徳川家臣

中山家範館~武蔵七党の丹党、中山家範は八王子城で戦死、子の中山信吉は水戸藩附家老に出世。

中山家範館跡



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中山家範館】

中山家範館(なかやまいえのりやかた)は
埼玉県飯能市中山にある平城です。
最初の築城は不明ですが、
鎌倉時代に中山氏が築いたとされています。

中山氏は武蔵七党の一つである
丹党の一族・加地氏が出自であり、
鎌倉時代の加治家季の頃に
中山郷に入って子孫が
中山氏を称したとされています。

高麗経家(高麗五郎経家)から
13代目にあたる中山家勝が
中山村に住んで中山氏を
名乗ったともあります。

加治氏(かじし)は、
もともと武蔵国高麗郡加治(埼玉県飯能市)付近から
秩父にかけてが領地で
入間市の元加治(加治実家館)が
本拠地だったと推測できます。
飯能には加治神社、加治屋敷もあります。
秩父にも加治新五郎館なる城跡があるようです。

加治藤兵衛頼胤館の
加治頼胤同様に
中山家勝は
山内上杉家に仕えており、
1546年の河越夜戦にも参加しています。
その後、北条氏康に従っています。

中山家範館は案内板があるとこが
北面だったようで、
南側にある現在の住宅
合計25軒ほどの範囲が
館跡だった模様です。

資料記載の文章には、
中山氏は武蔵七党の一つ丹党の出で、
鎌倉時代の加治家季の頃に
中山に居住し、中山氏を称します。

館の西方に位置する
智観寺には、
加治家季夫妻の供養のために建立されたと
推定される板碑
(仁治2・3年、1241・1242年)
があります。

中山家範は小田原北条氏に従い、
天正18年(1590年)、
八王子城で戦死しています。
この館は小規模なものであり、
周囲に推定幅4~6m、
深さ1~2mの堀をめぐらしていました。
この内堀は東西約60m、
南北約90mで、外郭は東西約110m、
南北約130mと推定されています。
館の北には勘解由山があり、
館は丹生堀と加治堀の水源に
はさまれていました。
また西に智観寺、
北西に丹生社、
北に鎮守12社が置かれていました。

中山家範館 図

館の周辺には中山家に仕える
武士の居宅や田畑があり、
中山氏は日常は農業経営を行い、
武芸の鍛錬に励み、
戦闘にあたっては
武士団の長として活躍していました。
館跡は戦後、北堀及び西堀の一部が
残されていましたが、
現在は宅地化が進み、
空堀が北西部隅に
残されるのみとなっています。




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かろうじて、10mほどの空堀が残っています。
案内板も民家の車庫に隠れています。

丹党加治氏一族、中山家範の館があった場所です。
今は碑があるのみです。

専用の駐車場はありません。

北側がすぐ山になっており、
その山の下にある道路に、
ところどころ山肌をえぐるように
路肩に駐車スペースができています。
道路も駐車禁止ではない模様でした。
写真を撮影するあいだの
2分程度だけ止めさせて頂きました。
もしくは智観寺の駐車場になります。

中山家範館跡 説明

【所在地】
〒357-0006 埼玉県飯能市中山496−17

【智観寺・所在地】
所在地: 〒357-0006 埼玉県飯能市中山520

【丹党】

丹党(たんとう)は、
平安時代後期から鎌倉時代にかけて
武蔵国入間郡・秩父郡・
および児玉郡西部(旧賀美郡)
にわたって繁栄した
武蔵七党の一つである武士団です。

【出自】
第28代宣化天皇の子孫である
多治比氏の後裔を称し、
各種史書でもいずれも
宣化天皇裔としています。
一方で、これらの史書上に
掲載されている系図の
記載内容が史実と矛盾することから、
後世の仮冒とする説も多く見られます。

【概要】
丹党は秩父地方の神流川流域の
児玉地方を本拠地とし、
中村氏を中心に活動した武士団です。
神流川流域は藤岡、
児玉の条里地域です。
このことから武蔵七党の中でも古く、
代表的なものでありました。
力の根源は条里地域の
米の生産にあり、
武力的な根拠は
牧の牧畜的な生活に見出されています。

【子供たちもそれぞれの始祖】
丹基房が秩父五郎を称し、
その長男である直時が勅使河原に居住し、
勅使河原氏の祖となり、
直時の弟である恒房が新里・安保を領有し、
新里氏と安保氏の祖となりました。
さらに恒房の弟である成房は
榛沢郡に住んで榛沢氏を称し、
成房の弟の重光は小島に居住し、
小島氏の祖となりました。
重光の三子のうち、
長男小島光成は小島氏を継ぎ、
次男光俊は志水を称し、
三男朝俊は村田を名乗ったとあります。




