明智家臣

木俣清三郎守勝 三河出身~明智光秀と徳川家康に仕えた武将、その正体は??

木俣守勝



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【木俣清三郎守勝】

木俣 守勝(きまた もりかつ)は、
戦国時代から江戸時代初期にかけての徳川氏家臣でした。
晩年は彦根藩井伊家の家老を務めました。
楠木正成嫡孫の楠木正勝の子孫で、
木俣守時の子とされています。
守勝を中興の祖とする木俣氏は、
維新後に男爵に叙されました。

【生誕】
弘治元年(1555年)
【死没】
慶長15年7月11日(1610年8月29日)
【別名】
清左衛門尉(通称)
【戒名】
透玄院前土州摂誉光徹居士
【墓所】
金戒光明寺
【官位】
土佐守
【主君】
徳川氏
【父】
木俣守時

【人生】
【先祖は楠木正成】
楠木正成の孫である右馬守楠木正勝の子孫が
伊勢の神戸(かんべ、現在の三重県鈴鹿市神戸)
に移住して木俣氏を名乗ったのが木俣氏の興りとのことです。
そして天文年間(1532⇒1555年)、
阿波守木俣守時の代に三河に移住して徳川家康に仕え、
その木俣守時の子が木俣守勝であるとのことです。

木俣氏が楠木正勝の後裔であることは、
楠木氏嫡流である
伊勢楠木氏の家系図の側にも記載されており、
おおむね事実であると考えられています。

【父・木俣守時の時代に仕える】
六代目である木俣守時は、
徳川家康の父親である松平広忠の時代に仕官したのとことです。
その子供である木俣守勝は9歳の折、
徳川家康の小姓となり、
19歳の時 岡崎が面白くないと
松平(後の徳川)家を出奔。

明智光秀に仕える】
明智光秀に仕官したとのことです。
木俣守勝は幼い時から徳川家康に仕え、
元亀元年(1570年)に元服しました。
家族とのいさかいから出奔して、
天正元年(1573年)に京都に出て
明智光秀に仕えたそうです。
戦功により50石を与えられて
織田信長にも拝謁を許されました。

明智光秀について~駆け足で手短にわかる明智光秀の生涯~




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【明智光秀の下での武功】
【1.和州片岡城攻め】
この時は可児才蔵との相乗りだったとのことです。
この戦いは、
天正5年(1577年)8月、
松永久秀が織田信長に反旗を翻し、信貴山城の戦いに先立つ
同年10月1日(1577年11月20日)に、
明智光秀・筒井順慶・長岡藤孝ら約5千兵で攻城しました。
ちなみに細川藤孝の息子である細川忠興・興元兄弟は、
この戦いでの働きにより織田信長から直筆の感状を与えられたとのことです。

【2.播州神吉(かんき)城攻めでの一番乗り槍下功名】
天正6年(1578年)2月、
加古川城での毛利討伐の軍議で
別所氏と羽柴秀吉が決裂し三木合戦が始まりました。
その時、城主である神吉頼定は
同じ赤松氏一族の別所氏につきました。
このため、神吉城も羽柴秀吉と戦うこととなりました。
周辺の野口城・志方城・高砂城と共に守りを固め、
神吉頼定は三木の大村坂で羽柴秀吉勢を攻め立て、
一旦は大勝利を収めます。

けれども、羽柴秀吉は周囲から落とす作戦に切り替えます。
まず4月6日に野口城が落城し、
続いて6月23日(グレゴリオ暦7月27日)に
神吉合戦が始まりました。
神吉頼定は兵約2000人で籠城し、
対する羽柴秀吉勢は
織田信忠・明智光秀・佐久間信盛荒木村重ら約3万人で攻め、
羽柴秀吉勢は神吉頼定の叔父である
神吉貞光(藤太夫)を佐久間信盛を通して
謀略で味方に引き入れ神吉頼定を暗殺、
7月16日(8月19日)に神吉城は落城したとされています。
この時に50石を与えられて
織田信長にも拝謁を許されたと伝えられています。

本能寺の1年前に徳川家康に戻る】
本能寺の変が起こる1年前の
天正9年(1581年)2月までに徳川家に復帰し、
天正10年(1582年)の伊賀越えでは
地理に明るい木俣守勝が
徳川家康の三河国帰国を助けたとのことです。
その直後の天正壬午の乱では、
滅亡した武田氏旧臣の招聘を命じられ、
成瀬正一らの案内で甲斐国に入り、
一条・山県・土屋・原の組に属していた
旧臣を招聘することに成功したとのことです。
徳川家康は彼らを井伊直政の傘下に組み入れて
「甲州同心衆」として再編し、
木俣守勝にはその統率を命じています。
これが縁で井伊直政の寄騎になったと考えられています。
こうした功績によって2000石を与えられたとのことです。




