徳川家臣

加藤清正~多くの戦功、治水事業、農業、商業に手腕を発揮し築城の名手であり「清正公さん」として信仰されています。

加藤清正公の銅像 (妙行寺)(名古屋市中村区)



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加藤清正

加藤 清正(かとう きよまさ)は、
安土桃山時代から
江戸時代初期にかけての武将、大名。
肥後熊本藩初代藩主。

通称は虎之助(とらのすけ)。
熊本などでは現代でも、
清正公さん(せいしょうこうさん、せいしょこさん)
と呼ばれて親しまれています。
(清正公信仰)。
これは、ひとえに新田開発や
治水工事で実績を上げたことによる
ところが大きいとのことです。
清正公誕生之霊地・妙行寺

豊臣秀吉子飼いの家臣で、
賤ヶ岳の七本槍の一人です。
豊臣秀吉に従って各地を転戦して
武功を挙げ、肥後北半国の大名となります。
文禄の役の際の京城攻めでは、
出世を競う小西行長
一番乗りを争いました。
秀吉没後は徳川家康に近づき、
関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、
肥後国一国と豊後国の一部を与えられて
熊本藩主になりました。
明治43年(1910年)に
従三位を追贈されています。

【時代】
安土桃山時代 – 江戸時代初期

【生誕】
永禄5年6月24日(1562年7月25日)

【死没】
慶長16年6月24日(1611年8月2日)

【改名】
夜叉若(幼名)、清正

【別名】
虎之助/虎之介、主計頭(通称)、
地震加藤、鬼将軍、
肥後の虎(渾名)

【墓所】
熊本県熊本市の本妙寺
山形県鶴岡市の天澤寺
京都港区の覚林寺
東京都大田区の池上本門寺
京都市山科区の本圀寺

【官位】
従五位下・主計頭、
従五位上・侍従兼肥後守、
従四位下、贈従三位

【主君】
豊臣秀吉⇒秀頼

【藩】
肥後熊本藩主

【氏族】
加藤氏

【父】
加藤清忠

【母】
伊都(鍛冶屋清兵衛の娘)

【妻】
山崎片家娘、清浄院
本覚院、浄光院、正応院

【子】
虎熊、本浄院、忠正、忠広、瑤林院、
貴田正勝、百助

【生涯について】
【誕生】
永禄5年(1562年)6月24日、
刀鍛冶・加藤清忠の子として
尾張国愛知郡中村
(現在の名古屋市中村区)に生まれました。
母は鍛冶屋清兵衛の娘・伊都です。
加藤清正の出生地(妙行寺)
永禄7年(1564年)、
加藤清正が3歳の時に父が死去し、
母とともに津島に移ったとされています。




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【秀吉に仕える】
天正元年(1573年)、
羽柴秀吉の生母である大政所
母が従姉妹(あるいは遠縁の親戚)
であった縁から、
近江長浜城主となったばかりの
又従兄弟に当たる羽柴秀吉に
小姓として仕え、天正4年(1576年)に
170石を与えられました。
長浜城 本丸跡

【婚姻】
近江の守護大名佐々木氏の一族で、
近江の名門である山崎片家の娘を娶り、
正室としました。

【史料での初登場】
天正8年(1580年)9月19日、
羽柴秀吉から播磨国神東郡内に
120石を与える知行宛行状
(「加藤文書」)が
記録上の最初の登場となるとのことです。

【戦場においての一番乗り】
天正10年(1582年)4月14日、
中国経略中の羽柴秀吉が冠山城を攻めた時、
加藤清正は城に一番乗りを果たして、
竹井将監を討ち取っています。

【山崎の戦・「賤ヶ岳の七本槍」】
天正10年(1582年)、
本能寺の変が起こると、
加藤清正は羽柴秀吉に従って
山崎の戦いに参加しました。
翌年の賤ヶ岳の戦いでは
敵将・山路正国を討ち取るという
武功を挙げ、羽柴秀吉より
「賤ヶ岳の七本槍」の一人として
3千石の所領を与えられたとのことです。
賤ケ岳の戦い 行市山 玄葉尾城
天正13年(1585年)7月、
羽柴秀吉が関白に就任すると
同時に従五位下・主計頭に叙任します。

隈本(熊本)城主】
天正14年(1586年)、
豊臣秀吉の九州平定に従い、
天正16年(1588年)に
肥後国領主となった佐々成政
失政により改易されると、
これに替わって肥後北半国
19万5千石を与えられ、
隈本城に入り、
後の天正19年(1591年)頃より
これに改修を加えて熊本城としました。
加藤清正

【加藤清正の役割は財務官僚】
加藤清正は賤ヶ岳の戦い以降、
小牧・長久手の戦い、四国征伐、
九州平定に参加し、ほとんどが後備として
豊臣秀吉の周囲を守るか
後方支援に当たるかをしていました。
小牧・長久手の戦いの時に
作成されたとみられる陣立書が
残されており、そこに記された
加藤虎介(清正)の動員兵力は
わずか150名であったとのことです。
当時の加藤清正が豊臣秀吉から
期待されていたのは、
豊臣政権の財務官僚としての
役割であったとのことです。
記録で確認できるだけでも
豊臣氏の播磨国や和泉国にあった
蔵入地の代官、九州平定後の
上使としての戦後処理、
尾藤知宣が改易されて闕所地となった
讃岐国に新領主に決まっていた
生駒親正が入国するまで
代官として臨時に
統治業務にあたる仕事などが
知られているとのことです。
また、和泉国の代官を務めたことで、
堺の商人との関係を
深めることにもなりました。




