平安時代

多気城 (常陸国)~伝承では大掾氏の平維幹が築城した「多気の山城」、現時点は戦国時代に築城とされる謎の城。

多気城 (常陸国)



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多気城 (常陸国)】

多気城(たきじょう・たけじょう)は、
常陸国筑波郡多気
(現在の茨城県つくば市北条小字多気)
にあった日本の城です。
多気山城(たきさんじょう)・
城山城(じょうやまじょう)とも称します。
現存する史料や遺物が少なく、
謎の城とされてきました。

【別名】
多気山城・城山城

【城郭構造】
山城

【築城主】
平維幹(伝)

【築城年】
平安時代中期

【主な城主】
多気氏

【廃城年】
関ヶ原の戦い以後

【遺構】
堀・土塁

多気の山城
城山(じょうやま)と通称される
多気山(たけやま、標高約129.4m)に
築かれた山城の跡で、4つの曲輪があり、
それらを堀や土塁が囲んでいます。
その外側には大きな堀の跡があり、
南には土橋の跡も見つかっています。
4つの曲輪のうちI〜III曲輪は
連なりあって
多気山の山頂から中腹にかけて広がり、
IV曲輪は少し離れて多気山と
西隣の道場山との間にあります。
「筑波町史(上巻)」では
「保存状態が比較的良好であり、
当地方の戦国史解明の重要な手掛り」
と記載されているとのことです。




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【城の歴史(伝承編)】
平安時代中期に
常陸平氏の宗家である大掾氏
平維幹が常陸国筑波郡水守から
多気の地に移り築いた城とする
説があり、「吾妻鏡」に登場する
「多気の山城」とは平維幹が築いた
多気城とされているとのことです。

【多気権大夫とその子孫】
平維幹は同国筑波郡多気に因んで
多気権大夫と号し、
多気を拠点にして勢力を
拡大させたとのことです。
なお、京都においては、
平維敏や平維叙らとともに
藤原実資に臣従していたということです。
四男である平為賢(伊佐為賢)は
刀伊の入寇で活躍し、
肥前国を賜ったということです。
ただし、実際に多気の地に定着したのは
多気姓を継承した
平維幹の孫である重幹の子の
致幹であるとされており、
彼が実質的な多気氏の祖で
あるとする見方があるそうです。
なお致幹は「後三年合戦記」などで
「多気権守宗基」という名で登場しています。

【現時点では戦国時代の築城】
しかしながら、現存する大規模な城郭遺構は
戦国時代、特に永禄から
慶長にかけてのものと
考えられているとのことです。
茨城城郭研究会は、
平安時代の城跡に
大改修を施したものであろう、
という見解とのことです。

建久4年の常陸政変で没落した多気氏】
平維幹の子孫は代々多気氏を
名乗ってこの地で勢力を持っていました。
しかしながら建久4年(1193年)、
6代の多気義幹の時、
八田知家らの策略にはまり没落しました。
これを建久4年の常陸政変と称します。
鎌倉幕府 八田知家の館

【たきたろさま】
けれども多気義幹は今も
北条地区の住民から
「たきたろさま」と呼ばれ、
親しまれているとのことです。
発掘調査では、
室町時代頃のものと思われる
土師質土器が見つかっていますが、
多気義幹の死から
この時代までの
多気城の様子は不明であるとのことです。




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【純軍事目的で築城か】
現時点では戦国時代に
純軍事目的で築城されたことが
推察されているとのことです。
文献史料でも永禄2年(1559年)に
結城氏が小田氏側の北条を攻め、
元亀3年(1572年)に
北条付近で造作が行われていること、
天正7年(1579年)に
「嶽山再興」の記録がある程度とのこと。
これまでに出されてきた
築城の理由には、以下のような説が
あるとのことです。
<1>
北条五郎顕家の館とされる
小泉館の詰めの城。

