史跡・城跡

増上寺~創建は室町時代で徳川将軍家の菩提寺、本堂と東京タワーが1枚に収まります。 

増上寺 三解脱門 東京タワー



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増上寺

増上寺(ぞうじょうじ)は、
京都港区公園四丁目にある
浄土宗の仏教寺院です。
山号は三縁山。
三縁山広度院増上寺
(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)
と称します。

増上寺 慶大図

【増上寺の歴史】
9世紀、空海の弟子である宗叡が
武蔵国貝塚
(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)
に建立した光明寺が増上寺の前身だということです。

室町時代の明徳4年(1393年)、
浄土宗第八祖酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の時、
真言宗から浄土宗に改宗し、
寺号も増上寺と改めたとのことです。
この聖聡が実質上の開基と言えます。

聖聡は応永3年(1396年)に
小石川に草庵を立てて、
師匠である了誉聖冏を招きました。
これが後の伝通院になったということです。

開基聖聡の弟子には、
松平氏宗家第三代松平信光開基の
信光明寺開山釋誉存冏や、
松平氏宗家第四代松平親忠開基の
大恩寺開山了暁(りょうぎょう)慶善がいました。
また松平親忠の第四子で、
浄土宗総本山知恩院25世の超誉存牛や、
徳川将軍家菩提寺大樹寺開山の
勢誉愚底(せいよぐてい)は
いずれも聖聡の孫弟子であり、
中世から松平氏や徳川氏とのつながりが
深かったのでした。

千葉氏と初期増上寺】
中世以降、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は
必ずしも明らかでないとのことですが、
酉誉聖聡を継いで増上寺2世となった
聡誉酉仰は甥であったと伝えられています。
酉誉聖聡・聡誉酉仰共に
千葉氏の出身とされていることから、
千葉氏の庇護を受け、
後に地元の領主であった江戸氏
太田氏の庇護を受けたということです。
なお、前述の釋誉存冏や同門の楽誉聡林、
聡誉酉仰の弟子である讃誉空山も
千葉氏の出身と伝えられており、
初期増上寺と千葉氏の間に
密接な関係がうかがえます。




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享徳の乱
宝徳3年(1451年)には
音誉聖観が3世となりますが、
間もなく享徳の乱に
巻き込まれることになり、
康正元年(1455年)には
長尾景仲を追討する鎌倉公方足利成氏
増上寺に陣を構え、
文明3年(1481年)には
戦火で焼失したとされています。

吉良氏出身になる】
その後、隆誉珠阿・天誉了聞・
僧誉智雲・親誉周仰・杲誉天啓・
道誉貞把が増上寺を継いでいます。
彼らは太田氏やその主筋の上杉氏に近く、
親誉周仰は世田谷の吉良氏出身
であることが知られています。

【小田原北条氏との関係】
永禄6年(1563年)、
小田原北条氏の重臣・大道寺政繁の甥で
杲誉天啓の門下にあった感誉存貞が
10世に就任します。
存貞は小田原北条氏との関係を
強める一方で増上寺の再建と
綱紀の粛正を図りました。

その後は、筑後国の中西氏(菊池氏の庶流)出身で、
感誉存貞から大長寺を譲られるなど
信頼の厚かった門弟の雲誉円也が
11世に就任しています。

徳川家康と増上寺】
通説では天正18年(1590年)、
徳川家康が江戸入府の折、
たまたま増上寺の前を通りかかり、
12世源誉存応と対面したのが
徳川家の菩提寺となる
きっかけだったとされています。
貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、
江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、
徳川家康によって現在地の芝へ移されました。
風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である
上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに
増上寺を移したものと考えられています。

【徳川家の菩提寺と関東十八檀林の筆頭】
また、徳川家の菩提寺であるとともに、
檀林(学問所及び養成所)がおかれ、
関東十八檀林の筆頭となりました。

【芝増上寺の刃傷事件】
なお、延宝8年(1680年)6月26日に
行われた将軍徳川家綱の法要の際、
奉行の一人で志摩国鳥羽藩主内藤忠勝が、
同じ奉行の一人で丹後国宮津藩主永井尚長に
斬りつけるという刃傷事件を起こしています。

