗にも藤原行成邸に
下人を遣わせて送り置いたのでした。
藤原行成の妻は次第を
藤原行成に急報します。
報告を受けた藤原行成は
纏頭を取り寄せて
繁子家と親交があった
権左中弁・藤原説孝経由で
受け取る理由がないとして返却しました。
繁子は怨みに思って
東三条院や道長に愁訴するが、
藤原行成はこれを「おこがましい」と
日記に記しているとのことです。
このことは藤原行成の
気位の高さを示しているとのことです。
一方で、
藤原道兼にとって
尊子が生まれたときは
「何ともおぼさず」と、
冷淡な反応だったとのこと。
つまり、藤原道兼にとっては
一時期の関係に過ぎない
繁子所生の尊子の女御宣下は、
宮廷社会で正当なことと
認められていなかったと
想定され、人々は
纏頭を受け取らなかった
藤原行成を賞賛したとのことです。
なお、藤原繁子は藤原尊子が
後宮に入った際に
実際に世話したのは平惟仲とのことで、
藤原繁子は平惟仲と再婚したそうです。
ところで藤原繁子の再婚時期は、
上記の通りの藤原行成との諍い後とも、
藤原道兼が存命であった
正暦3年(992年)ともいわれています。




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【参議昇任を認められなかった理由】
同年10月には
新造された内裏の殿舎・門の書額を行い、
正四位下に叙せられています。
長保3年(1001年)2月に
参議任官を前提とした
蔵人頭の辞退を請うて申文を
奏上しますが、
認められませんでした。
蔵人頭を務めること
5年半に及び
右大弁も帯びていた
藤原行成は参議昇任の資格は
十分にあったのですが、
一条天皇は有能な
藤原行成を側近から
手放したくなかったものと
見られています。

【名文・名筆の申文を秘蔵したい】
なお、一条天皇は
藤原行成の名文・名筆の申文を
秘蔵したかったらしく、
この申文を書写して
献上するように勅しています。

【激務を軽減させる妥協策か?】
3月には藤原道長から
近衛中将兼任の内意を受けますが、
藤原行成は従兄弟の
藤原成房に譲りました。
これは、頭弁に更に中将を兼帯する
意味とは考えにくく、
激務に疲弊している藤原行成から
弁官を解くことで負担を軽減し、
なお暫く蔵人頭を
務めさせようとする
妥協策であった可能性もあるとのことです。

【世尊寺の創建】
藤原行成は伝領していた
平安京北郊の一条大路・大宮大路末北の
大内裏北方
(現五辻通北・大宮通西あたり)
にあった桃園邸に世尊寺を創建しています。
同2月に天台座主・覚慶や
公卿・殿上人多数参加のもと
盛大な供養を行い、
3月には世尊寺を御願寺として
定額寺にすることを奏請して
勅許を得ています。
世尊寺建立は藤原行成の
信仰心に基づく純粋な宿願で、
さらに当時の世間無常の
様相の影響を受けたものと
想定されていますが、
結果的にはこの供養を通じて
藤原行成の力を宮廷社会に
誇示することになり、
その社会的地位を
更に高めることになったのでした。

【世尊寺流】
なお、この寺院の呼称が
後に藤原行成の後裔をして
世尊寺家を名乗らせる
根拠となっているとのことです。




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【公卿昇進】
【敦康親王の養育の件】
同年2月末に藤原行成は
敦康親王家の別当に任ぜられますが、
前年末に敦康親王の生母である
藤原定子が崩御していたため、
中宮・藤原彰子を
その母親代わりとするよう、
一条天皇に対して奏上しました。
これは後漢の明帝が
賈貴人所生の粛宗を
馬皇后に養育させた故事を
引き合いに出して
敦康親王に後ろ盾を求める一条天皇と、
娘の中宮・藤原彰子が
未だ皇子誕生を見ない
藤原道長の利害を一致させる
献策であったとのことです。

