江戸時代

徳川秀忠~江戸幕府2代将軍、幕藩体制の基礎を固め政権運営方針を次代に引き継ぐ。

名古屋城 本丸御殿 内部 透かし彫り



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徳川秀忠

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、
安土桃山時代から戸時代にかけての武将。
江戸幕府の第2代征夷大将軍。
(在職:1605年⇒1623年)

【生誕】
天正7年4月7日(1579年5月2日)

【死没】
寛永9年1月24日(1632年3月14日)
(54歳(満年齢52歳)没)

【改名】
長松(長丸)⇒竹千代(幼名)⇒秀忠

【別名】
江戸中納言、江戸右大将

【墓所】
増上寺

【官位】
従五位下・侍従、蔵人頭、正五位下
武蔵守、従四位下、正四位下
右近衛少将、参議、右近衛中将、
従三位・権中納言、権大納言、従二位
右近衛大将、正二位・内大臣、
征夷大将軍、従一位・右大臣、太政大臣、贈正一位

【幕府】
江戸幕府:2代目将軍
(在任1605年 – 1623年)

【氏族】
徳川将軍家

【父】
徳川家康

【母】
西郷愛子

【養母】
阿茶局

【兄弟】
信康、亀姫督姫結城秀康、秀忠、
松平忠吉、振姫、武田信吉、
松平忠輝、松千代、仙千代、
松姫、義直、頼宣、頼房、市姫

【妻】
<正室>
小姫

<御台所(継室)>

<側室>
於静

【子】
千姫、珠姫、勝姫、長丸、初姫、
家光、忠長、和姫、保科正之ほか養女多数

【生涯】
【出生】
天正7年4月7日(1579年5月2日)、
徳川家康の三男として遠江国浜松に誕生しました。
母は西郷清員の養女・愛子(於愛)(戸塚忠春の娘)です。
母の実家である三河西郷氏は
土岐氏一族で、室町初期には
三河守護代を務めたこともある名家であり、
当時も三河国の有力な国人でした。
乳母・大姥局によって養育されました。
同母弟に関ヶ原の戦いで活躍した松平忠吉がいます。
浜松城(続日本100名城)

【世継ぎとして】
秀忠が誕生してから5か月後に
長兄である信康が切腹しています。
次兄である秀康は豊臣秀吉に養子(事実上の人質)
として出され、のちに結城氏を継いだため、
母親が三河国の名家出身である秀忠が
実質的な世子として処遇されることになったのでした。




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【長丸(秀忠)の存在の注目】
長丸(秀忠)の存在が注目されたのは、
徳川家康と豊臣秀吉の講和条件として
豊臣秀吉の妹である朝日姫(旭姫)を
徳川家康に嫁がせることになった
時であるとのことです。
同時代の史料では確認できませんが、
「三河後風土記」や「武徳編年集成」には
この時徳川家康が
「朝日姫が家康の子を産んでも嫡子とはしないこと」
「長丸を秀吉の人質としないこと」
「万一、家康が死去しても秀吉は
徳川領5か国を長丸に安堵して
家督を継がせること」
を条件にしたと伝えられているとのことです。

【実質的な人質として上洛】
天正18年(1590年)1月7日、
小田原征伐に際して
実質的な人質として上洛しました。
これは豊臣秀吉が諸大名の妻子を
人質に取るように命じた天正17年9月の
いわゆる「妻子人質令」を受けての措置でした。
豊臣秀吉は長丸の上洛を猶予しているのに対して
徳川家康から長丸を上洛させる希望を述べており、
更に上洛後も豊臣秀吉に拝謁し、
織田信雄の娘で秀吉の養女である小姫(春昌院)と
祝言を挙げた直後の同月25日には
豊臣秀吉の許しを得て帰国しており、
他大名の妻子とは別格の待遇を受けていました。

【元服して秀忠となる】
この上洛中の1月15日に豊臣秀吉に
拝謁した長丸は元服して秀吉の偏諱を受けて
秀忠と名乗ったとされており、
(「徳川実紀」)、豊臣秀吉から、
豊臣姓を与えられたとのことです。
ただし、同年12月に秀忠が再度上洛した時の
勧修寺晴豊の日記「晴豊記」天正18年12月29日条には
秀忠を「於長」と称しており、秀忠の元服と一字拝領は
同日以降であった可能性があるとのことです。
なお、翌年の天正19年(1591年)6月に
豊臣秀吉から徳川家康に充てられた書状では
秀忠を「侍従」と称しており、
この時には元服を終えていたと考えられています。

【小姫の早世】
また、豊臣秀吉の養女である小姫(春昌院)
との婚姻については、小姫の実父である
織田信雄と豊臣秀吉が仲違いして
織田信雄が除封されたことにより離縁となり、
翌年の天正19年(1591年)に
7歳で病死したとされています。
ただし、当時は縁組の取決めをすることを
「祝言」と称し、後日正式に輿入れして
婚姻が成立する事例もあることから、
婚約成立後に織田信雄の改易もしくは
小姫の早世によって婚姻が成立しなかった
可能性も指摘されているとのことです。