<2>
上杉謙信または佐竹義重
小田城を攻めるために築城。

<3>
佐竹義宣関ヶ原の戦いの
前後の緊迫した状況で築いた。

戦国時代以降の
出土遺物はわずかで、
同時代の陶磁器は
発掘されていないとのことです。
このことや、火災の痕跡・鉄砲玉などの
戦闘形跡も見られないことから、
最終期にはあまり
使用されなかったと
推測されているとのことです。

【現況】
現地は山林になっています。
多気山では採石が
行われていたため、
城郭の南西部の地形は
往時に比べ大きく変形しています。

【古代・中世初期における地域の中心的存在】
つくば市北条や平沢周辺には
筑波郡衙跡とされる平沢官衙遺跡を始め、
古墳時代から古代にかけての
遺跡が集中しています。
筑波山 遠景
北条には多気太郎(多気義幹)
の墓とされる五輪塔や
多気氏が整備した裏堀が残されています。
なお、多気義幹は
また京都府宇治市の
平等院に似た構造を持つ
日向廃寺という寺院跡の遺跡もあります。
こうしたことから北条・平沢は
古代から中世初期に
地域の中心的位置を占め、
中世期も小田に次ぐ地位に
あったと考えられています。

【建久4年の常陸政変】

建久4年(1193年)5月に
曾我兄弟の仇討ちが発生すると、
同じ常陸国の武士であった
八田知家は策を巡らして
「八田知家が多気義幹を討とうとしている」
と流言を流し、
これを知った多気義幹が
多気山城に兵を集めます。
すると今度は八田知家は多気義幹の許に
使者を派遣して
「頼朝のいる富士野で狼藉(仇討ち)が
発生したので富士野へ
同道して貰いたい」と要望します。
多気義幹はいよいよ噂が
事実であると考えて防備を固めます。
これを見た八田知家は6月12日に
「多気義幹の謀反」を鎌倉幕府に
訴えるに至ったとのことです。
幕府は八田と義幹を鎌倉へと召喚し、
22日に両者を対決させました。
八田は仇討事件の事を知って
義幹に富士野に駆けつけようと
提案したところ、
義幹は兵を集めて多気山城に立て籠もり
叛逆を企てたと主張したのでした。
これに対して義幹は反論しましたが、
彼の主張は「意味不明」とされた上に
実際に兵を集めて立て籠った事実は
否定できず、義幹の所領と所職は
没収されて同族の馬場資幹に与えられます。




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そして義幹は岡部泰綱に
預けられることになりました。
(「吾妻鏡」)。
この事件を「建久4年の常陸政変」
と称するとのことです。
また、同年に発生した義幹の実弟である
下妻広幹の処刑や
源頼朝の実弟である
源範頼の失脚も
この政変に関係するという
説もあるとのことです。
その後の義幹の消息は不明となっています。

【大掾氏】

大掾氏(だいじょうし)は、
中世常陸国に勢力を持った一族で、
軍事貴族です。
坂東平氏(桓武平氏)国香流。
常陸平氏の嫡流でありo、
多くの庶家を輩出しています。
通字は「幹」(もと)。
使用の家紋は「対い蝶(むかいちょう)」、
「三つ巴(みつどもえ)」。

平国香の子貞盛は天慶の乱で
常陸に多くの所領を得ました。
貞盛は弟繁盛の子維幹を養子にし、
常陸の所領を相続させました。
平維幹は常陸大掾職に任ぜられ、
その子孫は代々大掾職を
世襲したため、
職名から「大掾氏」と
呼ばれるようになったとされています。

【吉田(大掾)資幹以前は・・】
けれども実際に当の大掾氏の系図にすら、
維幹の子である為幹から
曾孫にあたる吉田(大掾)資幹まで
大掾に任官された者に関する記述はなく
現存する12世紀中期以降の
常陸国の国衙が発給した文書においても
目代および国衙の税所を統括し後に
「税所氏」と称した百済氏(百済王氏)
の署判があるのみとのことです。
従って、吉田(大掾)資幹以前の
常陸平氏の嫡流を「大掾氏」
と称することは史実とは
合致しないとのことです。

【君臨した事実はない】
常陸平氏が常陸の国衙と関係があり
在庁官人であった者もいたと
考えられますが、資幹以前の段階で
在庁官人の頂点として
君臨した事実はなかったと
みられています。