【畳替えと忠臣蔵の関係性】
元禄14年(1701年)3月に
江戸下向した勅使が
増上寺を参詣するのをめぐって
畳替えをしなければならないところ、
高家の吉良義央が勅使饗応役の
浅野長矩に畳替えの必要性を教えず、
これが3月14日の殿中刃傷の
引き金になったという挿話が
文学作品「忠臣蔵」で有名となっています。
畳替えの件が史実であるかは不明です。
なお、浅野長矩は内藤忠勝の甥です。




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【明治維新後】
明治維新直後には、
神道国教化政策の下、
半官半民の神仏共同教導職養成機関である
大教院の本部となり、
大教院神殿が置かれました。
参道には、通常は神社に建てられる
鳥居が置かれました。
のち明治7年(1874年)1月1日、
排仏主義者により放火されました。
徳川幕府の崩壊、
明治維新後の神仏分離の影響により
規模は縮小し、境内の広範囲が芝公園となりました。

【太平洋戦争の空襲による大被害】
太平洋戦争中の空襲によって
徳川家霊廟や五重塔をはじめとした
遺構を失う大きな被害を受けたのでした。

増上寺 千躰子育地蔵菩薩

【戦後から現代】
東京タワーの建設時、
増上寺は墓地の一部を土地として
提供しています。
なお、この付近の町名(芝大門)や
地下鉄の駅名(大門駅)に使われている「大門」とは、
増上寺の旧総門のことを指します。
2021年現在の大門は1937年に
東京市が市民の寄付を募って改築した
コンクリート造のものです。
増上寺 芝大門

また、短期間ではありましたが、
西遊記の三蔵法師で有名な
玄奘の遺骨が安置されていました。
太平洋戦争の戦時中の
空襲によって移動されています。
現在はさいたま市の慈恩寺にあります。
ちなみに遺骨は奈良市の薬師寺と
台湾のに玄奘寺に分骨されています。

2022年7月8日に発生した
安倍晋三銃撃事件で死亡した
安倍晋三元首相の葬儀が、
同年7月11日に
増上寺で執り行われています。




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【伽藍】
三解脱門
(さんげだつもん、重要文化財)
戦災を免れた建物の1つで、
元和8年(1622年)建立の二重門
(重層で、各層に屋根が付く門)です。
この門をくぐると、
三毒(3つの煩悩、即ち貪、瞋、癡)
から解脱できるとされています。
内部には釈迦三尊像と
十六羅漢像が安置されています。

増上寺 三解脱門

<大殿>
昭和49年(1974年)の再建です。
室町期の阿弥陀如来像、
脇仏に法然上人像、
善導大師像がまつられています。

増上寺 大殿

<安国殿>
「黒本尊」といわれる室町時代の
恵心僧都作とされる秘仏の
阿弥陀如来を祀っています。
徳川家康が崇拝し、
当初は2尺6寸(約80cm)あった
金色の立像でしたが、
長年の香煙により、黒ずんでいます。
正月15日、5月15日、
9月15日にのみ開帳され、
「黒本尊」と墨書きされた朱印が授与されます。

増上寺 安国殿

【徳川家霊廟】
増上寺には、徳川将軍15代のうち、
6人(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が
葬られています。

増上寺 徳川家霊廟

第二次世界大戦前には
台徳院(秀忠)霊廟、
台徳院(秀忠)霊廟

崇源院(秀忠夫人)霊牌所、
崇源院(秀忠夫人)霊牌所

文昭院(家宣)霊廟、
文昭院(家宣)霊廟

有章院(家継)霊廟が
有章院(家継)霊廟

旧・国宝(建造物)に指定されており、
その壮大さは日光東照宮に
引けを取らないものだったのですが、
昭和20年(1945年)に
2度の空襲があり3月10日に
北廟68棟が被災、
続く5月25日に南廟28棟が被災し、
その建造物群のほとんどを焼失したのでした。

