城跡

高遠城~国の史跡で日本100名城、春には珍しい品種の桜であるタカトオコヒガンが咲き誇ります。

高遠城 伝大手門



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高遠城

高遠城(たかとおじょう)は、
長野県伊那市高遠町
(旧・信濃国伊那郡(のち上伊那郡)高遠)
にある日本の城跡です。
兜山城の別名をもちます。
サクラの名所としても有名であり、
特に珍しい品種である
タカトオコヒガン1500本の
樹林が名高いです。
国の史跡に指定されています。

高遠城跡

【別名】
兜山城

【城郭形態】
平山城

【天守構造】
なし

【主な改修者】
武田信玄

【主な城主】
高遠氏、秋山氏、武田氏、仁科氏、
下條氏、保科氏、毛利氏、京極氏、
鳥居氏、内藤氏

【廃城年】
明治5年(1872年)

【遺構】
石垣、土塁、空堀、門

【指定文化財】
国の史跡

【高遠城の立地と構造】
高遠城は、天竜川水系最大の支流である
三峰川(みぶがわ)と藤澤川という
2つの河川の合流点に形成された
河岸段丘の上にあります。
本丸の標高は約800mで、
西側の城下から見ると
小高い山のようになっていますが、
上部は平地になっており、
一般的に平山城と呼ばれる形の城です。
三峰川に面する南側は
切り立った崖になっており、
三峰川から本丸までの高低差は
約80mもあり、地形の険しさを
巧みに利用した城です。
ここは諏訪盆地と
伊那谷を結ぶ杖突街道に面する
交通の要衝であり、
伊那市街地まで一望できる
高台にあることから、
軍事上重要な場所に造られた
城であることがわかります。

<杖突峠(現代)>
杖突峠(現代)

【歴史・沿革】
【高遠城の築城時期】
高遠は古くから諏訪氏の勢力圏にありました。
14世紀頃(南北朝の時代)に
諏訪氏から分かれた高遠氏が
一円を治めていました。
高遠城の築城年代は不明ですが、
当初は高遠氏が拠点にしていた城だと
考えられています。

【戦国時代・高遠氏】
高遠城は諏訪氏一門の
高遠頼継が居城としており、
甲斐国守護の武田氏と
同盟関係にある諏訪氏当主の頼重とは
反目していました。
高遠頼継は天文10年(1541年)に
甲斐守護武田晴信(信玄)に内応して
諏訪攻略を援護しています。
諏訪頼重は武田により滅ぼされましたが、
諏訪の領有を巡り武田と高遠頼継は対立し、
天分14年(1545年)4月、
武田勢は高遠城と
藤沢頼親の福与城攻めを行い、
伊那地方への進出拠点としました。

高遠城址

【武田氏時代】
弘治元年(1555年)、
武田氏は続いて小笠原氏や知久氏を撃破し、
木曾氏を制圧して信濃を平定しました。
甲陽軍鑑」によりますと、
高遠城は信濃への進出拠点として
天文16年(1547年)に、
足軽大将の山本勘助
譜代家老の秋山虎繁(信友)に命じて
大規模な改築が行われたとのことです。
弘治2年(1556年)には
秋山虎繁が城主となり、
坂西氏などを伊那衆としました。




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武田勝頼が諏訪氏を継承】
永禄5年(1562年) 、
武田晴信の庶子で諏訪氏の娘を母とする
武田勝頼が諏訪氏を継承し、
同時に高遠城主、上伊那郡代(郡司)に就任します。
(「軍鑑」)。
城主であった秋山虎繁は飯田城代となります。
「軍鑑」によりますと、
入城に際して改築が行われ、
武田勝頼衆が預けられ
親族衆に加えられたということです。

【武田勝頼が武田家を継ぐ】
武田勝頼は元亀元年(1570年) に
武田氏の正嫡であった武田義信
廃嫡される義信事件が起こると
後継的立場となり、
武田信玄により本拠の躑躅ヶ崎館に呼び戻され、
高遠城主は武田信玄実弟の武田信廉となりました。
なお、武田勝頼の嫡子である
武田信勝の誕生と、
武田信玄の父である武田信虎の死去は、
いずれも高遠城でのことです。

【織田・徳川氏との対立】
武田信玄後期から武田勝頼期にかけて
武田氏は領国を接する織田・徳川氏と
対立するようになります。
高遠城は対織田・徳川勢力の
重要な軍事拠点となりました。
武田氏は長篠の戦いにおける
敗退を契機に領国の動揺を招き、
武田勝頼は天正9年(1581年)に
領国維持のため新府城
(山梨県韮崎市中田町中條)
への府中移転と同時に、
異母弟の仁科盛信(信盛)に
高遠城主を兼任させました。

