江戸時代

名古屋城~日本100名城、特別史跡、日本三大名城、名勝、金鯱、起源は今川氏が築城し織田信秀・信長が居城した那古野城でした。

名古屋城(大天守閣・小天守閣・本丸御殿)



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名古屋城

名古屋城(なごやじょう)は、日本の城のひとつです。
尾張国愛知郡名古屋
(現在の愛知県名古屋市中区本丸・北区名城)
にあります。
「名城(めいじょう)」、
金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」、
「金城(きんじょう)」の異名を持ちます。
日本100名城に選定されており、
国の特別史跡に指定されています。
名古屋城 案内図・料金表・開館時間

【別名】
金鯱城、金城、柳城、
亀屋城、蓬左城

【城郭構造】
梯郭式(または輪郭式)平城

【天守構造】
連結式層塔型5層5階地下1階
1612年築 (非現存)
1959年再建(SRC造・外観復元)

【築城主】
徳川家康

【築城年】
慶長14年(1609年)

【主な改修者】
名古屋城再建委員会

【主な城主】
尾張徳川家

【廃城年】
明治4年(1871年)

【遺構】
櫓3棟・門3棟、
庭園、石垣、堀

【指定文化財】
国の重要文化財
(櫓3棟、門3棟)

【再建造物】
大小天守、正門、不明門、本丸御殿

【名古屋城とは?】
名古屋城は、
織田信長誕生の城とされる
今川氏築城の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、
徳川家康が天下普請によって築城しました。
以降明治維新まで
徳川御三家の筆頭とされる
尾張徳川家17代の居城でした。

日本三大名城
大阪城熊本城とともに
日本三名城に数えられ、
伊勢音頭では
「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、
尾張名古屋は城でもつ」と詠われています。
大天守に上げられた金鯱は
城だけでなく名古屋の街の象徴です。
本丸御殿は二条城
二の丸御殿と並ぶ
武家風書院造の双璧と
評価されています。
名古屋城 本丸御殿(内部)

【大空襲で焼失、後に外観復元】
大小天守と櫓や門、
御殿などの一部は
昭和戦前期まで残存していました。
けれども昭和20年(1945年)の
名古屋大空襲で大部分を焼失となりました。
なお西南隅櫓など6棟は
焼失を免れて現存しています。
戦後に天守などが
鉄筋コンクリートで外観復元され、
城跡は名城公園の南園として
整備されています。




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【全体整備計画】
現在、名古屋城の全体整備計画があります。
整備計画では史跡としての
名古屋城の保存活用と
価値を高めたいとのことです。
計画されている整備計画では、
本丸御殿の復元整備、
天守閣の木造復元の整備、
東北隅櫓の復元整備、
本丸表一之門と本丸東一之門と
二之丸門の復元、馬出の復元、
本丸多聞櫓の復元、
二之丸庭園の保存整備と
二之丸御殿及び向屋敷の復元整備、
大手門・東門と
二之丸の櫓の復元整備、
展示収蔵施設の整備、
石垣補修などとなっています。
那古野城跡 石碑

【名古屋城の歴史】
【戦国時代】
那古野城
16世紀の前半に今川氏親が、
尾張進出のために築いた「柳ノ丸」が
名古屋城の起源とされています。
築城から30年ほど存続した後に
廃城となりましたが、
旧城地は廃城から
半世紀ほど後に再び
城地に取り立てられ、
名古屋城となりました。

那古野は、元々駿河の今川氏親が
尾張東部まで支配領域を
拡大していた時期に
庶流の那古野氏が領有し、
斯波氏が尾張を領有した後も
この地に留まっていました。
大永年間に今川氏親が
尾張進出の拠点として、
現在の名古屋市中心部が広がる
熱田台地(名古屋台地)の
西北端に築城した「柳ノ丸」が
名古屋城の起源となります。
今川氏の時代、
この城の城主は氏親の一族で
一説には那古野氏の家督を
継いだともいわれている
今川氏豊という人物であったと
伝えられています。

織田信秀が奪う】
天文7年(1538年)、
勝幡城織田信秀
計略により今川氏豊を追放して
城を奪い、那古野城に改名し
拠点を置いたとされています。
織田信秀が那古野城を奪った時期は
かつては天文元年(1532年)が
通説とされていましたが、
山科言継の日記「言継卿記」には
天文2年(1533年)に
織田信秀によって
勝幡城に招かれたこと、
その際に「那古野の今川竹王丸(後の氏豊)」
に会ったとの記述が
あることなどの史料をもとに、
近年では天文7年(1538年)であると
考えられるようになりました。
また、織田信秀の嫡子である
織田信長の生誕地も
那古野城説が通説でしたが、
近年では勝幡城説が
有力と考えられています。
那古野城 石碑

織田信秀は一時期この城に居住し、
1542年頃に古渡城に移り、
那古野城は織田信長の居城となりました。
弘治元年(1555年)、
織田信秀の後を継いでいた織田信長は、
一族の織田信友を滅ぼして
清須城に移りました。
織田信長が離れた後の
那古野城は織田信長の叔父である
信光に与えられましたが
家臣に殺害されたため、
織田信長の重臣である
林秀貞らが守ることになりましたが
やがて廃城となりました。

【江戸時代】
清須城は長らく尾張の中心でした。
けれども関ヶ原の戦い以降の政治情勢や、
水害に弱い清須の地形の問題などから、
徳川家康は慶長14年(1609年)に、
九男である徳川義直尾張藩の居城として、
名古屋に城を築くことを定めました。
翌年の慶長15年(1610年)閏2月、
未だ大阪城には豊臣秀頼が居る中、
西国諸大名の助役による
天下普請で築城が開始されました。




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【名古屋城の築城に当たって】
造成・整地に当たる普請は
普請奉行に滝川忠征、佐久間政実、
牧長勝ら5名が任命されました。
石垣は諸大名の分担によって築かれ、
中でも最も高度な技術を要した
天守台石垣は普請助役として
加藤清正が築きました。
加藤清正公 石曳きの像

名古屋城築城普請助役としては、
加藤清正以外に、寺沢広高細川忠興
毛利高政、生駒正俊、黒田長政
木下延俊福島正則池田輝政
鍋島勝茂、毛利秀就、加藤嘉明
浅野幸長、田中忠政、山内忠義、
竹中重利稲葉典通蜂須賀至鎮
金森可重、前田利光の
外様大名が石に刻印を打って
石垣工事を負担し、
8月末には天守台が完成し、
9月頃には石垣を大方積み終え、
遅い所も同年暮れまでには
完成したのでした。
名古屋城 石垣と堀

