城跡

会津若松城(鶴ヶ城)~日本100名城、蘆名氏が築城、伊達・上杉・蒲生・加藤・保科・松平と続いた天下の名城。

鶴ヶ城(会津若松城) 天守閣



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会津若松城

会津若松城(あいづわかまつじょう)は、
福島県会津若松市追手町にあった日本の城です。
地元では鶴ヶ城(つるがじょう)
と呼ばれていますが、
同名の城が他にあるため、
地元以外では会津若松城と
呼ばれることが多いです。
文献では黒川城、
または会津城とされることもあるそうです。
城は復元された建造物であるため、
国の史跡としては、
若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で
指定されています。

鶴ヶ城(会津若松城)

【別名】
鶴ヶ城、会津若松城、黒川城

【城郭構造】
梯郭式平山城

【天守構造】
●望楼型7重不明
(1593年(文禄2年)築)

●層塔型5重5階地下2階
(1611年(慶長16年)改)

●層塔型5重5階
(RC造 1965年(昭和40年)外観復興)

【築城主】
蘆名直盛

【築城年】
1384年
南朝:元中元年、北朝:至徳元年)

【主な改修者】
蒲生氏郷
加藤明成

【主な城主】
<黒川城>
蘆名氏
伊達政宗

<若松城>
蒲生氏上杉景勝
加藤氏保科氏・会津松平家

【廃城年】
明治7年(1874年)

【遺構】
石垣、土塁、堀

【指定文化財】
国の史跡

【再建造物】
天守・門・櫓・長屋

【会津若松城について】
若松城は梯郭式の平山城で、
本丸を中心に西出丸、北出丸、
二の丸、三の丸が周囲に配置されていました。
城下町の南端に位置し、
会津藩の政庁として
会津の政治の中心でした。
藩主の会津松平家は徳川将軍家と
密接な関係にあり幕末には
戊辰戦争の激戦地となったのでした。

<鶴ヶ城 案内図>
鶴ヶ城 案内図

現在、城跡は「鶴ヶ城公園」となっており、
そのほとんどが国の史跡に指定されています。
史跡外の三ノ丸跡には陸上競技場、
市営プールおよび福島県立博物館があります。
天守閣は鉄筋コンクリートで外観復元され、
内部は若松城天守閣郷土博物館となっています。




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【歴史】
佐原一族の蘆名氏】
佐原一族は、源頼朝が東北を支配下に置いた後、
会津北部を領地として与えられた
鎌倉御家人・佐原義連の一族で三浦一族です。
蘆名氏は佐原一族の一員でした。

佐原義連公の墓所脇の五輪塔

蘆名氏は佐原一族の中で
徐々に勢力を強め、
会津守護職と言われる
支配構造を確立しました。
その蘆名氏が建てた東黒川館が
鶴ヶ城の前身と言われています。

【三浦一族・佐原義連】
会津では、相模の三浦氏の一族である
佐原義連に会津北部を、
同じ相模の山之内通基に
伊北郷(只見川流域)、
下野の小山氏の一族である長沼宗政に
長江荘(田島・下郷一帯)、
長沼の一族である河原田森光に
伊南郷(伊南川流域)が
それぞれ与えられ、
鎌倉幕府の勢力が植え付けられました。

鶴岡八幡宮

そのうちの会津北部を与えられたと
伝えられている佐原義連は、
三浦半島の豪族である三浦氏の一族です。
三浦氏は桓武天皇の流れをひく
坂東八平氏の一つです。
佐原義連の父である三浦義明は
源頼朝の挙兵に従って
居城であった衣笠城で
壮烈な討ち死にをとげています。

腹切松公園

その子である三浦義澄
相模国守護となり、
三浦氏は北条氏と並んで
鎌倉幕府を支える有力御家人となりました。

三浦義澄公の墓

佐原義連はこの三浦義澄の末弟で、
相模の国(神奈川県)の佐原郷(横須賀市)を
領したことから佐原氏を称しました。
佐原義連の孫で、佐原盛蓮の子供である
三浦盛時らは
母方のつながりから
三浦氏と北条氏が覇権を争った
宝治合戦(1247年)の際、
本家である三浦氏に反して
執権北条時頼に味方し、滅亡を免れ、
三浦宗家が滅んだ後に、
三浦姓を復活、
相模三浦氏となりました。

三浦泰村とその一族の墓(鎌倉)

【佐原盛連の六人の子ども】
佐原盛連の六人の子が
領地を分割して与えられ、
中世における会津支配勢力に
なったと伝えられます。
長男の佐原経連は中通りと会津を結ぶ
猪苗代の地を与えられ猪苗代氏、