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【児玉党との緊迫】
児玉党とは、一時期、
合戦が生じる寸前まで
緊迫した状態になりましたが、
畠山重忠の仲裁により、
和解しています。
領土問題、あるいは水利問題で
対立したものと考えられています。
一例として、真下基行の
子息の1人である真下弘親が
勅使河原村へ移住したと
系図にはあり、
賀美郡(現児玉郡西部)と
児玉郡が郡境ということもあり、
両武士団の領地が
入り混じっている状況下にありました。

新田義貞につく】
丹党・児玉党・猪俣党などの
武蔵武士団は、
南北朝時代に
南朝=新田義貞についたため、
新田氏の滅亡と共に弱体化、
あるいは没落していきました。
さらに上杉禅秀の乱では
上杉禅秀に味方したため、
鎌倉公方の足利氏に
所領を没収されています。
けれども、丹党の氏族のうち、
阿保氏は足利氏に属したため、
その所領を永く維持しました。
それは同時に一党一族と言う概念の下、
結束していた時代が終わったことを
示しています。

【派生一族】
円子氏、丹氏、新里氏、榛沢氏、安保氏、
長浜氏、勅使河原氏、中村氏、中山氏、
大関氏、加治氏、横瀬氏、薄氏、
小鹿野氏、大河原氏、
青木氏、小串氏、志村氏などです。

【中山家範】

中山 家範(なかやま いえのり)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
父は丹党加治氏一族の中山家勝です。
北条氏照の家臣。
通称は勘解由左衛門、助六助。
諱は吉範とも。
子に中山照守
常陸水戸藩附家老の中山信吉がいます。

【生誕】
天文17年(1548年)

【死没】
天正18年6月23日(1590年8月25日)

【別名】
別名:吉範、通称:勘解由左衛門、助六助

【主君】
山内上杉氏、
北条氏照

【氏族】
丹党加治氏中山氏

【父】
中山家勝

【子】
中山照守、中山信吉

父親である中山家勝は
武蔵飯能の豪族で、
山内上杉氏の家臣でしたが、
のち北条氏康に仕えました。
そして主君北条氏照の元で勇戦し、
その武名は関東一円に轟いたとのことです。
中山家勝の子・中山家範(中山勝範)は、
八王子城を築いた北条氏照の重臣となりました。
1569年、中山家範の家臣である
本橋貞潔が加治神社の造営にあたっています。

加治勘解由左衛門家範
(中山勘解由左衛門家範)は
八条流馬術の名手だったともされています。
天正元年(1573年)、
亡父中山家勝を弔うため、
小庵であった武陽山能仁寺を
菩提寺として建立しています。

天正18年(1590年)6月23日、
豊臣秀吉による小田原攻めの折に
八王子城へ篭城し、
前田利家の助命を拒み、
小田原北条家への節義を果たして
討死にしました。
享年は43歳でした。

八王子城の近くにある
北条氏照の供養塔の脇にも、
中山家範の供養塔と、
中山家治の供養塔があります。
後に名将中山家範の名を惜しんだ
徳川家康により、
子の中山照守と中山信吉が
取り立てられました。

【中山照守】

中山 照守(なかやま てるもり、
元亀元年(1570年)⇒
寛永11年1月23日(1634年2月20日)) は、
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての
武将、江戸幕府旗本寄合です。
中山家範の嫡男。諱は家守とも。
通称は助六郎、勘解由。
弟に水戸藩附家老の中山信吉。
子に中山直定、中山直範、中山重良がいます。

初め父親である中山家範とともに
北条氏照に仕えました。
天正18年(1590年)、
小田原征伐における
八王子城の戦いで父は
討ち死にしたため、
中山照守は武蔵加治に潜伏していましたが、
同年8月、父の最期に感銘した
徳川家康に弟である中山信吉とともに
召抱えられ、300石を与えられて
徳川秀忠の使番に任じられました。

慶長5年(1600年)、
徳川秀忠の軍に従い、
上田合戦にて上田七本槍に
数えられる働きをしましたが、
軍律違反であり叱責を受け、
真田信之お預けとなって
上野吾妻郡に閑居しますが、
翌年に許され本領を安堵されます。
中山照守は高麗八条流馬術の
使い手であったため、
徳川秀忠に馬術を教授し、
のちに3代将軍徳川家光にも
手ほどきをしています。
慶長14年(1614年)、
大坂の陣では子の直定とともに参戦し、
得意の馬術で戦功を挙げて
500石を加増されました。
後に1000石加増され、
目付に転じられて寛永3年4月に
肥後国熊本に巡察として赴きます。
寛永9年(1632年)に鑓奉行となり、
最終的に3500石の大身旗本となりました。




