【花山天皇】
花山天皇(かざんてんのう、かさんてんのう、
安和元年10月26日(968年11月29日⇒
寛弘5年2月8日(1008年3月17日))は、
日本の第65代天皇
(在位:永観2年8月27日(984年9月24日)⇒
寛和2年6月23日(986年8月1日))。
諱は師貞(もろさだ)。
冷泉天皇の第一皇子です。
母は、摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子。
三条天皇の異母兄となります。
花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家、のち断絶)の祖。
花山院(かさんいん)や花山法皇とも呼ばれます。
【生涯と経歴】
安和2年(969年)、
父である冷泉帝の弟叔父である
守平親王の即位(円融天皇)と共に
皇太子になり、永観2年(984年)、
同帝の譲位を受けて即位します。
生後10か月足らずで立太子したのは、
摂政であった外祖父である
藤原伊尹の威光によるものですが、
17歳での即位時には既に
藤原伊尹は亡くなっており、
有力な外戚をもたなかったことは、
2年足らずの在位という後果を
招いたともいえるとのこと。
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【三つ巴の対立で政治が停滞】
関白には先代に引き続いて
藤原頼忠が着任しましたが
実権を握ったのは帝の外舅である
藤原義懐と乳母子藤原惟成でした。
藤原義懐と藤原惟成は
荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化、
武装禁止令、物価統制令、
地方の行政改革など
革新的な政治を行ったのですが、
革新的な政策は関白である
藤原頼忠らとの確執を招いたのでした。
さらに皇太子懐仁親王の外祖父である
右大臣藤原兼家も
花山天皇の早期退位を願って、
天皇や藤原義懐と対決の姿勢を
示したのでした。そのため、
宮中は義懐派・頼忠・兼家の
三つ巴の対立の様相を呈して
政治そのものが
停滞するようになっていったのでした。
【藤原忯子の存在】
更にここに花山天皇と
ある一人の女性の存在が加わります。
藤原為光の娘・藤原忯子に
劇的に心動かされた天皇は、
忯子を女御にすることを望みます。
藤原義懐の正室は忯子の実の姉であり、
天皇は直ちに藤原義懐に
義父である藤原為光の説得を命じます。
娘婿の必死の懇願に為光も
忯子の入内を決めます。
深い寵愛を受けた忯子は懐妊しますが、
寛和元年(985年)7月18日、
17歳で亡くなってしまいます。
これにショックを受けた天皇は、
「出家して忯子の供養をしたい」
と言い始めます。
藤原義懐は天皇の生来の気質から、
出家願望が一時的なものであると見抜き、
藤原惟成や更に関白頼忠も加わって
天皇に翻意を促しました。
【出家して退位】
寛和2年(986年)6月22日、
19歳で宮中を出て、
剃髪して仏門に入り退位しました。
【最愛の女性の死と寛和の変】
突然の出家について、
「栄花物語」「大鏡」などは
寵愛した女御藤原忯子が
妊娠中に死亡したことを
素因としています。
が、「大鏡」ではさらに、
藤原兼家が、外孫である
懐仁親王(一条天皇)を
即位させるために陰謀を
巡らしたことを伝えています。
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【藤原道兼の行動】
蔵人として仕えていた藤原兼家の
三男である藤原道兼は、
悲しみに暮れる天皇と一緒に
自身も出家すると唆し、
内裏から元慶寺(花山寺)に
密かに連れ出そうとしました。
このとき邪魔が入らぬように
鴨川の堤から警護したのは
藤原兼家の命を受けた
清和源氏の源満仲と
その郎党たちであったとのことです。
天皇は「月が明るく出家するのが恥ずかしい」
と言って出発を躊躇ったとのことですが、
その時に雲が月を隠し、
天皇は「やはり今日出家する
運命であったのだ」と自身を諭したのでした。
けれども内裏を出る直前に、
かつて妻から貰った手紙が
自室に残ったままであることを思いだし、
取りに帰ろうとしますが、
出家を急いで極秘に行いたかった
藤原道兼が嘘泣きをし、
結局そのまま天皇は内裏から出たのでした。
一行が陰陽師の安倍晴明の
屋敷の前を通ったとき、
中から「帝が退位なさるとの天変があった。
もうすでに…式神一人、内裏へ参れ」
という声が聞こえ、目に見えないものが
安部晴明の家の戸を開けて出てきて
「たったいま当の天皇が家の前を
通り過ぎていきました」
と答えたと伝わっているとのことです。
天皇一行が寺へ向かったのを
見届けた藤原兼家は、
子の藤原道隆や藤原道綱らに命じ
三種の神器を皇太子の居所であった
凝華舎に移したのち、
内裏諸門を封鎖したのでした。
【欺かれたことを知る】