猪苗代城 黒門

次男の比田広盛は会津盆地の中心である
湯川村北田を与えられ北田氏、

北田城址(会津) 土塁の一部

三男の藤倉盛義は藤倉二階堂で知られる
河東町藤倉を与えられ藤倉氏、

藤倉館(会津) 堀

四男の蘆名光盛は
東山山麓の黒川(今日の会津若松市)を
与えられ相模の国芦名郷を領したため
蘆名氏をそれぞれ称しました。

蘆名氏発祥の地 芦名

また、五男である三浦盛時は
会津最北端の地である
叶荘(熱塩加納村)を与えられ加納氏、
また、六男の会津時連は新宮荘(喜多方市)
を与えられ新宮氏を称し、

会津新宮城跡

今日の耶麻郡一帯、喜多方市、
湯川村、河東町そして会津若松市
という会津北部に子孫が分地されました。
これら三浦一族は時に争い、
時に連合し中世の会津覇権を
競い合うことになっていくのです。




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【蘆名氏の勢力拡大】
佐原盛蓮の四男である
蘆名光盛の血を引く
蘆名氏の勢力が徐々に強まり、
会津守護と呼ばれる
支配構造を確立することとなりました。
蘆名氏は会津に領地を与えられましたが、
鎌倉幕府においても
重要な地位を占めていたため、
通常は鎌倉に住み、
会津に常駐しては
いなかったと見られています。
けれども蘆名光盛の孫の
蘆名盛宗の時代には
黒川の地に諏方神社、
東明寺、興徳寺、実成寺、
実相寺など、蘆名氏にゆかりの深い神社や
お寺が創建されたことから、
蘆名氏の勢力が
黒川を中心に広がってきたものと
考えられています。

福島県指定重要文化財の
鉄製注連(しめ)は、
永仁2年(1294年)の銘記があり、
蘆名氏の守護神として13世紀末に
信濃国諏訪から諏方神社が
招かれたことを裏付けています。

【抗争の時代】
建武年間の動乱で鎌倉幕府が滅亡し、
蘆名盛宗の子である蘆名盛員が
北条氏に味方し戦死したことから、
蘆名盛員の子である蘆名直盛は
鎌倉における勢力を失い、
14世紀後半に会津に入りし、
佐原一族をはじめ在地の勢力と
会津の覇権をめぐって
血で血を洗う抗争を続けることとなります。

【鶴ヶ城の築城】
この蘆名直盛が至徳元年(1384年)、
小田木(現在の会津若松市小田垣)
に館を築いたのが、
鶴ヶ城のはじめと伝えられており、
昭和59年には築城600年となりました。

「新編会津風土記」によりますと、
「後小松院至徳元年葦名直盛の築く所にて
安部某と云う者をしてこの地を
祝祭せしめ鶴ヶ城と名く 
或いは黒川城とも称す」
との記述があるとの事です。
小田木の地(今の三の丸周辺)は
東に小田山をひかえ、
周囲を車川(後に外堀)と
湯川に囲まれた
小高い要衝の地だったので
蘆名氏の会津支配の中心地となりました。

小田山公園 子どもの森

その後も蒲生氏、
加藤氏や松平氏の改修、
戊辰の戦役を経た
鶴ヶ城として伝えられることとなったのです。

【蘆名氏の会津支配】
黒川に館をかまえる蘆名氏が
会津守護として支配を確立するのは
16世紀に入ってからであり、
その背景としては室町時代に
分割相続が嫡子の単独相続へと移行し、
嫡子が強大な軍事力を握って、
他国と勢力を争うようになり、
いわゆる戦国大名へと
成長していったことが挙げられます。
これに伴って会津各地の豪族は
蘆名氏へ反抗を強めていくのでした。

その結果、同族であった
加納氏・新宮氏・北田氏などは
相次いで滅び、
蘆名四天王と呼ばれる
松本、富田など家臣団も
反乱を繰り返すこととなります。
永正2年(1505年)には
家臣団の勢力争いから
蘆名盛高とその子である蘆名盛滋が戦いました。

【戦国大名としての蘆名氏】
蘆名氏が戦国大名として、
頂点に達したのは16世紀の後半、
蘆名盛氏の時代となります。
蘆名盛氏は伊北郷(只見川流域)の山ノ内氏、
猪苗代の猪苗代氏などを相次いで従え、
南山鴫山城(田島町)の長沼氏を除く
会津一円を支配下に収めました。
さらに天文19年(1550年)、
安積郡三春城主の田村隆顕を敗って
仙道(福島県中通り)に進出し、
永禄年間には二本松城主の畠山氏、
須賀川城主の二階堂氏を従え、
白河城主の結城白川氏と
同盟して常陸の国(茨城県)
の佐竹氏や出羽国(山形県)
伊達氏と戦いました。