【公卿に列する】
8月には初めて敦康親王が
中宮の上御局に渡り、
彰子による養育が始まっています。
また、同月には蔵人頭の労6年にして
参議に任ぜられ、遂に公卿に列しています。
9月に入って初めて参議として
参内すると、一条天皇から召されて
「顧問の職(蔵人頭)を避くと雖も、
なお聞き得たる所を奏すべし」との勅があり、
10月に入ると侍従を兼帯するなど、
一条天皇が藤原行成を
側近から離したくない様子が
窺われます。
なお、後任の蔵人頭は
かつて藤原行成を推挙した
源俊賢の弟である
左近衛中将・源経房でありました。

【正三位に昇叙】
同年10月、東三条院の四十御賀に伴う
院司に対する叙位で従三位に、
長保5年(1003年)11月には
新造内裏の諸殿舎額を書いた功労で
正三位に昇叙されています。

【藤原道長への積極的な接近】
寛弘2年(1005年)、
藤原行成は左大弁として
弁官の上首となりますが、
この頃より左大臣・藤原道長邸での
私的な催しへ頻繁に
参加するようになったとのことです。
同じく藤原道長邸に頻繁に
訪問していた権中納言・藤原斉信らとともに
藤原道長への忠勤ぶりを
藤原実資からは
「恪勤上達部」として
批判されているとのことです。
藤原行成の道長邸への頻繁な訪問は
蔵人頭時代も同様であったそうですが、
当時は一条天皇と内覧の左大臣であった
藤原道長との間で連絡や
調整を行う立場上当然でありました。
厚い信任を受ける一条天皇の
権威を背景として、
藤原道長にも一目置かれる
存在であったとのことです。
けれども、参議昇任によって
天皇側近の立場を離れて
末座の公卿となった藤原行成は、
太政官の筆頭である藤原道長の権勢を
まともに受け、迎合の必要性を
身近に感じて積極的に
藤原道長に接近するように
なったと考えられています。

・・・今も昔もかわりませんねぇ・・・。

【造宮行事担当と従二位】
同年11月に内裏が焼亡し、
藤原行成は源俊賢らとともに
造宮行事を担当します。
寛弘3年(1006年)末にかけて造宮は完了し、
寛弘4年(1007年)正月の叙位において、
藤原行成は造宮行事を賞されて
従二位に昇叙されました。
藤原行成はこの昇叙により、
位階の上では中納言の藤原時光、
権中納言の源俊賢・藤原忠輔、
先任参議の藤原懐平・菅原輔正を越えて、
当時まで極めて希であった
二位の参議となったのでした。
藤原行成のこの栄進が
人々の目を引いたと思われる一方で、
かつて自らを推挙してくれた
恩人の源俊賢は賞を
弟の経房に譲って
正三位に留まっておりました。




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【敦成親王(後一条天皇)誕生】
寛弘5年(1008年)9月に
中宮・藤原彰子を母とする
一条天皇の第二皇子となる
敦成親王(後一条天皇)が生まれました。

【呪詛事件の発生と真相】
さらに、翌年の寛弘6年(1009年)2月には
中宮と敦成親王および藤原道長に対する
呪詛事件が発生し、
敦康親王の外戚であった
藤原伊周・源方理・高階光子が
処罰を受けます。
この事件は、
皇位継承の最短距離にある
第一皇子である
敦康親王にダメージを
与えるために仕組まれたとも
考えられており、
敦康親王家別当であった
藤原行成にも少なからず
悪影響を及ぼしたと
考えられています。

【弁官の官職を離職】
寛弘6年(1009年)、
先任参議の藤原有国を超えて
権中納言に任ぜられ、
長徳2年(996年)以来
13年間務めた弁官の官職から
離れました。

