鎌倉殿の13人

土御門通親~村上源氏の嫡流で九条兼実を失脚させ、やがては朝廷政治を掌握します。

法隆寺 敷地内 門 桜



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【土御門通親】

源 通親(みなもと の みちちか)は、
平安時代末期から
鎌倉時代初期にかけての公卿です。
村上源氏久我流、
内大臣・源雅通の子です。
官位は正二位・内大臣、右大将、贈従一位。
久我家4代。

七朝にわたり奉仕し、
村上源氏の全盛期を築きました。
土御門 通親(つちみかど みちちか)
と呼ばれるのが一般的で、
曹洞宗などでは久我 通親(こが みちちか)
と呼ばれています。

【村上源氏の嫡流として】
久安5年(1149年)に
村上源氏の嫡流に生まれ、
保元3年(1158年)、
10歳で氏爵により従五位下に叙されました。
村上源氏は堀河天皇の治世では
(第73代、
在位:1087年1月3日⇒1107年8月9日)
外戚として隆盛を極めましたが、
その後は閑院流に押されて勢力を
後退させていました。

【高倉天皇の側近】
土御門通親の父である雅通は
鳥羽院政期は美福門院に近侍していましたが、
後白河院政が開始されると
立場を転換し、仁安3年(1168年)、
後白河上皇の妃・平滋子の立后に際して
皇太后宮大夫となりました。
土御門通親も高倉天皇の践祚と
同時に昇殿を許され、側近として奉仕しました。
土御門通親の最初の室は
花山院忠雅の娘でしたが、
やがて平教盛の娘(または通盛の娘)を
二人目の室とし、
天皇の背後にいる平家との関係を深めています。

【高倉上皇の補佐】
治承3年(1179年)正月、
蔵人頭となり、治承4年(1180年)正月には
参議・左近衛権中将となって公卿に列しています。
治承三年の政変によって
心ならずも政務を執ることになった
高倉天皇は2月に譲位して
院政を開始しますが、
土御門通親は院庁別当として
政務に未熟な上皇を補佐しました。
土御門通親は3月の厳島御幸や
6月の福原遷都にも付き従いましたが、
5月に起こった以仁王の挙兵を機に
全国各地は動乱状態となり、
11月には平安京還都となりました。

【高倉上皇、崩御】
高倉上皇は体調が悪化して病の床に伏し、
土御門通親は
「惜しからぬ 命をかへて 類ひなき
君が御世をも 千代になさはや」
と歌を詠んで快癒を祈願しましたが、
治承5年(1181年)正月、21歳の若さで崩御。
土御門通親は上皇の近臣として素服を賜りました。
長年、上皇に仕えた土御門通親は崩御を悼み
「高倉院昇霞記」に哀切の情を綴っています。




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【治承・寿永の乱】
やがて平清盛が死去して
後白河院が院政を再開するなど
情勢は目まぐるしく変転しますが、
土御門通親は特定の勢力の庇護に頼らず、
院御所議定の場で積極的に発言を行い、
公事に精励することで
朝廷内での存在感を高めていきました。
寿永2年(1183年)7月の
平家都落ちでは後白河院の下へ
参入して平家と決別し、
8月の後鳥羽天皇の践祚では
神器がないことについて、
後漢の光武帝、東晋の元帝が
即位後に璽を得た例を挙げて
その実現に尽力しました。
11月の法住寺合戦に際しても
法住寺殿に参入しています。

【昇進】
その忠勤が認められ、
元暦2年(1185年)正月に
権中納言に昇進し、
12月の源頼朝による廟堂改革要求において
議奏公卿10名の中に選ばれました。
土御門通親には因幡国が
知行国として給付されたため、
次男・通具を国司に推挙しました。
なお、この頃に後鳥羽天皇の乳母である
藤原範子を室に迎え、
範子の連れ子である在子を養女としています。