普請の後、建築に当たる作事は、
事奉行に大久保長安
小堀政一ら9名が当たり、
大工頭は中井正清が担当、
当時の中井正清は内裏や
方広寺大仏殿の建築も
担当したため、
中井正清の手代衆が
現場の監督をしたのでした。
作事は普請と並行して
材木の調達が行われ、
慶長17年(1612年)6月から
本格的な建築工事が開始。
しかし徳川家康から
御殿より先の完成を命じられた
天守の建築は、
用材調達が遅れたため
壁塗りに支障が生じる
冬期までの完成が危ぶまれました。
このため、中井正清は内裏や
大仏殿の大工を一時的に
呼び寄せてた上、
中井自身も名古屋に出向き
突貫工事を行ったとのことです。
名古屋城 天守閣 石垣

【急ピッチの築城と完成】
結果として8月下旬に
天守用の金物入札が行われた後、
11月上旬に懸案の壁塗り工事が完了し、
同21日には上棟式を実施し
年内に天守は完成しました。
金物入札時期から
組立工事は3ヶ月弱しか掛かっておらず、
短期に完成しました。
本丸御殿の建築は、
同年正月から始まり、
元和元年(1615年)2月に完成しました。

徳川義直の婚儀と大坂夏の陣】
そして大坂冬の陣後の1615年4月、
徳川義直と浅野幸長の娘である
春姫の婚儀が行われ、
徳川家康も駿河からそれに出席。
その最中に豊臣方挙兵の報が入り
そのまま大阪へ出陣し
豊臣家を滅ぼしています。
大阪城 堀

【清須越し】
清須からの移住は、
名古屋城下の地割・町割を実施した
慶長17年(1612年)頃から
徳川義直が名古屋城に移った
元和2年(1616年)の
間に行われたとみられています。
この移住は清須越しと称され、
5万人を越える住民はもとより、
社寺3社110か寺も移る
徹底的なものでした。
こうして名古屋城の城下町は
出来上がっていったのでした。




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【本丸御殿】
また1615年に完成した本丸御殿ですが、
二の丸御殿が1617年に
完成すると1620年に
徳川義直はそちらへ移り、
本丸御殿は将軍上洛時の
御成御殿とされました。
寛永3年(1626年)に
大御所徳川秀忠が、
寛永11年(1634年)に、
徳川家光が上洛の途中で立ち寄っています。
特に徳川家光の御成の際は
本丸御殿が大々的に増改築されました。
けれどもその後長い間将軍の
御成はありませんでした。
幕末の慶応元年(1865年)に、
14代将軍徳川家茂が
上洛の途中で本丸御殿に
宿泊しています。
宿泊は1泊のみで
入城の翌日には
名古屋城を出発したのでした。
名古屋城 本丸御殿

【近代】
明治維新後の明治3年(1870年)、
徳川慶勝
(尾張徳川家第14・17代当主)
は新政府に対して、
名古屋城の破却と
金鯱の献上を申し出ました。
金鯱は鋳潰して
武士の帰農手当や
城地の整備費用に充当する予定でした。
けれども、ドイツ公使
マックス・フォン・ブラントと
日本陸軍第四局長代理だった
中村重遠工兵大佐の訴えにより、
明治12年(1879年)12月、
山縣有朋が名古屋城と
姫路城の城郭の保存を決定します。
この時、天守は本丸御殿とともに
保存されました。
明治5年(1872年)、
東京鎮台第三分営が城内に置かれました。
明治6年(1873年)に
名古屋鎮台となり、
明治21年(1888年)に
第三師団に改組され、
終戦まで続きました。

保存された本丸は、
明治24年(1891年)に、
濃尾大地震により、
本丸の多聞櫓の一部が倒壊しましたが、
天守と本丸御殿は
大きな被害を受けませんでした。

明治26年(1893年)、
本丸は陸軍省から宮内省に移管され、
名古屋離宮と称します。

明治39年(1906年、)
名古屋離宮、一日に限り
特別公開されました。

明治43年(1910年)、
小天守閣、隅櫓に
江戸城の青銅鯱が移設されました。

大正12年(1923年)、
宮内省が西南隅櫓を修復しました。

【旧国宝に指定される】
昭和5年(1930年)、
名古屋離宮が廃止され、
宮内省から名古屋市に下賜されました。
同年、建造物(24棟)が
当時の国宝保存法に基づき
国宝(旧国宝)に指定されました。
城郭としては国宝第一号となります。
本丸御殿障壁画も1942年に
国宝(旧国宝)に指定されました。
名古屋城 焼失前の
大小天守閣と本丸御殿

【一般公開】
昭和6年(1931年)、
名古屋市は名古屋城を
市民に一般公開しました。
「恩賜元離宮」とも呼ばれました。




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【盗難にあい犯人は逮捕】
昭和12年(1937年)1月7日、
天守閣の金の鯱の鱗58枚が
盗難の被害にあいました。
この鱗の金の価格は
当時の価格で40万円ほどでした。
犯人は大阪の貴金属店に
この鱗の売却を図り、
発覚して1月28日に
警察に逮捕されました。

【名古屋大空襲で焼失】
太平洋戦争時は空襲から
金鯱を守るために地上へ下ろしたり、
障壁画を疎開させるなどの対策を
講じていましたが、
昭和20年(1945年)5月14日の
名古屋大空襲で、本丸御殿、
大天守、小天守、東北隅櫓、
正門、金鯱などが
焼夷弾の直撃を受けて焼失しました。

【現代】
戦後、名古屋市の都市計画によって
三之丸を除く城跡は
北東にあった低湿地跡と併せ
名城公園とされました。
園内は戦災を免れた
3棟の櫓と3棟の門、
二之丸庭園の一部が保存され、
一部の堀は埋め立てられるなど
改変されましたが、
土塁・堀・門の桝形などは
三之丸を含めて比較的よく残されています。
天守は地元商店街の尽力や
全国から寄付をうけて
昭和34年(1959年)に再建され、
復元された金鯱とともに
名古屋市のシンボルとなりました。
天守に続いて本丸御殿の復元が
計画されましたが、
資金難で中止も検討されました。

