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筒井順慶・松永久秀のライバルで、与力であり友人でもあった明智光秀に味方しなかった人物

筒井順慶墓所




筒井順慶

筒井 順慶(つつい じゅんけい)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名
得度して順慶と称する前は、
室町幕府13代将軍・足利義藤(後の義輝)の偏諱により
藤勝(ふじかつ)、藤政(ふじまさ)と名乗っていました。
大和筒井城主で後に大和国郡山城主。

【生誕】
天文18年3月3日(1549年3月31日)
【死没】
天正12年8月11日(1584年9月15日)
【改名】
藤勝⇒ 藤政⇒ 陽舜房順慶(号)
【別名】
権少僧都
【父】
筒井順昭
【母】
大方殿(山田道安娘)

【墓所】
筒井順慶歴史公園

筒井順慶墓所 説明板

【出生から家督相続】
大和国の戦国大名である筒井順昭の子として生まれたとされています。
筒井氏は興福寺一乗院に属する有力宗徒が武士化し、
父親である筒井順昭の代には、
大和最大の武士団となり、
筒井城を拠点に戦国大名化していったとのことです。
母は山田道安の娘・大方殿とされています。

天文19年(1550年)、
父である筒井順昭が28歳で病死したため、
叔父の筒井順政の後見の元、
2歳で家督を継いだとされています。
当時の大和は「大和四家」と呼ばれる
筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏や
僧兵を擁した興福寺の勢力が強く
守護職の存在しない国でした。
けれども、永禄2年(1559年)から
三好長慶の寵臣である松永久秀が侵攻し、
永禄5年(1562年)には
筒井氏と協力関係にあった十市遠勝が
松永久秀の軍門に下るなどあり、
筒井氏にとって厳しい情勢となっていました。
さらに永禄7年(1564年)には
叔父の筒井順政が死去しました。

翌年の永禄8年(1565年)8月、
三好三人衆と松永久通の軍勢が
将軍足利義輝を暗殺(永禄の変)。
11月16日、松永久秀と三好三人衆は決裂します。
松永久秀は急遽、後ろ盾を無くした
筒井順慶の基盤が揺らいでいる所に奇襲を仕掛け、
同年11月18日、筒井順慶は居城である
筒井城を追われてしまいます。

筒井城跡

この時、箸尾高春・高田当次郎といった麾下の勢力が
筒井順慶を見限り離れています。
居城を追われた筒井順慶は、
一族の布施左京進のいる布施城に逃走しました。
なお、一部の史料は河内国へ逃れたと伝えていますが、
あまり信憑性はないとの見方があるそうです。

後に筒井順慶は布施氏の下で力を蓄え、
離反した高田氏の居城である高田城を攻撃しています。





【筒井城争奪戦】
永禄9年(1566年)、
松永軍に対する反撃を開始します。
筒井順慶は三好三人衆と結託し、
筒井城の奪還を図ります。
4月11日から21日にかけて両軍の間で戦闘が行われ、
美濃庄城を孤立させて降伏させています。
筒井順慶と三人衆は筒井城へ迫ります。
対して5月19日、松永久秀は大和を通過し
河内に赴いて同盟関係であった畠山氏と遊佐氏と合流、
堺で三好義継と松永久秀との間で戦闘が起こりました。
筒井順慶はこの間隙を突いて筒井城の奪還を画策、
筒井城周囲に設置された
松永久秀の陣所を焼き払ったとされています。

松永久秀は筒井城の救援には向かえず、
友能登屋、臙脂屋(べにや)に斡旋させて和睦を結び、
5月30日に姿を消しました。
周囲の陣を焼き払い、外堀を埋めた筒井順慶は
本格的に城の奪還に着手し、6月8日、
ついに城の奪還を果たしました。
なお、筒井順慶が筒井城を奪還できた背景には、
阿波三好家の重臣である篠原長房の進軍によって
松永久秀の足場が揺らぎ、
筒井城に軍勢を差し向けられる余裕がなかったことが
専門家の間で指摘されているとのことです。

