鎌倉殿の13人

つつじ(辻殿)~源頼家の正室で「吾妻鏡」では公暁の生母、父は足助重長、祖父は源氏の勇者と名高い源為朝です。

河津さくらと川



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【つつじ(辻殿)】

辻殿(つじどの)は、鎌倉時代前期の武家女性です。
鎌倉幕府第2代将軍である源頼家の室です。

【生没】
不明

【氏族】
足助氏

【父】
足助重長

【母】
源為朝の娘

【兄弟】
足助重秀、辻殿

【子】
公暁(「吾妻鏡」)

【事項】
源頼家の妻

【生涯】
父は三河源氏の足助重長で、
母は源為朝の娘とされています。

公暁の生母について、
「尊卑分脈」は比企能員の娘(若狭局)とし、
兄である一幡と同母兄弟としています。
また県篤岐本「源氏系図」では
生母は三浦氏の娘としています。

「吾妻鏡」によりますと
正治2年(1200年)、
鎌倉殿の地位にあった
源頼家の第2子となる善哉(後の公暁)を
産んだとされています。
源頼家は建仁3年(1203年)に
将軍職を追われて翌年横死し、
善哉は後年僧侶になることが約束されました。
善哉は建暦元年(1211年)に
約束通り出家しましたが、
辻殿はその前年の
承元4年(1210年)7月8日、
退耕行勇を戒師として出家しています。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
北 香那(きた かな)さんが演じられます。

【足助重長】

足助 重長(あすけ しげなが)は、
平安時代末期の武将。
浦野重直の六男です。
号は加茂六郎、足助氏の祖です。

【経歴】
尾張源氏山田氏の一族で、
三河国加茂郡足助荘の荘官となり
同地に黍生城を築き
居住したとされています。
父祖に続き河内源氏の嫡流に
臣従したとも考えられており、
源為義の八男である
為朝(鎮西八郎)の娘を娶るなどしました。
詳しい動向は現在のところは
不明ですが、「尊卑分脈」などによりますと
その最期は
平家によって討ち取られたとされています。
伝承では治承5年(11811年)の
墨俣川の戦いに兄たちと共に参戦し
戦後捕虜として平家方に拘束された後に
殺害されたということです。

なお、源為朝の娘との間には
嫡子である足助重秀(重季)のほか
鎌倉幕府2代将軍である源頼家の室
となった辻殿を儲けており、
この女性は公暁の母となっていることが
「吾妻鏡」にみえています。
(同建保7年(1219年)1月27日条)。

【源為朝】

源 為朝(みなもと の ためとも、旧字体:爲朝)は、
平安時代末期の武将で源為義の八男です。
母は摂津国江口
(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。
源頼朝、義経兄弟の叔父にあたります。
「保元物語」によりますと、
身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、
また剛弓の使い手で、
剛勇無双を謳われていました。
生まれつき乱暴者で
父の源為義に持てあまされ、
九州に追放されましたが
手下を集めて暴れまわり、
一帯を制覇して鎮西八郎を名乗ります。
保元の乱では父とともに
崇徳上皇方に参加し、
強弓と特製の太矢で大奮戦するが敗れ、
伊豆大島へ流されました。
しかしそこでも国司に従わず、
大暴れして伊豆諸島を
事実上支配したことから、
追討を受け自害しました。




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【生誕】
保延5年(1139年)

【死没】
嘉応2年4月6日(1170年4月23日)頃

【別名】
鎮西八郎

【墓所】
岡山県井原市門田町ほか

【官位】
無官(称・鎮西惣追捕使)

【氏族】
清和源氏為義流(河内源氏)

【父】
源為義

【母】
江口の遊女

【兄弟】
義朝、義賢、義憲、頼賢、頼仲、
為宗、為成、為朝、為仲、鳥居禅尼、
行家、維義?、頼定?、正親?、
仙覚、乙若、亀若、鶴若、
天王、美濃局、佐々木秀義室、
中村光隆室ら

【妻】
平忠国の女、阿多忠景の女?