高遠城址

【甲州征伐】
翌年の天正10年(1582年)2月、
武田勝頼は内通した木曾氏攻めを行い、
仁科盛信は大将として出陣し、
副将として信濃佐久郡内山城代の
小山田昌成(二代目備中守)・
大学助兄弟が入っています。
同年2月、織田信長は本格的な
武田攻めを開始し、
長男の織田信忠に5万の大軍を与えて
高遠城に迫らせます。
一方、高遠城に籠もる守備兵の数は3千で、
仁科盛信は織田信忠の降伏勧告を退けて
抗戦しましたが、守備隊は玉砕し、
仁科盛信や昌成・大学助兄弟らは戦死し、
城は落城しました。
高遠城の落城により織田勢は
伊那方面からも甲斐へ侵攻し、
武田氏は滅亡したのでした。

なお高遠城の西では、
織田軍が攻城拠点として
使ったとみられる
「一夜の城」と推定される
遺構が発掘されているとのことです。

【織田氏・豊臣氏時代】
武田氏の滅亡後、信濃伊那郡は
織田家臣である毛利長秀が支配しました。
織田氏の伊那郡支配の実態は
不明ですが、毛利長秀は
坂西氏の居城であった
下伊那郡の飯田城(長野県飯田市)に
在城していることが確認されています。
高遠城は甲州征伐により
壊滅しており織田氏時代の城主も不明で、
伊那郡支配の拠点として
機能していたかは疑問視されているとのことです。

天正壬午の乱
同年6月に本能寺の変が起こると、
甲斐・信濃の武田遺領を巡る
天正壬午の乱が発生しました。
上伊那郡では諏訪氏の一族で
上伊那郡福与城(長野県上伊那郡箕輪町)
を拠点としていた藤沢頼親が復帰しました。
藤沢頼親は保科正直に攻められ、
田中城で子である頼広と共に自害。
徳川家康が下条頼安・小笠原貞慶
信濃国衆を送り込み、
同年7月15日までに高遠城を奪還したのでした。

その後は徳川家康方の保科正直が高遠城に入り、
これを豊臣秀吉方に寝返った
小笠原貞慶が攻めましたが撃退されました。




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【江戸時代】
江戸時代になると高遠藩の藩庁となり、
京極氏・保科氏・鳥居氏と城主が交代しました。
なお、保科正之は2代将軍徳川秀忠のご落胤で
7歳のときに保科家の養子となり信州高遠にきます。
後に羽国最上藩20万石の大名となり、
やがて会津藩主23万石の藩主となります。

保科正之公と母・静の像

元禄4年(1691年)に内藤清枚が
3万3千石で入封します。
以後、高遠城は内藤氏8代の居城として
明治維新を迎えました。

【明治~現代】
明治8年(1875年)に公園となりました。
高遠藩の旧藩士達が「桜の馬場」から
桜を移植したことにより、
今では全国でも有数の桜の名所となりました。
本丸の老木はこの時植えられたものです。
4月には、130年生以上の古木20本、
50年生以上のもの500本などに
若木を加えた約1500本の
タカトオコヒガンザクラが、
淡紅色で小ぶりの花を枝いっぱいにつけます。
また、秋にはタカトオコヒガンザクラ独特の
ほとんど紅葉せずに落葉した公園に、
およそ250本のカエデが
きれいに色づき紅葉を楽しむことができます。

公園内には、
国の登録有形文化財の指定を受けた
高遠閣や城下から移築された問屋門、
太鼓櫓、新城藤原神社のほか、
高遠公園碑、無字の碑、
靖国招魂碑などの碑文等、
歴史的資料がたくさんあります。
春の桜はもちろんのこと、
夏の新緑、秋の紅葉など
年間を通じて多くの観光客が
この城址公園を訪れています。

【日本100名城】
2006年(平成18年)4月6日、
日本100名城(30番)に選定されました。

【城の縄張り】
城の縄張りは中世の状態を踏襲していますが、
本丸には御殿と天守代用として
二層の辰己櫓が上がり、
主要な城門は枡形虎口形式の
櫓門が建てられており、
長大な長塀に囲まれた
近世城郭でした。
大手門は当初、城の東側にありましたが、
正保年間の「信州高遠城之絵図」では
西側に移っており、城下町も同様に、
鉾持神社などがある
城郭の西に移されています。
元禄10年(1697年)の
「高頭城下町絵図」では、
本町、中町を軸に並行して新町が作られ、
北側に社寺を集中させ、
城下町の守りとし、
通りの各所を屈曲させて
侵入者に備えていました。

