城跡

二本松城~国史跡、日本100名城・日本さくら名所100選、二本松少年隊の悲話があります。

史跡 二本松城跡



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二本松城

二本松城(にほんまつじょう)は、
福島県二本松市郭内にある日本の城(平山城)です。
日本100名城の一つです。
別名、霞ヶ城・白旗城と呼ばれています。
平成19年(2007年)7月26日、
二本松城跡として国の史跡に指定されました。
「霞ヶ城公園」として
日本さくら名所100選に選定されています。

史跡 二本松城跡 案内図

【別名】
霞ヶ城、白旗城

【城郭構造】
梯郭式平山城

【天守構造】
不明

【築城主】
二本松満泰

【築城年】
室町時代中期

【主な改修者】
丹羽光重

【主な城主】
二本松氏、伊達氏、
蒲生氏、上杉氏、
加藤氏丹羽氏

【廃城年】
明治5年(1872年)

【遺構】
天守台、石垣、堀切

【指定文化財】
国の史跡

【再建造物】
箕輪門、附櫓

【二本松城について】
二本松城は二本松市街地の北に位置し、
麓の居館と、阿武隈山系の裾野に位置する
標高345mの「白旗が峰」を中心として
築かれ、南・西・北を丘陵で囲まれ、
東方がやや開口する
自然の要害地形を利用して作られた
中世及び近世の城跡で、梯郭式の平山城です。
江戸時代は二本松藩主丹羽氏の居城となりました。
二本松城跡は、中世から近世にかけて
同じ場所で存続した東北では稀有な城跡です。

戊辰戦争においても重要な役割を果たしました。
慶応4年(1868年)年7月、
二本松少年隊の悲話を残して落城しました。

二本松城と二本松少年隊

なお慶長20年(1615年)に起きた
大坂の陣以降、城を枕に討ち死にした藩は、
三百余藩ある中で、二本松藩だけでした。

<丹羽和左衛門・安倍井又之丞 自尽の碑>
丹羽和左衛門(にわわざえもん)
66歳・城代。
安倍井又之丞(あべいまたのじょう)
65歳・勘定奉行。

戊辰戦争による二本松城落城した際、
共に自尽(割腹)した両人の供養碑です。

丹羽和左衛門・安倍井又之丞 自尽の碑

現在は「霞ヶ城公園」として整備されており、
石垣と再建された箕輪門があります。
山上の本丸には天守台、石垣が
近年になって再構築されました。

<天守台>
二本松城跡 天守台

また、城の入り口には
二本松藩7代藩主・丹羽高寛が、
家臣で儒学者の岩井田昨非の献策により、
一夜のうちに自然石に藩政改革と
綱紀粛正の指針を刻ませた「戒石銘碑」があり、
昭和10年(1935年)に
「旧二本松藩戒石銘碑」として
国の史跡に指定されています。
旧二本松藩戒石銘碑

城郭由来の建造物として、
県指定文化財の茶亭「洗心亭」が、
明治時代に城内に再移築され現存しています。




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【二本松城の歴史】
【室町時代】
室町時代初期の興国2年/暦応4年(1341年)、
室町幕府より奥州探題に任ぜられた
畠山高国が塩沢・殿地が岡(「田地が岡」とも)に
最初の居を構え、地名を二本松と改称しました。
更に、畠山氏7代当主である畠山(二本松)満泰が
応永21年(1414年)もしくは
嘉吉年間(1441年 -1443年)に
この白旗ケ峯に居を移し、
二本松城と号したとされています。

<二本松城の歴史(パネル)>
二本松城の歴史(パネル)

【安土桃山時代】
以後、陸奥に定着していた二本松氏は、
戦国時代になると伊達政宗の攻撃を
受けるようになります。

【粟之巣の変事】
天正13年(1585年)10月、
15代当主であった二本松義継は
伊達政宗の父親である伊達輝宗に降伏を申し出ます。
伊達輝宗のもとに出向いた二本松義継は、
伊達輝宗を拉致して
二本松城へ連れ去ろうとします。
けれどもこれを聞きつけた伊達政宗に
伊達輝宗もろとも射殺されたのでした。

【人取橋の戦い】
伊達政宗はすぐに二本松城攻めを開始。
守備側は二本松義継の子である
国王丸を継嗣に立て籠城します。
二本松城は伊達政宗の猛攻によく耐え、
援軍の佐竹義重・相馬義胤らが
加勢に駆けつけ、伊達政宗の攻撃を撃退しました。