筒井城と筒井氏

筒井城を奪還した筒井順慶は春日大社に参詣しました。
この時、宗慶大僧都を戒師として得度し
藤政から陽舜房順慶と改名しました。
正式に順慶を名乗るのはこの時からとされています。

【東大寺大仏殿の戦い】
翌年の永禄10年(1567年)には
再び三人衆や篠原長房と結んで
奈良の大仏殿を占拠し要塞化して、
多聞城の松永久秀と対峙します。
10月10日、
松永久秀軍が東大寺に討ち入り決戦し、
大仏殿が久秀軍の兵火の残り火の失火で焼け落ち、
松永久秀側が勝利しました。

東大寺大仏殿の戦いについて~松永久秀&三好義継VS三好三人衆&筒井順慶&池田勝正~

織田信長の台頭】
この頃、織田信長の台頭が見られ、
永禄11年(1568年)には
足利義昭を奉じて上洛、
三人衆は織田信長に抵抗して9月に畿内から駆逐されます。
14代将軍であった足利義栄も上洛できないまま急死し、
足利義昭が15代将軍に擁立され、
畿内は織田信長に平定されました。
松永久秀は織田信長・足利義昭と誼を通じましたが、
対する筒井順慶は松永久秀の打倒に専念するあまり、
情報収集が遅滞したとされています。
劣勢の筒井順慶を見限り、
菅田備前守などの家臣が
筒井順慶から離反し七條を焼き討ちしています。

【再び、筒井城の危機】
そして、松永久秀は幕府の直臣、
即ち織田信長の家臣ではなく、足利義昭の家臣となり、
大和一国を「切り取り次第」とされました。
松永久秀は、郡山辰巳衆を統率して筒井城に迫ります。
筒井順慶は叔父の福住順弘の下へと落ちのびました。
10月10日には、織田信長の応援軍である
佐久間信盛細川藤孝の2万が来軍し、
両軍で大和を制圧し始めます。
福住城にいた筒井順慶でしたが、
元亀元年(1570年)に十市遠勝の死によって
内訌を生じた十市城を攻め落とします。
さらに松永方の城となっていた窪之庄城を奪回し、
椿尾上城を築城するなど、
松永久秀と渡り合うための準備をしていました。

【ついに筒井城の奪還へ】
2年の元亀2年(1571年)になると、
松永久秀は武田信玄と通じたうえに、
篠原長房や摂津の荒木村重と結び、
同年6月から8月にかけて、
足利義昭方の畠山秋高や和田惟長の居城を攻めています。
これに対し足利義昭は筒井順慶に接近し、
九条家の娘を養女として筒井順慶に嫁がせています。
筒井順慶は井戸良弘に命令して辰市城築城に着手、
7月3日に完成した城は松永攻略の橋頭堡となりました。
城の着工が迅速に行われた背景には、
筒井順慶を支持する地元の人々の
経済的な支援があったと考えられています。
勢いに乗った松永久秀と松永久通父子及び
三好義継らの連合軍は、
8月4日には辰市城に迫り大規模な合戦となりました。
けれども筒井順慶は、これを迎え討ち、
松永軍に大きな被害を与え、
松永久秀の甥や重臣の竹内秀勝らを打ち取り
首500を挙げたとされています。
敗戦した松永久秀は筒井城を放棄し、
筒井順慶は、こうして再び
筒井城を奪還することに成功しました。
筒井城の奪還によって、
信貴山城と多聞山城を繋ぐ経路が分断され、
松永久秀は劣勢に立たされることとなりました。