三ノ門跡 三春城

越後の国(新潟県)の
長尾・上杉氏に対しては、
狐房城(新潟県津川町)を拠点として
蒲原地方に勢力を伸ばすなど、
奥州屈指の戦国大名として
名声を高めていったのでした。

その結果、永禄6年(1563年)の
室町幕府の「諸役人附」において
大名として認められ
全国50余人の中で奥州では
伊達氏と並んで名を連ねることになり、
蘆名氏中興の祖として仰がれました。
会津若松の宗英寺には
国指定重要文化財の
蘆名盛氏座像が伝えられています。
太い眉に迫力のある眼、
大きな鼻と口は蘆名盛氏の
強い個性を表しているとのことです。
(縄文系の顔立ちなんですね・・)
 
戦国武将として活躍した蘆名盛氏でしたが、
一方では黒川を城下として
発展させるかたわら、
水墨画の巨匠雪村を会津に招くなど、
室町文化の良き理解者でもあったのでした。
雪村は雪舟亡き後、
日本の水墨画の第一人者です。
天文15年(1546年)に会津を訪れ、
天正元年(1573年)に安積郡三春へ移るまで、
実に20数年間を蘆名盛氏のもとで過ごし、
会津若松の金剛寺に伝えられている、
市指定文化財「瀟湘図屏風」
をはじめ優れた作品を残したとのことです。

【蘆名氏の衰退】
永禄11年(1568年)、
蘆名盛氏は家督を子である蘆名盛興に譲り、
自分は岩崎山の向羽黒山(会津本郷町)に
隠居城を築きましたが、
蘆名盛興は嫡子を残さずに他界しました。
なお、女子は一人生まれており、
彼女は「れんみつ」と呼ばれていたとのことです。
そして
二階堂盛義の子である
盛隆を養子に迎えました。
ここから葦名氏は衰退していきます。
天正8年(1580年)、
蘆名盛氏が亡くなると、
蘆名氏の血をひかない
盛隆に対する反抗が強まり、
ついに盛隆は家臣に殺害されたのでした。
その子である亀王丸はわずか3歳で亡くなりました。
その後に伊達政宗の弟小次郎を迎えるか、
佐竹義重の子義広を迎えるかで、
大きな争いとなりました。
その結果、義広が迎えられ、
蘆名盛興の娘で蘆名盛隆の養女となった
「れんみつ」が妻となりました。
けれども佐竹氏から送られてきた家臣と
蘆名氏の家臣の対立は日に日に強まり、
名族蘆名氏は大きな危機を迎えることとなりました。




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【伊達政宗が蘆名氏を滅ぼす】
天正17年(1589年)、
蘆名氏と連年戦いを繰り返していた
伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視して
蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし
黒川城を手にしました。
けれども、伊達政宗は
天正18年(1590年)に
豊臣秀吉に臣従し、
会津を召し上げられました。

会津磐梯山

【近世の城郭】
代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷でした。
文禄元年(1592年)より
大名に相応しい近世城郭に改造し、
城下町を整備したとのことです。
蒲生氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、
蒲生群流の縄張りによる城作りを行ったのでした。
なお「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い
馬見岡綿向神社
(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)
の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、
同じく領土であった松坂の「松」という一文字も
この松に由来すると言われています。

鶴ヶ城 のぼり 蒲生氏郷?

文禄2年(1593年)、
望楼型7重(5重5階地下2階とも、
また7重には「何段にも重なる」の意味もある)
の天守が竣工し、
名は「鶴ヶ城」に改められました。

鶴ヶ城 石碑

近年の発掘調査で蒲生時代の
石垣の基底部が確認され、
鐙瓦(軒丸瓦)、宇瓦(軒平瓦)、
鬼瓦の一部に金箔が
貼られたものが出土しています。

慶長3年(1598年)、
蒲生氏郷の子である蒲生秀行は
家中騒動のために92万石から
18万石に下げられ
下野国宇都宮に移封されました。

【上杉景勝の入封】
越後国春日山より上杉景勝が
120万石で入封します。
慶長5年(1600年)、
徳川家康関ヶ原の戦い
西軍に加担した上杉景勝を30万石に下げ、
出羽国米沢に移封しました。

翌年の慶長6年(1601年)には
蒲生秀行が再び入城しましたが、
寛永4年(1627年)、
嫡男の蒲生忠郷に嗣子がなく没したため、
蒲生秀行の次男である忠知が後嗣となり
伊予国松山に移封されました。

