鎌倉殿の13人

三浦義村~鎌倉幕府の創設期から執権政治の確立まで仕え権謀術数に優れた策略家

三浦義村の墓(旧)



スポンサーリンク



三浦義村

三浦 義村(みうら よしむら)は、
鎌倉時代初期の相模国の武将。
鎌倉幕府の有力御家人。
桓武平氏良文流三浦氏
当主の三浦義澄の次男で嫡男です。

【時代】
平安時代末期 – 鎌倉時代前期

【生誕】
1160年⇒1170年頃?

【死没】
延応元年12月5日(1239年12月31日)

【別名】
平六

【墓所】
神奈川県三浦市南下浦町金田
三浦義村 説明板

【幕府】
鎌倉幕府 侍所所司、評定衆

【主君】
源頼朝、頼家、実朝、藤原頼経

【氏族】
桓武平氏良文流、三浦氏

【父】
三浦義澄

【母】
伊東祐親の娘

【兄弟】
三戸友澄、義村、重澄、胤義、他

【妻】
一条忠頼の娘?
土肥遠平の娘
【子】
朝村、泰村、長村、光村、重村、家村、
資村、胤村、重時、良賢(僧侶)、
矢部禅尼、土岐光定室、毛利季光室、
千葉秀胤室

【三浦義村の生涯】
【幕府創設期】
「吾妻鏡」寿永元年8月11日条には
寿永元年(1182年)、
源頼朝の妻である北条政子の安産祈願の祈祷のため、
安房「東條庤明神」へ奉幣使として遣わされたとあります。
この記述が三浦義村の史料における初見となります。
建久元年(1190年)に右兵衛尉に任官されます。

梶原景時の変・畠山重忠の乱】
正治元年(1199年)の梶原景時の変では
中心的役割を果たし、
元久2年 (1205年)の畠山重忠の乱でも
討伐に参加しています。
その後、無実の畠山重忠を陥れたとして、
稲毛重成、榛谷重朝を殺害しています。

和田合戦・裏切り】
建暦3年(1213年)2月、
北条義時を排除しようと企む
泉親衡の謀反が露見します。
三浦義村の従兄弟で
侍所所司であった和田義盛の子である
和田義直、和田義重と甥の和田胤長が
関係者として捕縛されました。
その後、子供の2人は配慮され赦免になりましたが、
和田義盛は三浦氏を含む一族を挙げて
甥の和田胤長も赦免を懇請しました。
けれども和田胤長は首謀者格と同等として
許されず流罪となり、
さらに和田胤長の屋敷は没収されてしまいます。
そのため北条氏と和田氏の関係は悪化します。
和田義盛は親族である三浦一族など
多数の味方を得て打倒北条の決起をします。
けれども三浦義村は直前で裏切って
北条義時に和田義盛の挙兵を告げ、
御所の護衛に付いたのでした。

戦いは北条義時が将軍源実朝を擁して
多数の御家人を集め、
和田義盛を破り和田氏は滅亡しました。
三浦義村は幕政での地位を向上させることに
腐心しており、
建保6年(1218年)には侍所所司に就任しました。




スポンサーリンク



【源実朝の暗殺】
建保7年(1219年)1月27日、
将軍源実朝が、公暁に暗殺される事件がおきました。
公暁は源実朝の兄である2代将軍源頼家の子です。
公暁は三浦義村に対し
「我こそは東国の大将軍である。
その準備をせよ」という書状を持った使いを出します。
それに対して三浦義村は
「お迎えの使者を差し上げます」と偽って
討手を差し向けたとのことです。
待ちきれなくなった公暁が三浦義村宅に行こうと
裏山に登ったところで討手に遭遇し、
激しく戦って振り払い、
三浦義村宅の塀を乗り越えようとした所を
殺害されたとのことです。