<多聞山城の移築城門>
多聞山城 移築城門

【松永久秀と和解】
元亀2年10月25日、
筒井順慶は明智光秀の斡旋をもって織田信長に臣従します。
一方、松永久秀は佐久間信盛を通じて
織田信長に臣従したので、
同年11月1日に明智光秀と佐久間信盛の仲介で
筒井順慶と松永久秀はついに和睦しました。
やがて松永久秀は同じく織田信長と反目するようになった
15代将軍である足利義昭などと結託していきます。
けれども、筒井順慶は北小路城に、
松永久秀及び松永通父子を招待して
猿楽を催すなど表面上は
しばらく円滑な関係が続いていたとのことです。





【松永久秀の謀反】
元亀3年(1572年)4月、
松永久秀は織田信長に対する叛意を明らかにし、
三好義継、三好三人衆らと組んで
織田信長に謀反を起こします。

【めぐってきた運気】
元亀4年(1573年)になると、
4月に武田信玄が病死、
7月に足利義昭が槙島城の戦いに敗れて京都を追放され、
それを匿った三好義継も11月に織田信長に討伐されます。
12月、松永久秀も多聞山城を取り巻かれ和議を申し込み、
同城を明け渡す条件で降伏しました。
12月26日、こうして多聞山城は開城されました。
この頃に筒井順慶は織田信長に接近していたと見られ、
松永方となっていた河内私部城を陥落させています。
翌年の天正2年(1574年)正月、
松永久秀は岐阜城に伺候しており、
同じ月に筒井順慶も岐阜を訪れ織田信長に拝謁し、
3月23日、織田信長の臣従に際しその証として、
母親を人質として差し出しています。

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【織田信長傘下として】
その後、筒井順慶は織田信長傘下で参戦します。
天正3年(1575年)2月27日、
織田信長の娘、もしくは妹を妻に迎えたとあります。
同年3月に原田直政が大和守護に任命され、
その与力となり、
同年5月の長篠の戦いに織田信長に鉄砲隊50人を供出、
同年8月の越前一向一揆攻略にも原田直政が率いる
大和軍勢総員の内の隊で参戦しまし。
しかしながら、原田直政は天正4年(1576年)5月3日、
石山本願寺戦の三津寺砦攻めで戦死してしまいます。

【大和国支配と明智光秀の与力へ】
同年(1576年)5月10日、
織田信長により明智光秀と万見仙千代が使者となり
「大和一国一円筒井順慶存知」
で大和国支配を任されたとあります。
同時期に明智光秀の与力となった模様です。
5月22日には、
人質として差し出していた筒井順慶の母が帰国しました。
母の帰国を許可されたことの返礼も兼ねて、
筒井順慶は築城中であった安土城を訪問し、
織田信長に拝謁し、太刀二振に柿、布などを献上します。
大志て、織田信長からは縮緬や馬を賜っています。
5月30日、明智光秀が石山本願寺戦の陣地内で重病となり、
一乗院で坊衆7人に祈祷させています。

天正5年(1577年)、
筒井順慶は他の諸将と共に
紀州征伐と呼ばれる雑賀一揆の反乱を鎮圧しました。

【松永久秀との最後の決戦】
同年、松永久秀が織田信長に対して再度反旗を翻すと、
信貴山城攻めの先鋒を務めています。
手始めに片岡城を陥落させ、
続いて信貴山城へ総攻撃が行われました。
10月10日、遂に城は陥落、
松永久秀父子は切腹または焼死しました。
信貴山城陥落については、
筒井順慶が本願寺の援軍と称して
潜入させた手勢が内部から切り崩しを行い、
落城に貢献したと「大和軍記」は伝えています。
また、「大和志科」は、
松永久秀の遺骸を順慶が回収し、
達磨寺に手厚く葬ったという記述が見られます。

「和洲諸将軍伝」にも、
松永久秀の遺骸が
達磨寺に葬られた旨の記述が見られますが、
ここでは松永久秀の遺骸を回収し葬った人物は
「入江大五良」と書かれているとのことです。