九条兼実との関係の悪化】
土御門通親は九条兼実の
内覧宣下及び摂政・藤氏長者宣下
において上卿を務め、
九条兼実も土御門通親の
公事への精励ぶりを称揚するなど、
当初は両者の関係は
悪いものではなかったそうです。
けれども保守的な
九条兼実の執政下では
土御門通親の昇進は抑えられ、
権中納言のまま留め置かれました。
文治4年(1188年)正月、
土御門通親は下臈若輩の九条良経が
超越して正二位に昇ったことに抗議し、
所職を辞して自らも正二位に
叙すことを求めましたが、
九条兼実は前年に従二位に叙した恩を
知らないのは禽獣に異ならないと
罵倒しています(「玉葉」文治4年正月7日条)。
これを機に両者の関係は悪化し、
土御門通親は九条兼実を
追い落とす機会を伺うことになるのです。

【宣陽門院の後見】
文治5年(1189年)10月16日、
土御門通親は後白河院を
久我邸に招いて種々の進物を献上しました。
土御門通親はさらに12月5日、
後白河院の末の皇女(覲子内親王)が
内親王宣下を受けると
勅別当に補されて後見人となり、
生母である丹後局との結びつきを強めました。
建久2年(1191年)6月26日、
覲子内親王が院号宣下を受けて
宣陽門院となると、土御門通親は
宣陽門院執事別当として
その家政を掌握し、院司に子息の
通宗・通具を登用します。
宣陽門院は建久3年(1192年)の
後白河院崩御に伴い、
院領の中で最大規模の
長講堂領を伝領しましたが、
これを実質的に管理した土御門通親は、
院領を知行する廷臣を
自らの傘下に組み入れて
大きな政治的足場を築くことになるのです。




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大江広元との関係強化】
土御門通親は建久元年(1190年)の
源頼朝上洛において、
源頼朝の右近衛大将任官の
上卿を務めるなど
関東の歓心を買うことも
忘れませんでしたが、
源頼朝の腹心である
大江広元との関係強化を図り、
建久2年(1191年)4月1日、
慣例を破って大江広元を
明法博士・左衛門大尉に任じています。

【建久七年の政変】
法皇崩御により九条兼実は
後鳥羽天皇を後見・擁して
朝政を主導しますが、
故実先例に厳格な姿勢や
門閥重視の人事は
中・下級貴族の反発を招き、
しだいに朝廷内での信望を失っていきました。
土御門通親は九条兼実に冷遇されている
善勝寺流や勧修寺流の貴族を味方に引き入れ、
丹後局を通して大姫入内を望む
源頼朝に働きかけ、
中宮・任子を入内させている
九条兼実との離間を図ったのでした。

【養女の在子が後の土御門天皇を産む】
建久6年(1195年)11月、
権大納言に昇進し、
さらに自らの養女・在子が
皇子(為仁、後の土御門天皇)を産んだことで
一気に地歩を固めた土御門通親は、
建久7年(1196年)11月、
任子を内裏から退去させ、
近衛基通を関白に任じて
九条兼実を失脚させたのでした。

【源博陸】
建久9年(1198年)正月、
土御門通親は先例や幕府の反対を押し切り、
土御門天皇の践祚を強行しました。
親王宣下がなかったのは
光仁天皇の例によるとされましたが、
藤原定家は
「光仁の例によるなら弓削法皇(道鏡)は誰なのか」
(兼実を道鏡になぞらえるつもりか)と憤慨しています。
これ以降、土御門通親は
「外祖の号を借りて
天下を独歩するの体なり」と権勢を極め、
「源博陸」と称されることになります。
ちなみに「博陸」は関白の唐名です。
漢の武帝が重臣・霍光を
博陸侯に封じた故事に由来するとのことです。

【源頼朝の死去と源頼家の昇進】
正治元年(1199年)正月、
土御門通親は
自らの右近衛大将就任にあたり、
源頼朝の嫡子である源頼家を
左近衛中将に昇進させることで
幕府の反発を和らげようとしましたが、
18日になって源頼朝の
重病危急の報が舞い込んできました。
源頼朝の死去が公表された後では
源頼家昇進は延引せざるを
得なくなるため、
土御門通親は臨時除目を急遽行い、
自らの右大将就任と
源頼家の昇進の手続きを取りました。

