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小西行長~商人の子として生まれるが才能を見出され武将になりキリシタン大名となる。

海(瀬戸内海)



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小西行長

小西 行長(こにし ゆきなが)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
肥後宇土城主。
アウグスティヌスの洗礼名を持つ
キリシタン大名でもありました。

【概要】
当初は宇喜多氏に仕え、
後に豊臣秀吉の家臣となりました。
文禄・慶長の役では女婿・宗義智らと共に
主要な働きをし、序盤の漢城府占領の際には
加藤清正と先陣の功を争いました。
関ヶ原の戦いでは西軍の将として
奮戦しましたが、敗北して捕縛されました。
自殺を禁じられたキリシタンであったので、
切腹を拒否して斬首されました。

【生涯】
【商人の子として】
永禄元年(1558年)、
泉州堺の商人・小西隆佐の次男として
京都で生まれました。
両親の影響で幼いころに洗礼を受けています。
はじめ備前福岡の豪商・阿部善定の
手代であった源六
(後に岡山下之町へ出て
呉服商をしていた魚屋九郎右衛門)
の養子となり、商売のために
度々宇喜多直家の元を訪れていました。

宇喜田直家に見出される】
その際に宇喜多直家に才能を
見出されて抜擢されて武士となり、
家臣として仕えました。
織田氏の家臣である羽柴秀吉
三木城攻めを行っている際、
宇喜多直家から使者として
秀吉の下へ使わされます。
この時、秀吉からその才知を
気に入られ、臣下となったのでした。




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【秀吉近臣時代】
天正8年(1580年)には、
羽柴(豊臣)秀吉の部下となりました。
主な業務は羽柴(豊臣)秀吉と
各大名の間に入る「取次」だったとのことです。
しかも命令意図を汲んで各部署に
相談するなど、ある程度動くことができる
権限をもっていたとのことです。
天正11年(1583年)からは、
豊臣政権内では舟奉行に任命され、
水軍を率いていました。
天正13年(1585年)には
摂津守に任ぜられ、
また豊臣姓を名乗ることを
許されています。
同年の紀州征伐では、
水軍を率いて参戦しましたが、
雑賀衆の抵抗を受けて
敗退したといわれています。
また一方で、太田城の水攻めでは、
安宅船や大砲も動員して攻撃し、
開城のきっかけを作ったとも
いわれています。

天正13年(1585年)、
小豆島で1万石を与えられました。

【キリシタン大名となる】
小豆島ではグレゴリオ・デ・セスペデスを
招いてキリスト教の布教を行い、
島の田畑の開発を積極的に行いました。
また、天正15年(1587年)の
バテレン追放令の際に
改易となった高山右近を島に匿い、
豊臣秀吉に諫言しています。

【摂津守】
天正14年(1586年)10月頃より
摂津守を名乗り、没するまで
摂津守を名乗ることになりますが、
天正15年(1587年)3月から
5月の時期のみ日向守を名乗っています。

宇土城の築城】
天正15年(1587年)の九州平定、
天正16年(1588年)の
肥後国人一揆の討伐に功をあげ、
肥後国の南半国宇土、益城、
八代の三郡20万石あまりを与えられました。
実はこのときもう半分を与えられたのが
加藤清正」でした。
のちに対立へと発展する相手です。

【鶴の城】
天正17年(1589年)、
宇土古城の東の地
(現在の熊本県宇土市古城町)に
新たな宇土城を築城し、本拠としました。
小丘陵の城山の頂上に本丸、
西に二の丸・堀と石垣三の丸を配し、
それぞれを堀と石垣で囲んだ近世城郭でした。
宇土城の本丸北側には運河が通るように設計し、
有明海の船が往来するという
構造にしたとのことです。
他にも城下町が整備され、
商工業者が住む場所や
物流拠点が設けられています。
実は鎌倉時代末期に宇土氏によって
築かれた宇土古城があります。
元来の宇土城(西岡台)が山城であり、
規模も大きくなかったために
改めて築いたとされています。
宇佐城、宇佐古城とともにみると
鶴が翼を広げているように見えたことから
「鶴の城」の異名を持っています。




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【天草国人一揆】
この宇土城普請に従わなかった
天草五人衆とは戦になりました。
これは小西行長が「天草五人衆」へ
宇土城建設を命令したことが
きっかけと言われています。
彼ら「天草五人衆」も同じく
豊臣秀吉より領地を与えられていたことから
「同じ立場である小西行長から
なぜ命令を受けないといけない?」
と反抗されてしまったからとのことです。

また「天草の一揆」収束にあたり
加藤清正が無理やり参加してきたため、
これ以降ともに攻略を
進めていくことになります。
加藤清正が加わったことで、
一揆は急速に鎮圧されました。
天草1万石あまりも所領としました。

【そのころの天草】
このころ天草は人口3万の2/3にあたる
2万3千がキリシタンであり、
60人あまりの神父、
30の教会が存在していたとのことです。
志岐氏の所領である志岐には
宣教師の要請によって
画家でもあるイタリア人修道士
(イルマン)ジョバンニ・ニコラオが
派遣され、ニコラオの指導下で
聖像学校が営まれ、油絵、水彩画、
銅版画が教えられ聖画・聖像の製作、
パイプオルガンや時計などの製作が
行われていました。
学校は後の文禄3年(1594年)、
有馬半島八良尾のセミナリオと合併し、
規模を拡大しましたが、
これらイエズス会の活動に
小西行長は援助を与え保護しました。

