城跡

岡崎城(日本100名城)~徳川家康の誕生地の城で岡崎公園は日本さくら名所100選でもあります。

岡崎城 天守閣



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岡崎城

岡崎城(おかざきじょう)は、
三河国岡崎藩(現在の愛知県岡崎市康生町)
にあった日本の城です。
徳川家康の生地です。
別名は龍城ともいいます。

戦国時代から安土桃山時代には
松平氏の持ち城、
江戸時代には岡崎藩の藩庁でありました。
岡崎城は当初、「岡竒城」と記されていました。
また、「三河国名所図会」には、
「岡崎は享禄(1528年(享禄元年)⇒
1531年(享禄4年))以来の名號にして、
其以前は菅生郷なり、」と記載されているとのことです。

昭和34年(1959年)に
天守が復興されました。

岡崎城 天守

【別名】
龍城

【城郭構造】
梯郭式平山城

【天守構造】
複合連結式望楼型3重3階(1617年築・非現存)
復興(1959年(昭和34年)再・RC造)

【築城主】
西郷稠頼・頼嗣(三河国守護仁木氏の守護代)

【築城年】
享徳元年(1452年)
(享徳4年説あり)

【主な改修者】
松平清康、田中吉政、本多忠利

【主な城主】
西郷氏、松平氏、
田中氏、本多氏、水野氏

【廃城年】
明治6年(1873年)

【遺構】
石垣、堀

<石垣>
岡崎城 石垣 廊下橋

<堀>
岡崎城 堀

<清海堀>
岡崎城 清海堀

【指定文化財】
岡崎城跡(岡崎市指定史跡)

【再建造物】
天守、門

<大手門>
岡崎城 大手門

【平岩城】
三河国仁木氏の守護代であった
西郷稠頼(つぎより)は
永享年間(1429年~1441年)に、
菅生川(乙川)南岸の明大寺付近に
居館を構えたとされています。
この居館は「平岩城」と呼ばれていました。
位置は、岡崎市上明大寺町2丁目の
ペデストリアンデッキの徳川家康像が
置かれた広場辺りであることが判明しています。




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【旧岡崎城】
享徳元年(1452年)から
康正元年(1455年)にかけて、
西郷稠頼は、菅生川北岸の龍頭山(標高約24m)
と呼ばれる半島状段丘の先端に、
北方に対する砦を築きました。
築城当時は、菅生川南に東海道が通り、
明大寺が「岡崎」と呼ばれていました。
つまり、西郷氏の居館が
旧岡崎城に当たることになります。

3代目当主の西郷信貞(松平昌安)は
明大寺の平岩城を居所として、
岡崎市南部および
大草城(愛知県幸田町北部)を支配しました。

大永4年(1524年)、
松平清康の命を受けた、
家臣大久保忠茂等は奇襲により一夜にして、
西郷信貞の持城である山中城を落城させます。
松平清康は西郷信貞に岡崎城を明け渡させ、
本拠を安城から岡崎へ移しました。

【現在の岡崎城】
享禄3~4年(1530年~1531年)頃、
松平清康は明大寺より
龍頭山の砦へと本拠を移し、
本格的な岡崎城を構えました。
これが現在の岡崎城です。
松平清康は、明大寺の地から
岡崎松平家菩提寺の大林寺を城北に、
安城からは甲山寺を城の北東にそれぞれ移し、
菅生川の南に龍海院を建て周辺を整備しました。

【平山城から平城へ】
龍頭山の岡崎城は、
山頂に本丸が置かれた
平山城として築かれていましたが、
本多康重から3代忠利
(慶長5年(1600年)⇒
正保2年(1645年))にわたる
改修によって平城となっています。
この際、本丸に複合連結式望楼型
3重3階の天守(元和3年(1617年))が建てられました。

本丸の北方に持仏堂曲輪、その北方下に二の丸、
その北方に北曲輪、二の丸の東側には
三ノ丸と東曲輪、その東に備前曲輪と
大手門があった浄瑠璃曲輪、
本丸と二の丸の西方下に坂谷曲輪、
その西に白山曲輪と搦手口に当たる
稗田門があった稗田曲輪、
本丸の南は、菅生川沿いに菅生曲輪があり、
それに、本丸から北側へ6重、
西側へ4重の外堀を廻らせていました。

【廃城から現代】
存城当時の東海地方の城では
3番目に数えられる規模でしたが、
明治6年(1873年)の
廃城令によって廃城となりました。
城内の天守以下の建物及び土地を払い下げ、
現在は一切の建物を失い、
本丸と周辺の持仏堂曲輪、
隠居曲輪、風呂谷等の曲輪と石垣、
堀などの遺構を残すのみとなりました。
敷地は龍城神社、岡崎公園として整備されました。