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【肥後半国を与えられた理由】
なお、加藤清正が肥後半国を
与えられた理由としては、
九州平定が終わった直後に
肥後国人一揆が発生し、
不安定な政治情勢が続いていた
肥後の情勢を鑑み、
長年代官を務め、
九州平定・肥後国人一揆後に
上使として派遣されて
現地に通じている
加藤清正に肥後半国を
託したと考えられているとのことです。

文禄・慶長の役
【重い課題を抱えた出陣】
文禄元年(1592年)
からの文禄・慶長の役では、
朝鮮へ出兵しました。
出兵前年の天正19年(1591年)、
加藤清正は領国の家老2名に対して
36か条に及ぶ出兵の準備に
関する指示を出しています。
肥後一国を与えられる前は
170人程度の軍勢を
指揮するに過ぎなかった加藤清正が、
1万人単位の兵を率いる立場に
なってから初めての大規模な戦いでした。
加藤清正の家臣の中には新参の家臣が多く、
実際の戦闘や留守の領国で
どこまでの働きをするのか未知数でした。
しかも、九州諸大名には
肥前国名護屋城の築城など、
軍役以外の負担を課せられており、
加藤清正は重い課題を
抱えたままの出陣となったのでした。

【文禄の役】
文禄の役では二番隊主将となり
鍋島直茂相良頼房などを傘下に置きました。
同じく先鋒である小西行長率いる
一番隊とは別路をとり、
4月17日の釜山上陸後は
小西行長と首都漢城の攻略を競い、
5月3日南大門から漢城に入城しました。
漢城攻略後は一番隊や
黒田長政の三番隊とともに北上し、
臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を破ります。
その後、黄海道金郊駅からは一番隊、
三番隊とは別れ東北方向の咸鏡道に向かい、
海汀倉の戦いで韓克諴の朝鮮軍を破り、
咸鏡道を平定して、
現地の朝鮮人によって
生け捕りにされていた
朝鮮二王子(臨海君・順和君)を
捕虜にしました。
しかし、加藤清正の本意は
豊臣秀吉の意向が明本国への進撃である以上、
朝鮮半島の平定に
時間をかけるべきではない
という考え方で、
日本側が取った八道分遣策には
批判的であったということです。

【清正の危惧と石田三成らへの不信の始まり】
加藤清正の危惧通り、
明軍の援軍を得た朝鮮軍の反撃を受けた
一番隊や支援にかけつけた三番隊は苦戦をし、
日本軍の進撃は停止してしまいます。
一方、明への侵攻路から外れた辺境で
敵軍も少なかった二番隊は
大きな抵抗を受けずに
侵攻を続けたため、
一番隊や三番隊の苦戦を知る
日本本国では
「清正が虚偽の戦果を
報告しているのではないか」と
疑惑を持たれることになりました。
当然、加藤清正はこうした流れに反発します。
それが一番隊を率いていた
小西行長や本国と現地の
取次をしていた石田三成への
不信の発端になったとみられています。
なお、この時期以前に
加藤清正と彼らの不仲を裏付ける
一次史料は存在していません。
石田光成 辞世の句

【満州へ】
さらに加藤清正は朝鮮の国境である
豆満江を越えて、
満洲のオランカイ(兀良哈)へ進攻しました。
けれども当地は明への侵攻路から
外れている上に得るものが乏しいため、
早々に朝鮮領内へ引き揚げ、
咸鏡北道を帰順した
現地朝鮮人の統治域とし、
日本軍は吉州以南に布陣しました。
日本軍の去った咸鏡北道では
朝鮮人の義兵が決起して
吉州を攻撃しましたが、これを撃破。
その後、明軍が現れた京畿道方面に
配置転換が命じられ、
咸鏡道を引き払い漢城に入りました。




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【第二次晋州城の戦い】
文禄2年(1593年)6月の
第二次晋州城の戦いで
加藤軍は北面からの攻城を担当し、
亀甲車を作り、配下の森本一久と
飯田直景が、黒田長政配下の
後藤基次と一番乗りを競い
城を陥落させています。

【明・朝鮮との交渉と清正の謹慎】
明・朝鮮と本格的な交渉が始まると、
加藤清正は主に惟政らに豊臣秀吉の
講和条件を伝えます。
豊臣秀吉の条件は明にも朝鮮にも
到底受け入れられるものでは
ありませんでした。
このため、豊臣秀吉の命令を無視してでも
和睦を結ぼうとする小西行長と対立し、
小西行長は加藤清正が講和の邪魔になるとみて、
彼が豊臣姓を勝手に名乗ったこと、
独断専行した罪などで豊臣秀吉に訴えます。
この時、戦争継続は不利と考える
石田三成が小西行長を支持したことなどから、
加藤清正は京に戻され謹慎となりました。
増田長盛が石田三成と
和解させようとしましたが、
加藤清正は断っています。
が、この帰国に関しては講和進展と
明使の来日に伴う軍の一部撤退による
帰国であるとする説も
出されているとのことです。

