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豊臣秀頼~従来は暗君だったとされているが実はカリスマ性があり明君の器があった故に滅亡させられた?

豊臣秀頼像



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豊臣秀頼

豊臣 秀頼(とよとみ ひでより /
とよとみ の ひでより、旧字体: 豐臣秀賴)は、
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。
太閤・豊臣秀吉の三男で庶子。

秀吉の側室であった茶々(淀殿)の第二子です。
子は側室・和期の方(名は伊茶。渡辺氏)
との間に国松と、
小石の方(おいわのかた。成田氏)との間に
天秀尼(彼女の生母については異説あり)がいます。
位階は正二位、官職は右大臣。
幼名は拾丸(ひろいまる)。
なお、豊臣とは名字ではなく、
本姓であるとのことです。
乳母は宮内卿局・右京大夫局
(一説に両者は同一人物共)・
正栄尼が伝わっています。
また、淀殿の乳母である
大蔵卿局も養育係を務めました。

豊臣秀頼は父・秀吉の意思を継ぎ、
秀吉の発願した高さ約19mもある
方広寺大仏(京の大仏)及び、
それを安置する大仏殿の再建を進めました。
しかし、同寺院に納める梵鐘の鐘銘を巡り
方広寺鐘銘事件京都大仏鐘銘事件)が発生。
徳川氏の江戸幕府と
大坂の陣として
交戦することになったのでした。
しかしこの頃にはもはや
徳川氏の優位が確立しており、
世の趨勢を覆すには至らず、
冬と夏の両陣を経て、
大坂城が落城し秀頼は自刃。
これにより豊臣氏(羽柴宗家)は
滅亡しました。

【秀頼の評価】
秀頼は生前に、戦乱で荒廃していた
多数の寺社に寄進を行い、
伽藍や社殿の再興を図りました。
彼の寄進で造立された建造物には、
東寺金堂や北野天満宮社殿などがありますが、
今日国宝や重要文化財に
指定されているものが多く、
秀頼の文化的事業に対して
一定の評価があります。
豊臣秀頼公 奉納鳥居
(玉造稲荷神社)

【生誕】
文禄2年8月3日
(1593年8月29日)

【死没】
慶長20年5月8日
(1615年6月4日)
(23歳没)

【改名】
拾(幼名)⇒秀頼

【墓所】
京都市東山区の養源院
京都市右京区の清凉寺
高野山奥の院
鹿児島市谷山の墓所

【官位】
従三位・左近衛権中将、
従二位・権中納言、
権大納言、正二位、
内大臣、右大臣

【氏族】
豊臣氏

【父】
豊臣秀吉

【母】
淀殿(浅井長政の長女)

【義父】
徳川秀忠

【兄弟】
石松丸、鶴松、秀頼

【妻】
正室:千姫(徳川秀忠の娘)従兄弟
側室:和期の方
(伊茶、渡辺五兵衛の娘)、
小石の方(成田助直の娘)

【子】
国松、天秀尼、求厭

【生涯のついて】
【誕生】
文禄2年(1593年)8月3日、
秀吉57歳の時の子で、大坂城で誕生しました。
子供の健康な成長を願う当時の祈願として、
いったん捨てた形にして、
家臣の松浦重政が拾い上げました。

誕生した時には既に、
従兄の秀次が秀吉の養嗣子として
関白を譲られ、
秀吉の後継者となっていました。
秀吉は、当初は秀次と秀頼の関係を
調整するため、秀頼誕生の2ヶ月後の
10月には、秀頼と秀次の娘
(槿姫とも呼ばれるが不詳)
を婚約させ、秀吉から秀次、
秀頼へという政権継承を
模索していたとのことです。

【秀次の死と秀頼の地位確定】
文禄4年(1595年)7月、
秀吉は秀次の関白職を奪い、
自刃させました。
秀次の子女や妻妾もほぼ皆殺しとなり、
秀頼の秀吉の継嗣としての地位が
確定したのでした。
秀吉はこの時、秀頼に
忠誠を誓約する起請文を作成し、
多数の大名達に血判署名させています。
伏見(桃山)城が築城され
秀吉が居城を移すと、
秀頼もこれに従って以後ここに居住しました。
伏見城
文禄5年(1596年)5月13日、
秀頼は初めて上洛し、
豊臣朝臣藤吉郎秀頼と称しました。
(「太田牛一旧記」)。




