城跡

浜松城(続日本100名城)~前身は今川氏が築城した曳馬城、野面積みの石垣が有名で出世城ともいわれています。

浜松城(続日本100名城)



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浜松城

浜松城(はままつじょう。旧字体表記は「濱松城」)は、
静岡県浜松市中区にある日本の城跡です。
野面積みの石垣で有名です。
歴代城主の多くが後に
江戸幕府の重役に出世したことから
出世城」といわれました。

浜松城古図(安政年間)

【別名】
曳馬城、出世城

【城郭構造】
梯郭式平山城

【天守構造】
不明
(望楼型3重4階、鉄筋コンクリート造模擬
1958年(昭和33年))

【築城主】
今川貞相か?

【築城年】
永正年間(1504年⇒1520年)か?

【主な改修者】
徳川家康

【主な城主】
飯尾氏、松平氏、堀尾氏
井上氏、水野氏他

【廃城年】
明治4年(1871年)

【遺構】
石垣、曲輪

【指定文化財】
浜松城跡(浜松市指定史跡)

【再建造物】
模擬天守

【前身は曳馬城】
浜松城の前身は15世紀頃に築城された
曳馬城であり、築城時の城主は不明です。
16世紀前半には今川氏支配下の
飯尾氏が城主を務めていました。
この頃の曳馬城は、
江戸時代の絵図にみられる
「古城」と表記された部分であり、
現在の元城町東照宮付近にあたります。

曳馬城(浜松城の前身)

徳川家康
元亀元年(1570年)に曳馬城に入城し、
浜松城へと改称しました。
城域の拡張や改修を行い、
城下町の形成を進めました。
徳川家康在城時における
浜松城の具体像は不明確ではありますが、
古文書や出土遺物から
現在の本丸に向けて城域が
拡張されたことが窺えます。
また、徳川家康が築造した浜松城は、
土造りの城であり、
石垣や瓦葺建物を
備えていなかったとされています。

徳川家康在城期の浜松城と城下町

慶長5年(1600年)、
関ヶ原の戦い以後、
江戸時代を通じて徳川家譜代大名の居城となり、
浜松城から豊臣色は失われました。
江戸時代の浜松城主は
九家二十二代に引き継がれていき、
歴代の城主によって
城域の改変・改修が進められていました。

堀尾氏在城期に創建された天守は、
17世紀のうちに姿を消し、
天守台のみが現在に伝えられています。
以降、天守門が浜松城の最高所に
位置する建造物といえ、
江戸時代を通して
浜松城を代表する建物であったことが窺えます。

堀尾吉晴座在城期の浜松城中枢部と城下町

明治6年(1873年)の廃城令により、
浜松城の建物や土地の払い下げが行われ、
三の丸、二の丸の宅地化が進行しました。
天守曲輪と本丸の一部は
大きな開発を免れ、
昭和25年(1950年)の
浜松城公園開設に至っています。

浜松城公園 案内図

【浜松城の歴史】
【今川氏・吉良氏・飯尾氏時代】
浜松城以前は曳馬城(引馬城引間城)が
浜松の拠点でした。
築城者については諸説あります。
今川貞相が初めて築城したとされています。
ただし、室町時代中期には
三河国の吉良氏が支配していたことが
判明しています。




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斯波氏と今川氏が抗争すると、
吉良氏の家臣団の中で
斯波氏に味方する
大河内貞綱と今川氏に味方をする
飯尾乗連(またはその父飯尾賢連)が争い、
斯波氏が今川氏に敗れると
吉良氏も浜松の支配権を失いました。
永正11年(1514年)、
今川氏親から曳馬城を与えられた
飯尾氏は正式に今川氏の家臣となりました。
飯尾乗連は今川氏に引き続き仕え、
桶狭間の戦いにも参加しました。
桶狭間の戦いにおいて
今川義元が戦死すると
今川氏の衰退が始まりますが、
この時期に飯尾氏の当主も
飯尾乗連から子である飯尾連竜へと変わりました。