信州高遠城 図

【堀と土塁】
城内は堀によっていくつかの
区画に分けられています。
これらの区画を曲輪といいます。
現在の曲輪配置は、
江戸時代の状況をよく残しており、
本丸を中心に二ノ丸、
三ノ丸などの曲輪が
取り囲むような空間構成になっています。
曲輪の周囲には横堀がめぐらされているほか、
三峰川に面した南側の斜面には、
いく筋もの竪堀が見られます。
ほとんどは空堀ですが、
本丸周囲の堀底からは
自然と水が湧き出ており、
水堀のようになっていた
場所もあったと考えられています。
曲輪の内縁部には、
防御のために土を盛った土塁が築かれ、
土塁の上には塀が築かれていました。
堀と土塁をセットで体感できるのが、
二ノ丸の高遠閣裏の中堀となります。
この堀は廃城後に
約2~3mほど埋まっておりますが、
堀底から二ノ丸の方を見上げると、
高低差を実感することができるとのことです。

高遠城址 堀

【本丸】
本丸には藩主の居住空間と
藩政を執とり行う本丸御殿がありました。
御殿は元々平屋建でしたが、
幕末になると奥向きに
2階が増築されました。
天守閣はありませんでしたが、
二階建ての櫓が3棟あり、
遠くを望むことができました。




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【二ノ丸】
二ノ丸の入口には大きな櫓門がありました。
門を抜けて曲輪内に入ると、
広庭(多目的に利用された広いスペース)があり、
武術稽古や藩士らが一同に揃う
儀式などが行われていました。
ほかにも馬屋、武器蔵などがありました。
現在、建物は残っていませんが、
東側の端に土塁のみが見られます。

【南曲輪】
南曲輪には回遊式庭園や茶室がありました。
中央の池には山の沢水が引かれ、
滝から池へ水を落としていました。
春は梅や山吹、夏はサツキやキリシマツツジ、
かきつばた、藤など、四季に応じて
色とりどりの花が咲いていたとのことです。
現在庭園は残っていませんが、
本丸と結ぶ土橋の上から
左右の堀を見ますと、
曲輪の造成時に造られた
切岸がとてもきれいに見えるとのことです。

【三ノ丸】
三ノ丸には、藩主の子どもが
暮らした御殿や家老などの屋敷があったほか、
空き屋敷を利用して藩校「進徳館」も開かれました。
現在も残る進徳館の建物は、
城内に唯一残された江戸時代の建物です。

【勘助曲輪】
「勘助」とは、武田信玄の家臣である
山本勘助のことです。
武田信玄が高遠城を改修した際、
山本勘助が縄張をしたと伝えられており、
勘助曲輪の名称もそのことに由来しています。
江戸時代には稲荷社があり、
2月の初午の例祭には城下の人々も
自由に参拝が許され、
狂言芝居や富くじなども行われ、
大変賑やかだったと伝えられています。
現在の曲輪周辺は、
江戸時代とは大きく変わっており、
かつて勘助曲輪と三ノ丸武家屋敷の間にあった
大きな堀(鍛冶堀)は埋められ、
現在は広い駐車場になっています。

勘助曲輪・説明

<現代の勘助曲輪>
高遠城 現代の勘助曲輪

【笹曲輪と法幢院曲輪】
笹曲輪は本丸の南に隣接する曲輪で、
一段低い位置にあります。
周囲に笹が多く生育していることから、
この名前になったと言われています。

法幢院曲輪は、城内の南の端にある曲輪です。
戦国時代、ここには「法幢院(ほうどういん)」
というお寺がありました。
高遠城の戦いの後も
戦死者を弔う法要が行われました。
寺は文禄元年(1592年)に
城外へ移りましたが
(現在の桂泉院)、
その後も法幢院曲輪と呼ばれ続けたのでした。