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【所領と所職を没収】
嫡宗家は筑波郡多気に本拠地を置き
多気氏と呼ばれましたが、
建久4年(1193年)、
多気義幹が失脚して
所領と所職を没収され、
吉田氏の吉田資幹(表記は助幹とも)に
惣領の地位とともに与えられました。

【常陸平氏の再編成と】
この時に源頼朝からの下文によって
常陸大掾職に任ぜられ、
吉田(馬場)資幹の下に常陸国の在庁官人
および常陸平氏の再編成が
進められることになりました。

【大掾氏成立と馬場氏
源頼朝から吉田資幹が
常陸大掾に任ぜられたこの時が
実際の「大掾氏」の成立であったと
考えられています。
その子孫は水戸城を本拠地として栄え、
馬場氏とも呼ばれました。

【源頼朝による常陸武士の掌握、の説】
通説では、多気義幹が
建久4年の常陸政変で
失脚したことによって
常陸平氏の惣領と
常陸大掾の地位が
馬場(吉田)資幹に移ったとされています。
けれども、平安時代後期
(仁平元年(1151年)以降)に
常陸国の国衙(留守所)から
発給された文書には
大掾の署判が存在せず、
大掾の署判が入った文書が
出現するのは馬場資幹の
大掾就任後であるとのことです。
従って、少なくてもこの間
常陸大掾の地位が空席
であったと考えられており、
多気義幹の常陸大掾在任の事実
及び多気氏を含めた
常陸平氏が建久以前より
常陸大掾の地位を
継承してきたとする事実に対して
否定的な説もあるとのことです。
また、常陸平氏自体も
12世紀には解体されつつあり、
多気義幹が一族中では
最有力かつ中心的存在では
あったのですが、
惣領としての実態は
失われていたとも言われています。
この説によりますと、
多気義幹の失脚、
馬場資幹の常陸大掾任命と
馬場資幹を惣領とした
常陸平氏の復活(事実上の新生)が
源頼朝による常陸武士の
掌握の過程として
行われたとされています。

・・・源頼朝は政治家としては一流ですね、
やっぱり。
そして怖いです。
徹底的ですね。

【所在地】
茨城県つくば市

【立ち入り禁止】
宗教法人(茨城県龍ヶ崎市の正覚山正信寺)
が山全体を所有しており、
一般人は立入禁止と厳重に管理されています。

小田城跡(つくば市)~鎌倉初期に八田知家が築城し、戦国時代の小田氏15代の居城でした。

八田知家~小田氏の始祖であり十三人の合議制の一人で源氏4代に仕えた人物です。

筑波山神社~万葉集にも登場する「筑波」~山頂からの眺め良し!日本史を見守ってきた山。

海老ヶ島城~室町時代に結城成朝が築城、子が海老原氏と名乗り、やがて結城氏と小田氏で城の争奪戦となり勝者は佐竹氏。

山王堂の戦い~上杉謙信VS小田氏治の野戦で激戦、上杉勢の「神速」で小田勢は敗退し小田城が陥落。

結城城~結城朝光が築城、室町時代の結城合戦の舞台、その後廃城になるも水野宗家が入り幕末まで続きました。

曽我兄弟の縁の地・富士宮市~井出の代官屋敷・曽我八幡宮・曽我兄弟の供養塔・曽我の隠れ岩・音止の滝 

曽我兄弟の縁の場所(富士市)~化粧坂少将(姫宮神社)・曽我寺・曽我八幡宮・五郎の首洗い井戸

源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく

藤原実資~藤原北家嫡流の小野宮流の家領を継ぎ「賢人右府」と呼ばれ、貴重な資料である「小右記」を残す。

藤原隆家~藤原道隆の四男、「刀伊の入寇」で武勇を挙げ政敵・道長も一目置いた気骨ある人物です。

水戸城~馬場氏が平安時代に築城し、江戸氏、佐竹氏が居城、その後は御三家・水戸徳川家の居城になりました。

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