<1994年5月14日>
市民ボランティア団体
「本丸御殿フォーラム」が設立されました。

<2002年>
名古屋市が本丸御殿復元の
「名古屋城本丸御殿積立基金」
寄附募集を開始しました。

<2007年>
本丸御殿の復元工事を文化庁が許可。

<2006年4月6日>
財団法人日本城郭協会によって
日本100名城(44番)に選定されました。
名古屋城
<日本100名城のスタンプ設置場所>
3か所
◆正門総合案内所
◆正門改札所(午後4時20分迄)
◆東門改札所(午後4時20分迄)

<2009年>
<1月19日>
本丸御殿復元工事に着手。

<8月10日>
河村たかし市長は定例記者会見で、
名古屋城天守を
現在のコンクリート造から
木造に建て直すことを
本格的に検討すると発表しました。
計画プロジェクトチームを
8月24日に発足させて
2010年度予算案に調査費を計上。

<2011年>
西南隅櫓と旧二之丸東二之門が修理されました。

<2013年1月4日>
名古屋市は、2013年度から
名古屋城の天守を
現在の鉄筋コンクリート製から
本来の木造に建て直す
復元事業に着手すると発表しました。
これまでに2010年度予算案で
調査費1500万円を計上し、
2012年3月に市民検討会を催しました。
復元費用の試算は300億円で、
寄付金を含め調達方法を
検討するとのことです。

<2016年>
<6月27日>
市長と市会が、天守の再建につき
完成予定を2027年とすることで合意しました。
後に竣工予定は2022年とされました。
工費は試算で約500億円となりますが
圧縮を検討するとのことです。

<10月12日>
市長が天守閣は耐震性能が低いとして
入場禁止にする意向を示しました。

<2017年4月24日>
木造復元の賛否などを
焦点とした市長選挙で河村市長が再選されました。

<2018年>
<5月7日>
工事に先立ち天守閣の入場を禁止。

<6月8日>
復元された本丸御殿の一般公開を開始します。
名古屋城 本丸御殿 内部

<2019年>
<6月21日>
2022年12月に
木造天守閣の復元が
竣工する予定でしたが、
文化庁の文化審議会に
諮問されていたコンクリート製現天守の
解体申請が許可されず
継続審議となり
名古屋市は工期を見直す方針を示しました。
名古屋城天守閣木造復元募金箱

<8月29日>
河村市長は、
予定していた2022年末の
復元天守閣完成を
断念すると発表しました。




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【名古屋城の構造】
【立地】
名古屋城の城地は、
濃尾平野に注ぐ庄内川が
形作った名古屋台地の
西北端に位置しています。
台地は濃尾平野に向かって
突き出しており、
平野を一望に監視できる
軍事的な要地にあたります。

築城以前、台地縁の西面と北面は
切り立った崖で、崖下は低湿地、
と防御に適した地勢でした。
伊勢湾に面した港の南に
位置する熱田神宮門前町から、
台地の西端に沿って
堀川が掘削されて、
築城物資の輸送とともに
名古屋城下町の
西の守りの機能を果たしました。

【縄張】
名古屋城の縄張は、
それぞれの郭が長方形で
直線の城壁が多く、
角が直角で単純なつくりです。
構造の分類は一見三の丸の付き方から
梯郭式とされていますが
本丸の周囲の6つの曲輪を
一体と見なせば輪郭式と
見なすこともでき、
三分類のどれにも
分類されない独特な
縄張りとなっています。
また名古屋城は南方や
東方から見れば高低差が
ほとんどなく平城ですが、
北方や西方から見れば
大地の上にある平山城です

曲輪の配置は
ほぼ正方形の本丸を中心として
南東を二之丸、
南面東寄りに大手馬出、
南西を西之丸、
北西を御深井丸(おふけまる)、
北面東寄りに塩蔵構、
東面北寄りに搦手馬出が
本丸の四周取り囲んでいます。
さらに南から東にかけて
三之丸が囲んでいます。

西と北は水堀(現存)および
低湿地によって防御されており、
高低差のほとんど無い南と東は
広大な三之丸が二之丸と
西之丸を取り巻き、
外側の幅広い空堀(一部現存)や
水堀に守られた外郭を構成していました。

外側に、総構え(そうがまえ)
または総曲輪(そうぐるわ)
と呼ばれる城と城下町を囲い込む郭も
計画されていました。
西は枇杷島橋、南は古渡旧城下、
東は矢田川橋に及ぶ面積となる
予定でしたが、大坂夏の陣が終わると
普請は中止されました。
また西の防備に、
国境の木曾川に御囲堤を築造しました。

<本丸御殿(復元)>
本丸御殿(復元)

<西南隅櫓 本丸>
名古屋城 西南隅櫓 本丸

【門】
本丸は北西隅に天守、
その他の3つの隅部に隅櫓が設けられ、
多聞櫓が本丸の外周を取り囲んでいました。
門は南に南御門(表門)、
東に東御門(搦手門)、
北に不明(あかず)御門の3つがありました。
ほとんどの櫓や塀は、
白漆喰を塗籠めた壁面でしたが
本丸の北面のみ下見板が張られていました。




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南御門・東御門は堀の内側に
高麗門と櫓門の2重の城門で
構成される枡形門があり、
堀の外側は、大手馬出と
搦手馬出の大きな馬出しを構え、
入口を2重3重に固めていました。
外の郭から馬出を経由して
本丸に入る場合、
次の経路を強いられたのことです。

馬出しへの土橋を渡り、
石塁に突き当たり横に折れ、
本丸に背を向けて馬出しの門を通過し、
馬出し内をUターンするように進み
本丸への土橋を渡り、
二之門(高麗門)を通り、
桝形に入って横に折れ、
一之門(櫓門・総鉄板張)を通ります。

大手馬出は三方を多聞櫓で
構成している一方、
搦手馬出は初期の計画では
南と西を多門櫓が巡り、
また北東に隅櫓台がありますが、
結局は塀すら無い未完の状態でした。
現在大手馬出しの西面は
埋められて平地になっており、
搦手馬出は石垣の修復工事が
行われています。