【麦島城らの築城と水利の強化】
小西行長の宇土城は水城として
優れた機能を持っていたとのことですが、
豊臣秀吉の意を受け、
相良氏統治時代から
この地域の海外貿易の中心地であった
八代(徳淵津)にも、麦島城を築城して
水利を強化し、
重臣の小西行重を城代として配置しました。
小西行長は従来の山頂にあった古麓城を廃して、
麦島城を球磨川と八代海に面する
河口の島に建て、
堀から外水を引きれて浮城とし、
直接、船で出入りできたとのことです。
このほか隈庄城、木山城、矢部城、
愛藤寺城を支城とし、
隈庄城に弟の小西主殿介、
愛籐寺城に結城弥平次ら一族重臣を
城代に任じています。
また高山右近の旧臣(キリシタン)が多く
家臣に取り立てられました。

しかし、残りの肥後北半国を領した
加藤清正とは次第に確執を深めることに
なっていきました。

【文禄・慶長の役】
文禄元年(1592年)からの
文禄の役に際しては、
小西行長と加藤清正の両名が
年来先鋒となることを希望していましたが、
秀吉は小西行長を先鋒として、
加藤清正は2番手としました。
出陣に際して秀吉より大黒の馬を贈られています。
そしてプサンとソウルを難なく制圧しました。
朝鮮軍はピョンヤンへ撤退し、
あとを追う豊臣勢の前に
明(当時の中国)の援軍が到着。
不利を悟った小西行長は
石田三成」とともに、
水面下で朝鮮との講和を締結します。
しかしこの講和締結が
豊臣秀吉の怒りにふれてしまい、
死刑を宣告されました。
けれども、重鎮の「前田利家」や「淀殿」らの
取り成しによって事なきを
得ることができたのでした。




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【秀吉の死去と帰国】
慶長3年(1598年)8月に
豊臣秀吉が死去すると、
小西行長は12月に帰国します。
その後は寺沢広高とともに
徳川家康の取次役を勤めるなど、
むしろ徳川家康との距離を近づけていますが、
慶長5年(1600年)の家康による
会津征伐に際しては上方への残留を
命じられました。
が、その後に起こった
関ヶ原の戦いでは、
石田三成に呼応し
西軍の将として参戦します。

【関ヶ原本戦】
9月15日の関ヶ原本戦では、
東軍の田中吉政筒井定次らの部隊と
交戦して奮戦。
しかし小早川秀秋らの裏切りで
大谷吉継隊が壊滅すると、
続いて小西隊・宇喜多隊も崩れ、
小西行長は伊吹山中に逃れました。
9月19日、関ヶ原の庄屋・林蔵主に匿われました。
小西行長は自らを捕縛して
褒美をもらうように林蔵主に薦めましたが、
林はこれを受けず、竹中重門家臣の
伊藤源左衛門・山田杢之丞両名に事情を話し、
共々小西行長を護衛して
草津の村越直吉の陣に連れて行ったとのことです。

【最期】
10月1日に市中引き回しの後、
六条河原において
石田三成・安国寺恵瓊と共に斬首されました。
その際、小西行長はキリシタンであったので、
浄土門の僧侶によって
頭上に経文を置かれることを拒絶し、
ポルトガル王妃から贈られた
キリストとマリアのイコンを掲げて
3度頭上に戴いた後に首を打たれたと
伝えられています。
死に臨んで告解の秘蹟を同じキリシタンであった
黒田長政に依頼しましたが、
徳川家康の命もあって断られ、
処刑当日も司祭が秘蹟を行おうとしましたが、
接近を許されなかったとのことです。

【死後】
イエズス会側の史料によりますと、
小西行長の遺体は教会に引き取られた後で
改めて秘蹟を受けてカトリック式で
葬られたとのことですが、
どこに埋葬されたのかは判明していません。
教皇クレメンス8世は
小西行長の死を惜しんだと伝わっています。
小西行長が亡くなってから
7年後の1607年、
イタリアのジェノバでは
小西行長を主人公とする
音楽劇が作られているとのことです。

【加藤清正との対立】
小西行長を語る上で欠かせないのは、
対立関係にあった「加藤清正」です。

<領地が隣接>
領地が互いに隣接していたため、
常に境界線をめぐって
争ったといわれています。
また仲が良くなかった
理由のひとつとして、
信仰の違いが挙げられます。
小西行長はキリシタン、
加藤清正は法華宗の檀家でした。




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<朝鮮出兵>
さらに朝鮮出兵の際、
加藤清正は自分が担当する
攻略ルートが難しいと判断し、
もともと小西行長が担当していた
平安道(朝鮮の主要都市)への攻略を志願。
これも両者の関係が悪化した
きっかけと言われています。
文禄の役の際の京城攻めでは、
どちらが先に一番乗りするかを争い、
小西行長が一日の差で
加藤清正を出し抜いたということです。

<文禄・慶長の役>
文禄・慶長の役を通じて、
加藤清正と作戦や講和の方針をめぐって
対立するなど、後に武断派と
対立する一因を成したのでした。
加藤清正からは文治派のひとりと
見なされたとのこと。
「薬問屋の小倅」と
侮られたということです。
その反発として小西行長は、
朝鮮出兵のとき、
軍旗として当時の薬袋である
紙の袋に朱の丸をつけたものを
使用したということです。

<関ケ原>
ふたりの関係は関ヶ原の戦いにも影響しました。
西軍として小西行長が出陣したところ、
加藤清正が「宇土城」を
包囲してしまいました。
最終的には慶長5年(1600年)10月に降伏し、
城を明け渡すことになったのでした。

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