【二本松城の落城と二本松氏の滅亡】
けれども翌年の天正14(1586年)、
伊達政宗が再度二本松城へ進軍すると
内通者が出たため、同年7月16日に
相馬義胤の口添えにより
二本松城は開城し、ここに二本松氏は滅亡しました。

蒲生氏郷の支城になる】
伊達政宗は片倉景綱
次に伊達成実を二本松城代としましたが、
天正19年(1591年)に
伊達政宗が葛西大崎一揆の戦後処理で
豊臣秀吉の命令により岩出山城に転封されます。
そして二本松城は会津若松城主である
蒲生氏郷の支城となったのでした。

二本松城 本丸からの眺め 紅葉

上杉景勝が会津に入部】
蒲生氏郷は蒲生郷成・町野繁仍を城主に据えましたが、
慶長3年(1598年)に蒲生氏郷の子である
蒲生秀行が豊臣秀吉の命令で転封となります。
代わって上杉景勝が会津に入ると
城代は再度交代し下条忠親が城代となりました。

【蒲生氏の復帰】
上杉景勝が会津を領有した期間は短いものでした。
2年後の慶長5年(1600年)、
徳川家康に敵対した上杉景勝は
関ヶ原の戦いの後に米沢城に移されました。
会津には蒲生秀行が復帰し、
梅原弥左衛門と門屋勘右衛門が
二本松城代となりました。

【江戸時代】
元和8年(1622年)、
本山豊前・本山河内が城代となり、
後に外池信濃守が城代となりました。

加藤嘉明が入部】
寛永4年(1627年)、
蒲生秀行の嫡男である蒲生忠郷が
跡継ぎの無いまま死去します。
また次男の蒲生忠知が
伊予松山城に転封となり、
会津に蒲生忠知と入れ替わりに
加藤嘉明が入ると、
二本松城には加藤氏与力で女婿の松下重綱が
下野烏山城から5万石で入城しました。
翌年の寛永5年(1628年)に松下重綱が没すると、
その子である松下長綱は三春城に移され
二本松城には加藤嘉明の次男である加藤明利が入城しました。

二本松城 乙森への道

【丹羽氏の入城と大改修】
寛永18年(1641年)、加藤明利が死去します。
寛永20年(1643年)、
加藤嘉明の嫡男である加藤明成が改易となり、
甥で加藤明利の子である加藤明勝も
本家と同様に改易となりました。
代わって白河小峰城より
丹羽長秀の孫である丹羽光重が
10万700石で入城しました。
丹羽光重は二本松藩の藩庁としての
偉容を備えるため大改修を行いました。
この際に、本丸に石垣が積まれ、
3重の天守が築かれたのでした。
以後、明治維新まで丹羽氏の居城となったのでした。

二本松城 本丸 石垣

【戊辰戦争】
【白河口の戦い・二本松の戦い】
慶応4年(1868年)の戊辰戦争に際し
二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して
新政府軍と戦いましたが、7月29日、
藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつかれ、
新政府軍が二本松城下に殺到し、
僅か1日の戦闘において落城したのでした。
手薄になった攻城戦においては
「二本松少年隊」と呼ばれる少年兵も動員されました。
藩主の丹羽長国は米沢に逃亡し、
9月に降伏し、石高を半減され藩が存続しました。
この攻城戦において城の建物の多くが焼失したのでした。




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【二本松少年隊】
二本松少年隊(にほんまつしょうねんたい)とは、
幕末の二本松藩において
戊辰戦争に出陣した
12歳から17歳の少年兵部隊のことです。

二本松少年隊

ただし、会津藩の白虎隊と違い当時は隊名がなく、
二本松少年隊と名づけられたのは
戊辰戦没者五十回忌に刊行された
「二本松戊辰少年隊記」からでした。
戊辰戦争への出陣は14歳未満では不可能なはずですが、
二本松藩には危急の際には
年齢を2歳加算する入れ年
(実年齢より高い年齢として出兵の許可を出す)
という独自の制度があり、
最少年齢の隊士の年齢は12歳となったのでした。