【慶長伏見地震の際にいた場所】
その後、慶長伏見地震の際、
豊臣秀吉のいる伏見城へ駆けつけ、
その場で弁明したことにより
許されたとされる
「地震加藤」の逸話がありますが、
加藤清正が地震の2日後に領国に送った
書状の中から加藤清正がいたのは
大坂であったことが推定されており、
加藤清正が大坂から伏見の豊臣秀吉の許に
駆けつけた可能性はあっても、
真っ先に駆けつけたとする逸話は
史実ではなかったことが
明らかとなっているとのことです。

【九州各地の不穏な動き】
一方、名護屋城の築城以来、
加藤清正領国を含めた九州各地は、
朝鮮での軍役やその軍勢を
維持するための物資調達で
多大の負担を強いられ、
不穏な動きを見せ始めていたのでした。




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【梅北一揆】
文禄元年(1592年)6月に
島津氏の家臣である梅北国兼が
加藤清正の支城の1つである
佐敷城を奪う梅北一揆が発生。
一揆は間もなく鎮圧されましたが、
人夫としての動員や徴税、
その他の物資徴発に由来する
過大な負担は家中や領民を動揺させたのでした。

【村への制裁措置】
文禄2年8月、
釜山郊外の西生浦倭城にいた加藤清正が
冬に備えて留守を守る重臣に対して
51か条に及ぶ物資調達を
督促する書状を出しています。
ただ、この時の調達に国元は
難渋した模様でした。
翌年の文禄3年4月には早くも
冬に備えた物資調達とともに、
重臣達の怠慢を叱責する書状を送っています。
徴税時や人夫動員時には、
あらかじめ百姓を人質を取ったり、
逃亡した人夫を出した村に対しては
日割りで欠員期間の夫銭を
徴収するなどの制裁措置を
取ったりすることで、
未進や逃亡の阻止を図ったのでした。

【百姓への措置と財政難克服や工夫】
そして、領内では一部の加藤家家臣を
巻き込む形で百姓の動員拒否や
逃亡の動きが盛んになります。
文禄2年2月14日付で豊臣秀吉が
肥後に残った加藤家の重臣に対して
直接朝鮮半島から逃げ帰った
百姓の取締を命じる朱印状を
発給しているのも、
加藤清正ら九州諸将の留守の領国における
不穏な動きに対応した措置と
みられています。
また、この時期の加藤清正は
財政難の克服や軍需品の調達を意図して
ルソンに貿易船を派遣して、
日本では米に比べて廉価であった
麦類を輸出して硝薬などの軍需品を
輸入しようとしました。
しかしながら朝鮮出兵によって
ルソンの軍事的緊張が高まり、
思うように成果が上がらなかったとのことです。

【慶長の役】
【小西行長の密告】
慶長2年(1597年)からの
慶長の役では、左軍の先鋒となった
小西行長に対し、右軍の先鋒となります。
再び朝鮮に渡海する際、
小西行長は明・朝鮮軍側に
加藤清正の上陸予想地点を密かに知らせ、
加藤清正を討たせようとしたのでした。
けれども敵の李舜臣はこれを罠だと
判断して出撃せず、加藤清正は
攻撃を受けませんでした。

【最初の作戦目標を達成】
日本軍の作戦目標は、
まず全羅道を徹底的に撃滅し、
さらに忠清道へも進撃することと、
その達成後は後退して拠点となる
城郭群を建設することでした。
西生浦倭城を発った加藤清正は
全羅道に向かって西進し、
朝鮮軍の守る黄石山城を陥落させると、
全羅道の道都全州を占領。
次に忠清道鎮川まで進出し、
ここに最初の作戦目標を達成させました。




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【加藤清正の守備担当】
日本軍の諸将は築城予定地まで後退。
加藤清正は西生浦倭城の東方に
新たに築城される蔚山の地に入り、
自ら縄張りを行った後、
加藤安政等を配備して
西生浦倭城に移りました。
蔚山倭城の建設は
帰国予定の浅野幸長
宍戸元続等の毛利勢
(毛利氏は他に梁山倭城の築城も担当)
が担当しました。
加藤清正は西生浦倭城に加え
蔚山倭城の守備担当でした。

【厳しい環境下で勝利に導く】
慶長2年(1597)12月、
完成が間近に迫った蔚山倭城へ
57000人の明・朝鮮軍が
攻め寄せて蔚山城の戦いが始まると、
加藤清正は急遽側近のみ
500ほどを率いて蔚山倭城に入城。
未完成で水も食糧も乏しい状況下、
毛利秀元や黒田長政等の援軍の到着まで
明・朝鮮軍の攻撃に10日ほど耐え、
この戦いを明・朝鮮軍に2万人の
損害を与える勝利へと導いたのでした。
この当時の朝鮮における
明軍の総司令官であった楊鎬は、
勝利と偽って本国に報告しましたが、
惨敗したことがばれてしまい、
解任されたということです。

