城跡

河村城跡~平安時代から鎌倉時代、南北朝、戦国の世に在り続けた山城と河村氏。

河村城跡 本丸跡




河村城

河村城(かわむらじょう)は、
神奈川県の足柄上郡山北町にあった日本の城。

【城郭構造】
連郭式山城

【築城主】
河村氏
(河村秀高)
(河村義秀)

【築城年】
平安時代末期?

【主な改修者】
小田原北条氏

【主な城主】
不明

【廃城年】
不明

【遺構】
郭、堀切、復元畝堀、井戸

【指定文化財】
県指定文化財

<河村城跡 案内図>
河村城跡 案内図

平安時代末期に築城され、
相模・甲斐・駿河三国の境界線が交差する
要衝の近くに築かれた山城です。

【歴史】
河村城は平安時代末期に
藤原秀郷の流れをくむ
河村秀高によって築かれたとされています。

【平安時代~鎌倉時代前期】
源氏と平氏による石橋山の合戦の際、
河村秀高の子である河村義秀は
平氏に味方したため、
領地を没収されてしまいます。
けれども鎌倉で源頼朝
流鏑馬の妙技を披露し、
本領河村郷に復帰できたと言われています。
(「吾妻鏡」より)

【奥州河村氏の祖】
また、河村義秀の弟である河村秀清は
源頼朝の奥州征伐に従い、
戦功により岩手県に領地を得て、
奥州河村氏の祖になったと
考えられています。

【南北朝時代】
南北朝時代、1352年に
南朝方の新田義興らが河村城に籠城し、
畠山国清を主将とする
北朝方の足利尊氏軍と戦火を交えますが、
翌1353年には新田軍は
河村城から退却しました。

【河村一族の行く末】
建武の新政・南北朝時代に入ると、
河村氏は新田氏に協力し南朝方につき、
北朝方の足利尊氏と対峙したといわれ、
1352年
(南朝:正平7年、北朝:文和元年)から2年間、
河村秀国・河村秀経らは
新田義興・脇屋義治とともこの城に立てこもり、
畠山国清を主将とする
足利尊氏軍の攻撃をしのいだとされています。
けれども、
南原の戦いで敗れ落城し、
河村一族の多くは討死。
新田義興・脇屋義治は中川城を経て
甲州に逃れたとされています。





【大森氏の支配下になる】
その後は、この城は
畠山国清や関東管領上杉憲実を経て、
足利持氏の属将である
大森憲頼(大盛氏頼の弟)の
支配するところとなりました。

【戦国時代】
戦国時代に入ると、
小田原後北条氏の支配を受けるようになりました。
元亀年間には、
(1570年(元亀元年)⇒1573年(天正元年))
甲斐国の武田信玄の侵攻の際に補強され、
その後、周辺の諸城とともに
小田原北条氏と武田氏の間で
争奪合戦があったとされています。

【廃城へ】
天正18年(1590年)の
豊臣秀吉による小田原征伐で、
この城は落城し廃城となり、
長い歴史に幕を下ろしました。

【現在】
河村城址歴史公園として整備されており、
本丸やその他の郭、畝掘などの遺構が見られます。
但し、一部の遺構は山林化して解りづらくなっており、
見学するならば晩秋から早春の時期が良いと思います。
また公園整備が中途半端に放置されていたり、
土橋にコンクリートを用いているなど、
ちょっと景観を損ねているとする意見があるようです。

【河村館】
戦国時代の小田原北条家が改修した
河村城がある浅間山麓に、
河村館として「土佐屋敷跡」があります。
河村古城図にも「土佐屋敷」の記載があり、
1993年頃に行われた発掘調査では、
土佐屋敷周辺から東西250m、
南北150mの方形居館址が確認されました。
出土した遺物からは、
戦国時代の頃に使われていたと
推定されており、
河村城主の館がここにあったとも考えられます。

<河村館跡>
河村館跡

なお、ここから南方200m下方にある
堀の内には、平安時代~鎌倉時代の武将である
河村秀高の4男の河村秀清屋敷の伝承もあります。

<障子堀>
河村城跡 障子堀

<蔵郭>
河村城跡 蔵郭

<堀切>
河村城跡 堀切

<河村城跡からの眺め>
河村城跡からの眺め

散策所要時間:30分~2時間程度
※草生い茂る時季は外した方がいいです。

【所在地】
〒258-0113 神奈川県足柄上郡山北町山北

【交通アクセス】
【電車】
JR東海・御殿場線「山北」駅より徒歩15~20分程度。
(本郭まで)