【内紛】
今川氏の衰退後、
城主飯尾連竜が今川氏真に反旗の疑惑をもたれ、
永禄8年(1565年)に
今川軍に攻囲され多大な損害を被りましたが、
陥落は免れました。
この時今川からの和議勧告を受諾した
飯尾連竜は、戦後に今川氏再属のため
駿府への大赦御礼に出向きましたが、
和議は謀略で、飯尾連竜は殺されました。
以後の曳馬城は、
飯尾連竜の家老の江間氏によって
守られていましたが、
城内は徳川派と武田派に分裂して
内紛が起きていたため
徳川家康によって早期攻略されました。

お田鶴の方
一説ではその後、飯尾連竜の妻であった
お田鶴の方を中心とした
飯尾氏の残党によって
守られていたとのことですが、
徳川家康が永禄11年(1568年)12月、
お田鶴の方に使者を送り城を渡せば
妻子共々面倒を見ると降伏を促します。
けれどもお田鶴の方はこれを拒否し続けました。
その為徳川家康が兵を使って攻め込み、
お田鶴の方が城兵を指揮して
奮戦しましたが、
侍女と共に討死にしたとのことです。
また、お田鶴の方を祀った
椿姫観音」が城の近くに残っています。

【徳川家康時代】
元亀元年(1570年)、
徳川家康は武田信玄の侵攻に
備えるため本拠地を
三河国岡崎から遠江国曳馬へ移しました。
岡崎城は嫡男である松平信康に譲りました。
当初は天竜川を渡った
見付(磐田市)に
新たに築城をするつもりであったようですが、
籠城戦に持ち込まれた際、
天竜川により「背水の陣」となることから、
曳馬城を西南方向に拡張しました。
その際、曳馬という名称が「馬を引く」、
つまり敗北につながり
縁起が悪いことから、
かつてこの地にあった荘園(浜松荘)に因んで
城名・地名ともども「浜松」と改めたとのことです。

徳川家康公の像(浜松城)

元亀3年(1573年)、
武田信玄がこの城を攻める素振りを見せながら
これを無視するような行軍をして
徳川家康を挑発します。
挑発された徳川家康は
浜松城から打って出ましたが、
武田軍の巧妙な反撃に遭って敗北を喫しました。
た(三方ヶ原の戦い。なお諸説有り)。




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三方ヶ原の戦いでは
徳川軍の一方的な敗北の中、
徳川家康も討ち死に寸前まで追い詰められ、
夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、
成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、
小栗忠蔵、島田治兵衛といった
僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰りました。
この敗走は後の伊賀越えと並んで
人生最大の危機とも言われています。
浜松城へ到着した徳川家康は、
全ての城門を開いて篝火を焚き、
いわゆる空城計を行いました。
そして湯漬けを食べて
そのままいびきを掻いて
眠り込んだと言われています。
この心の余裕を取り戻した
徳川家康の姿を見て
将兵は皆安堵したとされています。
浜松城まで追撃してきた
山県昌景隊は、空城の計によって
警戒心を煽られ
城内に突入することを躊躇し、
そのまま引き上げたといわれています。

三方ヶ原の合戦敗北時の徳川家康像

拡張・改修は天正10年(1582年)ごろに
大体が終わりましたが、
その4年後の天正14年(1586年)、
徳川家康は浜松から駿府に本拠を移しました。
徳川家康の在城期間は
29歳から45歳までの17年になります。

【徳川家康以後】
徳川家康以後、
天正18年(1590年)からは
豊臣秀吉の家臣堀尾吉晴と、
その次男堀尾忠氏が合わせて
11年間在城しました。
その後の関ヶ原の戦いの功績で
出雲国富田に移封となります。
以後は、一時徳川頼宣の領地だった時期を除いて、
譜代大名各家が次々に入りました。
近世には天守は存在しなかったようで
絵図にも記載がありません。
本丸にあった二重櫓が天守代用とされていました。