慶長3年(1598年)9月、
再び蔚山倭城は攻撃を受けますが、
この時には城も完成しており、
前回ほど苦戦せずに撃退したのでした。

関ヶ原の戦いから江戸時代】
【豊臣秀吉の死】
豊臣秀吉の死により、
加藤清正らは日本に帰国することになりました。
すぐに帰国に応じたことからも、
加藤清正も朝鮮出兵が
無益な戦いであることを
認識していたものと考えられています。

【領国建て直し策と現実】
帰国した加藤清正は
向こう数年の百姓の夫役を
停止するなどの領国建て直し策を出します。
また、朝鮮出兵時から
続けられていた国内外を舞台にした
投機的な取引によって、
収取された米や大豆、
麦などの農産物を売買し、
少しでも財政難を
解消することにも努めました。
ところが、現実には緊迫した
政治情勢の中で熊本城の改築などの
軍事的対応が優先され、
領国の再建は先送りされることになるのでした。

【家康への接近】
慶長3年(1598年)、
豊臣秀吉が死去すると、
五大老の徳川家康に接近し、
徳川家康の養女を継室として娶っています。
徳川家康公霊夢像(大樹寺)

慶長4年(1599年)3月28日、
前田利家が死去すると、福島正則
浅野幸長ら七将の一人として
石田三成暗殺未遂事件を起こし、
これに失敗するとさらに
徳川家康への接近を強めていきました。




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【庄内の乱】
ところが、島津氏の重臣である
伊集院氏が主家に反旗を翻した
庄内の乱において、
加藤清正が反乱を起こした
伊集院忠真を支援していたことが発覚しました。
庄内の乱は徳川家康が
五大老として事態の収拾を
図っていた案件であり、
加藤清正の行動は徳川家康からすれば
重大な背信行為でありました。
徳川家康は加藤清正の上洛を禁じて、
加藤清正が上方に向かった場合には
これを阻止するように有馬則頼に命じたのでした。

【関ヶ原の戦いの際に肥後にいた理由】
慶長5年(1600年)、
加藤清正は大坂に入り、
2月13日に有馬則頼と会い(「鹿苑日記」)、
その前後には徳川家康とも対面しているようですが、
徳川家康の怒りは収まらなかったようで、
加藤清正には会津征伐参加を許さず、
国元に留まるように命じています。
同年9月の関ヶ原の戦いの際に
加藤清正が領国である肥後にいたのは、
徳川家康によって事実上の謹慎を
命じられていたためであったのでした。

また、徳川家康の会津征伐の発動に
加藤清正が強硬に反対しましたが、
徳川家康は同意せずに
加藤清正に対して立腹したとされています。

【東軍にて出陣】
こうした事情から関ヶ原の戦い当初は
徳川家康と疎遠となった加藤清正が
西軍につく事態も想定され、
毛利輝元らによる説得工作が行われました。
けれども、加藤清正は徳川家康に懇願して
大坂にいた家臣を会津征伐に出陣する
徳川家康の下に派遣しており、
石田三成らの挙兵を知った徳川家康は
その家臣を肥後に帰して、
加藤清正の東軍加勢を認めたのでした。
その間にも加藤清正は黒田如水と連絡を取って
徳川家康ら東軍に協力する約束を交わし、
徳川家康の書状を携えた家臣が
帰国した8月後半から黒田軍とともに出陣、
小西行長の宇土城
立花宗茂柳川城などを開城、調略し、
九州の西軍勢力を次々と破ったのでした。

【52万石(79万石)大名になる】
戦後の論功行賞で、
小西旧領の肥後南半を与えられ、
52万石(実質石高は79万石)の大名となりました。
関ヶ原の戦い一年余の後に、
替地充行状が多発されるようになり、
戦時色を払拭し恒常的、
安定的な領国体制の再編に向けて
動き出していたことが窺えます。

慶長8年(1603年)、
豊臣姓を下賜されています。

慶長10年(1605年)、
従五位上・侍従兼肥後守に叙任されました。

【舘林藩の藩政をみる、蔵入地】
慶長11年(1606年)、
徳川四天王の一人榊原康政の嫡男である
康勝に娘のあまを嫁がせました。
しかし、この年に榊原康政が急死して
康勝が館林藩を継いだため、
加藤清正がその後見人として
藩政をみました。
また、江戸幕府の成立後、
豊臣氏がかつて日本各地に設置した
蔵入地は解体される傾向でしたが、
加藤清正が統治する肥後国の蔵入地は
依然として残されて年貢が
大坂城の豊臣秀頼の下に
送付されていた模様で、
加藤清正の死の翌年に
毛利氏が加藤清正死後の熊本藩を
内偵した記録である
「肥後熊本世間取沙汰聞書」」によりますと
同藩には(豊臣氏)蔵入地3万石が
設置されたままであることが
記されていたのでした。