【子】
義実、実信、為頼、朝稚(義包)為家
足助重長室、舜天(尊敦)?

【生涯】
「愚管抄」によりますとは
源為朝が兄の源頼賢とともに
奮戦したとあり、
「吾妻鏡」にも戦場で射られた
大庭景義が源為朝のことを
「無双の弓矢の達者」だと言うくだりがあり、
当時から世に聞こえた
剛の武者であったことは確かであるようです。

【鎮西総追捕使】
「保元物語」によりますと、
為朝は身長七尺ほど(2m10cm)の大男で、
目の隅が切れあがり容貌魁偉、
また強弓の使い手で、
前に出して弓を支える左腕が、
後で弦を引く右腕よりも
4寸(12cm)も長いという、
弓を引くために生まれたような
体つきをしていたそうです。
勇猛で兄たちにも傍若無人でありました。

13歳の時、乱暴が過ぎて
父の源為義に勘当され、九州に追放されました。
尾張権守家遠が後見となって
豊後国に住んでいましたが、
肥後国阿蘇郡の平忠国の婿となりました。
なお、薩摩国阿多郡の誤りとの説もあります。
この場合、平忠国は薩摩平氏の平忠景となります。
その後、自ら鎮西総追捕使を称して
暴れまわり、菊池氏、原田氏など
九州の豪族たちと
数十回の合戦や城攻めを繰り返し、
3年のうちに九州を平らげてしまったとのこと。
香椎宮の神人が源為朝の狼藉を
朝廷に訴え出たため、
久寿元年(1154年)に
出頭の宣旨が出されてしまいます。
源為朝はこれに従いませんでしたが、
翌年の久寿2年(1155年)に
父が解官されてしまいました。
これを聞いて源為朝は帰参することにし、
九州の強者28騎を率いて上洛しました。

【保元の乱】
翌年の保元元年(1156年)、
鳥羽法皇が崩御すると、
治天の君の座を巡って対立していた
崇徳上皇と後白河天皇の衝突は
避けられない情勢になっていました。
双方が名だたる武士を
それぞれの陣営に招くなか、
源為朝の父である源為義は
上皇方の大将として招かれます。
老齢を理由に再三これを辞したものの、
遂には承諾させられ、
源為朝ら6人の子を引連れて
崇徳上皇の御所白河北殿に参上しました。
一方、源為義の嫡男で
坂東を地盤としていた
源義朝は多くの東国武士とともに
天皇方へ参じました。




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源為朝は三尺五寸の太刀を差し、
五人張りの強弓を持って
西河原面の門を守りました。
7月11日、軍議が開かれ、
源為朝は
「九州で多くの合戦をしましたが
夜討に勝るものはありません。
ただちに高松殿(天皇方の本営)
へ攻め寄せ、夜討を献策しましたがが、
左大臣・藤原頼長は
夜討などは武士同士の私戦ですること、
主上と上皇の国を巡る戦い、
興福寺の僧兵の到着を待って決戦するべし
と退けてしまったのでした。
源為朝は兄の源義朝は
必ず夜討をしかけてくるだろうと
予見して口惜しがったとのことです。

その夜、源為朝の予見通りに
天皇方が白河北殿に
夜討をかけてきました。
源為朝を宥めるために
急ぎ除目を行い蔵人に任じましたが、
源為朝は「もとの鎮西八郎でけっこう」
と跳ね付けたとのことです。
なお、「愚管抄」では
夜襲を献策した人物は
源為朝ではなく
父の源為義としています。

