城跡

躑躅ヶ崎館(武田氏館跡)~武田信虎が築城し、信玄、勝頼と3代続いた戦国大名武田氏の中心地です。

史跡 武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)



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躑躅ヶ崎館(武田氏館跡)】

躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、
山梨県甲府市古府中(甲斐国山梨郡古府中)
にあった戦国期の居館(または日本の城)です。
宝永2年(1705年)に
甲府に入封した柳沢吉保は、
それまで「古城」と呼ばれていた
躑躅ヶ崎館跡を「御館跡」と呼ぶよう
甲府市中に発したとのことです。

国指定史跡 武田氏館跡

戦国大名武田氏の中心地】
甲斐国守護武田氏の居館で、
戦国大名武田氏の領国経営における
中心地となりました。
甲斐国守護武田氏の本拠である
甲府に築かれた館で、守護所が所在しました。
現在、跡地には武田神社があり、
また、「武田氏館跡」として
国の史跡に指定されております。

武田神社 拝殿

県内では甲州市(旧勝沼町)の
勝沼氏館と並んで
資料価値の高い中世の城館跡となっています。

武田神社 武田氏館跡

【近代以降の甲府市の原型】
戦国時代に築かれた
甲斐源氏武田氏の本拠地で、
居館と家臣団屋敷地や城下町が
一体となっています。
武田信虎武田晴信(信玄)武田勝頼3代の
60年余りにわたって府中として機能し、
後に広域城下町としての甲府や、
近代以降の甲府市の原型となりました。

【別名】
武田氏館跡

【城郭構造】
連郭式平城

【天守構造】
不明(天守台は残る)

【築城主】
武田信虎

【築城年】
永正16年(1519年)

【主な改修者】
徳川氏、羽柴秀勝、加藤光泰

【主な城主】
武田氏、河尻秀隆?、徳川氏
豊臣秀勝、加藤光泰、浅野長政

【廃城年】
文禄3年(1594年)

【遺構】
石垣、土塁、水堀、空堀、
土橋、虎口、井戸、天守台、
復元馬出し

<水堀の上にかかる神橋>
水堀の上にかかる神橋(武田氏館跡)

【指定文化財】
国の史跡

【地理地形】
県中部、甲府盆地の北端、
南流する相川扇状地上に位置しています。
東西を藤川と相川に囲まれ、
背に詰城である要害山城を
配置した構造になっています。

【甲斐国における武田氏】
甲斐国では南北朝時代に
安芸守護・武田信武が入府し、
在地の石和流武田氏は没落しました。

【守護所の場所】
武田信武・武田信成・武田信春
の時代(15世紀初頭まで)に
守護所は八代(笛吹市)・
千野(甲州市塩山千野)に置かれ、
それまでの政治・経済的中心地であった
石和(笛吹市石和町)から
離れた場所に移転されました。
一方で武田信武と武田信春は
笛吹市石和町市部の観音寺や
笛吹市石和町松本の大蔵経寺など
寺社の再興を行い、
一族を石和近辺に住まわせています。




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【室町時代の甲斐守護】
室町時代の甲斐守護であった
武田信満(甲斐武田氏の第13代当主。
甲斐守護 武田信春の嫡男)・
信元・信春(穴山氏)・
武田信重(甲斐武田氏の第14代当主)・
武田信守(甲斐武田氏第15代当主で
安芸武田氏第3代当主)の時代
(15世紀初頭から15世紀中頃)に
守護所は石和に近い小石和
(笛吹市石和町小石和)に移転されました。
この時代に甲斐国は室町幕府と
鎌倉府の抗争に影響され、
応永23年(1416年)の
上杉禅秀の乱において
武田信満が滅亡すると
甲斐は守護不在状態となったのでした。
これにより有力国人や
守護代・跡部氏が台頭し、乱国状態となりました。

