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お万(養珠院)~徳川家康の側室で紀州徳川家祖の頼宣と水戸徳川家祖の頼房の母です。

お万(養珠院)



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【養珠院】

養珠院(ようじゅいん)
天正5年(1577年)⇒承応2年8月22日
(1653年10月13日))は、
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性です。
徳川家康の側室でした。
紀州徳川家の家祖である徳川頼宣、
水戸徳川家の家祖である徳川頼房の母です。
名は万(まん、旧字体:萬)。
実父は勝浦城主であった正木頼忠です。
義父は蔭山氏広です。
実兄は紀州藩(紀州徳川家)家老の三浦為春です。
義弟に江戸幕府旗本の蔭山貞広がいます。
水戸藩2代藩主徳川光圀の祖母で、
江戸幕府8代将軍徳川吉宗の曾祖母となります。

於万の像

【生涯】
於万(養珠院、以下「於万」と表記します)の母は
北条氏隆(北条氏尭の誤伝という説有り)
の娘とも北条氏尭の娘、
あるいは田中泰行の娘
(=北条氏尭の養女、板部岡江雪斎の姉の娘・姪)
ともいわれており、諸説存在しています。

天正5年(1577年)4月、
正木頼忠を父として生まれます。
けれども同年8月に正木憲時の挙兵により
勝浦城から三原(和田町)に移ったとされています。
その後、小田原に居住したとのことです。
天正12年(1584年)、
母親が蔭山氏広と再婚したことより
蔭山の一族となりました。
小田原征伐の際に蔭山氏広は
山中城籠城軍に加わりましたが、
落城時に脱出し居城の河津城に戻りましたが、
伊豆国修善寺にて蟄居したと伝わっています。

文禄2年(1593年)、
三島で徳川家康に38代江川家当主の
江川英長(江川太郎左衛門)の養女として目見え、
徳川家康の側室となりました。
伏見において、慶長7年(1602年)3月7日には
徳川頼宣を、
慶長8年(1603年)8月10日には
徳川頼房を出産しました。

江川邸 庭

慶長11年(1606年)3月26日の
「玉沢手鑑草稿」に記載されている
宝倉板本尊銘写によりますと
「蓮華院妙紹日心」とあり、
養珠院と称する前は「蓮華院」
と称していたことが確認できます。




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【日遠に帰依する万】
義父の蔭山家は代々日蓮宗を信仰しており、
於万もその影響を受けて日遠(にちおん、日蓮宗の僧侶)
に帰依したとのことです。
しかしながら徳川家康は浄土宗であり、
日頃から宗論を挑む日遠を
不快に思っていたとのことです。

【徳川家康の卑怯な手口】
そのため慶長13年(1608年)11月15日、
江戸城での問答の直前に
日蓮宗側の論者を家臣に襲わせた結果、
日蓮宗側は半死半生の状態となり、
浄土宗側を勝利させたのでした。

【徳川家康VS日遠】
この不法な徳川家康のやり方に怒った
日遠は身延山法主を辞し、
徳川家康が禁止した宗論を上申したのでした。
これに激怒した徳川家康は、
日遠を捕まえて駿府の安倍川原で
磔にしようとしたため、
万は徳川家康に日遠の助命嘆願をします。
ですが当然のことながら徳川家康は
聞き入れようとはしなかったとのことです。

【於万の決死の意思表明】
すると於万は「師の日遠が死ぬ時は自分も死ぬ」と、
日遠と自分の2枚の死に衣を縫うのでした。
これには徳川家康も驚いて日遠を放免したのでした。

なお、日遠が駿河国に赴いたのは
日蓮宗関係以外の史料では
確認することができないとする指摘があります。

【於万の鋼の勇気は天皇の心も動かす】
この於万の勇気は
当時かなりのの話題になったとのことです。
後陽成天皇も万の行動に感激し、
後陽成天皇が自ら「南無妙法蓮華経」
と七文字書いた物が万に下賜されたということです。
於万は徳川家康の死去した後、
元和5年(1619年)8月、
身延山で法華経一万部読誦の大法要を催し、
満願の日に七面山に向かったのでした。

【「於万の布晒し」の鋼の意思は史実】
年代や背景を鑑みると
「お万の布晒し」は
どうやら史実とは異なるようですが、
その中で描かれている於万の鋼の意思は
史実なのですね。
徳川家康も見込んだ女性ですから。
女性を見る目がありますね、やはり徳川家康は。

【実兄の三浦為春も出世】
大坂の陣における実兄の三浦為春の武功に、
徳川家康が喜んでいることを於万が
三浦為春に知らせた古文書が残っています。
この古文書は歴史的な内容が確認できる
唯一のものであるとのことですが、
年月日、文書の形態・宛所等も不明で
現蔵機関名も記されてはいません。
三浦為春はのちに於万の子である
徳川頼宣に附属され、
紀州藩の御附家老となりました。

元和2年(1616年)4月22日、
蓮華院妙昭日心から
養珠院妙昭日心大姉に
法号名を変えました。
(「本光国師日記」)。

【最期と墓所】
承応2年(1653年)、
於万はこの世を去りました。
墓所は山梨県南巨摩郡身延町大野の
日蓮宗寺院・本遠寺と
静岡県三島市の妙法華寺です。
承応3年(1654年)に
徳川頼宣により建立された墓所で、
花崗岩製の宝篋印塔が現存しています。
山梨県指定史跡です。
戒名は養珠院殿妙紹日心大姉。




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駿府城の唯一の遺構】
駿府城の於万の居間が移築されており、
妙法華寺奥書院(静岡県三島市玉沢)
として現存しています。
これは駿府城で唯一の遺構であるとのことです。
静岡県三島市の文化財となっています。

【於万の遺髪】
平成16年(2004年)、
海禅院の多宝塔の下の石室から
於万の遺髪が発見されたとのことです。

【海禅院】
海禅院(かいぜんいん)は、
和歌山県和歌山市和歌浦中にある
日蓮宗の寺院です。
慶安2年(1649年)、
徳川家康の三十三回忌の際、於万の方が、
妹背山に法華経を書写した
経石を納めた石室を造り、
その上に小堂を建てたのが
創始であるとのことです。
於万の没後、承応2年(1653年)に
紀州藩主徳川頼宣は、
小堂を二層の多宝塔に改築し
拝殿と唐門を建立したとのことです。
明治維新で江戸幕府が滅亡すると
禄を失い荒廃していき、
檀家のない海禅院は
多宝塔を残すのみとなったのでした。
明治時代に紀州徳川侯爵家の意向で、
海禅院は本山報恩寺の末寺となりました。

昭和42年(1967年)2月14日、
和歌山市指定文化財となっています。

勝浦城~築城は真里谷氏、後に正木氏の城で、最後の城主はお万と三浦為春の父の正木頼忠。

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