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築山殿(瀬名)~徳川家康の正室で松平信康と亀姫の生母ですが、後に非業の死を遂げます。

築山殿の墓



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築山殿(瀬名)】

築山殿(つきやまどの、生年不詳⇒
天正7年8月29日(1579年9月19日))は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての女性です。

【概要】
徳川家康正室です。
名は未詳あるいは瀬名とも。
通称は瀬名姫で、一般的には築山殿、
築山御前(つきやまごぜん)、
または駿河御前(するがごぜん)とも
いわれています。
「築山」の由来は岡崎市の地名です。

【父母について】
父は関口親永(氏純とも)。
母は今川義元の伯母とも妹ともいわれ、
もし妹ならば築山殿は
今川義元の姪に当たります。
夫の徳川家康と同じ歳とする説、
2歳年上とする説、
12歳近く年上の
1廻り歳上だったとする説があります。

【井伊家との血縁関係】
「井伊年譜」や「系図纂要」「井家粗覧」の
系図によりますと母は井伊直平の娘で、
先に今川義元の側室となり、
後にその養妹として
関口親永に嫁したということです。
築山殿は井伊直平の孫娘となります。
その場合だと井伊直盛とはいとこ、
井伊直虎は従姪に当たります。

【今川氏一門】
近年では、関口親永と今川氏との
婚姻関係そのものの存在を否定する説
(関口親永の実兄である瀬名氏俊が
今川義元の姉を妻にしたのを誤認したとする)
もありますが、そもそも関口氏自体が
御一家衆と呼ばれる今川氏一門と
位置づけられる家柄でした。
徳川家康(当時は松平元信・その後松平元康に改名)が
今川氏一門である関口氏の
娘婿になるということは、
今川氏一門に准じる地位が
与えられたことを意味しています。




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【生涯】
【結婚・出産】
弘治3年(1557年)正月15日、
今川家の人質として駿府にいた
松平元信(後の徳川家康)と結婚します。
永禄2年(1559年)に松平信康を、
同3年(1560年)に亀姫を産みます。

【転機】
永禄3年(1560年)5月19日の
桶狭間の戦いにて、
伯父の今川義元が討たれ、
松平元康(元信から改名。のちの家康)は
岡崎に帰還することとなりました。
永禄5年(1562年)3月、
父の関口親永は娘婿である
徳川家康(元康から改名)が
織田信長と同盟を結んだ事で
今川氏真の怒りを買い、
正室と共に自害しました。
築山殿は、石川数正が駿河に来て
今川氏真を説得し、
鵜殿氏長鵜殿氏次
築山殿母子との人質交換をすることで、
駿府の今川館から子供たちと共に
徳川家康の根拠地である岡崎に移りました。
けれども、岡崎城内ではなく
城外の西岸寺に居住したことや、
「家忠日記」における築山殿を示す敬称が
正室を表す「御前さま」ではなく、
「信康御母さま」であることなどから、
今川との手切れにあたって
離縁されたとも見られています。

永禄10年(1567年)、
息子の松平信康と織田信長の長女・徳姫
9歳同士で結婚することになりました。
元亀元年(1570年)に松平信康が嫡子として
岡崎城に移された際に、
嫡子生母として岡崎城に入ることとなります。

【対立と最期】
徳川家康は遠江浜松に移りましたが、
築山殿は後継ぎの信康とともに
岡崎にとどまりました。
徳姫は天正4年(1576年)には登久姫を、
天正5年(1577年)には熊姫を産みました。
けれども、徳姫がいつまでたっても
信康の息子を産まないため、
心配した築山殿は、
元武田家の家臣で
後に徳川家の家臣となっていた
浅原昌時の娘および
日向時昌の娘など部屋子をしていた女性を、
松平信康の側室に迎えさせたとのことです。




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天正7年(1579年)、
徳姫は、築山殿が徳姫に関する讒言を
松平信康にしたこと、
築山殿と唐人医師・減敬との密通があったこと、
武田家との内通があったことなど、
12か条からなる訴状を織田信長に送り、
これにより織田信長が徳川家康に
松平信康の切腹を命じたとされれています。
徳川家康の上意により妻の処分が伝えられ、
築山殿は8月29日に遠江国敷知郡の
佐鳴湖に近い小藪村(浜松市中区富塚)で
徳川家の将来を危惧した岡本時仲と
野中重政によって自害をせまられ、
自害を拒んだ事から独断によって
首を切られて殺害されました。
検使役は石川義房が務めて
首は安土城の織田信長の元に届けられたのでした。
松平信康は9月15日に二俣城で自害しました。