二本松少年隊 説明板

八番組組頭・丹羽右近率いる
大壇口守備隊の大砲方銃士隊として
編成されていた木村銃太郎指揮下の
25名が特に有名であるとのことです。
木村は、藩の西洋流(高島流)砲術師範、
元は同じ砲術の武衛流師範で後に
江戸留学の際に西洋流(高島流)砲術を
習得した人物であり、
隊士は彼の父である木村寛治の
開いた木村道場の塾生でした。
26日朝ないし27日朝に編成を命じられ、
27日夜に編成を完了しています。
大壇口での戦いにおいて
木村をはじめその多くが戦死したのでした。
負傷し新政府側の野戦病院として
使用されていた称念寺に運ばれた者もいましたが、
やがては息絶えてしまったとのことです。
これらの出来事は、戊辰戦争における
悲劇のひとつとして知られています。

二本松藩主・丹羽氏の菩提寺でもある
大隣寺に戊辰戦争殉難者の
戦死群霊塔とともに、
二本松少年隊隊長の木村銃太郎、
副隊長の二階堂衛守と、
少年隊戦死者14人の供養塔が
建立されています。

また二本松城跡である
霞ヶ城公園には群像彫刻や
顕彰碑が建てられています。

【近現代】
明治5年(1872年)、
廃城令によって残る建物も全て破却されました。

昭和57年(1982年)、
箕輪門と附櫓が復元されました。

平成5年(1993年)から
平成7年(1995年)
にかけて本丸の修復、復元工事がなされ、
天守台や本丸石垣が整備されました。

<天守台・自尽の碑>
二本松城跡 天守台と自尽の碑

<石垣>
二本松城 石垣

平成27年(2015年)10月10日から9日間、
足場を組んでLEDを取り付けた
模擬天守が期間限定で構築されました。

平成19年(2005年)7月26日、
中世から近世への築城技術の変遷を
知ることができる重要な城跡として、
「二本松城跡」が国史跡に指定されました。

【二本松城の構造】
二本松城は二本松市街地の北に位置し、
麓の居館と、標高345mの
「白旗が峰」に築かれた城郭からなる
梯郭式の平山城です。




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【畠山時代】
頂上の城跡が時代的には古く、
室町中期、畠山氏第4代である
二本松満泰によるものです。
二本松氏の以前の居館は
殿地が岡(「田地が岡」とも。
現二本松市立塩沢小学校の敷地)でした。
殿地が岡は平城ですが、
周囲の平地から20mほどの微高地に築かれており、
館的な要素が色濃い城でした。
観応の擾乱以降不穏になっている
情勢にあわせ、城の南方1.5kmほどの
「白旗が峰」に築城したと考えられています。

【本丸・曲輪】
山の頂上の本丸が置かれ、
本丸と平地の比高は約120mあります。
本丸から北西・東・南に
それぞれ尾根が伸びており、
東と南の尾根にそれぞれ曲輪が築かれています。
唯一他の山につながっている
北西の尾根は堀切で遮断されており、
北方の尾根伝いに敵が侵入するのを
防ぐ形となっています。

二本松城跡 天守台からの眺め 紅葉

【蒲生時代】
天正19年に蒲生氏郷が入部すると、
城域は拡大され、梯郭式の城へと変貌しました。
また、本丸直下に穴太積みによる
大石垣が組まれ、
織豊城郭としての形が整えられました。

二本松城跡 乙森駐車場からの本丸 石垣

これと同時に城下も整備されました。
蒲生氏の支配の後は加藤嘉明が
会津に入部し、加藤領となりました。
このときに山麓部分の高石垣が築かれています。

二本松城跡 本丸石垣からの眺め

【丹羽時代の大規模改修】
寛永20年、丹羽光重が二本松に入部すると、
城下の大規模な改修を行いました。
まず、奥州街道を付け替えて
直接城下を通らないようにし、
城の南に東西につながる観音丘陵を
城域に取り込んでいます。
城と丘陵で囲まれた地域は武家地となり、
丘陵には切通しが開かれました。
このときの城域は「郭内」
という地名に残っています。
切通しには門が設けられ、
城の外部の警戒線として機能させました。
丘陵も含めた広大な城域は、
東に口をあけた馬蹄のような
形になっており、外部から城に侵入するには
一旦丘陵と切通しを越えなければ
ならない構造になっています。
この点は鎌倉と作りが似ているとのことです。
また、城域外から本丸を除いた
城の様子がまったくわからないという
防御に有利な縄張りを持っています。

【東側】
東側の開口部には水堀と門が築かれ、
守りを固める形になっています。
以前は堀の形に沿ってクランクがありましたが、
近年の道路改修で消失しました。
丘陵のうち北東方面
(現在の二本松第一中学校付近)は
なだらかですが、
その北を流れる鯉川の段丘崖が
あったと考えられ、相応の防御力を持っています。