【譲位を決意した一条天皇への進言】
寛弘8年(1011年)5月下旬、
俄に重病となり譲位を決意した
一条天皇から、
第一皇子・敦康親王の立太子の
可否について諮問を受けました。
これに対して藤原行成は
以下理由を挙げて、
春宮には第二皇子・敦成親王を立て、
敦康親王には年官・年爵・年給の
受領の吏等を与え、
有能な廷臣を仕えさせるなど、
然るべき待遇を与えるように
進言したとのことです。
(1)
文徳天皇は愛姫紀静子所生の
第一皇子(惟喬親王)を寵愛し、
皇統を継がせる意志があった。
しかし、外祖父の藤原良房が
朝廷の重臣であったため、
第四皇子(清和天皇)が皇嗣となった。
(2)
左大臣(藤原道長)は
一条朝の重臣かつ外戚であり、
外孫たる第二皇子(敦成親王)を
春宮に立てることを欲すことは
至極当然のことである。
天皇が第一皇子(敦康親王)を
東宮に立てることを欲しても、
左大臣は簡単に承知しない。
政変の発生や不満・批判が
巻き起こる可能性も考える必要がある。
(3)
光孝天皇は皇運があったため、
老年になってから遂に天皇として即位した。
一方で、恒貞親王は皇太子に立てられたが、
即位することはなく終に棄て置かれた。
これほどの大事は
宗廟社稷の神に任せるべきで、
敢へて人力の及ぶ所ではない。
(4)
また、第一皇子(敦康親王)の
生母である皇后・藤原定子の外戚である
高階氏は、伊勢斎宮・恬子内親王と
在原業平の不義密通の子の
後裔であるため、
この一族は伊勢神宮に憚りがある。




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【上記の進言の内容の高評価】
この進言は極めて冷静に
大勢を見据えた論であり、かつ
再び大義名分として
神意を強調した内容となっています。
また、結果的に藤原道長の
意向には沿ってはいますが、
藤原道長へ迎合や、
奉仕していた敦康親王への
忠誠心の否定はあたらないと
考えられているとのことです。
さらには、彰子立后の時と同様に、
必然性を理解しながら
なおも懊悩する一条天皇の代弁と
見做すこともできるとの
見方もあるとのことです。
また、藤原道長に迎合する
目的であるのならば、
光孝天皇の話をあげて
将来の即位の可能性の
話をする必要はないわけで、
幼くして祖父や父を失って苦労した
藤原行成が後見のない
親王の将来を慮って行った
「経験的に体得した
現実主義的哲学に基づく親身な忠告」
とする評価もあるとのことです。
なお、以前から藤原行成は
敦成親王に対して
王者の相を認めていたらしいとのことです。
ところで、彰子立后の際は
藤原道長から手放しで
感謝を示されたのですが、
今回の藤原行成の進言が
藤原道長の耳に
届いていたかどうかは
明らかでない、とのことです。

【一条上皇の崩御と実現しなかった昇叙】
6月に臨時の叙位があり、
寛弘3年(1006年)の
造宮において殿舎や門の額を書いた
賞として藤原行成は正二位への加階を
申請します。
この造宮に関して、
既に行事賞として
寛弘4年(1007年)に
多くの先任者を越えて
従二位への破格の昇進を
果たしており、
一条天皇の譲位を前にした
駆け込み的な申請でありました。
この申請に対して一条天皇は
許諾の意向を見せますが、
藤原道長を含む3大臣が
正二位に留まっていたこともあり、
藤原道長の承諾が得られず、
藤原行成の昇叙は
実現できませんでした。
同月半ばには一条天皇から
三条天皇への譲位が行われ、
まもなく一条上皇は崩御しました。
藤原行成は上皇の院司では
ありませんでしたが、
側近の臣として
藤原道長の指示を受けて
葬儀や法事に参与しました。




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【三条朝】
同年10月に三条天皇の
即位式が行われ藤原行成は
宣命使を務めましたが、
その際の進退の振る舞いが
非常に見事であったと
藤原道長から賞賛を受けています。
寛弘9年(1012年)2月に
藤原道長次女の藤原妍子が
皇后に冊立され、
皇太后・藤原遵子が
太皇太后に転じるため、
藤原行成も太皇太后宮権大夫に遷りました。
けれども、翌3月になると
三条天皇は先に入内して
皇子女を儲けていた
故大納言・藤原済時長女である
藤原娍子を立后を強行しようとします。
一帝二后は一条朝に続くものでしたが、
皇族・大臣以外の娘が
立后した先例は
平安時代初期の橘嘉智子
(内舎人・橘清友の娘)
以外にはなく、左大臣・藤原道長以下
多くの廷臣がこれに
納得しなかったとのことです。
かつて、一条天皇に
一帝二后を進言した
藤原行成も同様で、
娍子立后の儀には参加せず、
同日に行われた妍子の
内裏参入の儀のみに参加しています。