平清盛の軍勢が
源為朝の守る西門に攻めてきました。
平清盛の郎党伊藤景綱と
その子忠景(忠清)・忠直が名乗りをあげると
源為朝は「清盛ですら物足りないのに、
お前らなぞ相手にならん、退け」と言います。
景綱が「下郎の矢を受けてみよ」と矢を放ちましたが、
源為朝はものともせず、
先が七寸五分(22センチ)もある、
鑿に矢軸をつけたような太矢を射かけ、
矢は忠直の体を貫き、
後ろの忠清の鎧の袖に突き刺さったとのこと。
忠清は矢を平清盛のもとに持ち帰って報告し、
平清盛は部署を変えて北門へ向かうも、
嫡男の平重盛が口惜しいことだと
挑もうとして平清盛が
あわてて止めさせたそうです。

平清盛に代わって
兄の源義朝の手勢が攻め寄せ、
郎党の鎌田政清が進み出で名乗りを上げました。
源為朝は「主人の前から立ち去れ」
と言い返すと、鎌田政清は
「主人ではあったが、今は違勅の凶徒」
と言うや矢を放ち、源為朝の兜に当たりました。
これに源為朝は激怒して
鎮西の強者28騎を率いて斬り込みをかけ、
鎌田政清は敵わずと逃げ出し、
「こほどの敵には遭ったことがないと
源義朝に報告したそうです。
源義朝は坂東武者200騎を率いて
攻めかかり乱戦となりました。

接戦となると無勢の源為朝は不利であり、
源大将の義朝を威嚇して退かせようと
考えたとのことです。
大庭景義・景親の兄弟が挑みかかりましたが、
源為朝は試にと鏑矢を放ち、
大庭景義の左の膝を砕き、
大庭景親は落馬した兄を
助け上げて逃げ帰りました。
後に源頼朝に仕えて御家人になった
大庭景義は酒宴でこの合戦について、
源為朝は無双の弓矢の達者だが、
身の丈よりも大きい弓を使い
馬上での扱いに慣れずに
狙いを誤ったのだろうと語っています。

源義朝の坂東武者と
源為朝の鎮西武者との間で激しい
戦いが繰り返されましたが、
港も為朝の28騎のうち
23騎が討ち死にとなりました。
一方、坂東武者も53騎が
討たれています。

【ようやく決着】
他の門でも激戦が続き、
勝敗はなかなか決まらなかったそうです。
そこで源義朝は内裏へ使者を送り
火攻めの勅許を求め、
後白河天皇はこれを許しました。
火がかけられ風にあおられて、
白河北殿はたちまち炎上します。
崇徳上皇方は大混乱に陥り、
上皇と藤原頼長は脱出。
源為義、頼賢、為朝ら
武士たちも各々落ちたのでした。

【源為義の死】
源為義は息子たちと共に
東国での再挙を図りますが、
老体であり気弱になり、
出家して降伏することに決めました。
けれども源為朝は反対して
あくまでの東国へ落ちることを主張。
源為義は源義朝が助けてくれるだろうとも
思っていたそうです。
そして出頭して降伏します。
しかし、源為義は許されず、
息子たちも捕えられ、勅命により
源義朝によって斬首されたのでした。




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【源為朝、捕縛】
源為朝は逃亡を続け
近江国坂田(滋賀県坂田郡)
の地に隠れました。
病に罹り、湯治をしていたところ、
密告があり湯屋で
佐渡重貞の手勢に囲まれ、
真っ裸であり抵抗もできず捕えられました。
京へ護送された時には、
名高い勇者を一目見ようと
群衆が集まり、
天皇までが見物に行幸したとのことです。

【伊豆大島に流刑】
源為朝は武勇を惜しまれて助命され、
8月26日に肘を外し
自慢の弓を射ることが
できないようにされてから
伊豆大島に流刑となりました。

【再び暴れだす】
やがて、傷が癒えその強弓の技が戻ると
再び暴れ始め、島の代官の
三郎大夫忠重の婿となり
伊豆諸島を従え年貢も
出さなくなりました。
伊豆諸島を所領とする
伊豆介・工藤茂光を恐れた
忠重は密かに年貢を納めますが、
それを知った源為朝は激怒し、
忠重の左右の手の指を
三本切ってしまいます。