【武田信昌の時代】
守護の武田信昌
(甲斐武田氏第16代当主。
武田信玄の曾祖父)と
武田信縄(甲斐守護職・武田氏の第17代当主。
武田信玄の祖父、武田勝頼の曾祖父)の時代
(1466年頃から1518年)には
跡部氏(甲斐源氏・小笠原氏分流)が排斥されました。
「甲斐国志」によりますと、
武田信昌は甲府盆地東部の
甲府市川田町の川田館に居館を構え、
家臣団を集住させました。
これにより守護所は石和に回帰し、
笛吹川を挟んだ商業地域と
分離した城下町を形成したのでした。

【武田VS油川信恵
武田信昌は嫡男である武田信縄に家督を譲り
落合(山梨市落合)に隠居しますが、
武田信昌は次男の油川信恵(油川氏)を
後継者とすることを望んでいたとのことです。
守護である武田信縄と油川信恵の間で内訌が発生。
武田信縄の子である武田信虎(初名は信直)は
永正5年(1508年)に油川信恵を敗死させると、
武田信虎による甲斐統一が進捗したのでした。

【武田信虎の躑躅ヶ崎館建設】
武田信虎も川田館を本拠としていましたが、
「高白斎記」によりますと
永正16年(1519年)に
盆地中央に近い相川扇状地への
居館移転を行いました。
移転の理由に関しては、
石和館一帯が水害の常襲地で
あったためとする説があります。
「高白斎記」では、
8月15日には鍬立式が行われ、
翌8月16日には武田信虎による
見分が行われていたとのことです。

【川田館からの移住】
「高白斎記」では、武田信虎は12月20日に
川田館から移住したということです。
「勝山記」永正16年・永正17年条においても、
永正17年3月時点で館は完成していたと
記されています。
更に「勝山記」には
「新府中」や「甲斐府中」と記されており、
居館移転は地鎮祭から4か月あまりで、
居館も未完成な状態だったということです。

【有力国人の城下町移住】
武田信虎は新館の建設と同時に
有力国人の城下町移住を行っています。
有力国人は甲府への集住に対して抵抗し、
「勝山記」によりますと
永正17年5月には
栗原氏・大井氏・逸見氏らが
甲府を退去する事件が発生しています。

武田二十四将

【要害山城と湯村山城】
また、館を守備する支城の築城も行われ、
『高白斎記』によりますと、
永正17年6月には
背後の積翠寺丸山に要害山城
(甲府市上積翠寺町)が築かれ、
大永3年(1523年)には
城下西方の湯ノ山に
湯村山城(甲府市湯村)が築城されています。

要害山城

【府中八幡神社の創建】
また、武田氏と関係の深い石和からは、
笛吹市石和町市部に所在する、
武田信光ゆかりの石和八幡神社を勧請し、
躑躅ヶ崎館西部に
府中八幡神社を創建しました。
府中八幡神社は武田信玄により
甲斐惣社となり、
国内の武田領国内の神社統制を担いました。
また、武田信光居館の鎮守と伝わる
御崎明神も甲府へ移転させたのでした。




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【室町幕府将軍邸の影響】
武田信虎は室町幕府の
将軍足利義晴と通じ、
甲府の都市計画も
京都の条坊を基本にしていることが
指摘されていますが、
発掘調査によりますと、
当初の居館は将軍邸である
花の御所(室町第)と
同様の方形居館であり、
建物配置や名称にも
将軍邸の影響が見られます。

躑躅ヶ崎館跡 能舞台

【有力国人の要地移転】
武田信虎時代には甲斐国内の有力国人が
武田氏に帰服していますが、
躑躅ヶ崎館の建設後は有力国人も
同様に本拠の要地移転を実施しており、
郡内地方を治める小山田氏
中津森から谷村へ、
河内地方の穴山氏は南部から
下山へと移転しています。

【武田信玄時代の躑躅ヶ崎館】
武田晴信(信玄)時代の武田氏は
大きく所領を拡大させ、
信濃、駿河、上野、遠江、三河などを
勢力下に収めましたが、
本拠地は一貫して
要害山城を含む躑躅ヶ崎館でした。

【天文2年の火災】
躑躅ヶ崎館は天文2年と
天文13年(1543年)に
火災に見舞われています。
天文2年の火災は「勝山記」に
記録されていますが、
積翠寺郷に屋敷を持つ
駒井高白斎「高白斎記」には
記されていないことから、
規模の小さい火災であったと考えられています。