【文禄の役での替わりの関東領国の統治】
文禄の役では榊原康政井伊直政
後見を受けつつ、名護屋へ出陣した
徳川家康の替わりに関東領国の統治を行いました。
文禄元年に豊臣秀吉の母である
大政所が死去した際には弔問のため上洛し、
9月には中納言に任官して
「江戸中納言」と呼ばれます。
また同年には多賀谷重経の出陣拒否を理由に、
豊臣秀吉は居城の下妻城破却を徳
川秀忠に命じています。
文禄2年12月には大久保忠隣が秀忠付になります。




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【秀次事件と再婚】
文禄4年(1595年)7月に
秀次事件が起きた際、
京に滞在していた徳川秀忠
伏見に一時移動しています。
このことについて、
後世の「創業記考異」等には、
豊臣秀次が徳川秀忠を
人質にしようとしたため
大久保忠隣が避難させたとあります。
豊臣秀次の切腹によりお拾が
豊臣秀吉の後継者に定まると、
9月17日にお拾の生母である
淀殿の妹江が豊臣秀吉の養女として
徳川秀忠と再婚しました。
また豊臣秀吉から、
羽柴の名字を与えられました。
お江(崇源院)

江戸城本丸に住む】
その後も畿内に留まることの多い
徳川家康に代わり関東領国の支配を行い、
江戸城本丸は「本城」として
徳川秀忠が住む一方で、
新たに整備された西之丸は
隠居曲輪として徳川家康が
帰国した際の所在地となりました。
また徳川秀忠自身も度々上洛しています。
江戸城 石垣

【豊臣秀吉の遺言】
慶長3年(1598年)に記された
豊臣秀吉の遺言状では、
徳川家康が年をとって
患いがちになった場合には
徳川秀忠が代わりに
豊臣秀頼の面倒をみること、
また徳川家康は3年間は在京し、
その間に領地に用がある場合は
徳川秀忠を下向させるべきと定めています。
遺言の通り、豊臣秀吉死去直後に
徳川秀忠が徳川家康の命で帰国しています。

関ヶ原の戦い】
慶長5年(1600年)の
関ヶ原の戦いでは、
東海道を進む徳川家康本隊に対して、
当初は上杉の備えとして宇都宮に在陣し、
その後に中山道を通り
甲信地方の真田氏を平定する
別働隊の指揮を命じられました。
信濃国上田城攻め最中の9月8日に
徳川家康から即時上洛を命じられ
行軍を急ぎましたが、
9月15日(新暦10月21日)の
関ヶ原本戦には間に合うはずもなかったのでした。

9月20日に大津に到着した徳川秀忠に対して
徳川家康は、急な行軍で
軍を疲弊させたことを叱責しました。
なお遅参が理由ではありませんでした。

【後継者決めの逸話】
関ヶ原の戦いのあと
徳川家康は3人の息子のうち
誰を後継者にすべきかを
家臣を集めて尋ねました。
本多正信は結城秀康を推し、
井伊直政と本多忠勝は松平忠吉を推し、
大久保忠隣のみが
「乱世においては武勇が肝要ではありますが
天下を治めるには文徳も必要です。
知勇と文徳を持ち謙譲な人柄の
秀忠様しかおりませぬ」と
ただ一人徳川秀忠を推したとのことです。
後日徳川家康は同じ家臣を集め、
後継者は徳川秀忠とすると告げたとする
逸話があります。
ただし上記の様にこれ以前に
徳川秀忠の後継者としての地位は
既に固まっており、
この逸話の信憑性は低いとみられています。

【大納言に任じられる】
慶長6年3月に徳川秀忠は
大納言に任じられ翌月に関東へ帰国しました。
翌7年1月には徳川家康より
関東領国の内20万石を与えられ、
徳川秀忠は自身の直臣に知行を与えています。
6月には佐竹の旧領収公を
付属の本多正信と大久保忠隣が行っています。

【右近衛大将=将軍家世嗣】
慶長8年(1603年)2月12日に
征夷大将軍に就いて幕府を開いた徳川家康は、
徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、
嫡男である徳川秀忠を右近衛大将にするよう
朝廷に奏上し、慶長8年(1603年)4月16日に
任命されました。
すでに大納言であり、父・家康が
左近衛大将への任官歴があったので、
すぐに認められたのでした。
それまでの武家の近衛大将任官例は
武家棟梁にほぼ限られ、
征夷大将軍による兼任が例とされていました。
これにより、徳川家の将軍職世襲がほぼ内定し、
また徳川秀忠の徳川宗家相続が
揺るぎないものとなったのでした。
この時期の徳川秀忠は江戸右大将と呼ばれ、
以後代々の徳川将軍家において
右大将といえば、将軍家世嗣をさすこととなるのでした。