【実朝暗殺事件の黒幕説】
公暁の乳母は三浦義村の妻でした。
子の駒若丸(三浦光村)は。
公暁の門弟であるなど
三浦義村との縁が深い事から、
実朝暗殺事件は公暁をそそのかして
<1>
水面の実朝と北条義時を同時に葬ろうとした
三浦義村が黒幕であるとする説。
<2>
逆に北条義時が公暁を裏で操ったという説。
<3>
将軍親裁を強め後鳥羽上皇との連携を目指した
源実朝を北条義時と三浦義村が手を結んで
排除したとする説。
<4>
幕府転覆を望む後鳥羽上皇が黒幕という説。
など、複数の黒幕説が流れ、
またそれらの背後関係よりも
<5>
公暁個人の野心に最も大きな要因を求める見解もあって、
真相は現在も明らかにはなってはいません。

確かな事は三浦義村は公暁討伐の功により、
同年駿河守に任官しています。

・・・この事件で最も得をした人物が
大抵は黒幕だったりします・・・。
と、なると・・・。
オソロシや・・・。

【承久の乱】
承久3年(1221年)の承久の乱では、
後鳥羽上皇の近臣だった弟の三浦胤義から
決起をうながす使者を送られます
けれども三浦義村は追い返し、
これを北条義時に知らせます。
三浦義村は幕府軍の大将の一人として
東海道を上り、京方を破り上洛します。
三浦胤義や藤原秀康らは敗走して、
やがて上皇にも見捨てられ東寺へ籠り奮戦しましたが、
三浦胤義は自刃しました。




スポンサーリンク



【伊賀氏の変】
元仁元年(1224年)、
北条義時が病死すると、
継室の伊賀の方が自分の実子である北条政村を執権に、
娘婿の一条実雅を将軍に立てようとしたとされる
伊賀氏の変が起こります。
北条政村の烏帽子親であった三浦義村は
この陰謀に関わりますが、
北条政子が単身で三浦義村宅へ問いただしに
訪れた事により決意を翻し、
釈明して二心がないことを確認したのでした。
そして事件は伊賀の方一族の追放のみで収拾しました。

【伊賀氏の変はでっちあげ?】
けれども伊賀氏謀反の風聞については
執権となった北条泰時自身が否定しています。
また「吾妻鏡」でも
伊賀氏が謀反を企てたとは
一度も明言しておらず、
北条政子に伊賀氏が処分された事のみが
記されているとのことです。
そのため伊賀氏の変は、
鎌倉殿や北条氏の代替わりによる
自らの影響力の低下を恐れた北条政子が、
北条義時の継室である伊賀の方の
実家である伊賀氏を強引に潰すために
北条氏お得意の
でっち上げた事件とする説もあるとのことです。

【幕府の宿老として】
嘉禄元年(1225年)夏には
大江広元・北条政子が相次いで死去しました。
同年12月に執権である北条泰時の元、
合議制の政治を行うための評定衆が設置され、
三浦義村は宿老としてこれに就任しました。
幕府内の地位を示す椀飯の沙汰では
北条氏に次ぐ地位となっています。
貞永元年(1232年)の御成敗式目の制定にも署名しました。
4代将軍・藤原頼経は、将軍宣下ののち、
三浦一族と接近するようになり、
三浦義村は子である三浦泰村と共に
藤原頼経に近しく仕えました。

延応元年12月5日(1239年12月31日)、
亡くなりました。

三浦義村の墓への階段

【人となり】
「明月記」嘉禄元年11月19日条では
藤原定家は三浦義村を
「八難六奇の謀略、不可思議の者か。」
と評していたとのことです。
また、伊賀守橘成季 編纂「古今著聞集」では、
将軍御所の侍の間の上座を占めていた
三浦義村のさらに上座に、
若い下総国の豪族である千葉胤綱が着座し、
これを不快に思った三浦義村が
「下総の犬めは寝場所を知らぬな」
とつぶやくと、
千葉胤綱は「三浦の犬は友を食らうぞ」と切り返し、
和田合戦での三浦義村の裏切りを批判した逸話が記されています。