松永久秀~三好長慶に忠義を誓った人物~官僚であり武将として時代の中心で活躍するも信貴山城にて死す。

【大和国の平定】
松永久秀父子の滅亡もあって、
天正6年(1578年)に大和平定が果たされました。
同年、織田信長の命令により龍王山城を破却しています。
同年4月、播磨攻めに参戦。
6月には神吉頼定が籠城する神吉城を攻撃しています。
帰国後の10月には、
石山本願寺に呼応した吉野の一向衆徒を制圧しました。
天正7年(1579年)には、
織田信長に反逆した荒木村重が篭る
有岡城攻めに参加しています。

有岡城・礎石

荒木村重と残された女性や家臣たちの悲惨な最期~有岡城の戦い~

大和郡山城へ移転】
天正8年(1580年)、
居城を筒井城から
郡山城へ移転する計画を立てていた所に、
8月に織田信長より本城とする
城以外の城の破却を促す命令が出されました。
筒井順慶は筒井城はじめ支城を破却し、
築城した郡山城に移転しました。
筒井城から郡山城へ拠点を移した根拠としては、
筒井城が低地にあり、
水害の影響を被りやすかったそうです。
同年9月8日、
織田信長が大和一帯の差出検地を筒井順慶に命じ、
12月まで明智光秀と滝川一益が奉行として
派遣されてこれを実行しています。
これに伴い、10月28日に
戒重・岡弥二郎・大仏供・高田当次郎など、
かつて松永久秀に追従していた筒井家配下の人物達が、
織田信長に一度離反した咎で
明智光秀らの主導で処断されました。
11月7日付「国中一円筒井存知」の織田信長朱印状で
正式に大和一国が任され、
郡山城入城が言い渡されました。
翌年の天正9年(1581年)6月3日、
かねてより確執があった吐田遠秀を郡山城で謀殺し、
6月15日にその領地を与えられています。

大和郡山城 門

同年の天正伊賀の乱では、
他の武将と共に織田信雄に属し、
9月3日に大和から伊賀へと進攻、
3700の手勢を指揮し、
蒲生氏郷と共に比自山の裾野に布陣しましたが、
伊賀衆の夜襲を受け、
半数の兵士を失う苦戦を強いられました。
この時、伊賀の地理に精通していた
菊川清九郎という家臣が
筒井順慶の窮地を救ったとされています。





本能寺の変の後】
天正10年(1582年)6月2日、
明智光秀が織田信長を討ち取った本能寺の変が起こります。
筒井順慶は福住順弘・布施左京進・慈明寺順国
箸尾高春・島清興(左近)・松倉重信ら一族、
重臣を召集して評定を行いました。
明智光秀は筒井順慶が与力であり、
織田信長の傘下に入る際の仲介者で縁戚関係にもあり、
武辺の多い織田軍団としては
数少ない教養人同士として友人関係でもありました。
そのため、明智光秀からは本能寺の変の後に
味方になるよう強く誘われたとあります。

明智光秀公 木坐像

筒井順慶は辰市近隣まで派兵して陣を敷きましたが、
積極的には動かなかったとされています。
けれども、消極的ながらも近江に兵を出して
明智光秀に協力したとあります。
その後も評定を重ね、
一度河内国へ軍を差し向ける方針を立てたものの、
結局は食料を備蓄させて篭城する動きを見せました。
そして6月10日には、
誓紙を書かせて羽柴秀吉への恭順を決意します。
同日、明智光秀の家臣である藤田伝五郎が
筒井順慶に明智光秀への加勢を促すよう
郡山城を訪れたましたが、
筒井順慶はこれを追い返しています。
6月11日には、
筒井順慶が郡山で切腹したという
風聞を始め流言蜚語が飛び交ったとあります。

明智光秀は与力で親密な関係にあった
筒井順慶の加勢を期待して、
河内国を抑えるため洞ヶ峠に布陣し、
筒井順慶の動静を見守っていましたが、
筒井順慶は静観の態度を貫徹しました。