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関ヶ原の戦いの論功行賞の名の下に、
豊臣恩顧の大名を西国に移した徳川家は、
東海・関東・南東北を完全に押さえ、
名実ともに関東の政権を打ち立てました。
2年後の慶長10年(1605年)、
徳川家康は将軍職を徳川秀忠に譲り、
徳川秀忠が第2代征夷大将軍となることになります。

【征夷大将軍】
慶長10年(1605年)正月、
父親の徳川家康は江戸を発ち伏見城へ入ります。
2月、徳川秀忠も関東・東北・甲信などの
東国の諸大名あわせて16万人の
上洛軍を率い出達しました。

3月21日、徳川秀忠も伏見城へ入ります。
4月7日、徳川家康は将軍職辞任と後任に
徳川秀忠の推挙を朝廷に奏上し、4月16日、
徳川秀忠は第2代将軍に任じられました。
これにより建前上徳川家康は隠居となり
大御所と呼ばれるようになり、
徳川秀忠が徳川家当主となったのでした。
このとき、徳川家康の参内に随行した
板倉重昌も叙任されました。

【二元政治体制】
将軍・徳川秀忠は江戸城に居住し、
駿府城に住む大御所・徳川家康との間の
二元政治体制になったのですが、
本多正信らの補佐により
徳川家康の意を汲んだ政治を執ったのでした。
おもに徳川秀忠は徳川家直轄領
および譜代大名を統治し、
徳川家康は外様大名との折衝を担当しました。
なお、将軍襲職の際に源氏長者、
奨学院別当は譲られなかったとする説があります。
「徳川実紀」にはなったと書いてありますが、
これは没後さかのぼっての
ことだということです。
これが事実であるならば、
徳川将軍で唯一源氏長者に
ならなかった将軍ということになります。

【軍事力の強化】
将軍就任により武家の長となった
徳川秀忠は自身の軍事力増大を行いました。
徳川秀忠は将軍就任と同じ慶長10年に
親衛隊として書院番を、
翌年に小姓組を創設して、
自身に直結する軍事力を強化しました。
慶長12年に徳川家康が駿府城に移った後の
伏見城には城代として松平定勝が入る一方、
徳川秀忠麾下の大番や
関東の譜代大名が交代で
警衛に当たっており、
徳川秀忠の持城となりました。
同年、江戸に到着した徳川家康は
徳川秀忠へ金3万枚、銀1万3千貫を与えています。

【関東の大名・旗本の観閲、巻狩り】
続いて慶長13年冬から翌年春には
関東の大名・旗本の観閲を行いました。
慶長15年閏2月には
将軍就任後は徳川家康が隠居した
駿府へ赴く以外は概ね
関東・江戸に留まった徳川秀忠は、
三河国田原で勢子大将を
土井利勝井伊直孝が務める
大規模な巻狩を行っています。
この時に供奉した旗本は美麗を極め、
要した費用は計り知れないと言われました。
またこの巻狩で家臣2人が喧嘩を行い、
片方は死亡し片方は徳川秀忠の命で処刑、
この喧嘩は他者には伝播せず
日頃の法度により統率が取れていたとあります。
この狩に動員された人数は、
同行した本多忠勝によれば4万2~3千人とされ、
源頼朝による富士の巻狩りと同じく
将軍である自身の権威誇示や
軍事演習の側面があったのでした。
なお狩りを終えた後、江戸への帰国時に
駿府を訪れた徳川秀忠は、
徳川家康から自身が亡くなった際には
子の徳川義直・徳川頼宣を
特に引き立てることを頼まれており、
帰国の途上で徳川秀忠は涙を流したとあります。

【財政の譲渡、代官・吏僚の横領発覚とその処罰】
徳川秀忠の軍事力が整備されたことを
確認した徳川家康は、
続いて財政の譲渡を行いました。
慶長16年よりこれまで
駿府へ収めた上方の年貢を
江戸に収めるように変更し、
翌年には諸国にある天領の内、
多くが江戸へ年貢を納めるように変更されました。
ただし美濃国・伊勢国、
また近江国の内13万石は駿府へ、
また駿河国・遠江国・尾張国の年貢は
頼宣・義直へ収めるとされました。
また慶長16年1月に秀忠麾下の
老中・奉行となった安藤重信に対して、
徳川家康は慶長5年以来の
勘定の監査を命じ、
慶長17年8月に安藤重信は
この監査を完了しました。
その後、慶長18年には
大久保長安事件を始めとした
代官・吏僚の横領発覚と
その処罰が多数行われたのでした。




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【権力強化としての家臣団の交代】
徳川秀忠の権力強化は
家臣団の交代にも現れています。
将軍就任の翌年慶長11年には
既に政務から離れていた
榊原康政が亡くなり、
また関東総奉行の
青山忠成・内藤清成は
徳川家康の狩場に
領民が鳥網・鳥籠の設置を許可したとして、
徳川家康の怒りを受けた徳川秀忠が
両人を解任しています。
同じく総奉行の本多正信は
老中に横滑りをして、
関東総奉行の職は消滅しました。
慶長19年には大久保忠隣が改易され、
本多正信を除き旧来の家臣は
江戸政権の主要な役職から去り、
徳川秀忠の近臣がその地位を占めたのでした。