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【搦手(裏口)】
搦手から城外へ出ると、武家屋敷地になります。
搦手には櫓門があり、
その中に時を告げる太鼓が置かれていました。
開門時間になると、太鼓が鳴り出し、
それを合図に門の扉が開きます。
勤めの武士が登城(出勤)し、
門内の控所で登城者の名前が記録されました。
太鼓が鳴り終わると門の扉は閉じられ、
それまでに城内に入らない者は
遅刻となります。
搦手門の櫓の上からは、
藩士らの家並みがよく見え、
登城を急ぐ姿もよく見えたとのことです。
賢い藩士たちは盆暮に、
太鼓番の家へ内緒でつけとどけをしており、
いつもつけとどけをする藩士が
遅れそうな姿が太鼓番の眼に入ると、
太鼓番は太鼓を打つ手を長引かせ、
間一髪でその藩士は間に合うと
いうことがよくあったとか・・・。

【遺構】
現在ある問屋門は
昭和23年(1948年)に
町内の旧家から移築したものです。

<本丸門> 
伊那市内個人宅に移築。

<本丸冠木門> 
同上。

<二の丸門> 
岡谷市内個人宅より伊那市へ寄贈され、
解体保管中。

<搦手門> 
岡谷市内久保寺に移築。

<大手門> 
昭和29年(1954年)に
高遠高等学校正門として
伊那市富県北福地の所有者より
寄贈を受け移築され、
昭和59年(1984年)まで
正門として使用されていました。

高遠城 伝大手門

<進徳館> 
最後の藩主内藤頼直創設の藩校。

【その他】
信長公記」の記述によりますと、
織田勢の攻撃により落城する前、
諏訪(勝右衛門)頼辰の妻
(原文では、諏訪勝右衛門女房)
が刀を抜き打ち、切って回り、
比類無き働き前代未聞の次第なり、と
女性武将の抵抗が評価されています。

【100名城スタンプ設置場所】
<通年設置>
伊那市立高遠町歴史博物館正面玄関(屋外)
通年24時間。
100名城スタンプ設置場所

<臨時設置>
高遠閣(公園管理事務所)正面玄関
高遠城址公園さくらまつり期間中のみ24時間
(4月1日から散り終わりまで)

【さくら祭り】
<開催期間>
4月1日から4月30日まで

<入園時間>
午前8時から午後5時まで

<高遠城址公園入園料(観桜期)>
(個人)
大人:500円
小中学生:250円

(団体)
大人:400円
小中学生:200円
注記1:大人は高校生以上
注記2:団体は、20人以上
注記3:
障がい者手帳をお持ちの方と
介助者(1名まで)の方は無料となります。

【市営有料駐車場】
(1回1台につき)
普通乗用車:1000円
(車いす優先駐車場有)
自動二輪車:200円
大型バス・中型バス:4000円
マイクロバス
(全長7m未満かつ乗車定員29人以下)
:2000円




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【所在地】
長野県伊那市高遠町東高遠城跡

【交通アクセス】
◆中央自動車道
諏訪ICより国道152号で約50分、
伊那ICより国道361号で約30分、
小黒川スマートICから約25分。
JR飯田線
(伊那市駅・伊那北駅下車バス約25分⇒
高遠駅下車徒歩約20分またはタクシー約5分)

武田勝頼~甲斐源氏・戦国大名としての甲斐武田氏最後の当主、素質と環境が合わず悲劇が訪れます。

長篠・設楽原の戦いの古戦場~織田・徳川連合軍と武田軍の決戦の地です。

徳川秀忠~江戸幕府2代将軍、幕藩体制の基礎を固め政権運営方針を次代に引き継ぐ。

会津若松城(鶴ヶ城)~日本100名城、蘆名氏が築城、伊達・上杉・蒲生・加藤・保科・松平と続いた天下の名城。

木曽福島城~天文年間に木曽義康が築城、後に小笠原氏に攻め込まれました。

小笠原長清~弓馬四天王と称され、武家の有職故実を伝える小笠原一族の始祖です。

武田信玄~風林火山の軍旗のもとに、戦に明け暮れ駆け抜けていった53年の人生でした。

躑躅ヶ崎館(武田氏館跡)~武田信虎が築城し、信玄、勝頼と3代続いた戦国大名武田氏の中心地です。

絵島(江島)囲み屋敷~江戸城大奥御年寄であった江島が「江島生島事件」後に幽閉された屋敷です。

赤沢自然休養林(日本三大美林)の森林鉄道に乗車しました。森林浴発祥の地です。

臨川寺~天下の奇勝「寝覚めの床」があり、浦島太郎が住み着いた地との伝説があります。

三留野 SL公園~かつての三留野宿にD51351が腕木式信号機と共に静態保存されています。

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