鎌倉殿の13人

伊賀の方~北条義時の継室で7代執権の北条政村の生母、伊賀氏の変は政子との女性の戦か?

報国寺 竹の庭




【伊賀の方】

伊賀の方(いがのかた、生没年未詳)は、
鎌倉時代初期の女性です。
伊賀氏とも呼ばれています。
藤原秀郷流の関東の豪族、
伊賀朝光の娘とされています。
鎌倉幕府2代執権北条義時の継室。
兄弟に光季、光宗。
子に7代執権北条政村の他、
実泰、時尚、一条実雅室などがいます。
北条義時が前妻の姫の前と離別したのちに
継室となったと見られ、
元久2年(1205年)6月22日に
北条政村を出産しました。
承元2年(1208年)には
北条実泰を出産しています。

【北条義時の死後】
貞応3年(1224年)7月、
夫である北条義時の急死後、
兄である伊賀光宗と共に実子である
北条政村を幕府執権に、
娘婿の一条実雅を将軍に擁立しようと図ります。
けれども尼将軍である北条政子
北条政村の異母兄である北条泰時
北条義時の後継者とした事により失敗し、
伊賀の方と光宗・実雅は流罪となりました。
子である北条政村は事件に連座せず、
のちに7代執権となっています。
8月29日、伊賀の方は
北条政子の命によって伊豆北条へ配流となり、
幽閉の身となりました。
4か月後の12月24日、
危篤となった知らせが鎌倉に届いており、
その後死去したものと推測されています。

北條寺

けれども伊賀氏謀反の風聞については
北条泰時が否定しており、
「吾妻鏡」でも伊賀氏が
謀反を企てたとは一度も明言しておらず、
北条政子に伊賀氏が処分された事のみが
記されています。
そのため伊賀氏の変は、
鎌倉殿や北条氏の代替わりによる
自らの影響力の低下を恐れた北条政子が、
北条義時の継室である
伊賀の方の実家である
伊賀氏を強引に潰すために
でっち上げた事件とする説もあるとのことです。

なお、藤原定家の「明月記」によりますと、
北条義時の死に関して、
一条実雅の兄で
承久の乱の京方首謀者の
一人として逃亡していた僧侶の尊長が、
北条義時の死の3年後に捕らえられて
六波羅探題で尋問を受けた際に、
苦痛に耐えかねて
「北条義時の妻が義時に飲ませた薬で
早く自分を殺せ」と叫んで、
武士たちを驚かせた、とのことです。





伊賀の方は、
伊豆の国市の臨済宗建長寺派の北條寺境内で
夫の北条義時と並んで眠っています。
北條寺を建立したのは北条義時ですが
北条義時夫妻の墓を建てたのは
北条泰時とのことです。

<北条義時夫妻の墓>
北条義時夫妻の墓

<所在地>
〒410-2221 静岡県伊豆の国市南江間862−1

<駐車場>
参拝者用駐車場があります。

<交通アクセス>
◆「伊豆長岡」駅からバスで15分程度
◆東海道新幹線「三島駅」⇒
伊豆箱根鉄道「韮山駅」⇒徒歩30分
もしくはバス「江間公園入口」~徒歩10分程度
◆沼津ICから車で40分程度

【伊賀氏の変】
伊賀氏の変(いがしのへん)は、
鎌倉時代前期の貞応3年(1224年)6月から
閏7月にかけて伊賀氏によって
起こったとされる鎌倉幕府の政変です。

第2代執権であった北条義時の死去に伴い、
伊賀光宗とその妹で北条義時の継室である
伊賀の方が、伊賀の方の実子である
北条政村の執権就任と、
娘婿である一条実雅の
将軍職就任を画策したとされています。
伊賀光宗は、鎌倉御家人の中でも
実力があり北条政村の烏帽子親である
三浦義村と結ぼうとしましたが、
伊賀氏の不穏な動きを察した
尼将軍の北条政子は、
京から鎌倉に戻った北条義時の長男である
北条泰時を執権に就任させたのでした。
また、三浦義村に対し
北条泰時への支持を確約させ、
伊賀氏の政変を未然に防ぐことに
成功したとされています。
これにより伊賀氏の陰謀は頓挫したのでした。
伊賀の方は伊豆北条へ、
伊賀光宗は信濃へ、
一条実雅は越前へ配流となりました。