戦前までの徳川家霊廟 配置図

2021年現在は台徳院霊廟の門4棟、
有章院霊廟二天門、
文昭院霊廟奥院中門(鋳抜門)、
ならびに文昭院・有章院等の宝塔8基
を残すのみとなっています。




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<文昭院殿霊廟> 
拝殿内部 (戦災で焼失)
焼け残った建築のうち
以下のものが重要文化財に指定されています。

文昭院殿霊廟 拝殿内部

<文昭院殿霊廟相之間内部>
文昭院殿霊廟相之間内部

<台徳院霊廟 惣門>
(芝公園・ザ・プリンスパークタワー東京内)
台徳院霊廟 勅額門、丁字門、御成門
(以上3棟はホテル建設に際し、
埼玉県所沢市のユネスコ村
(現・狭山不動尊)に移築されています)

<有章院霊廟 二天門>
(芝公園・東京プリンスホテル内)
柵で仕切られており、
塗装も随所に剥げ落ち
老朽化が激しかったのですが、
平成の大改修で2015年より
約3年の期間をかけて
大規模な保存修理工事が行われました。

これらの霊廟に祀られていたご遺体は、
昭和33年(1958年)、
調査発掘され、その後は
桐ヶ谷斎場にて火葬されました。
徳川家墓所は増上寺安国殿の
裏手に移転しています。
同墓所の入口の門(銅造)は、
もとは文昭院霊廟の奥院の中門でした。

文昭院霊廟の奥院の中門

霊廟跡地は、
東京プリンスホテル(文昭院、有章院等)、
ザ・プリンスパークタワー東京
(台徳院、崇源院等)となっています。
秀忠夫人の旧・崇源院霊牌所の一部が
正保4年(1647年)に
鎌倉建長寺に建替えのため移築され、
現存しています。

増上寺に隣接する芝東照宮は、
元は徳川家康を祀る増上寺安国殿でしたが、
神仏分離令の折に独立し神社化されました。
安国殿は増上寺の中で
有力な支院で寺は反対しましたが、
独立を阻止することはできませんでした。

改葬後の増上寺徳川家墓所に立つ宝塔と
被葬者は下記の通りとなります。

の増上寺徳川家墓所

<旧・崇源院宝塔(石造)>
第二代将軍秀忠(台徳院)、
同夫人(崇源院)の墓塔。
台徳院宝塔は戦災で焼失したため、
元の崇源院宝塔に
夫妻が合祀。
墓所内、入口から見て
右列のもっとも奥にあります。
旧・崇源院宝塔(石造)

<旧・文昭院宝塔(銅造)>
第六代家宣(文昭院)、
同夫人(天英院)の墓塔。
墓所内、左列のもっとも奥にあります。
旧・文昭院宝塔(銅造)

<有章院宝塔(石造)>
第七代家継(有章院)の墓塔。
墓所内、右列の秀忠夫妻墓の手前にあります。
有章院宝塔(石造)

<惇徳院宝塔(石造)>
第九代家重(惇徳院)の墓塔。
墓所内、右列の家継墓の手前にあります。
惇徳院宝塔(石造)

<慎徳院宝塔(石造)>
第十二代家慶(慎徳院)の墓塔。
墓所内、右列のもっとも手前にあります。
慎徳院宝塔(石造)

<昭徳院宝塔(石造)>
第十四代家茂(昭徳院)の墓塔。
墓所内、左列の家宣夫妻墓の手前にあります。
昭徳院宝塔(石造)

<静寛院宮宝塔(銅造)>
家茂夫人和宮(静寛院)の墓塔。
墓所内、左列の家茂墓の手前にあります。
静寛院宮宝塔(銅造)

<合祀塔(石造)>
墓所内、左列のもっとも手前にあります。
家宣の父・綱重(清揚院)、
五代綱吉の生母・桂昌院、
十一代家斉の正室・広大院、
十三代家定の正室・天親院、
家宣の側室・月光院、
家斉の側室・契真院、
家慶の側室である見光院・殊妙院。
その他計35名の将軍家ゆかりの子女が
合祀されています。
合祀以前はそれぞれ
宝塔・墓が独立していました。
2021年現在の合祀塔は、
元は月光院宝塔でした。