加藤嘉明の入封】
代わって伊予松山より
加藤嘉明が入封します。
加藤嘉明は天正11年(1583年)、
賤ヶ岳の合戦で七本槍の勇名をはせた
戦国武将です。

賤ケ岳の戦い 行市山 玄葉尾城

豊臣秀吉のもとで名をあげましたが、
豊臣秀吉の死後は石田三成と対立し、
関ヶ原の戦いや大坂の役では
徳川方につき、その功績によって
伊予松山(愛媛県)で
12万石を与えられていました。

その子である加藤明成は西出丸、
北出丸などの造築を行い、
慶長16年(1611年)に起きた
会津地震により倒壊した天守を
今日見られる層塔型天守に
組みなおさせています。

けれども寛永20年(1643年)、
加藤明成は改易され、
出羽国山形より
3代将軍徳川家光の庶弟である
保科正之が23万石で入封します。

【保科・松平家】
保科正之は二代目将軍である
徳川秀忠の庶子にあたります。
徳川秀忠の実子と認められず、
信濃の保科正光の養子として育てられました。
やがて三代将軍である徳川家光に
実弟として認められ、
会津を領地として与えられます。
やがて、保科正之の子である
正容が三代目を継ぐと、
幕府から松平姓
葵の紋を与えられ、
正式に徳川親藩に会津は
組み入れられる事になったのでした。
こうして、会津の松平藩政は九代続きました。

以後、明治維新まで
会津松平家(保科氏から改名)の
居城となったのでした。

鶴ヶ城(会津若松城) 天守閣 赤瓦

慶応4年(1868年)、
戊辰戦争の戦闘の一つである
会津戦争(会津城籠城戦)にて、
会津勢の立て篭もる鶴ヶ城は
新政府軍に包囲され砲撃を受けたのでした。
1か月間籠城の後、板垣退助による
降伏勧告を受諾して9月22日
(太陽暦11月6日)に開城しました。

会津戊辰戦争経過要図
※会津武家屋敷より

戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは
激しかったのですが修復は行われず、
しばらく放置された後、解体されたのでした。




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【開城と建物の処遇】
開城後は新政府軍に引き渡され、
兵部省の所管となり、
仙台鎮台が管理しました。
翌年には会津藩に代わって
若松県が発足し
県庁を城内の建物に置いたため、
若松県が城の管理を委任されました。

明治7年(1874年)の年末までに
天守をはじめとする建造物は
すべて解体されたのでした。

<本丸・芝生広場>
ここにはかつて本丸御殿がありました。
本丸南東部・芝生広場

<鶴ヶ城本丸御殿>
鶴ヶ城本丸御殿

<鶴ヶ城本丸御殿・古写真>
鶴ヶ城本丸御殿・古写真

本丸にあった櫓の一つである
「御三階」は上記建言以前の
明治3年(1870年)、
阿弥陀寺(会津若松市七日町)に移築され、
現存しています。
また本丸大書院から御三階と共に
同寺に移された唐破風の表玄関は、
御三階の玄関に転用されています。

<御三階跡>
会津若松城(鶴ヶ城)の御三階跡

【城郭地の払下と史跡指定】
明治23年(1890年)、
明治政府による藩主または官庁が
払い下げを申請した散在地は、
公売にしないという方針[注釈 3]により、
城地約29haの払い下げが決定しました。
旧会津藩士遠藤敬止は、
城跡を一括して保存するため
私財2500円で譲り受け、
旧藩主松平家に寄付しました。

明治41年(1908年)に
三ノ丸の東側と城外にわたり
陸軍の連隊練兵場が設置され、
三ノ丸の一部とその濠や
土塁約6haが撤去されましたが、
本丸、二ノ丸、三ノ丸の一部、北出丸、
西出丸及び付属する濠は残され、
現在の史跡指定部分約23haは保存されました。

<茶壷櫓・月見櫓方面の堀と石垣>
本丸石垣の要所には物見櫓が配されていました。
主に茶器等が納められていたという茶壺櫓、
櫓にかかる月が大変美しく見えたという
月見櫓など風流を偲ばせる名もつけられています。
櫓跡が残るのみですが、
石垣沿いは散策コースにもなっています。
また石垣をよく見ますと、
「横矢がかり」という
ジグザグになっている部分が見られます。
これは敵を側面から攻撃するための
工夫となっています。