一方で彼らに担ぎ上げられそうになった
当人である北条政村は厳罰を免れ、
後に評定衆・引付頭人・連署など
要職を経て第7代執権に就任します。
終始得宗家に忠実な姿勢を貫いたのでした。
また、主犯として処罰を受けた伊賀光宗も、
北条政子の死後間もなく
罪を許され、所領を回復させます。
寛元2年(1244年)には評定衆に就任しました。
康元2年(1257年)1月25日、死去。
享年は80歳でした。
なお「吾妻鏡」では北条泰時の温情としています。
一方、一条実雅は越前へ配流されてから
4年後、配流先の越前で変死を遂げたとされています。

後年になって様々な解釈がとられています。
幕府は黎明期で体制が安定しておらず、
厳重な処分を下せば波紋が広がり
幕府の基盤が揺らぐという
憂慮に基づく裁定だったとする解釈や、
将軍後継として京より迎えられた
三寅(後の九条頼経)の側近で
北条義時の娘婿でもあった
一条実雅は既に
鎌倉内外の御家人に
強い人脈を形成しており、
北条泰時は武力衝突の回避と
反北条泰時派の炙り出しの意味も
含めて慎重に対応し続けたとする
見方など、です。





一方で、この事件は
すでに将軍家との血縁もなく、
北条本家との関係も希薄となって
影響力の低下を恐れた
北条政子が牧氏事件と
同じ構図を創り上げて、
北条義時後家として
強い立場を持つ事になる
伊賀の方を強引に潰そうとして
仕掛けたでっち上げで、
北条泰時はそうした
北条政子の画策には乗らずに
事態を沈静化させたとする説も
あります。

通説は幕府の編纂書「吾妻鏡」
貞応3年6月28日条に記された
伊賀氏謀反の「風説」を
事実と認定した上での説ですが、
「吾妻鏡」の記事中では
伊賀氏が謀反を企てたとは
一度も明言されておらず、
鎌倉入りの前に事前調査させた
北条泰時によって
「謀反の噂は事実ではなく、
騒ぎ立てるな」と
伊賀氏の謀反は否定されており、
北条政子に伊賀氏が処分された
事のみが記されています。

【主な出来事】
日付は全て元仁元年(旧暦)です。

<6月13日>
北条義時急死(毒殺説あり)。
直ちに六波羅探題にいる
北条泰時及び北条時房に対して
使者が出される。

<6月16日>
鎌倉からの使者が
六波羅探題のある京都に到着。

<6月17日>
北条泰時、未明(丑刻)に
六波羅を出立して鎌倉に向かう、
しかし、途中で本国である
伊豆国(本領のある北条か)に向かう(「保暦間記」)。

<6月19日>
北条時房、六波羅を出立して鎌倉に向かう。

<6月26日>
北条泰時、北条時房・足利義氏と共に
鎌倉に入るが、この日は由比ヶ浜の別邸に泊まる。

<6月27日>
北条泰時、鎌倉の本邸に入ると
直ちに兵備を固める。
このため、翌日には
北条泰時が政村を討つという
風説が流れる(「吾妻鏡」)。

<6月28日>
北条泰時と北条時房が
北条政子邸に呼び出されて
「軍営御後見」(執権の別名)に任ぜられる
(「吾妻鏡」)。

<7月5日>
伊賀の方と三浦義村の密談の話が漏れる。

<7月17日>
北条政子が三浦義村邸を
直接訪問して事実関係を問いただす。

<7月18日>
三浦義村が北条泰時邸を訪問して釈明。

<閏7月1日>
三寅・北条政子臨席の宿老会議が
北条泰時邸にて開催、
その場に三浦義村が召喚され、
改めて二心が無いことが確認され、
事態は伊賀の方周辺の処分問題に移る。