合祀塔(石造)

【主な重要文化財】
<三解脱門(三門)>
江戸時代前期(元和7年(1621年))の建立。
五間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺。
大正4年(1915年)3月26日指定。




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(東京都指定有形文化財)
◆経蔵(東京都指定有形文化財)
◆木造阿弥陀如来坐像(本尊)
◆木造釈迦如来・両脇侍像
◆木造十六羅漢像
◆木造広目天・多聞天立像
◆木造四天王立像

<黒門>
増上寺 黒門

<西向聖観世音菩薩>
増上寺 西向観音像
鎌倉時代、5代執権・北条時頼公(祖父は北条泰時)が
観音山(現:東京タワー)に辻堂を建て、
鎌倉街道(現:六本木方面)に向けて
安置した石像の観音像です。
子育て・安産に霊験あらたかと
伝えられています。
昭和50年(1975年)、
現在の安国殿前に尊像を遷座、
同55年(1980年)年1月に観音堂落成。
江戸三十三観音札所で聖観音像は
子育て開運の利益広大と言われています。
(公式サイトより)

<増上寺 千躰子育地蔵菩薩>
増上寺 千躰子育地蔵菩薩
都会のど真ん中にありますが、不思議な佇まいです。

増上寺 千躰子育地蔵菩薩 説明

<慈雲閣(じうんかく)(開山堂)>
慈雲閣(じうんかく)(開山堂)

【所在地】
〒105-0011 東京都港区芝公園4-7-35

【交通アクセス】
JR線・東京モノレール
「浜松町」駅から徒歩10分
都営地下鉄三田線
「御成門」駅から徒歩5分、
芝公園から徒歩3分
都営地下鉄浅草線・大江戸線 
「大門」駅から徒歩8分
都営地下鉄大江戸線 
「赤羽橋」駅から徒歩8分
東京メトロ日比谷線 
「神谷町」駅から徒歩10分

【徳川将軍家墓所】
~徳川家霊廟~
<拝観受付時間>
(平日) 
午前11時~午後3時
(最終入場午後2時45分)
(土日祝) 
午前10時~午後4時
(最終入場午後3時45分)
※多少早めに入れることもあります。
(10分前程度)
【受付】
徳川霊廟前 チケット札所
増上寺 徳川霊廟前 チケット札所

【拝観冥加料】
大人:500円(高校生以下無料)
※戦前の霊廟の写真の絵葉書付き

<定休日>
毎週火曜日
(祝日の場合、通常通り公開、拝観可)

滞在所要時間(徳川家霊廟含む):35分~

【トイレ】
2022年10月現在は工事中につき使用できません。

江戸城~武蔵国江戸の最初の館は江戸氏、太田道灌が築城しやがて徳川家康が入城し開府しました。

伝通院~徳川将軍家の菩提寺次席、徳川家康の生母の於大の方、孫の千姫の墓があります。

泉岳寺~徳川家康が創建の曹洞宗の寺院で赤穂義士の墓所がある忠臣蔵の聖地です。

徳川秀忠~江戸幕府2代将軍、幕藩体制の基礎を固め政権運営方針を次代に引き継ぐ。

お江(崇源院)~2代将軍・徳川秀忠の正室は浅井三姉妹の三女、波乱万丈な人生を送りその血筋は現代の皇室に繋がっています。

古河公方館跡~古河公方の存在とは?関東における戦国時代の幕開けの存在でした。

報国寺~鎌倉で特に大人気の竹寺、歴史では鎌倉における足利公方の終焉の地です。

本佐倉城~続日本100名城・国指定史跡で千葉氏の最後の拠点、下総の名族から戦国大名となった千葉氏の歴史とは?

江戸太郎重長と武蔵江戸氏について~武蔵国の武家で秩父氏一族であり所領のあった場所が東京の地名に今も残っています。

太田道灌~扇谷上杉氏の家宰で多彩で非凡な才能故に主君に疎まれ暗殺された悲劇の武将。

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