方広寺鐘銘事件・大阪冬の陣】
慶長19年の方広寺鐘銘事件では
徳川家康へ頻繁に近臣を派遣して
連絡を密にしており、
徳川秀忠も徳川家康と同様に
豊臣家に対して怒りを示しています。
その後、勃発した大坂冬の陣では
出陣しようとする徳川家康へ
土井利勝を派遣して、
自分が出陣するので徳川家康は
関東の留守を預かることを要請しています。
徳川家康が徳川秀忠の要請を容れず、
自身がまず上洛して情勢を確認し、
問題がなければ処置をして帰国するが、
もし豊臣方が籠城等を行うなら
徳川秀忠の名で攻め滅ぼすので
兵を派遣して欲しいと求めたのに対して、
使者の土井利勝はその際は
徳川秀忠が兵を率いて上洛すると提案し、
これが容れられています。

【大坂冬の陣・大坂夏の陣
10月23日、江戸を出陣した
徳川秀忠は行軍を急ぎ、
徳川家康より数度徐行を求められましたが応じず、
11月7日に近江国永原(滋賀県野洲市永原)
に到着すると、後軍が追い着くまで
数日逗留しています。
その後の城攻めでは
総大将として強攻を主張しましたが
容れられず、また講話後の
堀埋め立ての現場指揮を行ったのでした。
慶長20年(1615年)のいわゆる
「夏の陣」では豊臣家重臣・大野治房によって
本陣を脅かされました。
豊臣家滅亡後、徳川家康とともに
武家諸法度・禁中並公家諸法度などの
制定につとめました。
現在の大阪城からの眺め

【父・徳川家康の死】
元和2年(1616年)1月21日夜に
徳川家康が発病した際には、
使者が12時間で江戸へ報を伝えています。
徳川秀忠は2月1日に江戸を発して
翌日に駿府へ到着、以後は4月17日の
徳川家康死去まで駿府に滞在して父の死を看取り、
22日に葬られた久能山に参拝後、
24日に江戸へ帰りました。
また徳川家康の後を追うように
本多正信も6月に亡くなっています。

【将軍親政】
徳川家康死後、家康のブレーンとして
駿府政権を支えた内、
本多正純・秋元泰朝・松平正綱、
金地院崇伝・天海・林羅山のように
江戸政権に合流する一方、
親藩の付家老になったり、
それまでの特権を失い
一家臣や御用商人の立場に戻った者もいます。
徳川家康遺臣の一部を
幕閣に合流させた徳川秀忠は将軍親政を開始し、
これまで江戸政権を支えた
近臣である酒井忠世・土井利勝ら老中を
幕府の中枢として、
自らリーダーシップを発揮します。
また駿府にいた家康旗本のため、
江戸に駿河町が新たに整備されました。

徳川家康死去の同年元和2年には
キリシタン禁制に関連して、
中国商船以外の外国船寄港を
平戸・長崎に限定しました。
また子の国松徳川忠長)を
甲府藩主に任じた一方、
徳川家康が生前に勘当した弟・松平忠輝を、
改めて改易・配流に処しました。
6月には軍役改定を布告し、
親政開始に際して改めて
自身の軍権を誇示したのでした。




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【諸大名への所領安堵の黒印・朱印状など】
元和3年5月26日に徳川秀忠は
諸大名へ所領安堵の黒印・朱印状を与え、
同年には寺社への所領安堵状を発しています。
またこの年に徳川秀忠は諸勢を率いて上洛し、
7月21日に参内しています。
この上洛で徳川秀忠は
畿内周辺の大名転封、
朝鮮やポルトガル人との面談、
畿内周辺の寺社への所領安堵を行い、
それまで徳川家康が行っていた
朝廷・西国大名・寺社・外交交渉を
自身が引き継ぐことを示したのでした。
翌元和4年には熊本藩家中の内紛である
牛方馬方騒動を裁いたのでした。

【諸大名の移動、娘の入内、息子達の元服】
元和5年に徳川秀忠は再び上洛して、
伏見・京のみならず大坂・尼崎・大和郡山を巡っています。
この間、およつ御寮人事件に関係した公家の配流、
福島正則の改易、大坂の天領化と
大坂城の修築と伏見城の破却、
徳川頼宣の駿府から紀伊への転封を始めとした
諸大名の大規模な移動を命じています。
元和6年6月18日、
娘の和子が中宮として後水尾天皇に入内します。
9月6日、徳川秀忠の2人の男児である
竹千代・国松は共に元服して、家光・忠長と名乗ります。
大和郡山城 門

【諸大名の妻子の江戸居住、本田正純の改易】
元和8年1月には諸大名へ妻子を
江戸に住まわすことを内々に、
また大身家臣の人質も
江戸に送ることを命じています。
8月には最上騒動を受けて最上義俊を、
また山形城受け取りに出向いた
本多正純も10月に同地で改易を
言い渡されました。