【討伐の院宣が下る】
嘉応2年(1170年)、
工藤茂光は上洛して
源為朝の乱暴狼藉を訴え、
討伐の院宣が下りました。
同年4月、工藤茂光は
伊東氏・北条氏・宇佐美氏ら500余騎、
20艘で攻めよせました。

【源為朝の最期】
源為朝は抵抗しても無駄であろうと悟り、
島で生まれた9歳になる我が子・為頼を殺めます。
自害する前に、せめて一矢だけでもと思い、
300人ほどが乗る軍船に向けて
得意の強弓を射かけ、見事に命中し、
船はたちまち沈んでしまったとか。

館に帰り、自害しました。享年は32歳でした。
追討軍は源為朝を恐れてなかなか
上陸しなかったそうですが、
加藤景廉が既に自害していると見極め
薙刀をもって源為朝の首をはねたとのことです。

なお没年は「尊卑分脈」では
治承元年(1177年)
ともいわれています。

【ためともさん】
伊豆大島では今でも
源為朝が親しまれており、
源為朝の碑も建てられています。
島の女性と結婚して
移り住んできた本土出身の男性を、
源為朝の剛勇ぶりにあやかって
「ためともさん」と呼ぶのも
その名残であるとのことです。

【為朝伝説】
真偽不明ながらもその豪勇から
各地に源為朝の伝説が残っているとのことです。
<佐賀県・福岡県>
九州は
佐賀県上峰町、福岡県朝倉地域、
佐賀県黒髪山などに多数伝説があります。




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<疱瘡に対する守り神>
源為朝は疱瘡(天然痘)が
流行した時代にも
病にかからなかったといわれ
疱瘡に対する守り神とする
伝承が数多くあります。
歌川国芳画「鎮西八郎為朝」
の疱瘡絵では疱瘡神から
病をり患させないよう
手形を受け取る為朝の絵が描かれています。
このほか月岡芳年画
「為朝の武威痘鬼神を退く図」などがあります。

<大島氏>
武蔵国足立郡宮内村
(現在の埼玉県北本市宮内)の大島氏は、
源為朝の子孫とのことです。
新編風土記にも記載があります。
源為朝の庶子の太郎丸と
二郎丸の双子は、
北条時政に訴え、源頼朝により
太郎丸は大島の領主、
二郎丸は八丈島の領主に任じられたとのことです。
二郎丸は出家し、
承元2年(1208年)に
八丈島に弥陀寺を創建しました。
現在の宗福寺とのことです。
太郎丸は元服をして
大島太郎為家(のち為政と改名)したということです。
戦国大名太田氏の家臣団・
鴻巣七騎の1人に
大島大膳亮久家がおり、
小田原征伐後帰農して今に
連綿と系譜が続いているとのことです。

<阿多忠景の娘婿>
薩摩平氏一門の阿多忠景
(またはその子の阿多忠国)は、
平治元年(1159年)に
薩摩、大隅、日向の三国で
専横したかどで追討の宣旨を受け、
平清盛郎党平家貞に攻められ
「硫黄島」(鬼界ヶ島または貴海島)
に流されたと伝わっています。
この阿多忠景(または忠国)
の娘婿が源為朝との伝記があります。

<琉球上陸>
琉球王国の正史「中山世鑑」や
「おもろさうし」、「鎮西琉球記」、
「椿説弓張月」などでは、
源為朝が琉球へ逃れ、
大里按司の娘と子をなし、
その子が初代琉球王舜天になった伝説があります。
この伝承に基づき、
沖縄県今帰仁村の運天港に
大正11年(1922年)、
源為朝上陸の碑が建てられています。