茶壷櫓・月見櫓方面の堀と石垣

【近代公園化への着手】
大正6年(1917年)に
若松市は城跡の近代公園化計画に着手しました。
地権については、城跡の所有者であった
旧藩主の松平家と交わした
土地譲渡契約を10年賦により、
昭和2年(1927年)までに償還、
若松市の所有となりました。
公園近代化の方針に基づき、
二ノ丸や西出丸の一部の石垣等が
撤去されたことを受け、
福島県は旧史蹟名勝天然紀念物保存法の
規定にしたがい、
城跡の緊急保存を国に申請しました。
昭和5年(1930年)の仮指定を経て、
昭和9年(1934年)12月28日、
文部省告示第312号によって
国の史跡に本指定されました。

この「若松公園設計方針」では、
後に史跡区域内に組み込まれた
旧追手前から北出丸までの
追手前西濠上への架橋や、
水位の異なる南町通濠と
旧五軒丁濠との間の土橋を撤去し、
ボートレース場とする計画も
示されましたが実行には至りませんでした。




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【天守再建と保存整備計画】
第二次世界大戦後、
戦後の財政非常事態解決策の一環として、
本丸内で競輪場が
設置されていたこともありましたが、
昭和32年(1957年)には
城外に移転されました。
本丸は昭和35年(1960年)までには
現在の形状に復旧されました。
現在の天守は昭和40年(1965年)に
鉄筋コンクリート造により
外観復興再建されたもので、
内部は「若松城天守閣郷土博物館」
として公開されています。

1990年(平成2年)に
茶室「麟閣」(福島県指定重要文化財)が
本丸の元の場所に移築復元され、
1993年(平成5年)に
外濠跡等の外郭遺構の一部が
国の史跡に追加指定されました。

<茶室「麟閣」>
茶室「麟閣」

1997年(平成9年)に
史跡内の駐車場や運動施設等を
史跡外へ移転する内容等を含む長期的、
総合的な「史跡若松城跡総合整備計画」
が策定されました。
2001年(平成13年)に
本丸内の干飯櫓(ほしいやぐら)と
南走長屋が木造で復元されました。

<干飯櫓と南走長屋>
天守閣・五層の展望室からです。
干飯櫓と南走長屋

2010年(平成22年)から、
黒瓦だった天守の屋根瓦を
明治時代に解体される
以前の赤瓦葺に復元する工事が行われ、
2011年(平成23年)3月に竣工しました。

<赤瓦の天守>
鶴ヶ城 赤瓦の天守

なお、3月の初めには覆いが外され、
11日の東日本大震災後の
27日にリニューアルオープンしています。

【天守閣と鯱】
現在の復元天守棟上には
鯱があげられていますが、
明治初年の古写真には
鯱が確認できてはいません。

鶴ヶ城 天守閣 古写真

これを理由に、
2010年(平成22年)からの
改修工事にあわせて、
取り外すべきだという意見があったのでした。
一方、江戸時代の絵図には
鯱が描かれているものもあり、
正確なところは正直わからないということです。

<鶴ヶ城天守閣(明治5年撮影)>
鶴ヶ城天守閣(明治5年撮影)

この鯱は、復元工事を担当した
ハザマの当時の会長より寄贈されたもので、
全身の鱗は銀箔、牙は金製、
瞳の中心に2カラットの
ダイヤモンドが埋め込まれています。
同社は名古屋城天守の
復元工事も受け持っており、
名古屋城の金鯱と
対になるように、銀鯱としたのことで、
金閣寺、銀閣寺に倣ったものであるとのことです。
また、名古屋城復元では、
金鯱の瞳にもダイヤモンドを
埋め込もうとしたようですが、
市民の猛反発を受けて断念したのでした。
会津若松城のものは
完全に寄贈品であるので、
反対は起きなかったということです。

鶴ヶ城 天守閣(現在)

【縄張】
城域が位置する台地の西端に主郭があります。
内濠を隔てて東側に二ノ丸、三ノ丸と続き、
台地下の北側に北出丸、
西側に西出丸があります。

<西出丸>
鶴ヶ城 西出丸

<西出丸より椿坂方面>
北出丸から本丸へと通じる城への玄関口です。
この坂を制するものが
城を制すると言われる程、重要な坂であったとか。
この坂を上った所に、
観光案内所(管理事務所)があります。

西出丸より椿坂方面

<北出丸への道>
北出丸への道

<北出丸>
北出丸

<太鼓門跡>
南走長屋は、表門(鉄門)から続いており、
帯郭と本丸を隔てる重要な位置にあります。
現在ある天守閣から表門をつなぐ
走長屋とともに表門を守り、
帯郭から本丸への
敵の侵入を防ぐ要と
なっていたと考えられています。
鶴ヶ城 太鼓門