岡崎城 辰巳櫓

昭和34年(1959年)3月、天守が復興されました。

【東隅櫓の再建】
平成22年(2010年)3月、
東隅櫓が再建されました。
望楼式二重櫓と呼ばれる木造2階建で、
入り母屋造りの屋根は、
岡崎藩主を務めた本多氏の家紋立ち葵が
刻まれた本瓦葺きです。
壁は白漆喰塗り。
高さ約9.4mで、
かつて東曲輪だった
岡崎公園駐車場の南東角に位置しています。




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天明元年(1781年)の
「岡崎城絵図」を基本資料としていますが、
東隅櫓の図面は現存しなかったので、
愛媛県松山市に現存する
同時代の松山城の野原櫓などの
形式を参考にして、
江戸時代の工法を忠実に再現し建設されました。
城内で発掘された石材を使い、
空積みの石垣も築きました。
隣接して同時に整備した
長さ約45mの城壁と合わせ、
総工費は約1億円かかりました。
年中無休で内部を公開しています。

【江戸時代以前】
<享徳元年(1452年)または
康正元年(1455年)>
三河国守護仁木氏の守護代西郷氏が
北方に対する砦として龍頭山に築城しました。

<15世紀後半(文明年間初め)>
松平氏3代となる松平信光が
城主西郷頼嗣を破り、
西郷氏娘婿となった
五男松平光重が城主となり岡崎松平家が成立します。

<享禄4年(1531年)>
岡崎松平家を破った
松平清康(徳川家康の祖父)が城主となり、
城郭を整備して勢力を広げます。

<天文4年(1535年)>
松平清康は尾張国の陣中で
家臣の謀反により命を落としました。
子の松平広忠が跡を継ぎました。

<天文11年(1542年)>
城内で竹千代(後の徳川家康)が生まれました。
当時、櫓や門の屋根も茅葺で、
当地は石の産地ながら石垣などもなく、
ただ堀を掘ったその土をかきあげて、
芝を植えただけの土塁がめぐっていたとのことです。

<天文18年(1549年)>
松平広忠が死去しました。
なお死因には諸説あります)。
岡崎城は今川家の支城として
城代が置かれ、山田景隆、
三浦義保、糟谷備前らが城代を務めました。

<永禄3年(1560年)>
桶狭間の戦い今川義元が敗死すると、
松平元康(後に家康、徳川へ改姓)は
岡崎城を取り戻し、今川家から独立しました。

<元亀元年(1570年)>
徳川家康は本拠を浜松城に移し、
岡崎城は子の松平信康が入りました。
けれども松平信康は謀反の疑いをかけられて自刃。
以後、重臣の石川数正、本多重次らが城代を務めました。

<天正18年(1590年)>
徳川家康が関東に移封となると、
豊臣家臣の田中吉政が入りました。
徳川家康に対する抑えの拠点の一つとして、
田中吉政は城を拡張し、
強固な石垣や城壁などを用いた
近世城郭に整備しました。
また、城下町の整備も積極的に行い、
岡崎の郊外を通っていた東海道を
岡崎城下町の中心を通るように変更し、
「岡崎の二十七曲がり」といわれる
クランク状の道に整備され、
現在の岡崎城の原型を造りました。

<慶長7年(1602年>
徳川氏譜代の重臣である本多康重が
上野国白井より5万石で入城します。
以降、徳川政権下では
徳川家康誕生の城として重要視され、
譜代大名が歴代の城主を務めました。

<元和3年(1617年)>
3重の天守が完成しました。

<正保元年(1644年)>
岡崎藩主の本多忠利が石垣を完成させました。

【現代】
2006年(平成18年)4月6日
日本100名城(45番)に選定されました。

【スタンプ設置場所】
天守1階

【開館時間】
午前9時~午後5時
(ただし、入館は午後4時30分まで)

【休館日】
年末(12月29日~12月31日)

【岡崎城】
<中学生以上>
200円
(30人以上100人未満)
160円
(100人以上)
130円
<5歳以上>
100円
(30人以上100人未満)
80円
(100人以上)
60円

【遺構】
<現存建物>
「北曲輪門」が額田郡額田町の民家に、
「北門(二の門)」が
西尾市西浅井町の宿縁寺に、
「念沸堂赤門」が市内東阿知和町の謁播神社に、
それぞれ移築され現存しています。
また、市内下青野町の慈光寺に、
「太鼓楼」を移築したものと伝わる建造物が残っています。