元慶寺へ着き、天皇が落飾したのを
見届けたのち、藤原道兼は
親の藤原兼家に事情を
説明してくるという理由で
寺を抜け出し、そのまま逃げてしまいます。
出家はせず、ここでようやく天皇は
欺かれたことを知ったのでした。
内裏から行方不明になった
天皇を捜し回った藤原義懐と
藤原惟成は元慶寺で天皇を見つけ、
そこで政治的な敗北を知り、
共々に出家したとのことです。
なおこの事件は寛和の変とも
称されています。
出家にともない
懐仁親王(一条天皇)へ譲位し、
太上天皇となりました。
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【藤原為時・藤原元命の出世に影を落とす】
この事件は親王時代に学問を教え、
当時式部丞になっていた
紫式部の父である藤原為時
(以降長く出世が途絶える)や、
尾張国郡司百姓等解文で
有名な藤原元命
(甥または叔父が惟成)の
その後の出世にも
影を落としたのでした。
【出家後】
出家した上皇は
播磨国書写山の圓教寺に入り、
やがて比叡山延暦寺に登って
戒壇院で灌頂受戒し、
法皇となった後には、
奈良時代初期に徳道が
観音霊場三十三ヶ所の宝印を
石棺に納めたという
伝承があった摂津国の中山寺
(兵庫県宝塚市)でこの宝印を探し出し、
紀伊国熊野から宝印の三十三の
観音霊場を巡礼し修行に勤め、
大きな法力を身につけたということです。
【西国三十三所巡礼】
この花山法皇の観音巡礼が
「西国三十三所巡礼」として
現在でも継承されており、
各霊場で詠んだ御製の和歌が
御詠歌となっているとのことです。
この巡礼の後、
晩年に帰京するまでの
十数年間は巡礼途中に
気に入った場所である
摂津国の東光山(兵庫県三田市)で
隠棲生活を送っていたとされています。
この地には御廟所があり
花山院菩提寺として
西国三十三所巡礼の番外霊場
となっているとのことです。
花山院菩提寺の真南に位置する
六甲山山頂付近の六甲比命神社の
磐座群の中の仰臥岩に、
花山法皇、仏眼上人、
熊野権現連名の碑があるとのことです。
【花山法皇襲撃事件】
出家後の有名な事件としては、
長徳2年(996年)、
花山法皇29歳のとき、
中関白家の内大臣藤原伊周・隆家に
矢で射られた花山法皇襲撃事件があります。
この事件は長徳の変と呼ばれています。
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【長徳の変】
同年1月半ば、藤原伊周が
通っていた故太政大臣藤原為光の娘である
三の君と同じ屋敷に住む四の君
(藤原儼子。かつて寵愛した女御藤原忯子の妹)
に花山法皇が通いだしました。
それを藤原伊周は自分の相手である
三の君に通っているのだと誤解し、
弟の藤原隆家に相談したとのことです。
藤原隆家は従者の武士を連れて
法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を
弓で射抜てしまいます。
なおさらに「百錬抄」では、
花山法皇の従者の童子2人を殺して
首を持ち去ったという話も
伝わっているとのことです。
【藤原道長に利用される】
花山法皇は体裁の悪さと
恐怖のあまり口をつぐんで
閉じこもっていたとのことですが、
この事件の噂が広がるのを
待ち構えていた藤原道長に
利用される形となり、
翌月には藤原伊周・藤原隆家兄弟は
それぞれ大宰府・出雲国に
左遷の体裁を取って
流罪となったのでした。
【藤原伊周の敗北】
これにより、
あの出家事件の首謀者であった
藤原兼家の孫で、
藤原道隆の子であった
中関白家の藤原伊周は
ライバルの藤原道長に
政治的に敗北することとなり、
出世の道は途絶えたのでした。
【崩御】
寛弘5年(1008年)2月、
花山院の東対にて崩御、
紙屋上陵
(現在の京都市北区衣笠北高橋町)
に葬られました。
享年は41歳でした。
死因ははっきりとは
わかっていないとのことですが。、
悪性腫瘍によるものと
考えられているそうです。
乳母は橘則光の母右近尼です。
【逸話】
【数々の「やらかし」】
父親の冷泉天皇も
数々の逸話が残る人物
であるとのことですが、
花山天皇は当世から
「内劣りの外めでた」などと評され、
乱心の振る舞いを記した説話は
「大鏡」「古事談」に多いとのことです。
天皇に即位する前、
高御座に美しい女官を引き入れ、
行為に及んだという話が
伝わっているとのことです。
出家後も好色の趣味を止めることなく
女性と関係を持ったとのことです。
上記の「長徳の変」と呼ばれる逸話も
出家後の話です。
また、同時期に母娘の双方を妾とし、
同時期に双方に男子を
授かっています。
その2人の子を世の人は「母腹宮」
(おやばらのみや)、
「女腹宮」(むすめばらのみや)と
呼んだとのことです。
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【花山天皇を支えた賢臣】