【正二位へ】
長和2年(1013年)
石清水行幸行事賞として、
かつて果たせなかった
正二位への叙位を受けました。

【後一条朝】
長和4年(1015年)12月に
三条天皇が譲位の意向を示し、
翌年の長和5年(1016年)正月には
藤原道長の外孫である
後一条天皇への譲位や
即位式に関する諸事を定めましたが、
藤原行成は藤原斉信や藤原公任
ほかの四納言らとともに
自ら筆を執って式の作成や
過去の記録の抄出を行い、
藤原道長を感動させたとのことです。

藤原頼通の側近的な立場として】
長和6年(1017年)、
藤原道長が摂政左大臣を辞し、
長男の藤原頼通が摂政となりまが、
これ以降の藤原行成は
藤原頼通の側近的な立場
となったとみられています。

【敦明親王の辞退と敦康親王の死去】
長和6年(1017年)、
皇太子であった三条天皇皇子の
敦明親王が皇太子を辞退しますが、
藤原行成はこの報を受けて
顔相に詳しくないと前置きしながら、
敦明親王について
「無龍顔」(天皇の相ではなかった)
と感想を残しているとのことです。
また、寛仁2年(1018年)には
藤原行成が家別当として
仕えた敦康親王が没しました。




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刀伊の入寇が発生】
寛仁3年(1019年)4月、
刀伊の入寇が発生し、
女真族が九州北部に侵入します。
大宰権帥・藤原隆家の
指揮に従った大宰府管内の
武士によって撃退されました。
6月末に公卿定にて武功者に対する
褒賞が審議されましたが、
以下のやりとりがありました。
藤原実資の意見に
藤原斉信が賛同し、
その後藤原公任及び
藤原行成も同意したとのことです。
(1)
藤原行成・藤原公任:
勅符に褒賞のことを
載せているが、
武功を立てたのは
勅符到着以前のため、
賞を与えるべきでない。
(2)
藤原実資:
寛平6年(894年)、
対馬に侵入した新羅人を
撃退した文室善友に対して、
褒賞の約束がなくても
賞を与えた前例がある。
今回のような大きな被害を
もたらした大事件に対して
褒賞しなければ、
今後勇戦する者が
現れなくなってしまう。

【支配層と地方における現実との乖離】
この事案は、支配層である
宮廷貴族の形式主義や
地方の現実に対する
認識不足の典型例と
されている見方が多いとのことです。
これに対して、
当時地方における
豪族の勢力伸長が進行しており、
豪族達は朝廷の軍隊としての
役割を担いつつも、
反乱や朝廷の意図せぬ
他国との交戦など、
暴発する可能性が
常に存在していたのでした。
この状況にあって、
朝廷は伝統的権威によって
辛うじて豪族達を
制御していたため、
権威の象徴である勅符を
重要視したことは
やむを得ないとする意見もあるとのことです。

【大宰権帥を兼ねる】
同年12月に藤原隆家の後任として
藤原行成が大宰権帥を兼ねますが、
これは婿である
藤原長家(道長の六男)
の世話をする費用が
不足していたことから、
藤原行成が実入りの多い
当官職を望んだものとされています。

【権大納言に昇進】
けれども、藤原行成は
九州へ赴任しないまま、
翌寛仁4年(1020年)、
権大納言に昇進して
権帥の任を去っています。
後任は源経房とのことです。

【権帥の任を去った理由】
この経緯については、
娘である藤原長家室の
病弱を配していたことや、
藤原行成自身が
公事に欠くことができない
人材であったことから、
藤原行成の下向が叶わないうちに、
権大納言昇任と引き替えに
権帥を返上させられたものと
みられています。
さらには、大宰府における
現地での任務は藤原行成のような
上級貴族にはかなり厳しく
似つかわしくないとのことで、
藤原行成が公私の事にかまけて
赴任を延ばし伸ばしに
しているように見え、権帥返上は
藤原行成にとって積極的に
辞意を示した結果ではないのですが、
必ずしも不本意なことでは
なかったとする意見もあるとのことです。