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【秀吉の死】
秀吉は、それまで個人的な
独裁体制の色彩が強かった豊臣政権に、
御掟・御掟追加などの基本法や
五大老・五奉行などの職制を導入して、
秀頼を補佐する体制を整えます。
慶長3年(1598年)8月、
秀吉が死去しますと、
秀頼は家督を継ぎ、
秀吉の遺命により大坂城に移りました。
大阪城 堀
秀吉死後には五大老の徳川家康
重臣合議制の原則を逸脱して
影響力を強め、政権内の対立も
深まっていきます。
五大老の前田利家の死去、
七将襲撃事件に伴う
五奉行・石田三成の失脚などで、
政局の主導権は徳川家康の手に
握られていきます。

関ヶ原の戦いと戦後処理】
慶長5年(1600年)、
石田三成らが徳川家康に対して
挙兵して関ヶ原の戦いが勃発します。
西軍の総大将として擁立された
五大老のひとり・毛利輝元の庇護下に
秀頼は置かれました。
関ヶ原では秀頼の親衛隊である
七手組の一部が西軍に参加しましたが、
東西両軍とも「秀頼公のため」の戦いを
大義としており、戦後に秀頼は
家康を忠義者として労いました。

【秀頼は一大名】
ところが、家康は五大老筆頭の立場を利用し、
その戦後処理において
羽柴宗家の所領(いわゆる太閤蔵入地)を
勝手に分配し、日本全国に分散して
配置されていた約220万石のうち、
諸大名に管理を任せていた分を奪われて、
秀頼は摂津・河内・和泉の直轄地のみを
知行する約65万石の
一大名の立場に転落しました。
ただし西日本を中心とした大名への
干渉を行ったり、蔵入地からは
依然として収入があったりした
形跡があったことが
最近の研究で判明しているとのことです。

【家康、征夷大将軍になる】
慶長8年(1603年)2月、
家康は鎌倉幕府や室町幕府の
最高権力者の地位を象徴する
征夷大将軍の官職を獲得。
諸大名を動員して
江戸城の普請(天下普請)を行わせ、
独自の政権(江戸幕府)構築を始め、
秀頼は次第に天下人の座から
外されてゆくことになります。
それでも、この江戸城の普請に関して
秀頼の直臣が奉行として指揮しており、
一定の影響力は保っていました。
江戸城 乾濠と石垣

【千姫との結婚】
同年7月、秀頼は、
生前の秀吉の計らいで
婚約していた徳川秀忠の娘・千姫
(母は淀殿の妹であるお江
秀頼の従兄弟にあたる)と結婚しました。

【一摂家の豊臣家
その後も、摂関家の家格に沿った
順調な位階や官職の昇進を遂げました。
毎年の年頭には公家が
大坂城に大挙下向して
秀頼に参賀しており、
また家臣に対して独自の
官位叙任権を行使するなど、
朝廷からは秀吉生前と
同様の礼遇を受けていました。
武家の世界においても、
秀頼家臣は陪臣ではなく、
徳川将軍家直参と同等に
書類に記載されるなど、
秀頼はなお徳川家と一定の
対等性を維持していたとのことです。




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【豊臣家に課した普請役】
慶長11年(1606年)の
江戸城普請に際して、
秀頼の家臣(大坂衆)である
水原吉勝・伏屋貞元の両名が
普請奉行として参加しており、
この両名と徳川方普請奉行五名とが
連名で毛利家に対して
石船の供出を命じた連署状の存在が
明らかにされています。
一方で、この江戸普請のため
片桐且元へ大坂の大工を
中井正清の元へ派遣することを命じており、
これを後の駿府城や内裏普請時に
豊臣家へ課した普請役の先駆けとする
見解があるとのことです。
慶長10年(1605年)5月8日、
秀頼が臣下の礼を取るように、
家康が高台院を通じて、
秀頼生母の淀殿に要求しました。
領地を削減されたとは言え、
秀吉以来の豊臣氏の家格を守ろうとする淀殿が
遺憾の意を表明し、会見を拒絶しましたが、
家康は六男の松平忠輝
大坂に遣わし、融和に努めたとのことです。