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【木俣守勝の正体は?】
木俣守勝が京都に出て明智光秀に仕えたとされる年は、
大事件が起こった年でした。
それは室町幕府の15代将軍である足利義昭の追放です。
そして朝倉と浅井の滅亡によって、
織田信長がいよいよ天下人への道を大きく
歩みだした年でもあります。
そうした年に、木俣守勝は明智光秀に仕えました。
そして、武功をたてて、
織田信長にも拝謁を許されたのち、
再び徳川家康の下へ戻っています。
そして徳川家康の処へ戻ってしばらくしたのち、
武田勝頼が滅びます。
天正10年(1582年)4月の事でした。
織田信長が武田勝頼を討つために出陣し、
その帰路のルートとして、
徳川家康の領地を通ることとなりました。
その目的は一説には、
徳川家康の領地の軍事的視察ともいわれています。
徳川家康はそうした織田信長の
目論見を見抜いたか否かは
わかりませんが、
織田信長の一行に歓待に意を尽くします。
そしてその時に徳川方として
その役目を果たしたとされている一人が
木俣守勝と言われているそうです。
そして当然、
明智光秀も織田信長に同行していました。

のちに武田の旧臣を徳川に招聘した木俣守勝。
そしてこれまた一説ですが、
木俣守勝を通じて
明智光秀と武田の旧臣たちが通じていたともあります。
もしかしたら・・・
歴史上大事件が起きる年に明智光秀に仕官して、
そして武功をたてて程なく、
徳川家康の処へ戻ったのも、
最初から仕組まれていたのかもしれません・・。
とある密命を帯びて・・。

木俣守勝は徳川家康が織田信長に放った
諜報員だったのかもしれません・・。

実は木俣守勝の父親である木俣守時も
また、ナゾ多き人物とされているそうです。
もしかしたら親子2代にわたって
諜報活動などしていたかもしれませんね・・。
だから、木俣守勝が明智光秀の士官に
なったのも、
父親の木俣守時も活動が下地になっているのかな・・
と思ってしまいました。

【光秀亡き後は石谷頼辰への連絡役】
そして木俣守勝は明智光秀から長曾我部元親へ仕えた
石谷頼辰(いしがい よりとき)に、
主君である長曾我部元親に対して
徳川家康に忠節を尽くすよう求める内容の
書状を届けたとされています。
長曾我部元親は、かつて
明智光秀が存命だった時は、
明智光秀⇒齋藤利三⇒石谷頼辰⇒長曾我部元親でした。
それが、明智光秀と斎藤利三亡き後は
長曾我部氏関係は、
かつて明智光秀に仕えていた木俣守勝になったようです。

ちなみに石谷頼辰は明智光秀の重臣の斎藤利三の実兄で、
土岐一族である石谷氏の養嗣子になりました。
そして義理もしくは異父妹が長曾我部元親に嫁いでいます。

【蓑輪時代】
その後、天正18年(1590年)の関東仕置によって
井伊直政が上野国箕輪に入ると、
木俣守勝は3000石を与えられました。
この箕輪時代に井伊家臣団は再編され、
井伊直政の寄騎であった徳川家臣は
井伊家臣へと転属されて
「御付人」と称されるようになったとのことです。
その中でも木俣守勝は筆頭として位置づけられ、
後に徳川御三家などに見られた付家老の先駆的存在となりました。
関ヶ原の戦い後、
近江国佐和山を与えられた井伊直政からは、
長年の功労によって「村雨の壺」が与えられたとのことです。

【井伊直政の死去後】
慶長7年(1602年)に井伊直政が亡くなり、
井伊直継が跡を継ぐと、
徳川家康から鈴木重好とともに井伊直継の補佐と
佐和山城に代わる彦根城の築城を命じられました。
また、井伊直継からも加増を受けて合わせて
4000石を与えられました。

ところが、慶長10年(1605年)に
病気がちの木俣守勝に代わって
鈴木重好が政務の中心となると、
同輩の椋原正直や西郷重員(正員の子)らは
鈴木重好父子が不正を行っていると徳川家康に告発します。
木俣守勝は鈴木重好父子の弁護をしたものの、
徳川家康は鈴木重好を追放して木俣守勝に政務を行わせ、
鈴木重好の息子である鈴木重辰や
椋原正直・西郷重員らに
和解の起請文を書かせて事態を収めました。
鈴木重辰が井伊家に留まれたのは、
木俣守勝が政務復帰の条件として
鈴木重辰を許すことを挙げたからだとする説があります。

慶長13年(1608年)には改易された
筒井氏の伊賀上野城を主君である
鈴木直継とともに受け取っています。
慶長15年(1610年)に木俣守勝が病に倒れると、
徳川家康から薬を贈られるなど
懸命な治療が行われたものの、
静養先の京都で死去し、
金戒光明寺に葬られたとのことです。

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