【天文13年の火災】
天文13年の火災は、
同年正月に近在の
武田道鑑屋敷からの出火し、
大風により館に飛び火し、 類焼しています。
武田道鑑は武田信成の弟である
武田公信の系統で、
祖父の武田満信は
在京奉公をしていたということです。
武田道鑑は歌人としても知られ、
躑躅ヶ崎館に近在する
屋敷を持っていたことから、
家格の高い人物であったと考えられています。

この火災により武田晴信は
駒井高白斎屋敷へ一時移っていますが、
同年2月24日には館へ戻っているため、
全焼は免れたと考えられています。
「高白斎記」によりますと、
この火災を契機に館の
大規模な改修が行われたとのことです。

【城下の拡大の限界】
甲府は要地でしたが、
天文17年(1548年)には
庶民の屋敷建築が禁止されている等、
城下の拡大には限界もあったとされています。
また、この頃には全国的な山城への
居館移転も傾向としてみられたとのことです。




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【武田勝頼期】
武田勝頼期には天正3年(1575年)の
長篠の戦いでの敗戦により
領国支配に動揺が生じました。
武田勝頼は
領国体制の立て直しのため
府中移転を企図し、
家臣団の反対もありましたが
新たに新府城(韮崎市中田町中條)を築きました。
天正10年(1582年)には
躑躅ヶ崎館から移転しています。
けれども、まもなく実施された
織田氏の甲州征伐の結果、
武田氏は滅亡となりました。

【織田家臣の統治の躑躅ヶ崎館】
武田氏滅亡後、
河内領を除く甲斐一国・信濃諏訪郡を
統治した織田家臣の
河尻秀隆は躑躅ヶ崎で
政務をとったとされていますが、
異説として岩窪館(甲府市岩窪町)を
本拠としたとする説があります。
同年6月に本能寺の変が勃発し、
河尻秀隆はその後の混乱の中落命しました。

徳川家康期】
その後に入府した徳川家康によって
改めて甲斐支配の主城とされ、
館域は拡張されて天守も築かれました。
天正18年(1590年)に
徳川家臣の平岩親吉によって
甲府城が築城されると、
その機能を廃されるに至りました。
以降、甲府は甲府城を中心とした
広域城下町として発展していくのです。

【江戸幕府・柳沢吉保】
宝永2年(1705年)に
甲府に入封した柳沢吉保は、
それまで「古城」と呼ばれていた
躑躅ヶ崎館跡を「御館跡」と呼ぶよう
甲府市中に発しました。
柳澤吉保は自らを甲斐源氏の後裔と
位置付けています。

<武田水琴窟>
武田水琴窟

<武田水琴窟の説明>
武田水琴窟の説明

2019年は永正19年(1519年)から
ちょうど500周年にあたり、
「こうふ開府500年」の年でした。

【館の広さ】
広さは周囲の堀を含めて
東西約200m・
南北約190m、
面積は約1.4万坪
(約4.6万m2)と推定されています。

【館の構造】
外濠、内濠、空濠に囲まれた三重構造で、
中世式の武家館ですが、
東曲輪・中曲輪からなる
規格的な主郭部、西曲輪、味噌曲輪、
御隠居曲輪、梅翁曲輪
(うち、味噌曲輪、御隠居曲輪、
梅翁曲輪は武田氏滅亡後の
豊臣時代に造成)等から
構成されると考えられています。
甲斐武田氏の城郭の特徴が
よく現れた西曲輪虎口や空堀、
馬出しなどの防御施設を
配した構造になっています。
2006年の発掘調査では
大手口前面の下部から
三日月堀が確認され、
正確な年代は不明ですが丸
馬出が築かれていたことが判明しました。
大手東側一帯は発掘調査により
4段階の変遷が確認されています。
第1期は城下町の一角が検出され、
第2期は丸馬出、
第3期は角馬出、
第4期は石塁と造り替えが
行われています。