慶長12年(1607年)1月11日、
秀頼は右大臣を辞しています。

二条城会見】
慶長16年(1611年)3月、
家康の計らいで後陽成天皇
後水尾天皇に譲位しますと、
後水尾天皇の即位に際して
上洛した家康は二条城での
秀頼との会見を要請します。
秀頼の上洛を求める家康に対し、
徳川家への臣従に
繋がりかねないとして反対もありましたが、
加藤清正浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの
取り成しもあり会見は実現しました。
この会見の意義については、
秀頼の家康への臣従を意味すると見る説と、
引き続き秀頼が家康との
対等性を維持したと見る説とがあり、
史家の間でも見解が分かれているとのことです。

【朝廷内での位置づけ】
朝廷では誕生以来、
秀頼を摂家豊臣家の後継者として
見なしていたとのことです。
関ヶ原後に家康に権力が移っても
関白になり得る存在として
朝廷内での位置づけは変わらず、
慶長末年に秀頼が国家鎮護のために
方広寺大仏(京の大仏)を再建した際にも
供養会に朝儀を挙行し、文書を調えるなど、
朝廷は秀頼のために機能していました。
豊臣家は幕府からは五摂家と同じく
公家として扱われたとのことです。

【方広寺大仏(京の大仏)の再建】
大坂の陣の契機となった方広寺鐘銘事件は、
秀吉の発願した方広寺大仏(京の大仏)の
再建にあたり発生したものですが、
方広寺大仏・大仏殿が
何故滅失していたかは
以下の通りとなるとのことです。
豊臣秀吉は焼損した
東大寺に代わる新たな大仏として、
京都に大仏・大仏殿を造立しました。
「国土安全万民快楽」をスローガンに、
刀狩で民衆から奪取した刀剣類を
大仏造立のための
釘・鎹(かすがい)に利用しました。
この大仏は一応完成しましたが、
開眼供養前に文禄5年閏7月13日
(1596年9月5日)の
慶長伏見地震で大破し、
その後秀吉の命で破却されました。
大仏殿は地震での倒壊を免れたので、
慶長2年(1597年)には
当時甲斐国にあった善光寺如来が、
大仏に代わる新たな本尊とするため
方広寺大仏殿に遷座させられ、
大仏殿は「善光寺如来堂」と
称されるようになりました。
しかしながら翌年の慶長3年には
善光寺如来が本国(信濃善光寺)に
還されたとのことです。
豊臣政権は秀吉没後に
大仏の再建に取り掛かりましたが、
慶長7年(1602年)12月に
大仏鋳造中の失火で火災が発生し、
大仏のみならず大仏殿も
滅失してしまったのでした。

【再建工事の決定】
秀吉の刀狩で集めた刀剣類を
「国土安全万民快楽」を掲げて材料として
使用された方広寺大仏(京の大仏)及び
大仏殿は豊臣公儀を象徴する存在でした。
その滅失後に豊臣家の威信回復のため
慶長12年(1607年)には、
秀頼により、豊臣家家臣の
片桐且元を奉行として、
再び銅製大仏および
大仏殿の再建が企図され、
再建工事が決定したのでした。




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大仏の再建工事については
史料に乏しく、いつ行われたか
詳細は不明であるとのことです。
一方で大仏殿再建工事については
史料が多く残っています。
それらによりますと、
工事着工から2年足らずという
異例の速さで大仏殿の再建が
完了したとのことです。

なお、方広寺大仏・大仏殿の再建工事について、
豊臣氏の単独事業ではなく、
豊臣氏と徳川氏の共同事業
であったとする説もあるとのことです。

慶長17年(1612年)中に
方広寺大仏・大仏殿の再建が
完了したため、落慶供養の段取りを
進めることになりました。
落慶供養は武家側だけで
決定できるものではなく、
朝廷や公家・寺社勢力との協議も
必要でした。
方広寺は正式な寺号を持たず
正式な寺院となるよう、
朝廷との協議されました。
けれどもこの件は
豊臣氏の滅亡で立ち消えとなりました。