廃城時の浜松城中枢部・遠州浜松城絵図・城下町

【明治維新以降】
浜松城は明治維新後に廃城となり破壊されました。
城址は昭和25年(1950年)に
「浜松城公園」となり、
昭和33年(1958年)に
鉄筋コンクリート製の
復興天守が再建されました。
昭和34年(1959年)には
浜松市の史跡として指定されました。

浜松城 模擬天守

現在の天守閣は
資料館として使われており、
徳川家康を初めとした
当時のゆかりの品々を見学できるほか、
城の周辺は緑が溢れ、
桜の名所としても名高く、
シーズンには花見客でにぎわいます。

もともと曳馬城だった部分には、
江戸時代には米蔵などが置かれていました。
明治維新後の明治27年(1894年)に
井上延陵によって東照宮が創建され、
太平洋戦争中の昭和20年(1945年)
に焼失しましたが
昭和34年(1959年)に
再建されて現在に至ります。

2017年(平成29年)、
続日本100名城(148番)に選定されました。
<スタンプ設置場所>
浜松城天守閣一階

【構造】
【天守曲輪】
天守周辺は天守曲輪と呼ばれ、
本丸から独立した曲輪となっています。
東西56m南北68mのいびつな多角形で、
東に大手として天守門、
西に搦手として埋門が配されています。
周囲を鉢巻石垣と土塀で囲み、
土塀には屏風折などの横矢や
武者走りが設けられるなど
防御性の高い設計で、
創建時には籠城戦を想定した
場所だったと考えられています。

16世紀末に築かれた
天守台が残されているほか、
昭和33年に復興天守が建設され、
2014年に天守門と
付近の土塀が復元されました。

浜松城 天守門

【模擬天守】
天守は堀尾氏が治めた16世紀末に
創建されたとみられていますが、
江戸時代初期には失われ、
以降再建されることはありませんでした。
当時の天守の姿を伝える資料は
残されていませんが、
同じ堀尾氏が治めた城で
当時の天守が残る松江城
創建時の浜松城天守を参考に
設計されたと考えられており、
両者の関係が注目されています。




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野面積みによる
天守創建時の天守台が残されています。
1辺約21mのややいびつな四角形で、
西側に八幡台と呼ばれる突出部と、
東側に付櫓と呼ばれる張り出し部分があります。
天守台上部は安政の大地震後と
復興天守建設時に
積み直されたとみられていますが、
創建当時の姿がよく残されています。

<野面積みによる天守台と模擬天守>
野面積みによる天守台と模擬天守

<野面積みの石垣>
崩れないようにネットで覆っている箇所があります。
野面積みの石垣とネット

現在天守台に建てられている建物は、
昭和33年(1958年)4月26日に
完成した鉄筋コンクリート造の復興天守です。
地上3階地下1階建で、
1階と2階は徳川家康と浜松にまつわる
歴史資料を展示する資料館、
3階は展望台として使用されています。
岡城天守がモデルとされています。
建設にあたって天守台に対し
2/3程度の大きさで建てられたため、
史実の天守よりも小さな建物となっています。

【天守門】
天守門は天守と同じ
16世紀末に建てられた櫓門で、
天守曲輪の東側に位置しています。
改修・改築が行われながらも、
廃城時まで存続していました。
江戸時代初期に天守が失われて以降は
浜松城で最も高い位置にあり、
江戸時代を通して浜松城を代表する建物でした。

浜松城 天守門 階段

取り壊される前の天守門の図面や
古写真は見つかってはいませんが、
安政の大地震の被害状況を示した絵図や
平成21年度から行われた
発掘調査の結果をもとに、
2014年に復元されました。

【埋門】
埋門は天守曲輪の西側に位置し、
西端城曲輪とを結んでいました。
浜松市は「遺構が残存していることが明らかであるため、
他の遺構の調査と整備の進捗状況により、
歴史的検証に基づいた復原計画を検討する」
としています。

【本丸】
天守曲輪の東側の一段低い場所に位置し、
土塁と鉢巻石垣に囲まれていました。
北側には富士見櫓、
東側には本丸裏門、
南東の隅には菱櫓、
南側には鉄門と多聞櫓がありました。
江戸時代初期には
徳川将軍家専用の
御成御殿があったとみられていますが、
江戸中期には
姿を消したと考えられています。