二本松城跡 天守台からの安達太良山

【寺社の配置】
寺社は観音丘陵の南面と
城の開口部で水堀より東に続く
谷の両側に集中して配置されています。
特に沢地形の奥に寺社が築かれることが多く、
外敵が進入したときに
兵の駐屯場所と出撃拠点を
かねるような形になっています。
城下最大の寺社は二本松神社ですが、
観音丘陵南面の尾根上に築かれており、
独立した曲輪として機能するようになっています。

【弱点の西側】
また、地形的な弱点である
西側の搦手には、
大隣寺・龍泉寺が配置され、
防御力を補う形になっています。

二本松城跡 天守台より北西方面

【丹羽時代から機能しなかった本丸】
丹羽氏が入部してから本丸は
ほとんど機能していませんでした。
これは城の中心が
山麓に移ったことを示しています。
けれども、室町期から城として
活用されてきただけあり、
本丸周辺には年代が特定できないものを
含めて無数の平場がそのまま残されています。




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【所在地】
福島県二本松市郭内3丁目・4丁目

【交通アクセス】
(電車・徒歩)
JR東日本東北本線「二本松」駅から
徒歩約20分で内城入口、
入口から本丸まで徒歩約15分

(車)
<東京方面から(約3時間)>
東北自動車道浦和IC⇒二本松IC

<仙台方面から(約1時間)>
東北自動車道仙台南IC⇒二本松IC

<新潟方面から(約2時間)>
磐越自動車道新潟IC⇒二本松IC

【駐車場】
県立霞ヶ城公園の駐車場(無料)がいくつかあります。
本丸の直ぐ近くには乙森駐車場があります。

二本松城跡 駐車場 乙森

【トイレ】
いくつかありますが、本丸付近にはありません。

【日本100名城】
平成18年(2006年)4月6日、
日本100名城(11番)に選定され、
2007年(平成19年)6月から
全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始されました。

<スタンプ設置場所>
◆二本松市歴史資料館受付窓口

【所在地】
〒964-0917 福島県二本松市本町1丁目102

【休館日】
毎週月曜日
(祝日にあたるときは、その日以降の最初の休日でない日)
年末年始(12月29日から1月3日)

【開館時間】
午前9時から午後5時
(入館は午後4時30分まで)

【入館料】
大人:100円(80円)
高校生:50円(40円)
小・中学生:30円(20円)
※()は団体料金で15名以上の利用で該当します
※特別展の場合は別料金(500円以内)
※身体障害者手帳、精神障害者保健福祉手帳または
療育手帳をお持ちの方は、無料(手帳をご提示ください。)

◆JR二本松駅観光案内所(一般社団法人にほんまつDMO)
【所在地】
福島県二本松市本町
JR「二本松」駅構内
【電話】
0243-22-0785

改札を出て右側にあります。
市内の観光案内やレンタサイクルの
貸し出しを行っています。

【営業時間】 
午前9時~午後5時30分
(午後0時~午後1時は窓口不在)     

【定休日】 
12月29日~1月3日

所要時間:1時間~3時間程度

本宮城(福島県本宮市)、二本松畠山氏の一族である鹿子田氏が築城した城です。

会津若松城(鶴ヶ城)~日本100名城、蘆名氏が築城、伊達・上杉・蒲生・加藤・保科・松平と続いた天下の名城。

伊達政宗~独眼竜・東北の覇者~内向的だった子供が成長し、とことん人生を楽しんだ生涯!

古渡城(常陸国)~築城は山岡景友、後に丹羽長重が大名再スタートとなった城です。

摺上原(磨上原)古戦場跡~蘆名氏VS伊達政宗の決戦地!会津の歴史が大きく変わりました。

須賀川城跡~二階堂氏が室町時代に築城、やがて伊達氏と争い去っていきます。

守山城(福島県郡山市)~築城は坂上田村麻呂、蒲生氏時代の野面積みの石垣が見事です。

三春城(続100名城)~仙道地域の拠点として戦国時代に田村氏が築城し、江戸時代は三春藩となりました。

向羽黒山城(続100名城)~蘆名盛氏が築き、上杉景勝・伊達政宗・蒲生氏郷も改修した東北最大級の要害です。

白河小峰城(日本100名城)~東北三名城、東北では珍しい総石垣造りのお城です。

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