【方広寺鐘銘事件】
方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)は、
豊臣秀頼による方広寺大仏(京の大仏)・
大仏殿再建に際して
同寺に納める梵鐘の銘文を巡り生じた、
大坂の陣の契機の一つとなった事件です。

方広寺再建落慶供養の出席者について、
各種史料の記述から、
家康が落慶供養に出席するため、
上洛する計画であったことが
窺えるとのことです。
秀頼と家康の双方が
落慶供養に参加する可能性もあり、
さらには落慶供養には武家だけでなく、
各種供養を務める高僧
(各門跡の法親王等)のほか、
主だった公家も出席する計画でした。

慶長19年(1614年)には
梵鐘が完成し、片桐且元は、
銘文の筆者として
南禅寺の文英清韓を選定し、
清韓は鐘銘文を書きました。

【方広寺鐘銘事件の発生】
片桐且元は駿府の家康へ
大仏開眼供養の導師や
日時の報告などを逐次行っていましたが、
7月頃から様々な問題が発生します。
天海が8月の大仏殿供養の
着座順に異議を唱え、
家康が、徳川氏が派遣した、
大工頭の中井正清の名が
棟札に記されていないことについて、
問題であるとします。
翌日には大仏開眼供養と
大仏殿供養を別に行う案を提示。
そして7月26日、家康は
鐘銘文が不快であるとして
大仏殿供養の延期を命じます。
この段階では銘文の問題は、
東大寺の簡素な鐘銘を
踏襲することを求めたのに対して、
前例に反して長々と
文言を連ねた上に
金で文字を入れたことを
難じていました。
棟札に関しては当初、
片桐且元が家康に報告した際には、
檀家の名を入れる程度なので
誰が書いても問題無しとしていましたが、
写しを確認した際には、
鐘銘と同じく色々と
書いてあること及び、
先述の中井正清の名がないことを非難。
家康は銘文・棟札共に
末代まで残るものであり、
そしるものになれば
将来天下持の法度に
悪影響を及ぼすとしたのでした。

8月に家康は、豊臣方の選定した
梵鐘の銘文を解読させます。
特に問題になったのは、
鐘銘文のうち
「国家安康」「君臣豊楽」
の2句を挙げます。、
前者には家康の諱を
「家」と「康」に分断して
家康を呪詛しているのではないかとし、
後者には豊臣を君主として
楽しむという底意が
隠されているのではないかと指摘。
銘文に家康呪詛の意図があると
断じたとする見解、
一方で呪詛意図までは認めない見解、、
また、銘文を選定した清韓自身は、
家康に対する祝意として
意図的に諱を「かくし題」として
織り込んだと弁明しました。
なお、方広寺と同じく秀頼の寄進で、
片桐且元を奉行として
造立された東寺金堂の棟札には、
鐘銘に類似した「国家太平 臣民快楽」
の文言の記載がなされています。
方広寺の鐘銘文中の
従って「家康」「豊臣」の文字は、
偶然その文言が入ってしまった訳ではなく、
意図的に入れられたものと見なされています。

【大坂の陣の開戦まで】
慶長19年(1614年)8月、
豊臣家は鐘銘問題の弁明のため、
片桐且元を駿府へ派遣します。
けれども家康とは面会できませんでした。
けれども大野治長の母である
大蔵卿局が駿府へ派遣され、
家康は大蔵卿局とは
面会して丁重に迎えています。
家康は豊臣方の徳川家に対しての不信が
問題の要因であるとし、
以心崇伝本多正純を使者として、
大蔵卿局と片桐且元とを同席させた上で、
双方の親和を示す方策を講じ
江戸に赴いて申し開きするよう
要求したとのことです。
同日、江戸在府の西国大名50人に対し、
家康と秀忠に対して忠誠を誓い、
敵対するものと
交際しないようにという
起請文がとられています。




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9月18日に片桐且元は大坂へ戻り、
家康から提示された3つの案の
一つを採用するように進言しました。