現状、門は表二之門(南二之門)のみが
現存しています。
名古屋城 表二之門(南二之門)
不明御門は
埋門(うずみもん)形式でしたが、
戦災で焼失しました。

<冠木門>
明治期の写真です。
名古屋城<冠木門>
明治期の写真

【隅櫓】
隅櫓は総2層3階建てで、
他城の天守に匹敵する規模です。
外観は、それぞれで意匠を
相違させた見栄えを重視した
設計となっています。
南東の辰巳隅櫓(たつみすみやぐら)、
名古屋城
南東の辰巳隅櫓(たつみすみやぐら)
南西の未申隅櫓(ひつじさるすみやぐら)が現存し、
名古屋城 南西の未申隅櫓(ひつじさるすみやぐら)

北東の丑寅隅櫓(うしとらすみやぐら)は
戦災で失われて櫓台のみ残っています。
多聞櫓は、濃尾地震ですべてが破損して
取り壊されて現存していませんが、
奥行は5m強で、
内部に武具類や非常食を
収納するなど十分な防御能力がありました。

現在、空堀となっている
本丸をめぐる内堀には鹿が
放牧されています。

【天守】
天守は本丸の北西隅に位置し、
形式は大天守と小天守を
橋台によって連結した
連結式層塔型です。
橋台には多門櫓は無く
塀を巡らせ、軒先には
槍の穂先を並べた剣壁でした。
なお、「金城温古録」によりますと
名古屋城(尾張藩)では
「大天守」ではなく
「御天守」と呼称されていたとのことです。
名古屋城 本丸
大小天守閣 本丸御殿

天守は政治権力の象徴とされていました。
特に名古屋城の大天守の屋根にある
金鯱(金のしゃちほこ)は
その究極にあるものと
いわれています。
本丸には多門櫓が巡っていましたが、
大天守には小天守との
渡り廊下を含めて全て
土塀が接しています。
これは多門櫓からの類焼を
防ぐためと見られています。

<お土産屋さんにある金の鯱>
お土産屋さんにある金の鯱
金シャチ横丁(義直ゾーン)にあるお店にあります。

大天守は層塔型で5層5階、
地下1階、天守台19.5m、
建屋36.1m、合計55.6mで
18階建ての高層建築に相当します。
高さは江戸城や
徳川大坂城の天守に及びませんが、
江戸城、大阪城天守は
江戸時代前期にいずれも
焼失しており、
江戸時代通期で現存した天守で
名古屋城天守が最も高かったのでした。
延べ床面積は4424.5m2で
史上最大の規模となります。
体積は姫路城天守の約2.5倍で、
内部は長辺が7尺の大京間畳が
1759畳敷き詰められていたと
いわれています。

最上層の5階と4階以下の
下層階とは構造が異なっています。
下層階は防御のため壁面を多くし、
最上層の5階は窓が四面に
可能な限り広く取られ
砲弾戦に備えられていました。




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大天守の屋根は、
2層目以上のすべてが
軽量で耐久性のある銅瓦で
葺かれています。
慶長年間に建てられた
当時の大天守の屋根は、
最上層にのみ銅瓦が
葺かれていましたが、
宝暦5年(1755年)の
大天守修復工事で、
現在の再建天守に見られる
銅瓦葺とされました。
同時に雨水による
屋根の負担を軽減する
銅製の縦樋、破風を保護する銅板張、
地階に採光する
明かり取り窓を
石垣の上に設ける、
など補修されました。

壁面は大砲による攻撃を考慮して
樫の厚板を斜めに
鎧状に落とし込んでいます。
外面は土壁を厚く盛った上に
漆喰を塗り、内面は檜の化粧板が
張ってありました。
土壁に塗り込められていますが
射撃用の隠狭間があり、
戦闘時は土壁を抜いて使用しました。

小天守は2層2階、地下1階で、
大天守の関門の役割をしました。
平面は長方形で外見は
千鳥破風一つと
簡素な意匠ですが、
規模は他の城の
三重級の天守を上回ります。
名古屋城 小天守閣と本丸御殿

【幻の小天守?】
大工頭を担当した中井家に
小天守の描かれた指図が残され、
大天守台西面に開口部を塞いだ跡が
見られることなどから、
大天守の西に
もう一つの小天守があった、
もしくは、計画されていたとする
説があります。
また入口も大天守に面した
小天守北側でなく、
指図には小天守西側に
多門櫓による枡形門を
介して入る形となっています。

天守は慶長17年(1612年)
に完成し、以来333年間、
何度かの震災、大火から免れ、
明治維新後の廃城も免れました。
明治24年(1891年)に
発災した推定M8.0の
濃尾地震にも耐えましたが、
昭和20年(1945年)
の空襲で焼失しました。
焼夷弾が、金鯱を下ろすために
設けられていた
工事用足場に引っかかり、
そこから引火したと
いわれています。

昭和29年(1954年)に、
名古屋市民らにより
名古屋城再建基金が始まりました。

【天守の再建】
昭和32年(1957年)に、
名古屋市制70周年記念事業として
天守の再建が開始されました。
請負者の間組は、
昭和実測図を基に
再建天守は木造か否かで
議論しましたが、
当時の消防法に従うと
木造の再建は不可能でした。
焼失で傷んだ石垣自体へ
建物重量の負荷を軽減するため、
天守台石垣内にケーソン基礎を新設し、
鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)の
再建天守を載せる外観復元としました。
再建天守の総工費は6億4千万円で、
うち2億円は市民からの寄付でした。
再建大天守は5層7階、
城内と石垣の外側に
エレベータがそれぞれ設置されており、
車椅子で5階へ昇ることができる
バリアフリー構造です。
5階から最上階展望室までは
階段のみとなります。
外観は昭和実測図に基づいて
ほぼ忠実に再現されましたが、
最上層の窓は展望窓として
焼失前より大きなもので
下層の窓と意匠が異なります。
当時の再建天守は
観光センターとして位置づけられ、
昭和37年(1962年)3月に
博物館相当施設に指定されて以後、
展示や催事に活用されて
市民生活に寄与しました。




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【本丸御殿と天守】
城主(藩主)が居住する御殿でしたが、
元和6年(1620年)
将軍上洛時の御成専用に改造されました。
以後、藩主は二之丸御殿に
居住しました。
本丸御殿を使った将軍は
秀忠、家光、家茂の3人で、
上洛の途中に宿泊しています。
御成御殿となった後の本丸御殿は、
尾張藩士により警備と
手入れが行われるのみで、
名古屋城主である
尾張藩主ですら
本丸に立ち入るのは
巡覧の時のみでありました。