<タメトモハゼ>
運天の地で初確認されたハゼには、
源為朝にあやかり「タメトモハゼ」
という名がつけられました。
同様に「タメトモ」の名を冠する
動植物にはタメトモマイマイ、
タメトモヤスデ、タメトモユリなどがあります。

<閉伊氏>
鎌倉時代に現在の岩手県宮古市に
本拠を置いた閉伊氏の資料には、
源為朝の遺児といわれる
閉伊為頼
(大嶋為家・閉伊頼基・
佐々木十郎行光とも)が
源頼朝より陸奥国閉伊郡・気仙郡を賜り、
閉伊氏を称したとあります。

<為朝の末裔>
信濃国伊那郡領主で江戸時代には
交代寄合となった座光寺氏は、
「寛政重修諸家譜」で
源為朝の後裔と称しています。
ただし、座光寺氏は
諏訪氏の一族であると見られています。

<九郎義経は八男?>
源義経は本当は八男でしたが、
源氏の勇者の一人にあたる
源為朝に遠慮して、
八郎ではなく
源”九郎”義経を名乗ったといわれています。

<六角ノ井>
伊豆大島に流刑となっていた
源為朝が矢を射たところ海を超え、
鎌倉の材木座海岸まで届き、
矢が届いたところから水が湧き、
井戸ができたということです。
この場所が現在の六角ノ井といわれています。




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<喜界島の伝説>
「雁股(かりまた)の泉」伝説
奄美諸島の喜界島の小野津集落には、
源為朝が琉球に渡ろうとした途中に
シケに遭い喜界島の沖合を
漂っているときに
島に住人がいるかどうかを
確かめるために雁股の矢を放ち、
その矢を抜き取った後から
清水が湧き出たと伝えられています。

<横浜の為朝の祠>
横浜市港南区上大岡東1-8付近は
八郎ケ谷と呼ばれ、
落人となった源為朝が
隠れ住んだといわれています。
ここに「為朝の祠」があり、
今でも4月25日に
近隣の人々が供養しているとのことです。

源頼家~悲劇の2代目~北条VS比企、時々朝廷、そして東国武士の権力闘争が渦巻く時期。

公暁~源頼家の息子で源頼朝の孫、叔父であり義理の父親でもある源実朝暗殺の実行犯となった。

三浦胤義~三浦義村の弟で妻は源頼家の側室、承久の乱では京方として三浦一族と激闘の末、自害します。

源実朝~3代将軍にて天才歌人~繊細で思慮深く秘めた志あり、やがて雪の中に散っていく。

源仲章~後鳥羽院の廷臣であり鎌倉幕府の在京御家人という二重スパイ的立場で実朝と共に散ります。

北条義時~鎌倉幕府2代執権~冷酷無情・現実を客観視して行動できる理想家なのか?

三浦義村~鎌倉幕府の創設期から執権政治の確立まで仕え権謀術数に優れた策略家

北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。

北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。

工藤(狩野)茂光~伊豆半島最大の勢力を築いた狩野氏~末裔に絵師集団「狩野派」がいます。

源行家~平治の乱から熊野に隠れて20年、交渉力はあるが戦下手で、武将よりも別の才能があった人物。

義円~源義朝の八男で源義経と阿野全成とは同母兄弟で源頼朝の異母弟、墨俣川の戦いで散る。

加藤景廉~頼朝挙兵以来の側近で承久の乱まで生き残る。長男は遠山氏の祖で有名となった子孫あり!

大庭景親~坂東八平氏の鎌倉氏の一族~最期まで平家に忠誠を尽くした人物です。

神明大神宮 (しんめいだいしんぐう)~懐嶋城址~大庭景義の館址

宇佐美氏とは?~祖は宇佐美祐茂・宇佐美城と宇佐美一族の墓

源義朝の墓(鎌倉)、忠臣の鎌田政家(政清・政長)と共に眠るもう一つのお墓。

山田城山~源義朝の家臣である鎌田政清の居館とされる場所

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