秀頼を江戸に参勤させる
淀殿を人質として江戸に置く
秀頼が国替えに応じ大坂城を退去する

この案は豊臣方にとって
到底受け入れられるものでは
ありませんでした。
片桐且元は家康との内通を
疑われるようになり、
織田信雄から暗殺計画を
知らされ、弟である片桐貞隆と共に
大坂城を退去しました。

江戸・大坂方共に
既に戦になることは明白であると
受け止められるようになり、
大坂城からは織田信雄・織田信則・
石川貞政などの親族衆や重臣も
退去していきました。
秀頼による片桐且元殺害の
企ての報を1011日に受けた家康は、
同日諸大名に出兵を命じます。
豊臣方は片桐且元退去は
家康に敵対する意図ではないと
弁明した書状を
家康や諸大名に送りましたが、
家康はこれを長益や治長の
策謀であるとしてもはや
受け入れませんでした。
こうして大坂の陣が
開戦する運びとなったのでした。

なお銘文を作成した清韓は、
事件後に南禅寺を追われ、
戦にあたっては大坂城に篭もり、
戦後に逃亡しましたが捕らえられ、
駿府で拘禁されたまま
元和7年(1621年)に没しています。

【大坂の冬の陣】
慶長19年(1614年)に
起こった方広寺鐘銘事件
京都大仏鐘銘事件)を口実に
秀頼と決裂し、大坂冬の陣が勃発。
秀頼は福島正則加藤嘉明など
豊臣恩顧の大名に
援軍要請をしましたが、
大名で大坂方に味方した者はありませんでした。
その理由として、すでに西国大名が
徳川秀忠に対して忠勤を誓う
起請文を出していたことが
原因ではないかとする指摘があります。
福島正則が大坂の蔵屋敷にあった
米の接収を黙認した程度にとどまりました。
一方、大坂城には真田信繁・後藤基次・
長宗我部盛親毛利勝永明石全登など、
関ヶ原の戦いで改易された元大名や
主家が西軍に与して改易されて
浪人していた数万の武士が入城。
浪人衆は士気旺盛では
あったものの寄せ集めで
統制が取りにくく、
しかも浪人衆と大野治長や
淀殿らが対立し、
最後まで相違は解けませんでした。

緒戦では木津川口、博労淵などの
大坂城の周辺の砦が攻略され、
残りの砦も放棄して大坂城に撤収、
野田・福島の水上戦でも敗れました。
ただ今福や鴫野の戦いでも
敗れてはいますが、
佐竹義宣軍を一時追い詰める
抵抗を見せたため、
大坂方強しと周知されたとのことです。

大坂城での戦闘では
浪人衆の活躍や大坂城の防御力により、
幕府軍は苦戦し、城内に攻め入ろうにも
撃退ばかりされ、特に真田丸の戦いでは
幕府方が損害を受けたのでした。

やがて、大坂方・幕府軍双方の
食糧・弾薬が尽き始め、
家康は和議を提案します。

【和議】
和議は、大坂城の堀の破却を
条件として締結されました。
大坂方が和議の条件を
履行しなかったため、
幕府は自ら工事を進めて
堀を埋めただけでなく、城郭の一部も破壊。
大坂方はこれに抗議しますが、
幕府は本丸を残し堀を埋め尽くしました。

【大阪夏の陣】
慶長20年(1615年)、
大坂方は浪人の総追放や
国替(大坂城退去)を拒否し、
堀を掘り返し始めました。
このため、家康は和議が
破られたとして
合戦の再開を宣言し、
大坂夏の陣が勃発しました。

大野治房が軍勢を率い
大和郡山に出撃し、制圧・略奪して帰還。
大坂方は阪南から北上してくる幕府の軍を、
数で劣る自軍でも撃退できるよう
狭い地域で迎え撃つべく、
主力軍が八尾方面に進軍。
八尾・若江、道明寺で戦い、
長宗我部盛親が藤堂高虎勢を壊滅。
ただ奮戦した木村重成・後藤基次が
討ち死に、撤退を余儀なくされます。
また紀州の一揆勢とともに
浅野長晟を討つべく
大野治房らが出撃しますが、
樫井の戦いで先陣の塙直之
浅野軍に破れ、本隊が到着した時には
浅野勢は紀州に撤退済みだったことにより帰城。