<閏7月3日>
伊賀の方と伊賀一族の処分が決定される。

<閏7月23日>
一条実雅の京都送還が行われ、
伊賀朝行・光重兄弟が同行を許される。

<8月29日>
伊賀の方と伊賀光宗の配流先が決定。
伊賀兄弟の九州への配流も決まる。

<10月29日>
朝議にて一条実雅の配流先が決定
(実雅は公卿であるため、
幕府の奏請を朝廷が
そのまま受け入れて
朝議決定とする形が取られた)。

<11月9日>
京都に留め置かれていた
伊賀兄弟が九州に送られる。

(引用元:ウキペディア)

【配流後のそれぞれの生死に着目】
伊賀の方は配流後4ケ月後に
危篤となり亡くなっています。
伊賀光宗は配流後の翌年に
北条政子が他界し、
罪を許されています。
一条実雅はずっと配流先に
留まったままで
4年後に「変死」しています。
一条実雅については、
将軍職候補として担がれたのですから、
もう「用済み」だったのでしょう。
2度と京都にも鎌倉にも
戻れない身で
彼もそのことには気づいていたと思います。

相模の海

【北条泰時と伊賀光宗】
伊賀光宗は恐らくは「シロ」であるかとの
北条泰時は何かしらの確証を得たのでしょうね。
もしくはグレーゾーンだとしても、
北条泰時は、北条政子からの影響を受けずに
独自路線を行こうと考えていたので、
自分側に伊賀光宗を引き入れたのかもしれません。
明らかに「クロ」であったらそれは厳しいですが
恐らくは「シロ~グレー」なのでしょう。
そして身内の争いは一族を衰えさせます。
そして他の有力者たちに攻められて
滅ぼされてしまう可能性もあります。
それは何が何でも避けなければなりません。
だからより、北条泰時は、
「謀反の噂は事実ではないから騒ぎ立てるな」
と言い放ったのでしょう。





【北条政子と伊賀の方】
北条政子が廃したかったのは
伊賀の方だと見ます。
伊賀の方が配流後わずか4ケ月で
この世を去ってしまったことについては
どうも腑に落ちません。
伊賀の方自身が・・・と
勘ぐってしまいます。

【権力を持つ女性の戦】
比企一族の件や、牧の方
源頼朝の愛妾たちの件で
自分以外の女性が権力を持つことを
最も恐れたのは
北条政子自身であると見ています。
そして自分以外に権力を持った女性が
出現したら、間違いなくその女性や
それを取り巻く勢力に、
今度は自分が政治生命的に
消される可能性があると
北条政子は考えていたかもしれません。
勿論命の危機も考えたことでしょう。
かつて北条時政や北条義時が
そうしたように・・。
そして牧の方を阻止した様に。
同時に北条政子はまだしなければならないことが
あり、まだここで消えるわけにはいかないと
考えていたことと見ます。
そして竹御所の存在もあったと見ています。
自分の後継者となる
竹御所を護るためにも、
伊賀の方をこのままにしておくのは
危険と見なしたことでしょう。
だからこれは女性同士の戦なのだと
自分は見ています。
そして仕掛けたのは北条政子。
彼女は情け深い女性ですが、
自分の障害となるものや
敵とみなした者に対しては
手加減などせず容赦ない仕打ちをします。
伊賀の方も受けて立ったのかもしれません。
そしてその戦に
北条政子は勝ち、伊賀の方は負けて
結果、伊賀の方は
配流後4ケ月後に
この世を去ったのだと。

そして北条政子もこの翌年に他界します。

北条義時と伊賀の方は、
今は北條寺で夫婦仲良く並んで眠っています。

伊賀の方の長男となる
北条政村は、
やがては北条得宗家を支え、
元寇というそれまでの日本の歴史において
かつてない難局に
立ち向かっていくことになるのです。

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