【次代で三浦宗家は滅ぶ】
三浦介として鎌倉のある相模国を
実効支配している三浦一族の威勢は
次代の三浦泰村の代になり、
宝治合戦で北条氏との武力衝突にいたる事になります。
三浦氏当主であった三浦泰村は
北条氏への反抗の意志はなく、最期まで
穏健派であったそうですが、
弟の三浦光村は反北条の強硬派であったそうです。
屋敷に火をかけられ、
三浦一族とその縁戚、
将軍派であった御家人達500余名が
源頼朝公が眠る法華堂に集まってきます。
そして三浦泰村は以下の事を言ったとの事です。

「北条殿の外戚として長年補佐してきたものを、
讒言によって誅滅の恥を与えられ、
恨みと悲しみは深い。ただし、
父であった義村は他の一族の多くを滅ぼし、
罪業を負った。これはその報いであろう
もうすでに冥土に行く身で、
もはや北条殿に恨みはない。」
その声は涙で震えていたとのことです。

(引用元:ウキペディアより)

そして三浦一族と与党500余名は
それぞれに自刃して果てたとのことです。

法華堂跡の下のやぐらには
三浦泰村とその一族と伝わる墓があります。
現在も卒塔婆が備えられ、
お花なども供えられています。

三浦泰村とその一族の墓(鎌倉)

【佐原流三浦氏】
北条泰時の前妻だった
矢部禅尼の再婚後の子供達である
三浦氏(佐原流)は生き残り、
のちに三浦姓を名乗って三浦家を再興しています。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
山本 耕史(やまもと こうじ)さんが演じられます。

三浦義明と衣笠城合戦~長老は自らの命を盾に三浦一族の未来を守りました。

伊東佑親~源頼朝の配流地の監視役で八重姫の父であり、北条義時・曽我兄弟・三浦義村の祖父。

北条義時~鎌倉幕府2代執権~冷酷無情・現実を客観視して行動できる理想家なのか?

北条時房~初代連署で六波羅探題南方、北条義時の弟で甥の北条泰時とは最高の相棒であり好敵手でした。

鐙摺山(鐙摺城址)とは?小坪合戦(畠山VS三浦)・伊東祐親終焉の地・亀の前居住・源実朝が一句・三浦道寸が物見

三浦義澄~源頼朝を支えた宿老の一人で13人の合議制のメンバーで相模守護。三浦一族の栄枯盛衰。

三浦胤義~三浦義村の弟で妻は源頼家の側室、承久の乱では京方として三浦一族と激闘の末、自害します。

大田和城址~大多和氏は三浦義明の三男である大多和三郎義久が築城しました。

新井城址・相模三浦氏とは?伊勢盛時から3年間持ちこたえた断崖の要害

三太刀(みたち)城跡~小早川氏の祖である土肥遠平の御館か?~相模から安芸国沼田荘へ

梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。

畠山重保~畠山重忠の嫡男「六郎さま」・訳も知らぬまま謀反の疑いをかけられあえなく散る。

菅谷館跡と鶴ヶ峰・二俣川の古戦場散策~畠山重忠公の足跡を訪ねて。

稲毛重成と枡形城~秩父一族で畠山重忠とは従兄弟、相模川の橋を架橋したと伝わる人物です。

和田義盛と和田合戦~三浦一族~鎌倉幕府創始の功臣だが北条義時に嵌められる

怒田城・大矢部城・小矢部城~三浦一族の本拠地である衣笠城の支城です。

岡崎義実~代々源氏の家人で特に忠義心厚い人物。三浦一族だが中村党とも深い関係で真田与一の父親です。

泉親衡(泉小次郎)~泉親衡の乱は和田一族の炙り出し?泉小次郎館跡と小次郎馬洗いの池が泉区にあります。

横山党館~八幡八雲神社(八王子)・横山党は武蔵七党の一つで関東最大勢力の武士団です。

北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。

北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。

伊賀の方~北条義時の継室で7代執権の北条政村の生母、伊賀氏の変は政子との女性の戦か?