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天王寺・岡山の戦い
敗戦続きで兵力が疲弊した大坂方は、
家康・秀忠父子が
大坂に布陣したところに決戦を挑みます。
天王寺・岡山の戦いです。
岡山口方面では
大野治房率いる軍勢が
徳川秀忠の本陣まで迫りますが、
態勢を立て直した幕府の大軍の前に
撤退を余儀なくされました。
天王寺方面には
真田信繁・毛利勝永らが布陣。
真田信繁は「日本一の兵(つわもの)」と
敵味方双方から
称賛されるほどの攻勢をかけ、
家康の本陣に近づいて
数度にわたる突撃を敢行。
一時は家康に自刃を覚悟させる
ほどにまでに追いつめましたが、
ついに及ばず、真田信繁は
退却中に討ち死に。
安居神社 さなだ松
他の大坂方の部隊も次々と
壊滅していきました。

【豊臣宗家滅亡】
大坂方を押し返した幕府軍は
大坂城内に入城しました。
城内にいた浪人達までが
裏切って略奪を始める中、
秀頼親子は天守閣に登って
自害しようとしますが、
家臣に止められたとのことです。

大野治長は千姫の身柄と
引き換えに秀頼の助命を
嘆願したとのことですが、
家康の容れるところとならず、
最終的には家康に
判断を任された
徳川秀忠の命によって
山里丸への総攻撃が行われ、
秀頼は淀殿や大野治長らと共に
自害して果てたと伝えられています。
享年は23歳でした(満21歳)。
淀殿・豊臣秀頼自刃の地 (大阪城)

【秀頼の子供たち】
秀頼の子供で男子の国松は
逃亡したものの結局、捕らえられて
処刑されたとのことです。
娘の天秀尼は
千姫の助命嘆願の働きかけもあり
仏門に入ることを条件に助命されました。
また元禄初頭に80歳で没した求厭は
臨終の際に、自分は大坂落城時に
3歳だった秀頼の次男だと
語ったということです。
(「浄土本朝高僧伝」)
求厭の語ったことが事実ならば、
秀吉の血筋が途絶えたのは
天秀尼の死去した
正保元年(1645年)ではなく、
求厭上人の死去した
元禄元年(1688年)
ということになります。

【墓所】
墓所は京都市東山区の養源院ほか。
また大阪市中央区の豊國神社は、
父・秀吉や叔父・秀長と共に
秀頼も祭神とされています。
豊國神社 豊臣秀吉公像

【秀頼の遺体?】
1980年、
大坂城三ノ丸跡の
発掘調査で人1人の頭蓋骨と
別に首のない2人の骨、
馬1頭の頭の骨が発見されました。
骨は人為的に埋葬されたものとみられ、
頭蓋骨は20代男性のもので
顎に介錯されたとみられる傷や、
左耳に障害があった可能性が確認され、
年齢や骨から類推する体格から
秀頼のものではないかと推測されました。
骨は1983年、京都の清凉寺に埋葬されました。

2011年10月13日、
大坂城三ノ丸に位置する
大坂城鎮守社である
玉造稲荷神社に
秀頼の銅像が建立されました。
豊臣秀頼公の像

【秀頼の寺社造立】
秀頼は、秀吉没後から
秀吉の追善供養として畿内を中心に、
戦乱で荒廃していた
多数の寺社に寄進を行い、
伽藍や社殿の再興を図りました。
主なもので、寺院では
東寺金堂・三十三間堂西大門(現東寺南大門)・
延暦寺横川中堂・清凉寺本堂・真正極楽寺本堂・
金戒光明寺阿弥陀堂・南禅寺法堂・
相国寺法堂・寂光院本堂・大報恩寺本堂・
法華寺本堂・勝尾寺本堂・鞍馬寺毘沙門堂 ・
朝護孫子寺本堂・須磨寺本堂・
金峯山寺威徳天満宮・善光寺本堂・
四天王寺五重塔(移築)・醍醐寺本堂(移築)・
金剛寺(諸堂の修理)・観心寺(諸堂の修理)などで、
神社では石清水八幡宮・北野天満宮・
住吉大社・誉田八幡宮・西宮神社・
吉野水分神社・由岐神社・白鬚神社・
都久夫須麻神社・熱田神宮・津島神社・
出雲大社の各社殿などで、多数にのぼっています。
朝護孫子寺 多宝塔
※朝護孫子寺 多宝塔