廃城後、本丸の西半分は
浜松城公園となり
富士見櫓の石垣などの
遺構が残されていますが、
東半分は1960年代に
本丸の地形を削り取る形で
造成が行われたため
姿を留めておらず、
裏門・菱櫓・鉄門・多門櫓の遺構も
失われました。
跡地は道路と市役所となっています。

【富士見櫓】
富士見櫓は本丸の北側に位置する櫓です。
現在は石垣と礎石の一部が残っています。
櫓の北側は厚い土壁を持たずに
柱を見せた構造を持ち、
前方に玉砂利の敷かれた御殿風の建物です。
17世紀中〜後半に建てられたと
推定されています。
18世紀後半以降の改修を経て、
比較的長期間にわたり使用されており、
富士山を長めながら
茶の湯などが催されていたと推測されています。

【多聞櫓】
多聞櫓は、本丸と清水曲輪の間に位置し、
東西に長い平屋の長屋で、
東側には本丸への正門である
鉄門が設けられていました。
廃城後に櫓と石垣の大部分が失われましたが、
2014年に園路擁壁の内側から
堀尾氏時代の石垣の一部が発見され、
2020年の本丸南広場の
整備に合わせて公開されています。




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【清水曲輪】
清水曲輪は天守曲輪の南側を
細長く囲んだ帯曲輪で、
天守曲輪を守るため
中土手を持つ空堀があり、
東側に清水門がありました。

北側は浜松城公園になっていますが、
清水門跡を含む南側は市街化されています。

【西端城曲輪】
西端城曲輪は
天守曲輪の西側に位置する曲輪で、
土塁と土塀に囲まれ、
外端城曲輪に接続する端城門がありました。

曲輪全体が浜松城公園となっています。

【二の丸】
二の丸は本丸の東側に位置し、
藩主が政務や日常生活を営む
二の丸御殿があったほか、
東側に二の丸裏門、
南側に本丸表門がありました。

二の丸の跡は旧元城小学校敷地と
市役所敷地の北半分にあたります。

【二の丸御殿】
二の丸御殿は払い下げによって
解体されましたが、
詳細な絵図面が残されており、
詳しい様子をうかがうことができます。

【三の丸】
二の丸の南東側に位置し、
周囲を土塁と堀で囲まれ、
重臣の屋敷が立ち並んでいました。
三の丸の南側に
浜松城の正門である大手門がありました。

廃城後は土塁の撤去と堀の埋め立てが進み、
完全に市街地化されています。
大手門は現在の連尺交差点付近にありました。

【出世城】
一般的には数々の浜松城主が
幕府の重役に出世した例が
多いことから出世城とも
呼ばれたとされていますが、
一方で井上正甫のように
不祥事を起こし左遷された例もあります。

水野忠邦は肥前国唐津を治めていました。
長崎の警備があるため
一定以上の出世が困難でした。
しかし、水野忠邦は幕閣として
参画するために日頃から幕府要人に
接待・賄賂攻勢をかけていました。
幕府は事件を起こした井上正甫を左遷し、
水野忠邦を浜松へ移しました。
水野忠邦は寺社奉行に出世し、
更に文政11年(1828年)には老中となりました。

水野忠邦はその後の天保の改革で躓き、
続く政争で失脚し長男・忠精の代になって
出羽国山形に移されました。
浜松は水野忠精に代わって
井上正甫の長男・正春が治めることになったのでした。

江戸時代の265年間で
浜松藩の藩主は22人でした。
平均約12年弱の期間に藩主が変わっています。




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【交通アクセス】
(電車)
JRR東海・東海道新幹線・
東海道本線「浜松」駅、
遠州鉄道鉄道線「新浜松」駅より
徒歩約20分程度。

(遠鉄バス)
乗車バスターミナル①⑬乗り場発の
すべてのバス降車「市役所南」下車
徒歩6分

(タクシー)
浜松駅北・南口タクシー乗り場より乗車約5分程度

(車)マイカー・大型バスご利用の場合
東名高速道路「浜松IC」より約30分程度
東名高速道路「浜松西IC」より約30分程度
新東名高速道路「浜松浜北IC」より約40分程度

