城跡

山田城山~源義朝の家臣である鎌田政清の居館とされる場所

山田城山




【山田城山】

山田(やまた)となります。
「新編武蔵国風土紀稿」によりますと、
山田村に鎌田兵衛正清なる人物が
居住していた旨の記述があるそうです。
また中原街道 道場坂下にある「鎌田堂」は
背後の丘に鎌田正清の館があったことから
名づけられたそうです。
現在は山田神社があり、
5つもの鳥居が設置されています。
山田神社がある辺りは正に丘となっており、
周囲がよく見たわせます。
ちなみに現在は夜景のスポットでもあるそうです。
山田神社からの眺め

【山田神社】
山田神社周辺は以下のような景色であったようです。

中川の水田が広がり、早淵川の清流がありました。
丘は緑が生い茂り、神秘的な場所であったとの事で
正にここに神社を創建するに
ふさわしい場所であったようです。
またこの場所は石器時代より人々が住み、
暮らしを営んできた土地でした。
清和天皇の時代の貞観2年(860年)、
諏訪神社の鎮座がありました。
更に文安2年(1445年)には、
秩父大宮より妙見社の御分霊を奉還鎮祭したそうです。

そして明治43年11月に
村社神明神社、無格社諏訪神社、
同八幡神社二社、同熱田神社、同稲荷神社七社、
同菅神社、同熊野神社、同子聖神社を
妙見社へ合祀すると同時に
山田神社と改称したとのことです。

山田神社 境内脇

本殿は天保13年(1842年)に造営されました。
竜や鳳凰などの精巧な彫刻が施されており、
横浜市の有形文化財に指定されています。
横浜市教育委員会掲示に詳細な説明があります。

現在の本殿は、
棟札により
天保十三年(一八四二)の造営であることが判ります。
正面柱間〇.九一メートルの小規模な一間社流造で、
正面に軒唐破風・千鳥破風を付け、
屋根をこけらで葺いています。
この本殿の最も大きな特色は、彫物が多用され、
しかも建築とよく調和していることです。
彫物はけやきの素木造で、
向拝柱には丸彫の竜が巻き付き、
壁面には仙人像、欄間には鳳凰、
脇障子には鷹に松など主題は多種多様です。
以上のように山田神社本殿は、小規模な一間社流造ですが、
素木造の精巧な彫物を多用し、
彫物と建築がよく調和した江戸時代末期の、
典型的な例として貴重です。

(引用:横浜市教育委員会掲示)

<本殿>
山田神社 本殿

また、市の民俗芸能に指定されている、
7月の「虫送り」行事は、この境内が出発点です。

【所在地】
〒224-0029
神奈川県横浜市都筑区南山田町3795

【交通アクセス】
◆市営地下鉄「東山田」駅下車徒歩10分程度
◆市営バス302系統・東急バス「宮の下」下車

【駐車場】
専用駐車場はありません

<場所>

青印は車を停めて山田神社に入った地点です。





【その後の山田城山】
戦国時代・小田原北条氏の時代、
北条氏康期にあたる
永禄2年(1559年)に記録した
小田原衆所領役帳によりますと
小机衆である曽弥外記が
都筑郡山田郷62貫文で知行したとあります。
ですが、山田城山が
曽弥外記の城であったかは不明です。

【鎌田政清】

鎌田 政清(かまた まさきよ)は、
平安時代末期の武将です。
名は正清、正家、政家とも。
藤原秀郷流首藤氏の一族で、
相模国の住人鎌田権守通清の子でした。

源義朝の第一の郎党。
鎌田政清の母が
源義朝の乳母だったため乳兄弟として
最も信頼されていたそうです。

【時代】
平安時代末期
【生誕】
保安4年(1123年)
【死没】
平治2年1月3日(1160年2月11日)
別名 正清、正家、政家、通称:次郎

【領地】
領地は郡中十ヶ村に跨り
高田、吉田、勝田、荏田、鴨志田、黒須田、
恩田、長津田、上菅田、三反田に及び
合計5525石程であったとの記録があります。

当時では付近では他にない程の
領地を所有していたことになります。

【生涯】
保元元年(1156年)7月の
保元の乱で源義朝に従って従軍し、
源為朝に挑みましたが
とても敵わぬと見て退いています。

平治元年(1159年)12月の平治の乱では、
内裏占拠後の藤原信頼主導の除目で
左兵衛尉に任じられました。
待賢門の戦いでは源義朝の
長男である源義平と共に
平清盛の長男・重盛と戦い活躍しました。
六条河原の戦いで源氏が敗れ、
源義朝が討死しようとするのを引き止めて、
源義朝の子や大叔父の源義隆、
従兄弟の源重成と共に
東国を目指して落ちていきました。

【鎌田政清の最期】
途中、近江国の落武者への捜索の苦難に遭いながら、
源義朝主従は鎌田政清の舅である
尾張国野間内海荘の
領主・長田忠致の館にたどり着いたのでした。
けれども、長田忠致の裏切りにあい、
平治2年1月3日、
源義朝とともに謀殺されてしまいました。
源義朝は風呂場で殺害され、
鎌田政清は酒を飲まされて騙し討ちに遭い、
長田忠致の子である
長田景致の手にかかって殺されたということです。
享年は38歳でした。
なお、罠を察知した源義朝は
鎌田政清に自らの殺害を命じたという記述もあります。

鎌田政清の妻は
父の手により殺された夫の死をかなしみ、
その刀をとって、
娘を遺して同日に自害したということです。
享年は28歳でした。

文治元年(1185年)9月3日、
鎌田政清の首は源義朝の遺児である源頼朝によって、
源義朝の遺骨と共に鎌倉の勝長寿院に葬られました。

建久5年(1194年)10月25日、
鎌田政清の娘が勝長寿院で
父である鎌田政清と源義朝の追善供養を行っています。
また鎌田政清に男子がなかったため、
源頼朝はこの娘に
尾張国篠木庄(春日井市の北東部から小牧市の東部)、
丹波国名部庄の地頭職を与えています。

鎌田政清夫妻の墓は、
主君である源義朝と同じ
愛知県美浜町の野間大坊の境内に現存しています。





【山内首藤氏】
鎌田政清の父親は鎌田通清ですが、
元は首藤氏でした。
その首藤氏を更に遡ると
山内氏となります。
山内氏の祖は
美濃国席田郡の郡司を務めていた
守部氏の後裔であると考えられているそうです。
平安時代後期に藤原氏を名乗り、
藤原秀郷の後裔を称するようになったということです。

資清の代になって首藤氏を名乗り、
源氏の郎党となりました。
この資清の子である、
資通は源義家に従って
後三年の役で活躍しました。
更に、資通には
親清と通清(鎌田政清の父親)の男子があり、
通清は鎌田氏と名乗っています。
そして、資通の曾孫・俊通が
相模国鎌倉郡山内庄
(現・神奈川県鎌倉市)を領した際に
山内を名乗り、
山内首藤氏と呼ばれるように
なったということです。
更に、山内俊通の妻である山内尼は
源頼朝の乳母となり、
その子・経俊は頼朝の乳兄弟となったのでした。

【山内首藤氏の子孫】
山内一豊(土佐藩初代藩主・戦国時代から江戸時代の武将)

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