【熊本藩の諸城】
一方、熊本藩内では
熊本城と麦島城の改築、
旧加藤・小西両領の境界地帯を中心とした
支城の廃止などが行われ、
最終的には熊本城と7つの支城に
整理されました。




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【尾張名古屋城の普請に協力】
名古屋城大天守石垣内で、
「加藤肥後守内小代下総」
(加藤肥後守の家臣、小代下総守(小代親泰))
と刻まれた石がありますように、
慶長15年(1610年)、
徳川氏による尾張名古屋城の普請に
協力しました。
名古屋城 加藤清正公の像(能楽堂前)

二条城に徳川家の家臣として臨む】
慶長16年(1611年)3月、
二条城における徳川家康と
豊臣秀頼との会見を取り持つなど
和解を斡旋しました。
が、加藤清正は豊臣秀頼の護衛役ではなく、
既に次女・八十姫との婚約が
成立していた徳川家康の十男である
徳川頼宣の護衛役であり、
徳川氏の家臣として
会見に臨んだのでした。
その一方で、加藤清正は徳川頼宣とともに
豊臣秀頼の豊国神社の参詣、
鳥羽までの見送りに随行しており、
徳川家康としても徳川・豊臣の和解のために
加藤清正の役割に期待する側面も
あったとみられています。

【最期】
帰国途中の船内で発病し、
6月24日に熊本で死去しました。
享年は50歳(満49歳)でした。

【その後の加藤氏】
三男である忠広が跡を継ぎましたが、
寛永9年(1632年)に
加藤家は改易されました。
忠広は堪忍分1万石を与えられて
出羽庄内藩にお預けとなりました。
理由は諸説あり、加藤家の家系は、
かつて庄内藩領であった
山形県酒田市大字新堀などで
続いているとのことです。
忠広は清正の遺骨を庄内丸岡に持ち込み、
曹洞宗天澤寺本堂の北に
墓碑を建立しました。
この墓は昭和24年(1949年)に発掘され、
初期弓野焼の壷に納めた遺骨と
鎧が発見されました。

清正信仰
新たに肥後熊本54万石の領主となった
細川忠利は、加藤清正の霊位を
先頭にかざして肥後に入部し、
熊本城に入る際
「あなたの城地をお預かりします」
と言って浄池廟の方角に向かって遥拝し、
加藤清正を敬う態度を示したとのことです。
本妙寺は細川氏の菩提寺
(泰勝寺・妙解寺)並の寺領を寄進されました。
享保20年(1735年)の
百二十五遠忌の頃になると、
毎月23日の加藤清正命日逮夜には
参詣通夜し、所願成就を祈願する者が急増。
6月23日の祥当逮夜には、
大勢の参拝客を目当てに参道に
仮設店舗や茶店が出る賑わいを見せ、
現在の頓写会の原形が
姿を現しています。
かつて「日乗様」「日乗居士」と呼ばれていた
加藤清正は、このころには
「清正公」「清正神祇」と
尊称されるようになって神格化が進み、
本妙寺・浄池廟は
「せいしょこ(清正公)さん」
として、民衆の清正信仰の
中心的存在となったのでした。

【人となり】
築城の名手
藤堂高虎や黒田孝高と並ぶ
築城の名手として知られています。
熊本城や名護屋城、蔚山倭城、
江戸城、名古屋城など数々の
城の築城に携わりました。
名古屋城 焼失前の 大小天守閣と本丸御殿

治水事業も積極的に取り組む】
また飯田直景、大木土佐らと
穴太衆を用いて領内の
治水事業にも意欲的に取り組みました。
この結果、熊本県内には
現在も加藤清正による遺構が多く存在します。
その土木技術は非常に優れており
400年以上経った現在も
実用として使われている遺構が
少なくないとのことです。




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【事業の多くは農閑期】
このとき加藤清正は莫大な
人手をまかなうため男女の別なく
動員しましたが、給金を払い
必要以上の労役を課すことなく、
事業の多くを農閑期に
行うことによって農事に割く
時間を確保したということです。

【福島正則と親しい】
武将としては福島正則とともに
豊臣氏配下の有力の武将の一人で、
福島正則とは親しかったとされています。

【石田三成・小西行長とは不仲】
一方、石田三成とは豊臣政権下で
文治派、武断派が形成されるにつれて
関係が悪化し、小西行長とは
朝鮮出兵の際の意見対立や
互いの領地が隣り合わせで
あったため常に境界線をめぐって
争ったともいわれています。

日蓮宗の信徒】
熱心な日蓮宗の信徒であり、
領内に本妙寺をはじめとする
日蓮宗の寺を数多く創設しました。
そのほか、いわゆる
「三振法(清正当時の呼称ではない)」を
取り入れたことで知られているのことです。
これは武士のみが対象でしたが、
軽微な罪や式典で粗相を
3回起こすと切腹を
申し付けられるものでした。

【清正公さん】
熊本県(旧熊本藩)においては、
「清正公(せいしょこ)さん」
として現在も種々の史跡や
祭りなどに取りあげられていますが、
当時の肥後人の加藤清正への崇敬は
強いものがありました。
これはほとんどの大名が
単に統治しただけで
あったのとは対照的に、
農業政策で実績を
上げたことによるとのことです。