上杉謙信公仮廟所跡>
上杉景勝が会津へ入封した際、
上杉謙信公の遺骨も鶴ヶ城内に運ばれ、
鉄門そばの一角が
仮の廟所としてあてられたと
伝えられています。
上杉謙信公仮廟所跡

<鉄門(表門)>
鉄門(くろがねもん)は
帯郭から本丸へ通じる表門で、
柱や扉は全て鉄で覆われており、
この名がつきました。
加藤明成の大改修によって造られた門で、
左右の石垣は化粧たがねが入れられ、
切込ハギと呼ばれる工法で
見事に築かれております。
お城の正面玄関です。

鉄門(表門)

<鉄門(表門)・遠景>
鉄門(表門)・遠景

三ノ丸以外の各門は
枡形石垣門になっていました。
主郭は、天守とそこから南と東に伸びる
走長屋(多聞櫓)により区分けされており、
南東側の御殿等を配置した区域が本丸、
その北から西側をL字に取り囲む区域が
帯郭となっています。

<帯郭>
帯郭

<鐘撞堂>
戊辰戦争の際、籠城戦の時でも
正確な時を告げ続けた鐘です。
城外にいた味方兵はその音で
城内の健在を知り、
士気を上げたといわれています。
時守が撃たれても別の者がこれを鳴らし、
開城の時まで止むことがなかったといわれます。
今も若松城下には正午、
ボランティアガイドの方々の
手により鐘の音が響きます。

鶴ヶ城 鐘撞堂

主郭の虎口は全て帯郭に接続しており、
天守の下にある鉄門を経て本丸に至ります。
現在の縄張は、主郭の東、北、
西の三方の虎口(桝形)の外側を馬出で防御し、
その馬出の虎口も桝形とする防御プランであり、
郭の構成はシンプルですが、
相当に厳重な縄張りとなっています。

元々は東西に伸びる舌状台地を
堀切で区切った連郭式の縄張であり、
三の丸側が大手であったそうです。
後に城下の街道の整備により
大手を北側に変更し、
防御のために北と西にあった馬出を
出丸として拡張し
現在の縄張となったのでした。
現在残る城下町も、
主として城の北側に広がっています。

<会津若松城下町・北側>
会津若松城下町・北側

北、西の出丸は、
主郭が位置する台地の下にあり、
出丸を突破しようとする敵を
高低差を利用して攻撃可能となっています。
主郭の櫓は出丸の虎口を
制圧可能な位置に配置されているなど、
重層火力が発揮できるように
考慮されており、
特に大手である北出丸虎口は、
出丸、主郭帯郭、櫓、
隣接する出丸からの射撃が集中し、
その防御の堅さから
「鏖丸(みなごろしまる)」
と称されたと伝わっているとのことです。




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東側の二ノ丸も馬出状の郭ですが、
高低差を利用できないため
堀切を水濠まで掘下げて約20mの高石垣とし、
橋は城内唯一の木橋(廊下橋)
とすることで防御しています。

鶴ヶ城 廊下橋

出丸を持たない本丸南側は、
濠と湯川により三重に
防御されていたとのことです。

<本丸南側>
鶴ヶ城本丸 南側

<本丸>
◆天守、
◆櫓(干飯櫓、月見櫓、茶壷櫓)、
◆門(鉄門、裏門)

<帯郭>
◆櫓(東櫓、北櫓、弓櫓、西櫓)、
◆門(太鼓門、廊下橋門、西中門)、
◆橋
●東の二ノ丸側に廊下橋、
●北の北出丸と西の西出丸の間に土橋

<二の丸>
◆ 門(東門、南門)
<三の丸>
◆ 門(埋門、南門、無常口)

<北出丸>
◆櫓(西北櫓、東北櫓)、
◆門(追手門、棟門)

<西出丸>
◆櫓(西北櫓、西南櫓)、
◆門(西追手門、内讃岐門)

<内濠>
◆追手前西濠
◆元鐘撞堂下三角濠、
◆南町通濠
◆旧五軒丁濠
◆瓢箪濠
◆三岐濠

【天守閣への入場】
午前8時30分~午後5時
(入場締め切りは午後4時30分)

【定休日/休業日】
無休

【鶴ヶ城天守閣】
【入場料】
<個人>
大人410円(天守閣・麟閣共通券 大人520円)
小中学生150円
<団体:30~99名>
大人360円(天守閣・麟閣共通券 大人460円)
小中学生135円
<団体:100名以上>
大人320円(天守閣・麟閣共通券 大人410円)
小中学生120円