また、即位式において
王冠が重いとしてこれを脱ぎ捨て、
清涼殿の壺庭で
馬を乗り回そうとした、
との逸話があるとのことです。
けれどもこうした所業が
ただちに政治を混乱させなかったのは、
天皇に仕えた2人の賢臣、
権中納言藤原義懐と
左中弁藤原惟成の
献身的な支えによるところが
大きいといわれているとのことです。
【芸術的才能には恵まれる】
その一方で、絵画・建築・和歌など
多岐にわたる芸術的才能に恵まれ、
ユニークな発想に基づく創造は
たびたび人の意表を突いたとのことです。
特に和歌においては在位中に
内裏で歌合を開催し、
「拾遺和歌集」を親撰し、
「拾遺抄」を増補したとも
いわれているとのことです。
2024年NHK大河ドラマ
「光る君へ」では
本郷奏多(ほんごう かなた)さんが
演じられます。
円融天皇~政治に関与し兼家と疎隔・対立するも、藤原詮子との間に後の一条天皇が誕生します。
一条天皇~「叡哲欽明」と評された賢王は笛の名手で皇后との「純愛」を育み、やがて平安王朝文化が開花。
藤原忯子(弘徽殿の女御)~花山天皇の寵愛を受けた女御、懐妊するも夭逝し寛和の変の引き金となる。
藤原道隆~藤原道長の長兄、容姿端正、明朗で豪快、気配り上手な優れた跡継ぎでしたが病で急逝します。
藤原定子~朗らかで才気に満ち華やかで美しい女性、父道隆の死で状況は一変し若くして散る。
藤原義懐~花山天皇の外叔父として権勢を振るうが寛和の変後に出家し引退する。
高階貴子~身分は高くないが和歌と漢詩に秀でた才媛で藤原道隆の嫡妻、百人一首54番の情熱的な和歌が有名。
藤原伊周~藤原道隆の嫡男、急速に出世するも叔父・道長との政争に敗れ失意のうち世を去る。
藤原隆家~藤原道隆の四男、「刀伊の入寇」で武勇を挙げ政敵・道長も一目置いた気骨ある人物です。
藤原道長~初めは目立たずも後に政権を掌握、「一家立三后」をなし「この世をば わが世とぞ思ふ」と詠む。
藤原兼家~熾烈な権力闘争に勝ち、のちの藤原氏最盛期を築いた人物です。
藤原道兼~父は藤原兼家、兄は藤原道隆、弟は藤原道長、待望の関白に就くも数日でこの世を去る。
藤原詮子~藤原道長の姉、国母となりやがて日本最初の女院となって、権力を握り政治に介入する。
藤原彰子~真面目で努力家で控えめな少女は成長して国母となり政治力を発揮し「賢后」となりました。
藤原道綱~藤原道長の異母兄で母は「蜻蛉日記」の作者、おっとりとした性格で才に恵まれず。
源倫子~6人の子供に恵まれ、夫である藤原道長の外戚政権を 実質的に完成させた女性です。
藤原為時~漢詩の才能に長け、人格形成で紫式部に影響を与えたとされており、子らに先立たれる。
紫式部~世界最古の長編小説とされる「源氏物語」を執筆した女流小説家で平安時代きっての才女。
藤原実資~藤原北家嫡流の小野宮流の家領を継ぎ「賢人右府」と呼ばれ、貴重な資料である「小右記」を残す。
藤原頼忠~従兄弟の兼通とは親しく兼家とはライバル、天皇の外戚になれず失意のうちに世を去る。
藤原公任~藤原北家小野宮流で政治的・芸術手的にも名門の出で「お坊ちゃま」、藤原道長とは同い年で四納言。
藤原斉信~藤原道長の従兄弟で当初は道隆に仕えるも後に道長の腹心へ、清少納言との交流があり「枕草子」に登場します。
藤原行成~世尊寺流の祖、実務に高い能力を発揮し人徳高く当代の能書家として後世「権蹟」と称されました。
源俊賢~一条朝の四納言の一人、父の源高明が政変で失脚するもバランス感覚に優れ権大納言まで昇進します。
源明子(源高明の娘)~藤原道長の妾妻で源俊賢の異母妹、明子の家系はやがて五摂家に繋がっていくのです。
清少納言~末娘で父親からとても可愛がられて育ち、定子に仕え世界最古の随筆である「枕草子」を執筆します。
藤原惟規~紫式部の兄弟で和歌の才能があったが、越後にて父より先に亡くなる。
藤原宣孝~性格も女性関係も華やかで20歳以上も年上であった紫式部の夫。
安倍晴明の生誕地の一つを訪ねて~平安時代に実在した陰陽師で現在でいう天文博士です。
百舌彦~藤原道長の従者、平安時代中期以降の貴族に仕える家臣・従者について
直秀~町辻で風刺劇を披露する散楽の一員、散楽とは奈良時代に大陸から移入された大衆芸能の起源
熊野速玉大社~元宮は巨岩のゴトビキ岩がある神倉神社、境内にはナギの巨木があり世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部です。
熊野那智大社~世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部、熊野三山です。
青岸渡寺~世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部で西国三十三所第1番札所です。
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