【マイナス面】
加藤清正が治水や農業振興に
力を尽くしたものの、
一方で朝鮮出兵の費用を
賄うための重税や動員は
百姓への大きな負担となっていました。
また、国境近くや要地に
支城を設けて重臣達を
城主にして独自の所領・軍団経営を
認めさせた「備(そなえ)」という制度は
敵の侵入を防ぐのには
有効でしたが重臣達の権力を強め、
また体制を維持するための
財政的負担も大きかったのでした。
加藤清正もこの問題点を
認識してはいましたが、
その後の関ヶ原の戦いや
天下普請によって解消する機会を
逸したまま没してしまったのでした。
このため、領国は疲弊することになり、
また幼くして後を継いだ
嫡男・忠広の下で権力を持った
重臣達が争うことにもなり、
結果的には加藤家改易の
遠因ともなったのでした。




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【武具・装備一式】
長烏帽子形兜
加藤清正は身の丈六尺三寸
(約190cm)の大男と伝えられ、
長烏帽子形兜
(ながえぼしなりかぶと)という
変わり兜を被ることで
さらに背が高く見えたということです。
加藤清正が蔚山城の戦いで
被ったと伝わっています。
浮世絵の武者絵では、
この兜と蛇の目紋が
加藤清正のイメージとして定着しています。
紀州徳川家に伝来し、
現在は徳川美術館が所蔵しています。

<片鎌槍>
所持する十文字三日月槍の片刃が、
天草一揆討伐戦、
または朝鮮の役での虎退治
噛み折られてしまいましたが、
研磨して片鎌槍と称して
愛用を続けたという伝説があります。
が、実際は当初から片方が欠けていました。
この愛用の槍は八十姫(瑤林院)の
徳川頼宣への輿入れ道具として
持ち込まれ紀州徳川家に伝えられました。
現在は東京国立博物館所蔵となっています。

<題目旗>
熱心な法華宗信者であったため、
白地に朱色で題目
(南無妙法蓮華経)
を書いた旗を戦場で翻らせていました。

<帝釈栗毛>
(たいしゃくくりげ)
加藤清正の愛馬。
帝釈とは仏教の
守護神帝釈天のことで、
体高は六尺三寸あったという巨大な馬。

<金小札色々威片肌脱胴具足>
(きんこざねいろいろおどしかたはだぬぎどうぐそく)
あくまでも「伝」加藤清正所用の甲冑で、
頭には熊毛をあしらい、
胸部と背部に片肌を脱いで
あばら骨の浮いた肉色の体を
覗かせた具足で、
屍を思わせる恐ろしげな
デザインで有名です。
東京国立博物館所蔵。

【清正の熊本での事業】
【熊本城】
加藤清正が肥後国を治めていたのは、
天正15年(1587年)から
慶長16年(1611年)の期間でした。
朝鮮出兵等もあって
実際に熊本に居住していた期間は
延べ15年程でした。
加藤清正以前の肥後は、
豊臣秀吉が九州平定後に
「こんなに豊かな国は見たことがない」
と言ったように、国人でも豊かに
暮らせたため有力大名が現われず、
国人が割拠する時代が続き、
佐々成政でさえも
収拾できませんでした。
そうした中、加藤清正は
得意とする治水等の土木技術による
生産量の増強を推進しました。
これらは主に農閑期に進められ
男女を問わず徴用され、
公共工事であり、
給金も支払われたため
みな喜んで協力したということです。
熊本城

<改称した理由>
「隈本(隅本とも)」を
「熊本」に改称した理由は、
隈本城の改修工事が落成した際に、
加藤清正が「『隅本』より『熊本』の方が
勇ましかろう」と言ったとの伝承が
伝わっています。

<「白川・坪井川大改修」>
以前は白川と坪井川は
現在の熊本市役所付近で合流し
下通を貫いて今の白川に
流れていましたが、
これを現在の流路に
変更したのは加藤清正です。
熊本城築城の際、予定地の側に
現代でいう都市河川である坪井川と
阿蘇からの火山灰を含んだ
白川が合流する様を見て、
流路を分けて城に近い
坪井川を内堀に、
遠い白川を外堀とする
河川改修を行いました。
熊本城
また当時の技術において
さらに下流にある再合流地点に
石塘を築き両河川を河口まで分流。
それは、そこよりも
下流の地域まで氾濫から
未然に防ごうとする設計でした。

<熊本4大河川改修>
白川坪井川の付替、
緑川の鵜の瀬堰、球磨川の遥拝堰、
菊池川における各種改修と
灌漑用水の整備。
これにより広大な穀倉地帯が生まれました。




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<熊本平野・八代平野・玉名平野
への干拓と堤防の整備>

これにより海岸に近い地域にも
広大な畑作地域が生まれました。

<白川水系の主に熊本平野への
灌漑事業における、非常に実験的な
用水技術(馬場楠井手)等>

当時としては先進的な測量・
土木技術の賜物でした。
今日の農業用水確保は
この時代の遺構に頼る面が少なくありません。
白川流域かんがい用水群
(井手用水・下井手用水・馬場楠井手用水・
渡鹿用水)が2018年に、
菊池のかんがい用水群
(築地井手・原井手・今村井手・
宝永隧道・古川兵戸井手)が2019年に
国際かんがい排水委員会の
かんがい施設遺産に認定されています。
なお、現在の堀川は加藤忠広が着工し、
細川忠利の時代に完了しました。
白川と坪井川を結ぶ
農業用水路です。