松平忠直の隠居】
また福井藩の松平忠直は、
元和6年・8年に病を理由に
参勤交代の中断や滞留を行っており、
特に後者は江戸普請中の大名に
越前出兵の噂が広がり、
密かに出兵準備の指示を
国元に命じるようになりました。
このような状況下で徳川秀忠は
元和9年2月に松平忠直へ隠居を迫り、
松平忠直はこれに応じて隠居となり、
弟の松平忠昌が家督を継承しました。

【隠居】
元和9年(1623年)に上洛をして
6月25日に参内すると、
将軍職を嫡男である徳川家光に譲ります。
父である徳川家康に倣って引退後も
実権は手放さず、大御所として二元政治を行いました。
当初、駿府に引退した徳川家康に倣って
自身は小田原城で政務を執ることを
考えていたとのことですが、
結局は江戸城西の丸(現在の皇居)に移りました。

【天皇の外戚】
寛永3年(1626年)10月25日から
30日まで後水尾天皇の二条城への
行幸の際には徳川秀忠と徳川家光が
上洛、拝謁しました。
寛永6年(1629年)の紫衣事件では
朝廷・寺社統制の徹底を示し、
寛永7年(1630年)9月12日には
孫の女一宮が天皇に即位し(明正天皇)、
徳川秀忠は天皇の外戚となったのでした。

【薨去】
寛永8年(1631年)には
徳川忠長の領地を召し上げて蟄居を命じますが、
このころから体調を崩し、
寛永9年1月24日(1632年3月14日)に薨去。
享年は54歳(満52歳)でした。




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【墓所・遺骸について】
法名は台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士。
墓所は東京都港区の一角にあった
台徳院霊廟でしたが戦災で焼失し、
昭和33年(1958年)に
台徳院霊廟が増上寺本堂近くに
移転改築された際、
土葬されていた徳川秀忠の遺骸も
桐ヶ谷斎場で荼毘に付されて改葬されました。
台徳院霊廟(徳川秀忠公)
この際に徳川秀忠の遺体の調査が行われました。
その遺体は、棺の蓋や地中の小石等の重みにより、
座した姿勢のままその衣服等とともに
縦に圧縮され、畳んだ提灯の如く
つぶれていたのでした。
圧縮により変形が激しく、
また骨が著しく分解され軟化していたため、
詳細な調査は不可能でした。
毛髪等の調査の結果、
徳川秀忠の血液型はO型で、
四肢骨から推定した身長は157.6cmでした。
また、かつての霊廟室内には
宝塔が祀られていましたが、
こちらも戦災で焼失しました。
現在は御台所・江(崇源院)と共に
合祀されています。
徳川秀忠 お江 墓所
(増上寺)

【戦績】
【関ヶ原の戦い】
徳川秀忠は関ヶ原の戦いが初陣でした。
彼は3万8000人の大軍を率いながら、
わずか2000人が籠城する
信州上田城を攻め、真田昌幸の前に大敗を喫しました。
このときの惨敗ぶりを、
「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」
(「烈祖成蹟」)と記されています。
この時の徳川秀忠隊は、当時の慣例により
作戦対象の信濃と会津に隣接する
封地を持つ徳川譜代で構成していました。
ただし同時代史料には
大規模な戦闘や大敗の記述は無く、
刈田を起因とする小競り合いが
家譜類に記されているのみとのことです。

上田合戦の敗因】
徳川秀忠が上田城攻囲に時間をかけたこと
(および大敗したとされること)について、
「当初より美濃方面に向かっていた
秀忠軍に対して、真田が巧妙に挑発し、
それに乗せられた結果として秀忠は
関ヶ原の会戦に間に合わなかった」
「大局への影響の少ない
上田城にこだわった秀忠は器量不足だった」
「武断派の榊原康政・大久保忠隣が
策士の本多正信を押し切って秀忠を
上田城攻撃に駆り立てた」
といった図式が小説等で
採用されることがあります。

【上田合戦の経緯】
けれども、「浅野家文書」では、
徳川秀忠に同行した浅野長政に宛てて
「中納言、信州口へ相働かせ侯間、
そこもと御大儀侯へども御出陣侯て、
諸事御異見頼入侯」とあることから、
徳川家康の当初の命令は
信州平定であり、徳川秀忠は
それに従っていたにすぎないとのことです。
「真田家文書」では
真田信幸に対して徳川秀忠は
8月23日付の書状で真田昌幸の籠もる
上田城を攻略する予定であることを伝え、
小県郡に集結するように命じています。
徳川秀忠は小山を出陣してから
緩やかに行軍し、
上田攻略の前線基地となる
小諸城には9月2日に着陣しました。