【駐車場】
浜松城公園駐車場または
近隣の民間駐車場があります。
2022年3月1日より
浜松城公園駐車場が有料化となりました。

<普通自動車・利用時間>
午前8時~午後9時30分

<休日>
12月29日~12月31日

<利用料金>
入庫から最初の90分まで無料
90分を超える分については30分ごとに
100円加算
土・日・祝日は上限520円(当日限り)

駐車場料金割引
以下の有料施設ご利用の方は60分無料付加となります。
◆浜松城天守閣/天守門
◆浜松市茶室
◆浜松市美術館
◆スターバックスコーヒー浜松城公園店
◆複数施設利用の場合でも割引は1回適用となります
(60分のみ)
各施設にて認証対応いたします。
必ず駐車券をご持参ください。

<ご利用上の注意点>
駐車区画:長さ5.0m以下/幅2.5m以下/高さ2.3m(発券機テント)
精算機および事前精算機は
10000円札、
5000円札、
2000円札は使用できません。
車止めが無い箇所がありますので、ご注意ください。
イベント実施時には
利用制限を行う可能性がございます。

自動二輪車・自転車 無料

【浜松城公園・所在地】
〒430-0946 静岡県浜松市中区元城町100−2

【浜松城の利用案内】
<営業時間>
午前8時30分~午後4時30分
(但し入場は10分前まで)

<休館日>
12月29日・30日・31日

<入場料>
大人(高校生以上):200円
※障がい者・療育手帳をお持ちの方は本人・介護者1名無料
中学生以下:無料
団体割引
30人以上:1割引
100人以上:2割引

所要時間:20分~

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

岡崎城(日本100名城)~徳川家康の誕生地の城で岡崎公園は日本さくら名所100選でもあります。

駿府城(日本100名城)~最初は今川氏による領国支配の中心地、そして徳川家康大御所時代の居城となりました。

高天神城(続日本100名城)~武田信玄・武田勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた要衝

二俣城~水運に恵まれた街道上の要衝で武田VS徳川の激しい攻防の舞台となり、徳川信康が切腹を遂げた城です。

三方ヶ原(三方原)古戦場~徳川家康の生涯において「伊賀越え」と並ぶ人生の危機となった戦です。

今川義元~祝・生誕500年~足利一門の名門・海道一の弓取りと称された東海の覇者!

今川氏真~お坊ちゃま育ちで蹴鞠の名手、家は失えど強かに生き抜き明治まで子孫を繋ぎました。

お田鶴の方(椿姫)~今川一族で祖母は寿桂尼、夫亡き後の城を守り緋威の甲冑を纏い家康と最期まで戦った烈女。

糸(早川殿)~政略結婚で今川氏真の正室になりましたが、最期まで添い遂げました。

武田信玄~風林火山の軍旗のもとに、戦に明け暮れ駆け抜けていった53年の人生でした。

武田勝頼~甲斐源氏・戦国大名としての甲斐武田氏最後の当主、素質と環境が合わず悲劇が訪れます。

山県(飯富)昌景~武田家重臣の筆頭格で部隊の軍装「赤備え」が有名です。

沓掛城~9代目城主の近藤景春の時、桶狭間の戦の為に今川義元本隊が出陣した城です。

鷲津砦~織田信長が今川方の大高城と鳴海城の往来を遮断するために築いたとのこと。

掛川城 (日本100名城)~東海の名城と謳われた程で日本初の本格木造天守閣が復元されたお城です。

服部正成(服部半蔵)~家柄は松平清康からの家臣で伊賀衆と甲賀衆を指揮、彼自身は忍者の頭領にあらず。

於愛の方(西郷局)~徳川家康の側室で2代将軍となる徳川秀忠の生母となります。

見付天神社(矢奈比売神社)~東海道・見附宿の守護で霊犬悉平太郎伝説、ゆるキャン△にも登場しています。

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