【車】
県道74号を小田原方面から山北駅方面に向かい
246号に交差するところから、
1kmほど手前、岸の交番を過ぎてすぐ左折。
河村城跡入口の看板が目印になります。

【駐車場】
有り。
7~8台分のスペースです。

【トイレ】
あります。

【河村秀清】

河村 秀清は、
(かわむら ひできよ、治承元年(1177年) – 没年不詳)
鎌倉時代の武将・御家人。
相模国足柄郡河村郷
(現・神奈川県足柄上郡山北町)の住人でした。
藤原氏秀郷流、波多野氏の一族。
幼名は千鶴丸で、通称は四郎(河村四郎)。

【「河村」姓の由来】
治承元年(1177年)に
波多野義通の実弟である河村秀高(ひでたか)の
四男(母は源頼朝の御所の女官である京極局)
として生まれました。
兄に河村則実(のりざね、柳川二郎)と
河村義秀(よしひで、河村三郎)、
弟に河村秀経(ひでつね、河村五郎)がいます。
「河村」の姓は、父である河村秀高が
(名は遠実(とおざね)とも)
その父(河村秀清の祖父)である
波多野遠義(とおよし)から
河村郷の所領を譲られてそこを本拠とし、
その地名をとって
名乗ったことから始まったとされています。

【兄の河村義秀の窮地】
源頼朝が挙兵した際、
兄である河村義秀はそれに応じず
平家側についたとされています。
治承4年(1180年)の
石橋山の戦いでも大庭景親に同調しましたが、
富士川の戦い後に
大庭景親らとともに捕縛されました。
河村郷を中心とする河村義秀の
所領(本貫地)は没収され、
本来ならば斬罪に処されるべきでした。
けれども、以前より源頼朝方であった
大庭景親の兄である大庭景義の計らいによって
罪を赦されています。





【流鏑馬の技で命繋がる】
建久元年(1190年)の
鶴岡八幡宮での出来事です。
この年の流鏑馬の射手が故障し、
神事を執り行うことが
出来なくなる事態が発生しました。
この時、大庭景義が源頼朝の前に出て、
一人の人物を推薦します。
その人物とは河村義秀でした。
本来なら処刑されるべき、
もしくはすでに処刑されたであろう
人物に源頼朝は驚きます。
けれども、源頼朝は
「仕損じた場合は重ねて罪を問うべし」と
大庭景義の願いを聞き入れたのです。
そして河村義秀は期待に応えるべく、
その技を披露します。
流鏑馬で三尺・手挟・八的などの
難しい的を見事に射抜くという技を披露。
源頼朝よりその武芸を見込まれて
許されたということです。

【兄・河村義秀、御家人となる】
9月には本領であった河村郷を安堵され、
以後御家人として活動することとなりました。
兄である河村義秀が捕縛された時、
その弟である千鶴丸(秀清の幼名)は浪人となり、
母・京極局のもとにいたとのことです。

【奥州合戦に参加】
「吾妻鏡」によりますと、
文治5年(1189年)、
若年の千鶴丸は13歳にして
奥州合戦に参加しました。

【阿津賀志山の戦い】
三浦義村らとともに、
藤原泰衡の異母兄である
藤原国衡がまもる
陸奥国阿津賀志山の
(現・福島県伊達郡国見町厚樫山)の
堡塁(ほうるい)を攻めて武功を挙げました。

【源頼朝、元服させる】
これに感激した源頼朝は、
8月12日、船迫駅において、
自らの御前で元服させたとのことです。
この時の烏帽子親は、
源頼朝からの指名により、
小笠原長清が務め、
「清」の字を与えられて、
河村秀清と名乗るようになりました。

【奥州の所領を賜る】
加えて河村秀清は戦後の論功行賞により、
岩手郡・斯波郡の北上川東岸一帯と
茂庭の地、そして摩耶郡の三カ所に
所領を賜りました。

【奥州河村氏】
河村秀清自身はあまり奥州には
長くとどまらなかった模様ですが、
河村秀清の子供や、
一族の河村時秀
(兄の河村義秀の子と伝わるが秀清の子とも)
の子供の河村貞秀らを
配置し、その子孫が奥州河村氏として
北川川東岸一帯に広まったとされています。

以後、河村氏は本家筋の波多野氏とともに
執権の北条氏の執権政治の時にも
北条氏に従いました。

【承久の乱で兄弟で活躍】
承久3年(1221年)の承久の乱では
兄の河村義秀とともに
幕府方について宇治川で戦い、
武功を挙げたとのことです。
その後は没年を含め不明です。

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