【本丸御殿の構造】
御成専用だけあって、
格式の高さは
当時の二条城本丸御殿に
匹敵していました。
名古屋城 本丸御殿 内部
南御門から入ると
正式な入口である式台があり、
奥に玄関が建っていました。
他、中玄関、広間(表書院)、
対面所、書院(上洛殿)、
上り場御殿(湯殿書院)、
黒木書院、上御膳立所(かみごぜんだてしょ)、
下御膳立所(しもごぜんだてしょ)、
孔雀之間、上台所、下台所、
大勝手などの殿舎が建ち並び、
他各種の蔵や番所が
建てられていました。
名古屋城 本丸御殿
図面(対面所)

車寄の屋根は将軍家や
身分の高い一部の大名家の御殿に
使用されることが多い唐破風で、
黒漆塗りに金の金具の屋根は
室町時代の将軍邸の形式で
天下人の象徴とされました。
名古屋城 本丸後御殿 内部
御殿の内、慶長創建の建物は
玄関・広間・対面所で、
後に建築された書院と
比較すると欄間にある
障壁画の有無という差異が
確認できるとのことです。

戦災焼失前の本丸御殿は、
桟瓦葺(一部銅瓦葺)でしたが、
創建当初は柿葺
(台所など火を使う場所は瓦葺)で、
2018年に復元した
本丸御殿は創建当初の柿葺を
再現しています。
中玄関(中之口部屋)、大勝手、
下台所などの一部の建物は、
明治初期に陸軍用地となった際に
取り壊されています。

これら殿舎等は
すべて第二次世界大戦の空襲で
失われましたが、
内部にあった障壁画のうち
移動可能な襖などは
取り外して倉庫に
収められていたため焼失を免れ、
戦後重要文化財に指定、
保存されています。

【本丸御殿の復元】
21世紀になって
本丸御殿の復元が計画され、
市民運動の高まりにより、
2005年には
松原武久市長が本丸御殿の復元を決定し、
2006年の発掘調査と
2007年には実施設計が行われました。
そして2009年1月19日に
復元費150億円を
民間、国、市が三等分する形で着工。

【工事完了と一般公開】
2013年5月29日より、
玄関と表書院(謁見の場所)が
一般公開されました。
2016年6月1日からの
対面所と下御膳所の公開を経て、
2017年度に工事が完了。
2018年6月8日より
一般公開されました。
ただし障壁画の一部は未成で、
逐次復元が行われています。
名古屋城 本丸御殿
内部 障壁画
【復元範囲】
復元範囲は戦災焼失前の構成に、
中玄関(観覧者用玄関)
を加えています。
孔雀の間は壁画史料が無く、
無地のままで
隣接する柳の間と
併せて貸し出しが行われ、
また濃尾地震後の改造で
それ以前の内装が不明となった
大台所はミュージアムショップ
になっています。
柱と土台の固定方法は、
当初の計画では
将来の取り外しを考慮して
外側から金具で固定する方式でしたが
許可が降りず、
結局は取り外し不可能な柱内部と
土台を杭で固定する形となりました。

【本丸御殿の建築材】
なお、本丸御殿の建築材として
木曽山のヒノキが使われており、
木曽の山林地帯は
かつて尾張藩の領地で、
尾張藩は将来の為に
森林保護や伐採抑制政策を
進めていました。
木曽 ひのき 森林鉄道

本丸御殿の上洛殿将軍御座所には、
富山県の井波彫刻の彫刻師が
透かし彫り手法で制作し、
京都の職人が極彩色に
色付けした欄間7枚が設置されました。
名古屋城 本丸御殿
上洛殿将軍御座所 
透かし彫り

名古屋城 本丸御殿
上洛殿将軍御座所 
透かし彫り

最大のものは幅3.24m、
高さ1.4m、厚さ0.27mの大きさで、
焼失前の写真等を基に
7年の時をかけ忠実に
復元されました。
上洛殿襖引手には
七宝が施されています。
名古屋城 本丸御殿
上洛殿将軍御座所 

【二之丸】
当初藩主が本丸に
居住していた頃は、
この二之丸に将軍の御座所を
設けていました。
徳川家康や初期の徳川秀忠は
上洛や大坂の陣の折には
こちらに滞在していましたが、
本丸御殿を御成専用にするため、
二之丸にあった
平岩親吉の屋敷を改修して、
元和4年(1618年)、
二之丸御殿としました。
それ以後、二之丸御殿は
「御城」と称され、
藩主の住居兼尾張藩の
藩庁機能を有することとなりました。
名古屋城 二之丸絵図

【二之丸御殿の位置】
本丸の南東に位置し、
南御門と東御門の馬出しに
接しています。
その面積は、本丸・西之丸・
御深井丸の3つをあわせたものに
相当しました。
北東、南西、南東に
Lの字型の隅櫓を建て、
南辺中央に太鼓櫓がありましたが、
北辺中央隅部には逐涼閣、
北西隅部には迎涼閣と、
およそ防御施設とは思えない
亭閣を配置したのは
二之丸庭園からの景観との
関係があったと見られています。
西と東に鉄御門(くろがねごもん)を備え、
どちらも三之丸と連絡していました。
この鉄御門も桝形・2重城門の構造で、
多聞櫓で囲まれていましたが、
これ以外の二之丸の外周は、
基本的に土塀で囲まれていました。
二之丸御殿は二之丸の北側に位置し、
南側に弓道場や馬場がありました。
また徳川慶勝が写真機で撮影した
取り壊される以前の
二之丸御殿等の写真が何枚かあり、
当時の二之丸御殿等の姿を知る
歴史的史料価値の高い
写真として現在でも残っています。




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【二之丸御殿の門】
二之丸御殿の表門として
南に黒御門があり、
近くに不明門、西に孔雀御門、
東鉄御門近くには
女中門や召合門、内証門、
不浄門、本丸東御門馬出し付近には
埋門を設けていました。
御殿の南面から
東鉄御門にかけては
多門(長屋)がたち、
西面と東面は土塀をまわしていました。
名古屋城 二之丸からみた
天守閣と東南隅櫓