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寛永11年(1634年)に死去しました。
享年は65歳でした。
家督は、嫡男の直定が継ぎました。
墓所は、菩提寺の能仁寺です。
法名は無相院殿可山宗印大居士。

中山照守の曾孫の直邦が
黒田直綱の名跡を継ぎ、
譜代大名となっています。

【中山信吉】

中山 信吉(なかやま のぶよし)は、
安土桃山時代から江戸時代初期に
かけての武将。水戸藩附家老です。

【生涯】
天正5年(1577年)、
小田原北条氏家臣である
中山家範(勘解由)の次男として
生まれました。
中山氏は武蔵国入間郡
(現在の埼玉県飯能市付近)を
本拠とする武藏七党の一つです。
北条氏が武蔵国を押さえると
家臣団に組み込まれました。

天正18年(1590年)、
小田原征伐における
八王子城攻防戦で父である
中山家範は討死しましたが、
戦後、中山信吉は
兄の中山照守とともに
徳川家康に召し抱えられ、
小姓役(1500石)を勤めました。
父子ともに八條流馬術の名手です。

慶長12年(1607年)11月、
徳川家康の11男頼房が
常陸国下妻10万石に配されるに伴い、
家老として附属され、
常陸国真壁郡内5000石を
加増されて6500石を知行しました。
慶長13年(1608年)、
八王子城攻防戦に武功ある
17騎を与力とし、
3500石加増されて1万石となりました。
慶長14年(1609年)11月、
頼房の水戸転封に伴って
5000石を加増され、
合計1万5000石となりました。
慶長19年(1614年)、
大坂の陣では頼房とともに
駿府城を守備しました。
元和2年(1616年)3月26日、
従五位下備前守に叙任。
元和8年(1622年)、
常陸松岡(現在の茨城県高萩市)を領有しました。




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伏見城内での盗賊捕縛や
駿府城大火時における頼房救出など、
中山信吉の正直な性格や
人柄が徳川家康の厚い信任を
得ていたものと思量されます。
また、水戸藩主の後継として
徳川光圀を将軍家光に推挙したと伝えられています。

寛永19年(1642年)1月6日に死去しました。
享年は65歳でした。

【御附家老】
御附家老(おつけがろう)は、
江戸幕府初期、
将軍家の連枝を大名として
取り立てた際に、
特に将軍から直接の命令を受けて
その者の家老に附属された
家臣のことをいいました。
江戸時代には、将軍から
附けられたことから
「御附家老」と呼ばれましたが、
現在では単に
附家老(つけがろう)
ということが多いです。
多い場合は十数人付けられた
とのことですが、
通常はそのうちの筆頭家老を指します。
附家老家の中でも
徳川御三家の筆頭附家老5家が
特に知られているとのことです。

北条氏照~北条氏政の同母弟、文武両道で外交手腕に長けており、兄を補佐し盛衰を共にしました。

八王子城~日本100名城で日本遺産となった関東屈指の山城、城主は北条氏照でした。

徳川秀忠~江戸幕府2代将軍、幕藩体制の基礎を固め政権運営方針を次代に引き継ぐ。

金子家忠~大剛勇の強者として活躍した武蔵七党・村山党の金子一族で入間に墓と屋敷跡があります。

武蔵・村山城~福正寺の境内は武蔵七党・村山党の城跡・推定地、最後の当主村山土佐守義光。

毛呂山城跡(毛呂氏館跡)と毛呂一族の墓~源頼朝に仕えた在地領主で、戦国時代まで存続しました。

金鑚神社~武蔵国五宮、社名は砂鉄からとの伝承があり、神体山を祀る古代祭祀の面影を残す神社です。

菅谷館跡と鶴ヶ峰・二俣川の古戦場散策~畠山重忠公の足跡を訪ねて。

生品神社~新田義貞公鎌倉幕府倒幕の旗揚げの地~新田庄遺跡

横山党館~八幡八雲神社(八王子)・横山党は武蔵七党の一つで関東最大勢力の武士団です。

越生館(越生神社)と高取山城~武蔵七党の一つ児玉党の一族であった越生氏が築城。

花園城~築城は平安末期、猪俣党の一族で山内上杉氏の重臣を代々務めた藤田氏の居城です。

白旗城(本城山)~「白旗」の地名は源頼義の前九年の役の戦揃えが由来、築城者の大関氏について。

大田原城~武蔵七党・丹党の一族である大田原氏が築城、326年間外様城主大名として存続。

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