鎌倉殿の13人

藤原兼子~後鳥羽天皇の乳母で院政で権勢をふるい朝幕関係に手腕を発揮するも承久の乱後に権力を失う。

延暦寺 境内 階段



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【藤原兼子】

藤原 兼子(ふじわら の けんし、ふじわらのかねこ
久寿2年(1155年)⇒寛喜元年8月16日
(1229年9月5日))は、
平安時代末期から鎌倉時代前期の公家女官です。
刑部卿・藤原範兼の娘。
通称は卿局(きょうのつぼね)。
位階の昇進に応じて卿三位、卿二位とも。
後鳥羽天皇の乳母を務めました。

同じく後鳥羽天皇の乳母である
藤原範子は姉に当たります。
範子と前夫の娘・源在子は
後鳥羽天皇の妃となり
土御門天皇を産みます。
叔父の藤原範季は
(父である藤原範兼の養子になっているので義兄となる)
後白河法皇の院近臣で、
後鳥羽天皇の養育にあたった人物です。
藤原範季の娘・藤原重子(修明門院)は
後鳥羽天皇の妃となり順徳天皇を産んでいます。

【父を早くに亡くす】
父である藤原範兼は
永万元年(1165年)に死去し、
藤原兼子ら子供達は幼くして
残されたため、叔父である藤原範季に養育されます。

【叔父・藤原範季の人物伝】
有能な行政官・政治家でありながら、
平清盛に滅ぼされた源義朝の遺児である
源範頼を育て、九条兼実の家司でありながら
九条兼実とそりの合わない
後白河院の院司を兼ね、
源義経源頼朝に追われた際には
源義経を支持し、
奥州藤原氏の滅亡後に藤原泰衡の弟である
高衡を匿う等、
当時の権力者の意向に背く危険な選択を
選び続けるという人物です。
或いは懐がかなり深い、のかもしれませんね。

【後鳥羽天皇の乳母として】
一門は後鳥羽天皇と関係が深く、
藤原兼子も乳母として仕えました。
無名の女性でしたが、
後鳥羽天皇の信任が厚く、
その成長と共に重用され、正治元年(1199年)、
45歳で典侍となり、
政治の表舞台に現れるようになります。
独身であった藤原兼子はこの頃に
権中納言・藤原宗頼と結婚しています。

土御門通親との対立】
姉である藤原範子の夫である
久我通親(土御門通親)は
後鳥羽天皇の乳父として権勢を振るっていました。
兄の藤原範光は低い官位ながら
後鳥羽天皇の近習として重用され、
その権勢は土御門通親と並び称されるほどでした。
土御門通親が擁する土御門天皇より、
守成親王(のちの順徳天皇)を
後鳥羽上皇が寵愛した事から、
守成親王を後見する範光・兼子兄妹と
土御門通親の間で対立も起こっています。




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【土御門通親の死後】
建仁2年(1202年)、土御門通親が死去し、
後鳥羽上皇の独裁が強まるにつれて
藤原兼子は藤原範光とともに
側近としていっそう重用され、
権勢を誇っていきます。
建仁3年(1203年)正月の除目について、
「明月記」によりますと、
前年までは土御門通親が実権を握っていましたが、
今年はすべて上皇の意志で行われ、
土御門通親に代わって
権門女房(藤原兼子)が取り仕切っていたということです。

【権勢をふるう中での再婚】
夫の藤原宗頼は結婚から3年後の
建仁3年(1203年)正月に死去。
権勢を誇る藤原兼子に土御門通親の弟である
久我通資など複数の男が近づき、
藤原兼子は同年のうちに
太政大臣大炊御門頼実と再婚しました。

北条政子との対面と約束】
建保6年(1218年)正月、
鎌倉幕府の将軍である源実朝
後継問題を相談するため、
熊野詣と称して上洛した
北条政子と対面します。
藤原兼子の推挙により、
北条政子は出家後の女性としては
異例となる従三位に叙せられました。
藤原兼子は養育していた頼仁親王を
次期将軍に押し、
北条政子も源実朝の妻である
坊門信子の甥である親王を
源実朝の後継者とする案に賛成し、
二人の間で約束が交わされました。
この年の11月、
藤原兼子の後押しを受ける北条政子は
従二位に昇進しました。

【源実朝の暗殺と承久の乱
承久元年(1219年)、
源実朝が暗殺され、
幕府と後鳥羽上皇の対立が深まると、
親王の鎌倉下向を拒否する上皇は、
藤原兼子を遠ざけるようになります。
最終的には西園寺公経の奔走により、
摂関家の子息である藤原頼経が
次期将軍として鎌倉へ下向しました。

2年後の承久3年(1221年)、
兵を挙げた後鳥羽上皇によって
承久の乱が起こります。
上皇は幕府軍に大敗し、
中心となった藤原兼子の一族も
処刑されるなど連座を受け、
後鳥羽上皇・順徳上皇は配流となりました。

【厳しい晩年の生活】
老年の兼子は都に留まり
、乱後8年を生きながらえました。
その間、延暦寺の僧と所領の事で争い、
延暦寺によって京追放、所領没収の訴えを受けたり、
倉に強盗が入って
権勢の間に蓄えた財物を奪われ、
警護の兵が殺害されるなどの
憂き目にあっています。




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【最期】
寛喜元年(1229年)夏頃、
頭部の腫瘍に苦しみ、
それが元で8月16日に75歳で死去しました。
残された財産は修明門院に遺贈されました。
修明門院は藤原兼子の従妹であるとともに、
彼女の猶子だったとする説があります。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
シルビア・グラブさんが演じられます。

後鳥羽院(後鳥羽上皇)、承久の乱を起こし文武両道多芸多能で怨霊伝説もあるスゴイ人物。

土御門通親~村上源氏の嫡流で九条兼実を失脚させ、やがては朝廷政治を掌握します。

藤原範茂卿~墓所は範茂史跡公園~承久の乱の勝利で鎌倉武家政権は盤石となる。

源頼茂~摂津源氏で在京御家人で鎌倉と朝廷を仲介する立場、後鳥羽院に追討され自害。

北条義時~鎌倉幕府2代執権~冷酷無情・現実を客観視して行動できる理想家なのか?

北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。

源実朝~3代将軍にて天才歌人~繊細で思慮深く秘めた志あり、やがて雪の中に散っていく。

九条兼実~九条流の祖、正しき政治体制を目指した厳格さを持つ人物で「玉葉」の著者。

慈円~歴史書「愚管抄」の著者で九条兼実は同母兄、天台座主を務め小倉百人一首にも選出されています。

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