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【娘の死去で憔悴する】
結局、治安元年(1021年)、
藤原長家室は病没してしまいます。
娘を失って激しく憔悴し
悲嘆に暮れる藤原行成の様子が
「栄花物語」や「権記」から
窺われるとのことです。
河津桜

藤原実経が職務停止処分される】
治安2年(1022年)、
藤原行成の子息である藤原実経が
国守を務めていた但馬国において、
同国にあった小一条院所有の
荘園の荘官であった惟朝法師に対して
国衙の官人を殺害したという容疑で、
国府が朝廷に訴えを起こります。
一旦、惟朝法師に対する追捕の宣旨が
発給されますが、
殺害されたとされる人物は
実際には生存していたらしく、
翌年の治安3年(1023年)正月に
小一条院からこの訴えは
虚偽であるとして差し止めの
請求がなされると、
朝廷は直ちに方針を変更し、
訴えを起こした但馬国の郡司らに
出頭を命じたのでした。
4月になって7名の郡司が上京し、
当初藤原行成は郡司らに
自らの邸宅に宿所として
与えていましたが、
まもなく検非違使左衛門志・粟田豊道によって
郡司らは捕縛・連行されてしまい、
藤原行成・実経親子は大いに
面目を失ってしまったということです。
検非違使庁での勘問において
郡司らはなおも殺害は
事実であると証言したのですが、
これを聞いた藤原行成は
夜も寝られぬ程心痛し、
息子の藤原実経の処罰も
覚悟の上で藤原道長に
事実を告げたい意向を
右大臣・藤原実資に伝え、
藤原実資もこれを
強く勧めたということです。
結局、後一条天皇の勅裁により
手続きに瑕疵があるとして
訴えは無効とされ、
惟朝法師は特別に赦免されました。
一方で、郡司らは保釈されて帰国、
藤原実経も釐務(職務)停止に
処せられますが
1ヶ月で解除となったとのことです。
その後、万寿元年(11024年)には
右大臣・藤原実資に対して娘である
藤原千古の裳着のために
絹50疋を贈るなど、
有力者への献上を行っています。
万寿2年(1025年)、
造塔の功労により藤原実経は
但馬守の任期を2年延長されたのでした。

【藤原長家を再び婿に希望するも・・・】
万寿2年(1025年)、
藤原長家の後室(藤原斉信の娘)が
没すると、藤原行成は再び
藤原長家を婿に望みます。
けれども、右大臣・藤原実資も
藤原長家を婿に望み、
藤原道長は藤原実資の娘との結婚に
賛成したため、藤原行成の希望は
受け入れられなかったのでした。




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【最期】
万寿4年(1027年)正月より
藤原行成は体調を崩し、
公事には参加しましが、
左手の不調や乗馬に堪えないことを
訴えていました。
さらに4月の賀茂祭において
上卿を務める予定にも関わらず、
3月に禁忌に触れる恐れをおして
灸治を行うなど、藤原行成の体調は
悪化していきます。
そして、12月1日に
隠所に向かう途中で突然倒れ、
その後は会話・飲食ともできないまま、
4日に薨去しました。
享年は56歳でした。
最終官位は権大納言守正二位兼按察使。

【道長と同日に死去】
なお、藤原道長は寅刻(午前3時-5時頃)、
藤原行成は亥刻(午後9時-11時頃)と
同日に亡くなりましたが、
世間は藤原道長の死で大騒ぎとなっており、
藤原行成の死については
気に留めるものが
ほとんどいなかったと見られています。
7日に父である藤原道長の死を
上奏しようとした関白・藤原頼通は、
藤原行成の死去も
上奏するように進言した
大外記・清原頼隆を勘当しています。
清原頼隆の勘事は9日後に
解除されましたが、
清原頼隆は自らの正当性を
人々に訴えるとともに、
参議・藤原広業の讒言が
藤原頼通の対応に
繋がったとみられています。
なお、私的な感情に流されて
勘当の処分を下したと
批判されるのを恐れた藤原頼通は、
処分を下したことすら
とぼけたということです。