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<大林寺郭堀跡の石垣>
2007年(平成19年)、
材木町で発掘調査によって
石垣が発見されました。

現地を視察した
広島大学大学院教授の三浦正幸氏は、
大林寺郭堀跡のこの石垣は、
豊臣秀吉の命令で、
天正18年(1590年)に岡崎城主となった
田中吉政が築いたと推定しています。
野面の乱積みによる
犬走りの構造は、
慶長13年(1608年)
以前の形式のためであるということです。

<菅生川端石垣>
2015年、
中心市街地再開発
「乙川リバーフロント地区整備計画」の工事で
河川敷を掘り起こしたところ
石垣の一部が発見されました。
この石垣は岡崎城の絵図にも
描かれた江戸時代前期の石垣
「菅生川端石垣(すごうがわばたいしがき)」であり、
発掘調査により総延長は400mにわたり
現存する城壁としては国内最長となります。

石垣は地下33mまで及び地上部分を含めると
最大5mで、敵の侵入を防ぐための
射撃用の突出部
「横矢枡形(よこやますがた)」が3か所あり、
80m間隔で続いています。

【所在地】
愛知県岡崎市康生町561
岡崎公園内

【交通アクセス】
名鉄「東岡崎駅」より徒歩15分
愛知環状鉄道「中岡崎駅」より徒歩15分
名鉄東岡崎駅より4番のりばバス
「康生町経由」乗車⇒「康生町」下車⇒徒歩5分
JR岡崎駅よりバス
「康生町方面行き」乗車⇒「康生町」下車⇒徒歩5分

<車>
東名高速道路「岡崎IC」より
名古屋方面へ3km(国道1号沿い)

【駐車場】
【乗用車】
午前7時~午後10時
100円/30分
午後10時~御前7時
50円/30分
※上限1500円で
24時間利用できます。

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

松平広忠~戦続きで敵だらけ、幼き頃に父を失い妻子とも別れ若い命を散らした悲運の生涯でした。

鳥居元吉~岡崎譜代の忠臣で徳川家康を支え「三河武士の鑑」と称された人物です。

松平信康~将来を有望されていた嫡男でしたが、築山殿と共に非業の死を遂げます。

五徳(徳姫)~織田信長の長女で徳川(松平)信康に嫁ぎ二人の娘が誕生、が夫と義母の罪状を出す。

築山殿(瀬名)~徳川家康の正室で松平信康と亀姫の生母ですが、後に非業の死を遂げます。

平岩親吉~徳川家康に幼年から仕え、嫡男の松平信康の傅役、名古屋城築城の総指揮官となりました。

服部正成(服部半蔵)~家柄は松平清康からの家臣で伊賀衆と甲賀衆を指揮、彼自身は忍者の頭領にあらず。

登与(酒井忠次の妻)~正室ならば徳川家康の叔母である碓井姫であり、側室は数人おりました。

犬山城 ~現存天守12城・日本100名城・国の史跡で国宝、木曽川沿いの丘上にある美しい城です。

名古屋城~日本100名城、特別史跡、日本三大名城、名勝、金鯱、起源は今川氏が築城し織田信秀・信長が居城した那古野城でした。

長篠城 (日本100名城)~城をめぐる激しい攻防戦で有名、国の史跡に指定されています。

大樹寺~徳川将軍家及び松平氏の菩提寺で歴代将軍の位牌が安置、岡崎城と大樹寺を結ぶビスタラインが有名です。

カクキュー八丁味噌の郷に行ってきました~ドライブtоあいちを利用。

大高城~松平元康(徳川家康)が兵糧を届け守備につき、本多忠勝が初陣及び元服しました。

浜松城(続日本100名城)~前身は今川氏が築城した曳馬城、野面積みの石垣が有名で出世城ともいわれています。

駿府城(日本100名城)~最初は今川氏による領国支配の中心地、そして徳川家康大御所時代の居城となりました。

近江・田中城、明智光秀・文献初登場の舞台とされる城

西尾城~城独自の特徴として二ヶ所の屏風折れがある土塀があります。

松平昌久~元々は岡崎城を領し、松平清康に敗れた大草松平家の4代当主です。大草松平氏とは?

松平信光と岩津城~三河松平氏3代目当主で戦国大名・松平氏の基礎を築いた人物です。

掛川城 (日本100名城)~東海の名城と謳われた程で日本初の本格木造天守閣が復元されたお城です。

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