【鵜殿長照】
鵜殿 長照(うどの ながてる)は、戦国時代の武将。
今川氏の家臣です。
三河国宝飯郡上ノ郷城
(蒲郡市神ノ郷町、「三河物語」では、
西之郡之城とある)主でした。
【死没】
永禄5年2月4日(1562年3月8日)
【別名】
通称:藤太郎
【主君】
今川義元⇒氏真
【氏族】
鵜殿氏
【父】
鵜殿長持
【母】
今川氏親娘
【兄弟】
長照、長忠、松平清善?
西郡局(蓮葉院、徳川家康側室)、
松平伊忠室、お田鶴の方
【子】
氏長、氏次
【生涯】
弘治3年(1557年)、
父である鵜殿長持が死去し
家督を継ぎました。
今川氏が西進政策を採り続ける中で、
三河の東西を結ぶ意味合いを持っていた
鵜殿氏の所領は、非常に重要度が高かったのでした。
そのため、縁を結ぶことで
西進路を確保しようと目論む
今川氏によって、鵜殿氏の地位は向上します。
また、主君・今川義元の妹が
生母ということで、
甥にあたる長照も今川家の親戚として
重用されました。ただし、近年今川家と
鵜殿家の婚姻を否定する説もあります。
永禄3年5月(1560年)の
桶狭間の戦い以前から、
大高城の城代に
任命されていたといわれています。
けれども、大高城は対織田戦線の
最先端にあって身動きを封じられ、
兵糧枯渇の窮地に立たされていました。
鵜殿長照は城兵を鼓舞し、
山野の草木の実を採取して
飢えを凌いだと伝わっています。
桶狭間の戦いの前哨戦となった
松平元康(のちの徳川家康)の指揮による
兵糧運び入れが賞賛されたのは、この時でした。
窮地から解放されると、
鵜殿長照は松平元康と
大高城の守備担当を交代させられます。
その後の使命や働きなどは明確ではありません。
本戦で今川義元が移動の小休止中に
織田信長によって討たれると、
松平元康よりも先に
三河の本領に逃げ帰っています。
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討たれた今川義元の子である
今川氏真が家督を継ぐと
今川氏支配の領国は政治的に混乱し、
今川氏の支配が弱まった三河では
松平元康改め家康が急速に台頭します。
多くの領主達が松平方に鞍替えする中、
鵜殿氏は今川家の縁戚であったことから
今川方に留まりました。
ただしそれは、今川氏の親族として
密接な間柄を保持する
上ノ郷城の鵜殿総領家だけであって、
周辺の下ノ郷城(蒲形城)を有する
鵜殿氏分家などは松平氏の味方に転じていきました。
やがて、清洲同盟を結んで
織田氏と合力し、
今川氏からの自立・決別色を強めた
松平氏と今川氏に仕える鵜殿氏は
三河国内の支配を巡って敵対していきます。
永禄5年(1562年)には
松平氏からの攻撃を受け、
先遣の松平清宗などの攻撃は
防ぎきるものの、上ノ郷城は陥落、
鵜殿長照は戦死しました。
(「朝野旧聞裒藁」によれば2月4日)。
この戦闘の際、子の氏長・氏次は捕らえられ、
駿河国にて今川氏の人質となっていた
松平家康の妻・瀬名姫(築山殿)(今川氏親族出身)、
嫡男・松平信康、長女・亀姫らとの
人質交換が行われました。
【伝説】
一説によりますと、
上ノ郷城落城の際に
鵜殿長照は辛うじて城から
脱出しましたが、
現在の蒲郡市清田町にある
安楽寺の横の坂で
伴資定という者に
討ち取られたということです。
この坂は現在でも鵜殿坂と呼ばれており、
鵜殿長照の無念がこもった
この坂で転ぶと、
その怪我は一生治らないという
伝説があるとのことです。
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今川義元~祝・生誕500年~足利一門の名門・海道一の弓取りと称された東海の覇者!
お田鶴の方(椿姫)~今川一族で祖母は寿桂尼、夫亡き後の城を守り緋威の甲冑を纏い家康と最期まで戦った烈女。
西郡局~家康の次女で北条氏直及び池田輝政の妻となった督姫の生母で姉妹にはお田鶴の方(椿姫)がいます。
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