【著作】
詳細を極める日記「権記」が著名です。
平安中期の政情・貴族の日常を
記録したことで重要視されています。
正暦2年(991年)から
寛弘8年(1011年)までのものが伝存し、
これに万寿3年(1026年)までの
逸文が残っているとのことです。




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また、庶務に通じていた藤原行成は
有職故実書「新撰年中行事」を著しました。
同書は後世盛んに利用され
多くの逸文が知られていますが、
全体については伝存せず、
散逸したものと考えられていました。
けれども1998年、
京都御所内東山御文庫に
所蔵されていた後西天皇の宸筆
「年中行事」という2冊の書物が、
「新撰年中行事」の写本であることが
逸文との照合等により判明し、
研究者の注目を集めているとのことです。

勅撰歌人として、
「後拾遺和歌集」(1首)以降の
勅撰和歌集に9首が
採録されています。

【逸話】
<「十訓抄」の記述の真実>
鎌倉中期の説話集
「十訓抄」によりますと、
殿上で藤原実方と歌について
口論になり、怒った藤原実方に
冠を奪われ
投げ捨てられてしまいますが、
藤原行成は取り乱さず、
主殿司に冠を拾わせ
事を荒立てませんでした。
この様子を蔀から見ていた一条天皇が
藤原行成の冷静な対応に感心し、
藤原行成を蔵人頭に抜擢した一方、
藤原実方を陸奥へ
左遷したとされています。
けれどもこの逸話は
史実とは異なるそうです。
そもそも行成の任官は
友人の源俊賢の推挙によるもので
帝の指名ではないとのことです。
また藤原実方も陸奥下向に際して、
帝から褒美を受け昇進しており、
左遷とは考えにくいとのことです。
そのことから「十訓抄」の話は
創作であろうとされています。

<源俊賢を立てる>
藤原行成は源俊賢の推挙により
蔵人頭に任命されたことを
承知しており、
のちに源俊賢を越えて
従二位に叙せられた際も、
決して源俊賢の上席には
着席しなかったとのことです。
源俊賢が出仕する日は
病気と称して出仕を控え、
やむなく両方が出仕する日は
向かい合わせの席に
着座したということです。

<行成が書した写本を道長が所望する>
当時の実力者藤原道長からも
その書道を重んじられ、
藤原行成が「往生要集」を
藤原道長から借用した際に、
「原本は差し上げるので、
あなたが写本したものを
戴けないか」と言われたということです。




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<以心伝心するほどの親友関係>
「光少将」と呼ばれ
美男の評判髙かった
藤原重家は、藤原行成ら
「寛弘の四納言」が陣座で
朝政の議論をしている様子を
目にして自らの非才を覚り、
親友で同じく「照る中将」
と呼ばれ美男の評判高く、
更に人の声を聞き分けるのが
得意であったという源成信と共に
園城寺にて出家して
遁世したとされています
源成信と藤原行成もまた
「中心を隔てざる人」という
親友関係であり、源成信出家の
数日前に藤原成信が出家することを
藤原行成が夢に見て、
それを源成信に告げますと、
源成信は「正夢也」と
笑って答えたとする話が
残っているとのことです。
唐招提寺 境内

【書家としての評価】
小野道風・藤原佐理と共に、
三蹟の一人に数えられています。
藤原行成は道風に私淑し、
その遺墨にも道風の影響が
みられるとのことです。
その追慕の情はかなり強かったようで、
「権記」に「夢の中で道風に会い、
書法を授けられた」と感激して
記しているとのことです。

藤原行成の書風は道風や佐理よりも
和様化がさらに進んだ、
優雅なものでありました。
藤原行成は和様書道の確立に尽力した、
世尊寺流の宗家として、
また上代様の完成者として
評価されています。