ただしこれらの事業について秀頼が
幼少の頃になされたものも多く、
秀頼の意思によるものかは不明確です。
豊臣氏の財力を削ぐための
徳川家康の謀略で、
幕命でそのようにせざるを
得なかったとする俗説もありますが、
真相はわかりません。
真相や思惑その背景は不明確ですが、
秀頼の代の豊臣氏の施策によって
寺社の再興が進んだのは紛れもない事実で、
その施策で造立され
現存している建造物については、
今日国宝や重要文化財に
指定されているものが多く、
その文化的事業に対して
一定の評価がなされています。




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【その後の方広寺2代目大仏(京の大仏)】
秀頼を大檀那として
造立された方広寺2代目大仏(京の大仏)は、
造立から約50年後の
寛文2年(1662年)に
解体されました。
銅造であった2代目大仏に対し
木造で大仏が再建されました。
なお理由は定かではありませんが、
新しく再興された大仏は、
従前の秀頼の造立した大仏とは
風貌が異なったものに
されていたということです。

【東大寺大仏殿再建】
江戸時代の
東大寺大仏殿再建にあたっては、
同時代に京都に存在していた
方広寺2代目大仏殿
(秀頼が造立したもの)を手本として、
大仏殿の設計がなされたということです。
そのため現存の東大寺大仏殿の
建築意匠は、
方広寺大仏殿の
それを引き継いだものと
言っても過言ではないとされています。
東大寺

【人物評価】
<かなりの巨漢>
後藤又兵衛の小姓を務めた
長澤九郎兵衛の覚書「長澤聞書」には、
「世に無き御太り」
と記されているとのことです。
江戸中期成立の逸話・見聞集
「明良洪範」では身長6尺5寸(約197cm)、
体重43貫(約161kg)の
並外れた巨漢であったとされています。

<千姫の養子>
妻である千姫との間に
子供はできなかったので、
側室の子を千姫の養子としました。

<相反する人物像>
江戸時代に作られた
秀頼の伝記「豊内記」では
「秀頼公は太閤の遺言に従い、
天下の実権を征夷大将軍家康公に執らせて、
大坂城に蟄居していた。
礼を重んじて義を行い、
聖賢の風を慕い凶邪の念を去り、
私欲を哀れんで民を哀れみ、
国家が豊かになることのみ
朝夕念じておられた。
故にこの君が政を執っておられたなら、
日本に二度延喜・天暦の治が現れただろう。
人々は大干ばつに雨をもたらす雲を望むが如く、
秀頼の政治を待ち望んでいただろう」
と描かれているとのことです。
一方日本研究家レオン・パジェスは
著書「日本切支丹宗門史」において
「秀頼が失敗したのは
彼の頑固な迷信のためで
遺憾とするに当たらない」と
評しているとのことです。

生存説
大阪城が落城した際、
秀頼達が絶命する瞬間を
目撃した者がおらず、
死体も発見されなかったことから
生存説があります。
「日本伝奇伝説大辞典」の
星野昌三による「豊臣秀頼」の項などで
以下のとおり
記述されているとのことですが、
どれも伝説的な逸話となります。