【二之丸庭園】
黒御門から入ると
正面から西にかけて表御殿、
その奥に西から中奥御殿と奥御殿、
黒御門東側が御内証(大奥)御殿、
その奥に広大な二之丸庭園がありました。
この二之丸庭園は藩主専用の庭で、
城郭内部にある庭園の規模としては
前代未聞であった。
初期は中国風庭園でしたが
後に純和風回遊式庭園となりました。
名古屋城 二之丸庭園

【二之丸で現存しているもの】
二之丸御殿や4棟の櫓は
名古屋鎮台となった
明治4年(1871年)頃に
取り壊され、現存しているのは
西、東のそれぞれ
鉄御門二之門の2棟ですが、
東鉄御門二之門は
本丸東御門二之門跡に
移築されています。
その他の二之丸内の建築物は
すべて取り壊されましたが、
現在庭園の一部が
復元整備されています。
馬場跡には一時期、
名古屋大学本部など
同大学の施設が置かれた後、
同大学の東山キャンパス移転後は
愛知県体育館が
建てられています。
なお現在、二之丸の整備計画があり、
中長期的な目標として
将来的に愛知県体育館を移転して
かつての二之丸御殿・向屋敷、
弓道場や馬場や
それを見物するための建物と
大手門・東門と
二之丸の櫓などを
復元及び施設整備が出来ないか、
関係各機関と協議を行っています。
二之丸御殿等の建物の図面は
存在しませんが、
写真や平面図などの
資料がある為、それらを参考に
二之丸御殿と馬場・弓道場等の
復元・整備する旨の意向があります。
徳川美術館の第2~4の展示室には
二之丸御殿の猿画茶屋、
書院上段の問と鎖の間、
能舞台等の内部の一部などが
部分的に再現されて展示されています。

また、二之丸は名古屋城の前身で
織田信長最初の居城であった
那古野城の跡とされているため、
それを記念する石碑が建てられています。
那古野城跡 石碑

【西之丸】
西之丸(にしのまる)は
名古屋城内の大手筋に位置し、
南側に榎多御門(えのきだごもん)があり、
桝形・二重城門構造で固めて
三之丸と連絡していました。
南辺を多聞櫓で防御し、
その他の辺は土塀を建てまわし、
その一部には物見窓が
設けられていました。
さらに南西隅部に未申櫓、
御勘定多聞櫓、南蛮鉄多聞櫓、
古木多聞櫓、榎多御門枡形に麻木多聞櫓、
西面中央に月見櫓を建てていました。
その内の古木多聞櫓には、
天守や櫓の雛形(築城時のもの)
が納められていたということです。
(金城温古録)
郭内には6棟の米蔵が建てられ、
食糧基地としての性格を持っていました。
また、六番御蔵は
今川氏豊の時代であるという話や、
福島正則の清洲城の蔵を
移築したという話もあるとのことです。
(金城温古録)




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【現在の正門】
西之丸の建築物はすべて
明治年間に取り壊され、
榎多御門のみは
明治44年(1911年)に
旧江戸城蓮池門を移築して
正門と改称しましたが、
昭和20年(1945年)の空襲で焼失し、
戦後再建されました。
現在の正門がこれにあたります。
<旧江戸城蓮池門の移築後>
名古屋城 旧江戸城蓮池門の移築後

<現在の正門>
名古屋城 現在の正門

【西の丸御蔵城宝館】
なお、現在の西之丸には
名古屋城総合事務所と、
国の天然記念物に指定されている
名古屋城のカヤがあります。
文化財の保存と公開ができる場として、
現在の天守閣にある展示品と
収蔵品の数々は天守閣の
木造復元化によりここに移転され、
かつて6棟あった米蔵のうち
3番と4番の位置を
米蔵の外観意匠に準拠した
鉄筋コンクリート平屋造りの
展示収蔵施設を建設し、
残りの1番、2番、5番、6番の米蔵は
地下遺構の平面表示を行う
整備計画が進められています。
明治期に撮影された米蔵が
写っている西之丸の古写真や
昔の西之丸の平面図などの
米蔵の資料を参考に
展示収蔵施設の基本・実施設計を
安井建築設計事務所名古屋事務所が行い、
2021年4月16日に
「西の丸御蔵城宝館」がプレオープンし、
11月1日にグランドオープンを迎えました。
西の丸御蔵城宝館と
天守閣

【御深井丸】
御深井丸(おふけまる)は
本丸の北西に位置し、
本丸とは不明御門で連絡でき、
本丸北側の
御塩蔵構(おしおぐらがまえ)や
西之丸とも狭い通路でつながっていました。

【西北隅櫓・御深井丸】
櫓は北西隅に3層3階の
戌亥隅櫓(西北隅櫓)と
北東西寄に2層2階の
弓矢櫓の2棟がありました。
うち北西隅にある
戌亥隅櫓(西北隅櫓)が
現存しています。

【別名は清洲櫓】
西北隅櫓は3層3階の三重櫓で、
平面規模は桁行8間、梁間7間、
高さは約16.3mあります。
その規模は宇和島城天守を上回り、
3重5階の高知城天守とは
高さでは及ばないものの
平面規模では凌駕しているとのことです。
慶長16年(1611年)に
清須城天守または小天守を
移築したものと
伝えられているため清洲櫓とも
呼ばれています。
解体修理の際には、
移築や転用の痕跡も
見つかっているため、
実際に清須城から
移築されてきた可能性も
指摘されているとのことです。
戌亥隅櫓(西北隅櫓)は近年、
市内の堀川を中心とする
カワウの大量発生による
屋根への糞害が
著しくなっていますが、
抜本的対策がないままとなっています。

【御深井丸の役割と未完部分】
御深井丸は本丸の後衛を担う郭であり、
当初は4棟の隅櫓と全周に
多聞櫓を建造する計画でしたが、
元和偃武により工事が中断した結果、
2棟の櫓と多門櫓の一部以外は
土塀が巡らされて
そのまま江戸時代が過ぎていきました。
それでも櫓台のみは築かれており、
この部分は石垣が
他のところよりも
一段高くなっています。
内部には大砲や弓等の飛び道具に
関連する蔵が置かれており、
かつては火薬庫もあったそうですが、
大坂城のように落雷による
火薬庫爆発で大きな被害を受けた
例があり、城外に移転しました。
火薬庫は、強度を高めるために
周りを盛土で補強していました。
(金城温古録)