<天守閣・入り口>
鶴ヶ城天守閣 入り口

<萱野長修(かやのながはる)>
通称は権兵衛。
萱野権兵衛は戊辰戦争時、
会津藩国家老で降伏後明け渡しや
藩主助命嘆願に尽力しましたが
戦争責任を負って切腹しました。
彼の殉節碑は昭和9年に
有志の手によって建立されました。
天守閣入場券売り場にほど近い場所にあります。 

【茶室 麟閣(りんかく)】
千利休の子少庵ゆかりの茶室です。
庭園の四季を眺めながら抹茶がいただけます。
会津藩主蒲生氏郷の茶道の恩師であった
千利休が自害したのち、蒲生氏郷が
その子である千少庵を会津に招き、
茶道振興のため滞在させていたときに
建てた茶室です。

茶室「麟閣」

明治7年に若松城解体の際、
石州流怡渓派森川善兵衛氏が
政府に願い出て自宅に移築し、
以来120年にわたり、森川家はその保全に
努めてこられました。
会津若松市では平成2年9月12日、
市制90年を記念して
この蒲生氏郷少庵ゆかりの茶室を
後世へ伝えるため、
鶴ヶ城内の元の場所へ移築いたしました。

茶室「麟閣」庭園 紅葉

【営業時間】
午前8時30分~午後5時
(場締め切りは午後4時30分)

【定休日/休業日】
無休

【料金】
大人:210円 
小中学生: 無料
※天守閣共通券 
大人520円
小中学生150円

お抹茶 一席:600円
(お菓子付)




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<紅葉の庭園と茶室が綺麗>
訪れたのは紅葉の季節で天気は快晴。
色とりどりの紅葉が太陽光によって
更に多彩な色彩へと変化し、
茶室をはじめとする建物との調和が相まって
それはまるで絵画のような美しさでした。

茶室「麟閣」と庭園 

<お城ボくん>
鶴ヶ城(会津若松城)のマスコットキャラクターです。
お城・武士・ロボットの合体なのだそうです。
お城ボくん

【二の丸】
二の丸は本丸の東側にあたり、
廊下橋で本丸と繋がっています。
二の丸は三の丸を繋ぎ、
蘆名時代では大手門であった
廊下橋口を護る大きな位置をしめています。
現在ではテニスコートがあります。
廊下橋と二の丸

<廊下橋からの天守閣>
廊下橋からの天守閣

<廊下橋>
廊下橋は本丸から
二の丸へ通じる朱塗りの橋で、
加藤明成の大改修までは
ここが大手口でした。
蘆名氏時代には
屋根のついた廊下造りだったので、
廊下橋と呼ばれました。
鶴ヶ城 廊下橋

<廊下橋と天守閣>
廊下橋と天守閣

<二の丸より本丸を臨む>
二の丸より本丸を臨む

<二の丸から三の丸への石垣>
二の丸から三の丸への石垣

【三の丸】
今は県立博物館が建っていますが、
むかしは侍たちが闘うための
訓練をする広場でした。

鶴ヶ城(会津若松城) 三の丸

<新島(山本)八重の像> 
新島(山本)八重の像

<新島(山本)八重の写真> 
新島(山本)八重の写真

<秋月悌次郎詩碑>
秋月悌次郎詩碑

【駐車場】(三カ所)
普通車:360台(有料)
<西出丸駐車場>
普通車:200台
西出丸駐車場

<西出丸駐車場・案内>
西出丸駐車場・案内

<東口駐車場>
普通車:129台

<南口駐車場>
普通車:35台

【交通アクセス】
(会津若松観光協会サイトより)
◆電車(東京駅~新幹線使用例)
 東京駅⇒(東北新幹線)⇒郡山駅乗換
(磐越西線)⇒会津若松駅下車
◆高速バス
・東京方面
 バスタ新宿(新宿)⇒猪苗代駅⇒会津アピオ⇒若松駅前
 【要予約・片道:2500円~4800円/往復:7400円(子供半額)】
※最新の料金をご確認ください。

<仙台方面より> 
(仙台から「鶴ヶ城」まで乗り換えなし)
 仙台駅東口⇒電力ビル前⇒会津アピオ⇒
若松駅前⇒神明通り⇒鶴ヶ城・合同庁舎
 ※大人:片道2900円/往復 専用回数券5400円(子供半額)
※最新の料金をご確認ください。

<新潟方面より>
 万代シティバスセンター⇒新潟駅前⇒(中略)⇒
会津アピオ⇒若松駅前⇒神明通り⇒鶴ヶ城・合同庁舎前
 ※大人:片道 若松~新潟・大人(片道)2060円
※最新の料金をご確認ください。