平戸にいたリチャード・コックスの
東インド会社への手紙(日記にも記述あり)では
薩摩・琉球に逃げ、
「日本西教史」(ジャン・クラッセ)では
「一説には母と妻とを伴なひ
辺遇の一大諸侯に寄寓し、
兵を募り再挙を謀ると云ひて一定せず」とあるとか。
当時の京に流行した
「花のようなる秀頼様を、
鬼のようなる真田が連れて、
退きも退いたよ鹿児島へ」という童謡が
真田信之のいた松代でも
聞こえたと「幸村君伝記」
にも記載されており、
生存の噂が流布していました。
「採要録」には
薩摩国谷山に元和初め
浪士が住み着き、
国主からの家に住んでいました。
酒好きでいつも酔って、
あちこち寝転がることから
「谷山の酔喰(えいぐら)」
と呼ばれていたとのこと。
国主から手出し禁止を命じられ、
住民は密かに秀頼公ではないかと
噂していたということです。




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鹿児島市下福元町に
伝秀頼墓と伝わる塔があり、
付近の木之下川に
伝家臣墓2基もあるということです。

昭和42年(1967年)から
同43年(1968年)に
鹿児島県の郷土史家・後藤武夫氏は、
秀頼は大坂城落城後、
国松と共に九州に逃れて
日出藩主・木下延俊の庇護を受け、
宗連と号し45歳まで生き、
国松は延俊の養子
(表向きは実子(次男)扱い)
となり長じて立石領初代領主・木下延由
なったとする説を唱えたとのこと。
ちなみに延由の血統は
明治時代まで存続し、
家統は1923年まで
存続したということです。

旧日出藩主木下家18世当主である
木下俊煕は著書で、秀頼は宗連といい、
日出藩木下家が落ち延びた秀頼と
国松を密かに庇護したこと、
それを疑った幕府が
松平忠直を隠密として
配流したという内容の
生存説を出しました。
前川和彦氏は霞会館で
偶然面会した木下から聞いた
秀頼逃亡説を追加取材し、
「豊臣家存続の謎」
(日本文芸社、1981年)を著わしました。

豊臣正統14世を自称する
木場貞幹は「歴史と旅」1983年8月
臨時増刊号で「太閤の後裔は亡びず」
と題した記事で口伝の
秀頼薩摩亡命とその後を
発表したとのことです。

江戸時代の小説「真田三代記」第178節
真田幸村、秀頼公を伴ひ薩州へ落る事
並びに島津家由緒の事」では、
幸村主導で大助、長宗我部盛親、
後藤又平衞ら150名が
夜丑の時抜け穴から誉田に出、
島津家の伊集院刑部、猿沢監物と
兵庫の浦から海路薩摩へ
逃げたことになっているとのことです。

なお秀吉には長浜城主時代に
石松丸秀勝と女児がいたという説もあり、
その場合に淀殿との間にしか
子供が生まれなかったという説が
崩れることになります。

2023年NHK大河ドラマ
どうする家康」では
作間龍斗(さくま りゅうと)さんが
演じられます。

羽柴秀吉(豊臣秀吉・木下藤吉郎)下層民から天下人の生涯を手短に!

淀殿~母はお市で浅井三姉妹の長女、波乱万丈の人生を烈火の如く駆け抜けました。

千姫~織田の血を引く将軍家の超お嬢様、祖母譲りの美貌、波乱万丈の人生でも自分らしさを貫きました。

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

徳川秀忠~江戸幕府2代将軍、幕藩体制の基礎を固め政権運営方針を次代に引き継ぐ。

お江(崇源院)~2代将軍・徳川秀忠の正室は浅井三姉妹の三女、波乱万丈な人生を送りその血筋は現代の皇室に繋がっています。

寧々(おね・高台院)~豊臣秀吉の正室、夫を内助の功で支え続けやがて天下人にさせた「おかか」

大野治長(大野修理)~淀殿とは乳母子の間柄、豊臣家が滅するまで淀殿と豊臣秀頼の傍にいました。

徳善院玄以(前田玄以)~もとは僧侶、織田家の家臣から秀吉に仕え豊臣政権の五奉行となる。

浅野長政~豊臣秀吉の姻戚で五奉行筆頭、政治面で手腕を発揮、関ヶ原では徳川家康を支持します。

大谷吉継~石田三成とは深い友情で結ばれ真田信繁の岳父であり秀吉から才能を認められた知将。

阿茶局(雲光院)~徳川家康の厚い信頼を受け表裏共々活躍した戦国後期~江戸初期のバリキャリ女性。

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