2024年NHK大河ドラマ
光る君へ」では
渡辺大知(わたなべ だいち)さんが
演じられます。

一条天皇~「叡哲欽明」と評された賢王は笛の名手で皇后との「純愛」を育み、やがて平安王朝文化が開花。

花山天皇~藤原氏の策略で19歳で出家、独創的な発想の持ち主で好色、観音巡礼が後に「西国三十三所巡礼」として継承。

藤原道長~初めは目立たずも後に政権を掌握、「一家立三后」をなし「この世をば わが世とぞ思ふ」と詠む。

源俊賢~一条朝の四納言の一人、父の源高明が政変で失脚するもバランス感覚に優れ権大納言まで昇進します。

藤原公任~藤原北家小野宮流で政治的・芸術手的にも名門の出で「お坊ちゃま」、藤原道長とは同い年で四納言。

藤原斉信~藤原道長の従兄弟で当初は道隆に仕えるも後に道長の腹心へ、清少納言との交流があり「枕草子」に登場します。

藤原彰子~真面目で努力家で控えめな少女は成長して国母となり政治力を発揮し「賢后」となりました。

藤原頼通~藤原氏の栄華の象徴である平等院鳳凰堂を造営、摂関政治から院政と武士が台頭する時代へ。

藤原教通~同母兄の頼通への卑屈なまでの従順と確執、やがて藤原摂関家の衰退を招いていきます。

紫式部~世界最古の長編小説とされる「源氏物語」を執筆した女流小説家で平安時代きっての才女。

和泉式部~和歌の才能にあふれた恋多き自由奔放な女性、娘への哀傷歌が有名です。

赤染衛門~理知的で優美な諷詠の女流歌人、おしどり夫婦であり良き妻良き母、「栄花物語」正編の作者とも。

伊勢大輔~「小倉百人一首」にもある「いにしへの」の歌が有名な平安時代の女流歌人です。

大弐三位(紫式部娘・藤原賢子)~母からは和歌や文才を、父からは明朗で自由快活な気性を受け継ぎ、行動力溢れ長寿を全うしました。

藤原為時~漢詩の才能に長け、人格形成で紫式部に影響を与えたとされており、子らに先立たれる。

藤原惟規~紫式部の兄弟で和歌の才能があったが、越後にて父より先に亡くなる。

藤原兼家~熾烈な権力闘争に勝ち、のちの藤原氏最盛期を築いた人物です。

藤原頼忠~従兄弟の兼通とは親しく兼家とはライバル、天皇の外戚になれず失意のうちに世を去る。

藤原実資~藤原北家嫡流の小野宮流の家領を継ぎ「賢人右府」と呼ばれ、貴重な資料である「小右記」を残す。

藤原道隆~藤原道長の長兄、容姿端正、明朗で豪快、気配り上手な優れた跡継ぎでしたが病で急逝します。

藤原伊周~藤原道隆の嫡男、急速に出世するも叔父・道長との政争に敗れ失意のうち世を去る。

藤原隆家~藤原道隆の四男、「刀伊の入寇」で武勇を挙げ政敵・道長も一目置いた気骨ある人物です。

藤原道兼~父は藤原兼家、兄は藤原道隆、弟は藤原道長、待望の関白に就くも数日でこの世を去る。

源雅信~皇室の血筋で源倫子の父、藤原兼家にとっては邪魔な存在、宇多源氏の始祖で子孫は近江源氏・出雲源氏へと繋がっていく。

源倫子~6人の子供に恵まれ、夫である藤原道長の外戚政権を 実質的に完成させた女性です。

源明子(源高明の娘)~藤原道長の妾妻で源俊賢の異母妹、明子の家系はやがて五摂家に繋がっていくのです。

藤原詮子~藤原道長の姉、国母となりやがて日本最初の女院となって、権力を握り政治に介入する。

高階貴子~身分は高くないが和歌と漢詩に秀でた才媛で藤原道隆の嫡妻、百人一首54番の情熱的な和歌が有名。

清少納言~末娘で父親からとても可愛がられて育ち、定子に仕え世界最古の随筆である「枕草子」を執筆します。

藤原宣孝~性格も女性関係も華やかで20歳以上も年上であった紫式部の夫。

絵師~平安時代に登場した「大和絵」、源氏物語は後に絵巻となりそれはコミカライズの原点とも言われています。

新田義貞公と妻の勾当内侍の墓~花見塚神社~つつじに見守られてひっそりと佇む

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