◆自動車(高速道路)
 東北自動車道⇒郡山JCT⇒
磐越自動車道/会津・新潟方面⇒会津若松IC下車

JR会津若松駅より
◆路線バス市内4コース、
芦の牧、年貢町経由高田・永井野行きなどに乗車し
「鶴ヶ城西口」下車。
◆まちなか周遊バス「ハイカラさん」
または「あかべぇ」に乗車し
「鶴ヶ城入口」または
「鶴ヶ城三の丸口」下車。徒歩5分程度。
◆高速バス
(仙台・福島・郡山・いわき・新潟・野沢の各線)
の起終点「鶴ヶ城・合同庁舎前」で下車。徒歩約10分。
団体で観光バスでの観光の場合、鶴ヶ城会館にバスを駐車する。

【現代】
1990(平成2年)、
「鶴ヶ城公園」として日本さくら名所100選に選定。
2006年(平成18年)4月6日、
日本100名城(12番)に選定されました。

【スタンプ設置場所】
天守閣内売店

鶴ヶ城スタンプ設置場所

鶴ヶ城スタンプ押印場所

【所在地】
〒965-0873 福島県会津若松市追手町1−1

所要時間:2時間30分程度
(天守閣内部・麟閣見学含む)

阿弥陀寺御三階~かつては若松城(鶴ヶ城)本丸にあった殿様密談の場所。

高遠城~国の史跡で日本100名城、春には珍しい品種の桜であるタカトオコヒガンが咲き誇ります。

佐原義連と相模・佐原城、一ノ谷の合戦「鵯越の逆落とし」一番乗りの武勇で有名、会津・蘆名氏の祖です。

矢部禅尼~三浦義村の娘で北条泰時の正室、子供達は相模三浦氏や戦国大名の蘆名氏につながる。

芦名城~戦国大名・蘆名氏の発祥の地であり、三浦一族の本拠地である衣笠城の支城でした。

小田山城~蘆名氏が築城し詰城として数百年機能、戊辰戦争時には会津若松城への砲撃場所となりました。

向羽黒山城(続100名城)~蘆名盛氏が築き、上杉景勝・伊達政宗・蒲生氏郷も改修した東北最大級の要害です。

白虎隊十九士の墓と自刃の地と戸ノ口堰洞穴~飯盛山にある白虎隊の足跡を訪ねました。

旧滝沢本陣~国の重要文化財、会津藩主の休息所であり白虎隊の出陣の地でした。

西郷頼母~家老として幕末の会津藩を支え家族の悲劇に遭遇、終生政治と縁のあった人物です。

会津武家屋敷~会津藩家老の西郷頼母邸・藩米精米所など、江戸期の会津の歴史が学べます。

如来堂・斉藤一本陣跡、新選組殉難の地~斎藤一は会津に残り、土方歳三は北へ向かった。

白河小峰城(日本100名城)~東北三名城、東北では珍しい総石垣造りのお城です。

須賀川城跡~二階堂氏が室町時代に築城、やがて伊達氏と争い去っていきます。

鴫山城~約600年前に築城された長沼氏の城跡、自然の地形を巧みに利用した山城です。

猪苗代城 ~三浦一族で蘆名氏と同族の猪苗代氏が築城し約400年間支配、江戸時代は会津藩の重要拠点でした。

摺上原(磨上原)古戦場跡~蘆名氏VS伊達政宗の決戦地!会津の歴史が大きく変わりました。

黒川西館~会津若松城下町の発祥の地にあった伊達政宗が母と弟に毒殺されかけた館跡。

三春城(続100名城)~仙道地域の拠点として戦国時代に田村氏が築城し、江戸時代は三春藩となりました。

会津新宮城跡~三浦一族の佐原盛蓮の六男である新宮氏が築城、国の史跡です。

藤倉舘~三浦一族の佐原盛蓮の三男・藤倉盛義の居館と伝えられています。

会津・北田城跡~三浦一族・佐原盛蓮の次男の佐原広盛が築城し、北田氏を名乗り7代続きました。

二本松城~国史跡、日本100名城・日本さくら名所100選、二本松少年隊の悲話があります。

三浦義明と衣笠城合戦~長老は自らの命を盾に三浦一族の未来を守りました。

三浦義澄~源頼朝を支えた宿老の一人で13人の合議制のメンバーで相模守護。三浦一族の栄枯盛衰。

三浦義村~鎌倉幕府の創設期から執権政治の確立まで仕え権謀術数に優れた策略家

ペリー上陸記念碑の建設とペリー一行が久里浜に上陸した経緯について~ペリー公園。

北条氏照~北条氏政の同母弟、文武両道で外交手腕に長けており、兄を補佐し盛衰を共にしました。

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