遺体は浜松市中区広沢の
高松山西来禅院に葬られました。
首塚が岡崎市の祐傳寺、
後に天保年間の頃、
八柱神社に移されました。
法名は西来院殿政岩秀貞大姉。

【築山殿殺害の謎】
けれども、この通説には疑問点も多くつきます。
専門家の中には
「確かな文献には、築山殿が武田と内通したとか、
唐人の減敬と密通したとか、
信康を共犯にしたとかいうような記事は
全く見あたらない。
これは彼女が冤罪であった証拠と考えられる。」
としたうえで、処刑に際して
正当な理由が見つからなかったから、
作りあげられた理由とし、
徳川家康が築山殿を暗殺したのは、
「信康の死を知った彼女が狂乱して事を
起こすのを未然に防ぐためだった」としています。
また「母子がそろって嫁であり妻である
徳姫とおこしたいさかいそのものを
家康が問題視した。ぬきさしならないところまで
発展させてしまったことに対する責任を、
明確にさせたかった。」とする指摘もあります。
近年では築山殿の殺害と
松平信康の切腹は、
家康・信康父子の対立が原因とする説も出されています。
結婚当初良好であった
松平信康夫婦の仲は、
2人の姫をもうけた後に不和となっていたとみられ、
当時の書状や日記からみる日程や行動から、
徳川家康が2人の仲の修復を試みたとの推測や、
この頃、鷹狩として岡崎まできていた
織田信長も、娘夫婦の不和に対し
働きかけがあったとの考察もあり、
松平信康の家臣団が、
松平信康をかつぎ
徳川家康に叛意を抱くもの、
松平信康に添っているが
徳川家康に対しても忠実であるもの、
器量を危ぶみ松平信康に反感を抱くものなどに
割れていたことが混乱と
粛清に向かったとする説もあります。

【派閥抗争説】
この時期の徳川家は、
常に前線で活躍し
武功と出世の機会を
多くつかんでいた浜松城派と、
怪我で戦えなくなった者の面倒や
後方支援や(織田家との)
外交問題を担当していた
岡崎城派に分裂する兆しがあり、
両者の対立が徳川家康と
岡崎城派に担がれた
松平信康との対立に発展し、
最終的に松平信康が幽閉先で
服部正成に暗殺された疑いがあるとして、
この事件から甲斐武田家における
武田義信事件のように松平信康を担いで
岡崎衆による「家康追放」未遂事件が
あったとする説もあります。
また松平信康の切腹と前後して
岡崎城に勤める多くの重臣や
奉公人が次々と懲罰や処刑に追い込まれ、
逐電(逃亡)する者が続出し、
派閥抗争の末の粛清や
懲罰があったとのことです。
岡崎衆が徳川家康への不満か
徳川家康の旗本に対する反発から
松平信康を担いでクーデターを
起こすことを企み、
築山殿もそれに関係していたのではないかと
いう推測もあります。




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【自分の見解】
まず徳姫の嫉妬から起きたことでしょうね。
父親譲りの高いプライドと
不寛容さを持っていたかもしれません。
岩村城の女城主「おつやの方」の最期を鑑みて・・・。
あれで織田信長が心底イヤになりました)
築山殿殺害の理由は
こじつけにちかいものを感じます。
また近年では織田信長自身が
徳川家康を亡き者にしようと
企んでいた説もあるほどです。
それにはまず嫡男、しかも優秀であればあるほど
命を狙われやすくなるはず。
徳川秀忠が「愚直」扱いされたのも、
松平信康が切腹に追い込まれた教訓からかもしれません。
ひょっとして、徳川家臣が
徳川家康と松平信康を亡き者にしようとした織田信長を
討とうとする動きがあったかもしれません。
徳川家康はじき早々、もしくは勝ち目が薄いので
何とかこの動きを抑えとしたものの、
抑える事が出来ず、
築山殿が被ろうとしたのかもしれません。

【今から楽しみ】
2017年のNHK大河ドラマ
「おんな城主直虎」では菜々緒さんが演じられ、
今までの「悪女」ではない、
凛とした気高さと子供を守る強さと
愛を持つ女性として
描かれていました。
そして今度は有村架純さんが演じられます。
これまで有村さんが演じられてきた女性は
強さ・優しさ・朗らかさがあります。
最終的には悲劇で終わりますが、
どのような瀬名姫(築山殿)の一生を
演じられるのかが
今からとても楽しみです。

2023年NHK大河ドラマ
どうする家康」では
有村 架純(ありむら かすみ)さんが演じられます。

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

松平信康~将来を有望されていた嫡男でしたが、築山殿と共に非業の死を遂げます。

亀姫(徳川家康の長女)、母は築山殿で夫の奥平信昌との間には4男1女を授かりました。

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平岩親吉~徳川家康に幼年から仕え、嫡男の松平信康の傅役、名古屋城築城の総指揮官となりました。

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