【乃木倉庫】
また御深井丸には、
「乃木倉庫」と呼ばれる
明治初期に建てられた
旧日本陸軍の弾薬庫が
現在でも残っています。
名古屋市内に現存する
最古の煉瓦造といわれる倉庫で、
太平洋戦争中は本丸御殿の
障壁画などが収められていました。
乃木希典が名古屋鎮台に
在任中に建てられたので、
いつしかこの名が付いたと
されています。
1997年に国の登録有形文化財に
登録されました。

その他に御深井丸の東には、
天守再建工事の際に
取り除かれた天守の礎石が
置かれています。
空襲時に礎石についた
黒い焼け痕が、
現在でも観察することができます。
また現在、御深井丸の
北西隅の修復整備計画があります。




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【三之丸】
三之丸は現在名古屋市中区三の丸一丁目から
四丁目までの地域とほぼ一致する
広大な敷地にありました。
郭内は重臣屋敷や
各種神社が建てられていました。
門は5つあり、
西に巾下御門(はばしたごもん)(埋門)、
南面西側に御園御門(みそのごもん)、
南面中央に本町御門、
東に東御門、
北面二之丸横に清水御門となります。
それぞれに桝形を持っていました。
三之丸の土塁北側を
御土居下と呼び、
万一落城の事態へ陥った際には
城主が脱出する経路とされ、
専門の人員も配置されました。
(御土居下御側組同心)

<加藤清正公の像>
名古屋城 加藤清正公の像(能楽堂前)
能楽堂の前にあります。

三之丸内の建造物は
すべて取り壊されていますが、
春日井市上条町の泰岳寺と
一宮市の妙興寺に
清水御門を移築したものが
残っています。
明治8年(1875年)、
名古屋鎮台が城内に置かれたのを機に
三之丸東照宮、三之丸天王社は
三之丸南側の現在地
(名古屋市中区丸の内)に移され、
東照宮は名古屋東照宮
(1945年の空襲による
戦災で国宝の社殿など焼失)となり、
天王社は那古野神社となっています。
現在、東照宮と天王社があった場所は
名古屋農林総合庁舎第一号館、
第二号館、水資源機構
(独立行政法人)中部支社総務部総務課
が建てられており、
名古屋能楽堂や
名城公園正門前駐車場などがある場所には
台徳院殿、大猷院殿、厳有院殿などの寺院や
神社や屋敷がかつてありました。
なお東照宮と天王社があった場所の
名古屋農林総合庁舎第一号館、
第二号館が移転され、
その北側半分の土地には
「金シャチ横丁(義直ゾーン)」と言う
名古屋めしやお土産品を提供する
商業施設の建物群があります。
「金シャチ横丁(義直ゾーン)(宗春ゾーン)」

明治以降は官庁街として発展しました。
現在、三の丸には愛知県庁、
名古屋市役所、愛知県警察本部、
各種合同庁舎などが建てられ、
愛知県行政の中枢的な地域になっています。

三之丸外の名古屋城外堀は、
明治後期から昭和後期にかけて、
一部が名鉄瀬戸線の
線路敷として利用されました。
昭和50年(1975年)、
この外堀にヒメボタルの生息が
確認され以後保護活動が始まっています。

【金鯱】
慶長17年(1612年)
名古屋城天守が竣工した
当時の金鯱は一対で慶長大判1940枚分、
純金にして215.3kgの金が
使用されたといわれています。
高さは約2.74mありました。
しかし、鯱の鱗は藩財政の悪化により、
享保15年(1730年)・
文政10年(1827年)・
弘化3年(1846年)の
3度にわたって金板の改鋳を行って
金純度を下げ続けました。
そのため、最後には光沢が
鈍ってしまい、これを隠すため
金鯱の周りに金網を張り、
カモフラージュしました。
この金網は、表向きは
盗難防止や鳥避けのためとされ、
戦災により焼失するまで
取り付けられていました。
明治4年(1871年)に
政府に献納され、
東京の宮内省に納められました。
その後、明治5年(1872年)に
開催された湯島聖堂博覧会への出品、
雄鯱は石川・大分・愛媛などで
開催された博覧会へ出品、
雌鯱は明治6年(1873年)の
ウィーン万国博覧会に出品されたのち、
雌雄金鯱が大天守に戻ったのは
明治12年(1879年)2月でした。

昭和12年(1937年)に
盗難に遭った際、
愛知県警察と名古屋市が
鱗の鑑定を行いました。
鱗の厚みは意外に薄く
銅の上に紙より薄い
金の薄板を張ったもので、
鱗によっては葉書二枚ほどの
厚みのあるものもありましたが
純金分は非常に少なかったとされています。




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徳川の金鯱の中では
最も長く現存していましたが、
昭和20年(1945年)に
名古屋大空襲で焼失しました。
残骸は、戦後GHQに接収され、
のち大蔵省に移されましたが、
昭和42年(1967年)に
名古屋市に返還されました。
名古屋市は残骸から金を取り出し、
名古屋市旗の冠頭と、
金茶釜に加工して保存しています。
現在の金鯱は復元されたもので、
再建天守建造の時、
日本国内に数えるほどしか
残っていなかった鎚金師であった
大阪造幣局職員の手により製造されました。
一対に使用された金の重量は
88kgです。
現在の鯱の大きさは、
雄2.62m、雌2.57mです。
名城 金鯱水

【遺構・文化財】
第二次世界大戦前は、
旧国宝24棟をはじめ、
多数の建造物が城内に
現存していましたが、
太平洋戦争中の
昭和20年(1945年)5月14日
8時20分頃、アメリカ陸軍のB29が
投下した焼夷弾により
大小天守を含むほとんどが焼失となりました。

現在残る尾張藩時代の建物は、
本丸辰巳隅櫓、本丸未申隅櫓、
本丸表二之門(南二之門)
名古屋城
本丸表二之門(南二之門)
旧二之丸東鉄門二之門
(現在本丸東二之門跡に移築)、
二之丸西鉄門二之門、
御深井丸戌亥隅櫓の6棟のみです。
すべて重要文化財です。
現存する門3か所は
もとは櫓門(一之門、内門)と
高麗門(二之門、外門)の
二重構えでしたが、
いずれも高麗門のみが
現存しています。
<本丸表一之門跡>
名古屋城 本丸表一之門跡