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【戦略の急遽変更】
一方、岐阜城陥落が早かったことから、
江戸の徳川家康は戦略を急遽変更し、
徳川秀忠軍に上洛を命じる使者を送り、
自身も9月1日に出陣し
東海道経由で美濃の前線に向かいました。
しかし徳川秀忠への使者の行程が
豪雨による川の氾濫のため大幅に遅れ、
徳川秀忠が実際に上洛命令を受けたのは
8日であったとのことです。
森忠政宛秀忠書状)
徳川秀忠は急いで美濃に向かいますが、
当時の道幅の狭い隘路が続く中山道は
大軍の行軍には適さない上に、
その後も川の氾濫で
人馬を渡すことができないなど
悪条件が重なって、
9月15日の関ヶ原開戦に
間に合わなかったのでした。
木曽川(苗木城より)

【即時決戦か待つべきか】
徳川家康は徳川秀忠が
間に合わないと察するや、
徳川陣営において徳川秀忠を待つか
開戦すべきかを協議したとのことです。
本多忠勝は「秀忠軍を待つべし」と主張し、
井伊直政は「即時決戦」を主張したとのことです。
徳川家康は井伊直政の意見を容れて
即時決戦することにしたのでした。
徳川秀忠は、木曽の馬籠に着いた17日に
戦勝報告を受けたのでした。

【大坂の冬の陣】
慶長19年(1614年)の
大坂冬の陣出陣のとき、
徳川秀忠は10月23日に
軍勢を率いて江戸城を出発しました。
関ヶ原の戦いの時の失敗を取り返そうと、
24日に藤沢、26日に三島、27日に清水、
28日に掛川、29日には吉田にまで
至るという強行軍を続け、
徳川秀忠が伏見城に到着したのは11月10日、
江戸から伏見まで17日間で到着するという速さでした。
このため、秀忠軍の将兵は疲労困憊し、
とても戦えるような状況ではありませんでした。

【徳川家康の激怒】
これを知った徳川家康は激怒し、
徳川秀忠に軍勢を休ませて徐行して
進軍するように命じています。
「当代記」では、11月1日に
徳川秀忠が岡崎に着いたとき、
「揃人数、急度上洛可有儀を、路次中急給故、
供奉輩不相揃、軽々敷上給事、不可然」
と叱責する使者を出したとまで言われています。
ところが徳川秀忠は徳川家康の命令を無視して、
11月2日には名古屋、
5日には佐和山にまで到着するという
強行軍を続けたのでした。
このため徳川家康は
「大軍数里の行程然るべからざる由、
甚だ御腹立」であったと
「駿府記」には記されているとのことです。

【大坂夏の陣】
慶長20年(1615年)の
大坂夏の陣の直前に行われた軍儀式では、
徳川家康、秀忠の双方が先陣を主張しました。
徳川家康にとっては集大成であり、
徳川秀忠にとっては名誉挽回の好機でした。
結局、徳川秀忠が頑として譲らなかったため
先陣は徳川秀忠が務めましたが、
総攻撃が開始された5月7日、
最激戦となった天王寺口で
先陣を務めていたのは徳川家康であり、
名誉回復を果たすことはできませんでした。

【徳川秀忠の母親の家系】
西三河の土豪から伸し上がった
徳川家(松平家)は、
三河での覇権が確立して後も、
かつて同格であった
旧同輩の豪族による反乱に
悩まされ続けていました。
そのような中で、
徳川秀忠の母は土岐氏一門の
三河西郷氏の出であり、
土岐頼忠(祖父は初代美濃守護の土岐頼貞)
の子である西郷頼音を
祖とするとのことです。
三河西郷氏が三河の旧守護代家として、
下克上の戦国時代では
家格は高かったということです。




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なお、「寛政重修諸家譜」には
西郷正勝 母は吉良上総介義富が女
西郷正勝は愛子(於愛)の外祖父であり、
徳川秀忠の曽祖父に当たる。
よって、秀忠は足利氏の傍流である
吉良氏の血を引くことになる。
と記載されているとのことです。
掛川・碧岩山観音寺跡(構江遊園地)

【武将としての評価】
徳川秀忠を「徳川実紀」の評価では
兄の信康や秀康、弟の忠吉などは、
武勇や知略に恵まれた名将との評価をされています。
事実として信康は武勇に優れ、
秀康も豊臣秀吉にその人物を評価され、
松平忠吉も関ヶ原の本戦で
島津豊久を討つという武功を挙げています。
それに対して徳川秀忠には、
武勇や知略での評価は乏しく、
またその評価ができるような合戦も
経験はしていません。
ただし、徳川秀忠は2代将軍だったため、
後半部分で徳川秀忠は
温厚な人物だったと弁護しています。
けれども、当の徳川家による史書でさえ、
徳川秀忠の武将としての評価は低かったのでした。

それでも後継者となったのは、
徳川家康が徳川秀忠を
「守成の時代」の主君に相応しいと
考えていたからだと言われています
(家康は唐の太宗の治世について記した
「貞観政要」を読んでおり、
貞観政要には「守成は創業より難し」
という一文が存在しています)。
父の路線を律儀に守り、
出来て間もない江戸幕府の基盤を
強固にすることを期待されたのであり、
結果として徳川秀忠も
それによく応えたとのことです。