躑躅ヶ崎館跡 各曲輪縄張り図

【館の内部】
内郭は石積みで仕切られており、
東曲輪で政務が行われ、
中曲輪は当主の日常の居住空間、
西曲輪は家族の
住居があったと考えられています。
武田氏から徳川氏、
浅野氏の支配の期間を通じて、
主郭部に曲輪を増設する形で
改修が行われていました。
甲陽軍鑑」では武田晴信の持仏を納めた
毘沙門堂に関する記事がみられ、
連歌会や歌会が催される会所でありました。
「高白斎記」では、
天文12年(1543年)には
館の一部を焼失しましたが、再建されています。

【武田神社創建】
現在、跡地は大正8年(1919年)に
創建された武田神社の境内にあたりますが、
このときに南面の主殿の規模が
縮小されています。
また武田神社の本殿を立てる際には
南の石垣を崩し、正門を新たに造りました。
このときに三重構造の
原型の大半が崩されてしまいましたが、
その後、昭和15年(1940年)に
国の史跡に指定されています。

武田神社全図

<武田神社の御朱印>
武田神社の御朱印

【遺構】
遺構として土塁、堀、石垣、虎口などがあり、
陶磁器などの出土遺物も確認されたほか、
神社の近くには
往時のままの場所にあると
伝えられている井戸が2箇所存在しています。
そのうち「姫の井戸」と呼ばれる井戸は、
武田信玄の子息誕生の際に
産湯に使用されたと伝えられています。

武田氏館跡(躑躅ヶ崎館)姫の井戸

なお、武田信玄の時代の通用門は
現在の神社東側にあり、
内堀によって道と隔てられていました。




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【所在地】
〒400-0014 山梨県甲府市古府中町2611

【交通アクセス】
JR中央本線「甲府」駅北口より
北へ一本道2.2km。
JR「甲府駅」から
「武田神社行」・「積翠寺行」のバス
約10分乗車でバス停「武田神社」下車すぐ。

日本100名城
2006年(平成18年)4月6日、
「武田氏館」として
日本100名城(24番)に選定されました。

<百名城スタンプ>
躑躅ヶ崎館(武田氏館跡)内にあります。
武田氏館跡(躑躅ヶ崎館)百名城スタンプ

【駐車場】
武田神社参拝者用の駐車場があります。

所要時間:20分~1時間程度

武田信玄~風林火山の軍旗のもとに、戦に明け暮れ駆け抜けていった53年の人生でした。

武田義清(源義清 (武田冠者))~常陸国出身で配流となった先の土地に根差して甲斐源氏の祖となりました。

武田信義~甲斐源氏であり武田氏の初代当主となり、武田信玄の遠いご先祖様です。

積翠寺にある武田信玄公産湯の井戸跡と背後の要害山城、続日本100名城です。

甘利氏館と扇子平山城~甘利氏は甲斐源氏で、戦国時代には武田家臣の譜代家老を務めました。

石積出(いしつみだし)~武田信玄が築いたとされている治水工事で国指定遺跡です。

武田信成~武田信時の系統で安芸守護武田氏から甲斐国守護武田宗家となりました。

甲斐・上野城(甲斐・椿城)~築城は小笠原氏の子供の上野氏でその後に秋山氏、大井氏の居城となります。

湯村山城~躑躅ヶ崎館の西の守りの詰めの城として武田信虎が築城しました。

甲斐・白山城~武田信義が築城し、戦国時代にはその子孫が城主となった山城で国史跡です。

武田八幡宮~創建は平安時代、甲斐武田家の氏神として尊崇されてきました。

山本勘助晴幸屋敷~隻眼・片足不自由だが摩利支天のようだと称えられた軍師の屋敷跡。

土屋右衛門昌続とその屋敷跡~武田24将の一人で武田信玄死後3年間遺体を隠した場所とのことです。

土屋惣蔵昌恒~出自は金丸氏で武田家最後の家臣にて忠臣、子供は大名になります。

中野城・雨鳴城~秋山光朝築城の連郭式山城で、悲劇の武将の物語が今も残っています。

甲斐・須沢城~南北朝・観応の擾乱にて落城、須沢城の悲劇として後世に語られる逸話があります。

高遠城~国の史跡で日本100名城、春には珍しい品種の桜であるタカトオコヒガンが咲き誇ります。

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