<本丸表一之門跡・説明>
名古屋城
本丸表一之門跡・説明

また、昭和27年(1952年)3月29日に
城域内が国の特別史跡に指定されました。
昭和28年(1953年)に
二之丸庭園が名勝に指定されました。
このほか、二之丸北側の石垣上に、
「南蛮たたき」の工法で
固められた土塀の遺構が
現存しています。

【特別史跡】
【名古屋城跡】
名古屋城跡が国の特別史跡に
指定された理由として、
近世築城技術の最盛期に
造営された城郭であること、
公儀による普請であり、
徳川家康の意向が強く
反映された城であること、
史料や遺構が豊富に遺存し、
築城以降の変遷がたどれることなどが
特別史跡指定にふさわしいと
判断された、などからとのことです。
指定範囲は、本丸、西之丸、
御深井丸の区域、西之丸西側と御深井丸・
二之丸の北側の水掘、
二之丸東側から西之丸南側までの空掘、
並びに三之丸周囲の空堀および土塁、
御園橋西側の土塁です。
特別史跡指定範囲には、
堀や土塁を除く二之丸の内側の区域、
ならびに三之丸の内側の区域は
含まれてはいません。

1977年6月27日、
文化財保護審議会(当時)は、
二之丸の内側の区域および
三之丸北東の土塁について
特別史跡に追加指定するよう、
文部大臣に答申しました。
けれども追加指定は行われませんでした。




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【名勝(国指定)】
【名古屋城二之丸庭園】
1953年3月31日に
庭園の一部が国の名勝に指定されました。
2018年3月31日に
追加指定が行われ、
庭園全体が指定対象となりました。

【石垣石材産地】
石垣石材として、
トーナル岩(神原トーナル岩=幡豆石)、
砂岩(河戸石)、
黒雲母花崗岩(岩崎石、山陽帯)、
花崗斑岩(熊野石)、
斑レイ岩などが使用されています。
判明している産地は、
三河湾周辺、岐阜県養老山地東麓、
小牧市岩崎山、
三重県熊野市周辺、瀬戸、
本巣市船来山周辺とされています。
ほかに、佐賀県唐津市、
香川県小豆島産が
使用されていると
伝わっています。
名古屋城 石垣と堀

【開園時間】
午前9時~午後4時30分
ただし、本丸御殿へのご入場は午後4時まで

【休園日】
12月29日~31日、1月1日
(4日間)
ただし、催事等により変更となる場合があります。
名古屋城 催事

【観覧料】
<大人>
500円(個人)
450円(30名以上団体)
400円(100名以上団体)

<名古屋市内65歳以上高齢者>
名古屋市内在住の65歳以上の方。
住所、年齢及び本人であることを
確認できる書類を持参してください。
100円(個人)
90円(30名以上団体)
80円(100名以上団体)

<中学生以下>
無料

【交通アクセス】
(公共交通機関)
<地下鉄>
名城線 「市役所」 下車 7番出口より徒歩5分程度。

<名鉄>
瀬戸線「東大手」 下車 徒歩15分程度。

(車)
◆名古屋高速1号楠線「黒川」出口から
南へ8分程度。
◆名古屋高速都心環状線「丸の内」出口から
北へ5分程度。

【駐車場】
【正門前駐車場】
(普通車・大型車・自動二輪車・原付)
普通車・自動二輪車・原付

<利用できる日>
1月2日から12月28日
<利用できる時間>
午前8時45分~午後9時30分
<収容台数>
普通車308台
※宵まつり期間中は午後10時まで

<駐車料金案内>
普通車:
30分以内ごとに180円
自動二輪車・原付:
30分以内ごとに100円




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【二の丸東駐車場】
<利用できる日>
1月2日から12月28日
<利用できる時間>
午前8時30分~午後10時30分
<収容台数>
普通車123台
<駐車料金案内>
普通車:
30分以内ごとに180円

【所在地】
〒460-0031 愛知県名古屋市中区本丸1−1

滞在所要時間:1時間~2時間程度

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岡崎城(日本100名城)~徳川家康の誕生地の城で岡崎公園は日本さくら名所100選でもあります。

犬山城 ~現存天守12城・日本100名城・国の史跡で国宝、木曽川沿いの丘上にある美しい城です。

長篠城 (日本100名城)~城をめぐる激しい攻防戦で有名、国の史跡に指定されています。

小牧山城(小牧城)~織田信長が初築城し、小牧・長久手の戦いでは徳川家康が本陣を置きました。

清洲城~織田信長の天下統一への出発地、「清州同盟」「清州会議」と歴史上重要拠点となった天下の名城です。

長久手古戦場公園~徳川家康VS羽柴秀吉の小牧・長久手の戦いのうち主戦場となった長久手の戦いの場所。

末森城(尾張国)~織田信秀が東方防御の為に築城、小牧長久手の戦いで織田信雄が整備。

荒子城跡~築城は前田利春、四男であった前田利家が家督を継ぎ城主となりました。

勝幡城~織田信長誕生の城、二重の堀に囲まれた館城で尾張の中近世史上、重要な城跡と見られています。

清正公誕生之霊地 ~妙行寺は加藤清正公の縁の寺院で秀吉清正公園傍にあります。

豊太閤産湯の井戸~もう一つの豊臣秀吉公生誕地 、常泉寺にあります。

加藤清正~多くの戦功、治水事業、農業、商業に手腕を発揮し築城の名手であり「清正公さん」として信仰されています。

大浜陣屋~大浜藩の藩庁として築かれた陣屋で以前は大浜古城、羽城跡でした。

大御堂寺野間大坊~真言宗豊山派の寺院で野間美浜で最期を遂げた源義朝の墓があります。

本證寺~三河一向一揆の拠点で城郭寺院(城郭伽藍)で国の史跡です。

西尾公園~蒸気機関車 C12形230号機が静態保存されています。

半田市鉄道資料館 ~蒸気機関車C11形265号機が静態保存されています。

リニア・鉄道館~名古屋市にあるJR東海が開館した鉄道保存展示施設です。

博物館明治村~明治期建造物を堪能、特筆すべきは明治期製造の動く蒸気機関車と市電に乗車できることです。

赤沢自然休養林(日本三大美林)の森林鉄道に乗車しました。森林浴発祥の地です。

カクキュー八丁味噌の郷に行ってきました~ドライブtоあいちを利用。

茶屋四郎次郎(初代は茶屋清延)~三代に渡って徳川家康に仕え、多方面より支えた京都の豪商です。

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