比企能員の妻~渋河刑部丞兼忠の娘・「鎌倉殿の13人」では道、二つの渋河氏、比企氏と源氏の深い関係と安房国

源実朝~3代将軍にて天才歌人~繊細で思慮深く秘めた志あり、やがて雪の中に散っていく。

公暁~源頼家の息子で源頼朝の孫、叔父であり義理の父親でもある源実朝暗殺の実行犯となった。

つつじ(辻殿)~源頼家の正室で「吾妻鏡」では公暁の生母、父は足助重長、祖父は源氏の勇者と名高い源為朝です。

後鳥羽院(後鳥羽上皇)、承久の乱を起こし文武両道多芸多能で怨霊伝説もあるスゴイ人物。

源仲章~後鳥羽院の廷臣であり鎌倉幕府の在京御家人という二重スパイ的立場で実朝と共に散ります。

大江広元~四男の毛利季光は毛利氏の祖となりやがて戦国大名の毛利氏へと続きます。

北条泰時~道理の人~北条執権政治の中興の祖で御成敗式目を制定した。

矢部禅尼~三浦義村の娘で北条泰時の正室、子供達は相模三浦氏や戦国大名の蘆名氏につながる。

結城朝光~誇り高く抜け目ない政治力と巧みな弁舌で鎌倉幕府に重きを成していきます。

長尾城跡(大船)・鎌倉氏系長尾氏発祥の地、南北朝から戦国時代おいて長尾氏は上杉氏の家宰職でした。

本佐倉城~続日本100名城・国指定史跡で千葉氏の最後の拠点、下総の名族から戦国大名となった千葉氏の歴史とは?

会津若松城(鶴ヶ城)~日本100名城、蘆名氏が築城、伊達・上杉・蒲生・加藤・保科・松平と続いた天下の名城。

猪苗代城 ~三浦一族で蘆名氏と同族の猪苗代氏が築城し約400年間支配、江戸時代は会津藩の重要拠点でした。

芦名城~戦国大名・蘆名氏の発祥の地であり、三浦一族の本拠地である衣笠城の支城でした。

平作城~衣笠城の支城、三浦義明の弟の孫である平佐古(蘆名)為重の所領でした。

浦賀城~東叶神社境内、安房里見軍に備えて小田原北条氏が水軍を配置、浦賀水道から房総半島が一望できる。

関連記事

  1. しとどの窟(土肥椙山観音像群) しとどの窟(湯河原)・(真鶴)、隠れながら追手をかわして岩海岸か…
  2. 源頼家 墓所 修善寺 源頼家~悲劇の2代目~北条VS比企、時々朝廷、そして東国武士の権…
  3. 岩殿観音正法寺 観音堂 岩殿観音正法寺 ・開基1300年の古刹、源頼朝の庇護の下比企能員…
  4. 平等院鳳凰堂 丹後局(高階栄子)~中流官僚の妻から後白河法皇の寵愛を受け、政治…
  5. 問注所跡(鎌倉) 三善康信~鎌倉幕府の初代問注所執事で母は源頼朝の乳母の妹です。問…
  6. 冷川不動尊 不動の滝 冷川(ひえかわ)不動尊~高源寺の不動院と伝わる場所~優しい雰囲気…
  7. 鎌形八幡宮 木曾義仲(源義仲)河内源氏で源頼朝とは従兄弟、美男子で信義と情を…
  8. 与一塚(佐奈田霊社) 佐奈田霊社~石橋山の戦いで壮絶な死を遂げた真田(佐奈田)与一を祀…



スポンサーリンク




コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

おすすめ記事

  1. 京極高次から酒井忠勝へ~八百比丘尼伝説の場所~小浜城 小浜城跡 小天守

ピックアップ記事

  1. リンナイチャシと案内板
  2. 戸定邸
  3. 熊川城
  4. 史跡 福山城跡
  5. 保土原舘 須賀川市
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
PAGE TOP