【為政者としての評価】
公家諸法度、武家諸法度などの法を
整備・定着させ、江戸幕府の基礎を固めた
為政者としての手腕を高く評価する意見もあります。
娘の和子を後水尾天皇に嫁がせ
皇室を牽制、また紫衣事件では
寺社勢力を処断し、
武家政権の基礎を確立させました。
徳川家康没後は政務に
意欲的に取り組んでおり、
徳川家康が没した直後の元和2年(1616年)7月、
小倉藩主の細川忠興は息子・忠利に
「此中、公方様御隙なく
色々の御仕置仰せ付けられ候」
(最近将軍様は政務に余念がない)
と書き送っています。

徳川秀忠に将軍職を譲った後の
徳川家康がそうであったように、
徳川家光に将軍職を譲った後の徳川秀忠も、
大御所として全面的に政務を見ています。

【地震でも慌てず素早い判断と対応】
大坂の陣の後のことですが、
弟・義直と共に能を観劇している最中に
地震が起こり、周囲が動揺を起こしかけた時に
「揺れは激しいが壁や屋根が崩れる兆候はない、
下手に動かないほうが安全」
と素早く判断して対応を指示し、
混乱と被害を抑えています。

【牛が乱入しても冷静でした】
13歳の時、儒学の講義を受けていた部屋に
牛が乱入して騒ぎとなりましたが、
徳川秀忠は冷静に講義を
聴き続けていたという逸話があります。
牛(黒島)

【体格・風貌・血液型】
骨などから推定される体格は
身長158cm程度で、
毛むくじゃらの手足をした
大柄な体格だったとのことです。
血液型はO型でした。

・・・縄文系ですかね・・。




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【死因について】
死因は胃癌などの消化器がんなどだったと
考えられています。
大腿骨の桂状性、
脛骨の扁平性の存在など、
四肢骨の筋附着部の性状から判断すると、
意外と思われるほど筋肉の発達がよく、
十分に鍛錬された体とのことです。
頭髪は半白であるが、
腕の毛とすね毛は
濃厚とさえ思える程に黒々として、
老境を感じさせなかったとのことです。

【四男・幸松(保科正之)】
慶長16年(1611年)、
江戸城の女中だった静(浄光院)
との間に徳川秀忠の
四男として幸松(保科正之)が生まれています。
その後も静は正式に側室となることはなく、
幸松は高遠藩保科家で
養子として養育されました。
なお、徳川秀忠はその後も
幸松を実子として扱うことはなく、
自身の遺産分けでも親族扱いはせず
あくまで譜代大名の一人としています。
於静の方 保科正之公

【厳罰主義】
江戸上洛の途中、三島宿で鰻を獲ると
神罰が当たるという三島明神の池で
鰻を数尾獲った小者がいました。
そのことを耳にした徳川秀忠は
小者を捕えると宿の外れで磔に処しました。
「神罰を畏れぬ者はいずれ
国法をも軽んじて犯すに違いない。
それでは天下の政道が成り立たぬ。
神罰覿面とはこのことよ」と言ったとか。
一罰百戒、厳罰主義の徳川秀忠らしい逸話とのことです。

【大名たちの家族関係にも気配り】
大名たちの家族関係には
些細なことにも気を配り、
それを解決する時には
茶目っ気もあったそうです。
小倉藩主細川忠興は
父親である幽斎譲りの脇差「大三原」
(「享保名物帳」の同名の刀とは別物)
を愛刀としていましたが、
嫡子である忠利が所望しても
与えないので、
親子関係がぎくしゃくしていたそうです。
経緯は不明ですが、この事情は
徳川秀忠の耳にも及んでいたのでした。
そこで、ある年、細川父子を伴として
浅草川に水浴に出かけ、
細川忠興にも一緒に川で
水を浴びるように誘ったとのことです。
細川忠興も、水浴びとなれば、
大三原を腰から外さざるを得ませn。
徳川秀忠は、細川忠興より先に
水浴びを済ませ、川辺に置かれていた
大三原を手に取ると、
一人川に入らず側に控えていた
忠利に気を利かせて、
「余がこれを拝借し、取り次いで、
そなたに下賜してやろう。
(将軍が仲介しているのだから、)
越中(忠興)のやつもまさか異議は申すまい」
と堂々と宣言して、大三原を忠利に与えてしまいました。
(「細川忠興公年譜」)
このときのやりとりは実は
細川忠興にも聞こえてはいたとのことです。
が、将軍の声には逆らえず、
しぶしぶ従ったということです。
徳川秀忠の大物ぶりに感化されたのか、
忠利は後に大三原を気前よく
弟の立孝に譲ったとのことです。

【衆道】
丹羽長重や小山長門守吉久とは、
衆道の関係であったということです。

・・・まあ・・・

【茶道の師匠は古田織部
茶の湯を古田織部に学んで
特に愛好した茶人でもあり、
古田織部が切腹となった後も
古田織部遺愛の道具を用いて茶会、
あるいは数寄屋御成を度々行ったとのことです。
抹茶
2012年、
徳川記念財団所蔵が所蔵している
歴代将軍の肖像画の紙形(下絵)が公開されました。
徳川秀忠像は白描淡彩本です。