【逸話】
<1>
子供のころからの竹馬の友として
力士(森本一久)と才八(飯田直景)がいました。
ある日、剣の試合をして
勝ったものが主君になり、
負けたものが家来になるという
約束をしました。
結果は加藤清正が勝ち、
その約束は守られ、
二人は加藤清正の両腕として
信頼される主従関係を
結び続けたということです。

<2>
加藤清正が少年時代、
上河原(津島市上河原)の
叔父の家にいた時、盗賊が押し入りました。
叔父夫婦は縛られましたが、
加藤清正は鬼の面を被って
つづらに隠れました。
重みのあるつづらを財宝だと
勘違いした盗賊たちは
持ち去って松原に来たところで開けると、
加藤清正が飛び出してきたため
鬼だと思い込み逃げ去りました。
現在、叔父の屋敷跡と
伝えられる地に
「清正公社」が建てられています。

<3>
口の中に拳を入れることが
できたという逸話があります。
新選組局長・近藤勇
憧れていた加藤清正にあやかり、
真似をして拳を口に
入れていたということです。




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<4>
平時でも常に腰に米3升と味噌、
銀銭300文を入れていました。
ある時、親友の福島正則が
「それでは腰が重いだろう」と述べると、
「わしだって軽くしたい。だが、
わしがこうしていれば家臣も見習い、
常に戦時の備えを怠らないだろう」
と答えたということです。
また、平時に腰兵糧をつけるのを
忘れた小姓を怠慢であるとして
免職にしたということです。

<5>
加藤清正が朝鮮出兵の際、
もち米や水あめ・砂糖などを
原料とした長生飴というものを
非常食として常備しました。
それが所以で長生飴は
朝鮮飴と名を変え、
今では熊本の銘菓となっています。

<6>
加藤清正は豊臣氏への忠義を
終生忘れませんでしたが、
徳川家康を恐れその天下も認めていました。
福島正則が徳川家康の子である
徳川義直が入る尾張名古屋城の
普請を命じられたとき、
「大御所の息子の城普請まで
手伝わなければならないのか」
と愚痴をこぼしたのに対して、
加藤清正は
「嫌なら領国に帰って戦の準備をせよ」
と告げたということです。

<7>
徳川時代になって
戦国の気風が謀反の心として
警戒されるようになり、
大名たちに髭を剃ることが
流行りだしました。
徳川家康は家臣に命じて
加藤清正に聞きに行かせました。
「貴殿も剃られてはいかがか」
と勧められたのに対して
「鎧の頬あてに髭があたる
感覚が心地よいので」
と断ったことから、
骨のある武将との評判がたったということです。

<8>
晩年は豊臣家への恩義と
自家の徳川政権での存続に心を悩ませました。
そのためか、「論語」に朱で書き込みをして
読み込むほどであったそうです。
徳川と豊臣の雲行きが怪しいなか、
大坂からの船旅の中、
加藤清正の飼っていた猿が
真似をして彼の論語の本に
朱筆で落書きをしたのを見て
「お前も聖人の教えが知りたいか」
と嘆じたとか。

<9>
加藤清正が肥後北部24万石を
治めていた頃、
小西行長の領地・天草で
豪族の反乱が起きました。
その援軍に向かった時、
反乱軍でも武勇知られた
木山弾正という豪傑と
一騎討ちになりました。
相手は弓の使い手で、
矢を射ようとしたために
加藤清正は
「一騎討ちなれば、
正々堂々打ち物(太刀)で勝負」
と声を掛けて、手にしていた槍を
その場で投げ捨てました。
これを見た弾正も弓を
捨てたところ、
加藤清正はすかさず
槍を拾いあげて突きかかり、
討ち取ったということです。

<10>
同じくこの反乱の際、
反乱勢の籠もる志岐城に
和平の使者を送り、
志岐城側が出迎えの衆を寄越すと、
これに突然襲い掛かって
皆殺しにし、
してやったりとして
陣を敷いたということです。

<11>
木山弾正の遺児は
横手五郎と名乗り
怪力が自慢でしたが、
熊本城築城の人夫となり
敵討ちの機会を狙っていました。
しかし、これに気付いた
加藤清正によって城内の井戸の中の
作業をしているときに
石・砂を投げ込まれ
生き埋めにされたということです。
けれどもこの逸話には諸説あり、
加藤清正に認められ、
忠実な家臣になったという逸話もあります。
彼が運んだと伝わる
「首掛け石」という
凹型の巨石が城内にあるとのことです。




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【死因1】
加藤清正の死因は
「当代記」の2年後に
唐瘡(梅毒)で死んだ浅野幸長の項に、
彼と同様に好色故の「虚ノ病」
(腎虚(花柳病)か)とされています。