【「洞ヶ峠」=日和見主義】
洞ヶ峠への布陣は、
筒井順慶への牽制、威嚇であったとも解釈されています。
明智光秀が洞ヶ峠に出陣したことが
後世歪曲されて喧伝され、
筒井順慶が洞ヶ峠で
羽柴秀吉と明智光秀の合戦の趨勢を傍観したという、
いわゆる洞ヶ峠の故事が生まれ、
この「洞ヶ峠」は日和見主義の代名詞として
後世用いられているとのことです。

【明智光秀の死】
明智光秀は6月13日に山崎での戦闘の敗走時に、
落ち武者狩りに討たれとされ死去します。
明智光秀は謀反に際し、
自らの与力的立場にある
近畿地区の織田大名たちが
味方してくれることを期待していましたが、
このうち18万石、
更に大和の与力を合わせると45万石の筒井順慶と
12万石の細川幽斎が味方しなかったことは、
その兵力の大きさで致命傷となったのでした。

明智藪

【羽柴秀吉の家臣へ】
6月14日、
筒井順慶は大和を出立して京都醍醐に向い、
羽柴秀吉に拝謁しました。
この際、羽柴秀吉は
筒井順慶の遅い参陣を叱責したとあります。
やがて羽柴秀吉の叱責によって
筒井順慶が体調を崩し、
その話が奈良一円に伝播して
人々を焦燥させたとあります。
6月27日、
織田家の後継者を選別する清洲会議が実施され、
筒井順慶は他の一般武将達と共に待機していました。
7月11日には、羽柴秀吉への臣従の証として、
養子(従弟、甥でもあった)定次を
人質として差し出しています。

【順慶の死去】
明智光秀の死後は羽柴秀吉の家臣となり、
大和の所領は安堵されました。

天正12年(1584年)頃から
胃痛を訴え床に臥していましたが、
小牧・長久手の戦いに際して出陣を促され、
病気をおして伊勢・美濃へ転戦しました。
無理がたたったのか、
大和に帰還して程なく36歳で病死しました。
筒井家は定次が継ぎました。





【筒井順慶の死後】
筒井順慶の重臣だった島左近は筒井順慶の死後、
跡を継いだ筒井定次と上手くいかず、
筒井家を離れましたが、
後に石田三成の家臣となり関ヶ原の戦いに参加しました。

石田三成公

羽柴秀吉と石田三成の運命の出会い・光秀と三成の接点とは?~三成の縁の地~

【筒井家断絶へ】
天正13年(1585年)閏8月18日、
筒井家は筒井順慶亡き後、
羽柴(豊臣)秀吉に伊賀上野に
20万石で転封されています。
徳川方の上杉討伐に動員されましたが、
上野城が攻められ留守番役の筒井玄播允が
戦わず開城して逐電したとの報告で引き返しました。
そのため、城は取り返しましたが、
関ヶ原の戦いには参戦できず、
戦後の加増を受けることはなかったということです。
その後も筒井定次は豊臣秀頼に年賀の挨拶に参城し、
家内が徳川派と豊臣派とで分裂し争い、
慶長11年(1606年)12月23日、
上野城が火災で罹災し、
その復興問題から両派による抗争が再燃しました。
慶長13年(1608年)、
筒井騒動で筒井家重臣の中坊秀祐が、
徳川家康に主君である
筒井定次の悪政や鹿狩での倦怠などを訴え、
それで改易され、筒井定次と嫡子の筒井順定は、
陸奥磐城平藩預かりでの幽閉後に
慶長20年(1615年)3月5日、
切腹させられたことで筒井家は絶家しました。
畿内の要衝で豊臣家に対する抑えの伊賀上野に
豊臣との間で曖昧な筒井定次を置く危険性と、
筒井定次自体への不信があったと見られています。

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