2023年NHK大河ドラマ
「どうする家康」では
森崎ウィン(もりさき うぃん)さんが
演じられます。

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

於愛の方(西郷局)~徳川家康の側室で2代将軍となる徳川秀忠の生母となります。

お江(崇源院)~2代将軍・徳川秀忠の正室は浅井三姉妹の三女、波乱万丈な人生を送りその血筋は現代の皇室に繋がっています。

千姫~織田の血を引く将軍家の超お嬢様、祖母譲りの美貌、波乱万丈の人生でも自分らしさを貫きました。

阿茶局(雲光院)~徳川家康の厚い信頼を受け表裏共々活躍した戦国後期~江戸初期のバリキャリ女性。

本多正信~一度は袂を分かつも盟友として家康を支え、徳川政権樹立の陰の立役者とされています。

浜松城(続日本100名城)~前身は今川氏が築城した曳馬城、野面積みの石垣が有名で出世城ともいわれています。

増上寺~創建は室町時代で徳川将軍家の菩提寺、本堂と東京タワーが1枚に収まります。

松平信康(徳川信康)~将来を有望されていた嫡男でしたが、築山殿と共に非業の死を遂げます。

結城秀康~徳川家康の次男、父から冷遇され兄の信康の計らいで対面を果たし、秀吉、結城氏の養子となる。

亀姫(徳川家康の長女)、母は築山殿で夫の奥平信昌との間には4男1女を授かりました。

督姫~徳川家康の次女、和睦の為に北条氏直に嫁ぎ、その後は池田輝政と再婚して5男2女を授かりました。

池田輝政~徳川家康の婿殿で寡黙ながら大活躍し、姫路城を現在ある姿にしました。

羽柴秀吉(豊臣秀吉・木下藤吉郎)下層民から天下人の生涯を手短に!

寧々(おね・高台院)~豊臣秀吉の正室、夫を内助の功で支え続けやがて天下人にさせた「おかか」

豊臣秀長~豊臣秀吉の実弟で右腕以上の存在、兄の天下統一に大きく貢献、惜しまれながら52歳で他界する。

藤堂高虎~渡り奉公人の代表格で主君とは対等に近し、築城三名人と称され藩政も長けていました。

浅野長政~豊臣秀吉の姻戚で五奉行筆頭、政治面で手腕を発揮、関ヶ原では徳川家康を支持します。

細川忠興~正室は明智光秀の娘・ガラシャ~文武両道のハイスペック武将で何事にも極め人。

黒田長政~朝鮮出兵で活躍するも石田三成と対立、徳川方になり関ケ原では一番の功労者となる。

蜂須賀家政~豊臣秀吉の友・小六の息子でやがて親家康大名、阿波踊りをはじめさせた徳島藩祖。

淀殿~母はお市で浅井三姉妹の長女、波乱万丈の人生を烈火の如く駆け抜けました。

豊臣秀頼~従来は暗君だったとされているが実はカリスマ性があり明君の器があった故に滅亡させられた?

大野治長(大野修理)~淀殿とは乳母子の間柄、豊臣家が滅するまで淀殿と豊臣秀頼の傍にいました。

真田昌幸~武田信玄を敬愛し「表裏比興の者」は死しても徳川家に恐怖を与えました。

真田信幸(信之)~真田昌幸嫡男で真田家存続の功労者、信濃松代藩は江戸期を続き明治維新を迎えました。

真田信繁~「日本一の兵」と評された日本の国民的武将で英雄の真田幸村です。

稲(小松姫)~本多忠勝の愛娘で真田信幸(信之)の正室、男勝りで利発で良妻賢母という戦国期の理想の女性。

福島正則~秀吉の子飼い、武勇に長ける荒武者だが地元では英雄扱いされ行政面でも功績を残す。

大谷吉継~石田三成とは深い友情で結ばれ真田信繁の岳父であり秀吉から才能を認められた知将。

築土神社と世継稲荷~平将門信仰の象徴的神社と徳川秀忠が称賛した神社です。

中山家範館~武蔵七党の丹党、中山家範は八王子城で戦死、子の中山信吉は水戸藩附家老に出世。

小幡景憲~甲州流軍学の創始者で「甲陽軍鑑」成立に携わった人物、墓所は厚木市にある蓮生寺。

ウィリアム・アダムス(三浦按針)~徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人のサムライです。

江戸城~武蔵国江戸の最初の館は江戸氏、太田道灌が築城しやがて徳川家康が入城し開府しました。

名古屋城~日本100名城、特別史跡、日本三大名城、名勝、金鯱、起源は今川氏が築城し織田信秀・信長が居城した那古野城でした。

高遠城~国の史跡で日本100名城、春には珍しい品種の桜であるタカトオコヒガンが咲き誇ります。

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