【死因2】
一方で徳川家康またはその一派による
毒殺説もあります。
加藤清正と浅野幸長の両名が
同じ病気でしかも急死したため、
徳川家康による毒殺ではないかとの
憶測も流れました。
暗殺説の中でも
二条城会見での料理による毒殺、
毒饅頭による毒殺など様々にあります。
根強い毒殺説を題材としたのが
池波正太郎の「火の国の城」となります。

【死因3】
また死因は瘡(癩病、ハンセン病)で
あったとする説もあり、
罹患者の多かった時代には
加藤清正を祀る加藤神社に
平癒を願う参詣者が多かったということです。
ちなみに熊本市の本妙寺は
明治20年代まで梅毒や
ハンセン病で不具に
なってしまった患者達で
混雑することが
珍しくなかったということです。
参拝客達に哀れみを乞い、
この寺に墓がある加藤清正を
一種の神と崇め、病を治して
貰おうという信仰があったからでした。
最も全国の寺社でも
同様の現象が起こっていました。

加藤清正は熊本に
帰る途中に発病し
口がきけなくなり、
健康は回復することはありませでした。
遺言はありませんでした。
赤尾口で荼毘に付され、
そこには後に庵が建てられ
静慶庵と名付けられました。
現在は九州森林管理局内に
碑があるとのことです。

【本葬・埋葬】
本葬は10月13日、
嫡子虎藤(忠広)の帰国後に
日蓮宗京都本山本圀寺貫主である
日桓の引導により厳修されました。
加藤清正の遺骸は甲冑の武装のまま
石棺に朱詰めにされ、
現在の廟所内の清正公像の
真下にあたるところに
埋葬されたとのことです。




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【墓所・霊廟・寺社】
墓所は熊本市西区花園の
発星山本妙寺の浄池廟、
また山形県鶴岡市丸岡の
金峰山天澤寺。
さらに東京都港区白金台の
最正山覚林寺(清正公)に
位牌があります。
なお、東京都大田区の
長栄山大国院本門寺(池上本門寺)に
供養塔があります。
奉斎神社は熊本市本丸鎮座の加藤神社。
また加藤清正に殉じた大木兼能、
朝鮮人の金宦
(きんかん、朝鮮名:良甫鑑)も、
熊本城にある加藤神社に
祀られているとのことです。

2023年NHK大河ドラマ
「どうする家康」では
淵上 泰史(ふちかみ やすし)さんが
演じられます。

中村公園(秀吉清正公園)(名古屋)について~秀吉・清正に関する史跡があります。

羽柴秀吉(豊臣秀吉・木下藤吉郎)下層民から天下人の生涯を手短に!

寧々(おね・高台院)~豊臣秀吉の正室、夫を内助の功で支え続けやがて天下人にさせた「おかか」

豊臣秀頼~従来は暗君だったとされているが実はカリスマ性があり明君の器があった故に滅亡させられた?

豊臣秀長~豊臣秀吉の実弟で右腕以上の存在、兄の天下統一に大きく貢献、惜しまれながら52歳で他界する。

浅野長政~豊臣秀吉の姻戚で五奉行筆頭、政治面で手腕を発揮、関ヶ原では徳川家康を支持します。

豊国神社及び豐公誕生之地(豊臣秀吉公生誕地)の碑~中村公園(秀吉清正公園)にあります。

豊太閤産湯の井戸~もう一つの豊臣秀吉公生誕地 、常泉寺にあります。

清正公誕生之霊地 ~妙行寺は加藤清正公の縁の寺院で秀吉清正公園傍にあります。

福島正則~秀吉の子飼い、武勇に長ける荒武者だが地元では英雄扱いされ行政面でも功績を残す。

長浜城・琵琶湖北部の要の城・近世城下町の誕生

毛受勝照(毛受兄弟)・柴田勝家の身代わりとなって若き命を散らす~賤ケ岳の戦い~

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

名古屋城~日本100名城、特別史跡、日本三大名城、名勝、金鯱、起源は今川氏が築城し織田信秀・信長が居城した那古野城でした。

藤堂高虎~渡り奉公人の代表格で主君とは対等に近し、築城三名人と称され藩政も長けていました。

黒田長政~朝鮮出兵で活躍するも石田三成と対立、徳川方になり関ケ原では一番の功労者となる。

小西行長~商人の子として生まれるが才能を見出され武将になりキリシタン大名となる。

蜂須賀家政~豊臣秀吉の友・小六の息子でやがて親家康大名、阿波踊りをはじめさせた徳島藩祖。

江戸城~武蔵国江戸の最初の館は江戸氏、太田道灌が築城しやがて徳川家康が入城し開府しました。

榊原康政~徳川四天王、部隊の指揮に優れ能筆家で、井伊直政・本多忠勝とは特に仲が良かったとされています。

木下勝俊と木下長嘯子宅跡~中村公園(秀吉清正公園)(名古屋)にあります。

山崎山城~下街道監視のための城~時流を掴み戦国後期を駆け抜けた山崎片家。

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