【奇謀の至り】
藤原定家は、源頼朝の死を知りながら
見存の由を称して除目を強行し、
その翌日に弔意を表して
閉門したことを「奇謀の至り」
と非難しています。




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【三左衛門事件】
源頼朝の死は政局の動揺を巻き起こし、
京都では一条能保の郎等が
土御門通親の襲撃を企て、
土御門通親が院御所に
立て籠もるという事件が発生しました。
大江広元を中心とする
幕府首脳部は土御門通親支持を決定し、
土御門通親排斥の動きは
抑えられて京都は平静に帰したのでした。

【実質的に太政官を取りまとめる】
土御門通親は土御門邸において、
寝殿を造り直し
四足門を立てるなど準備を整え、
6月22日に内大臣に任じられました。
一方で成人した
後鳥羽上皇の意向にも配慮して、
九条良経を左大臣、
近衛家実を右大臣に据えることで
近衛・九条両家の融和を図っています。
九条良経と近衛家実は共に若年であり、
土御門通親が実質的に
太政官を取りまとめる形となりました。
この頃に、土御門通親は
松殿基房の娘・伊子を妻としています。

【急死と後鳥羽院政】
正治2年(1200年)4月、
後鳥羽上皇の第三皇子である
守成親王(後の順徳天皇
が立太子すると土御門通親は東宮傅となり、
義弟の藤原範光を春宮亮、
嫡子の源通光を春宮権亮に任じて、
春宮坊を村上源氏と高倉家で固めました。
建仁2年(1202年)になっても土御門通親は、
養女・在子の院号宣下(承明門院)
の上卿を務め、
盟友の葉室宗頼が造営した
院御所・京極殿に参入して
上皇を迎えるなど精力的に活動していました。
しかしながら10月21日に54歳で急死しました。
突然の訃報を聞いた近衛家実は
「院中諸事を申し行うの人なり」
と日記に記し(「猪隈関白記」)、
朝廷は土御門天皇の
外祖父として従一位を追贈しました。
後鳥羽上皇も御歌合を止めて
哀悼の意を表したということです。
土御門通親の死後、
後鳥羽上皇を諫止できる者は
いなくなり、後鳥羽院政が
本格的に始まることになるのです。

【和歌の才能に優れる】
土御門通親は和歌の才能にも優れ、
和歌所寄人にも任じられて
後の「新古今和歌集」編纂に通じる
新しい勅撰和歌集の計画を主導していました。
けれども、新古今集の完成を見ることなく
54歳で亡くなりました。
「新古今和歌集」など多くの和歌集に
土御門通親の和歌が採用されています。

【土御門通親の子孫】
長男・源通宗は参議正四位下左中将に
なったものの建久9年(1198年)に
31歳の若さで卒去しました。
けれどもその娘である
通子と土御門天皇の間から
後嵯峨天皇が誕生し、
土御門通親の一族は
土御門・後嵯峨の2代の天皇の外戚になりました。

その後、新たに台頭してきた
西園寺家に押されて
土御門通親時代の繁栄を
取り戻す事はありませんでしたが、
それでも土御門通親の
子供達―通具・通光(嫡子)・定通・通方は
それぞれ堀川家・久我家・
土御門家・中院家の四家に分かれました。
堀川家と土御門家は断絶しましたが、
久我家と中院家は
明治維新にいたるまで
家名を存続させ
華族に列せられています。
なお、北畠家は中院家の、
岩倉家は久我家の庶流です。




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【曹洞宗の開祖】
最も歴史に名を残したのは、
土御門通親と藤原伊子との
間に生まれた六男です。
幼くして両親の死に遭遇した
その少年は出家して道元と名乗ります。
彼が南宋から帰国して
「曹洞宗」を開くのは
土御門通親の死から24年後の事でした。
最も、道元の両親が
誰であるかについては諸説あります。
土御門通親と伊子を両親とする
面山瑞方による訂補本
「建撕記」の記載の信用性には
疑義が呈されています。
養父とされていた
源通親の子である
大納言の堀川通具を
実父とする説もあるとのことです。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
関智一(せきともかず)さんが演じられます。

後白河院(後白河院天皇)(後白河法皇)「治天の君」の地位を保持した「日本一の大天狗」の異名をとる人物。

丹後局(高階栄子)~中流官僚の妻から後白河法皇の寵愛を受け、政治家として権勢を振るった美女

九条兼実~九条流の祖、正しき政治体制を目指した厳格さを持つ人物で「玉葉」の著者。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

後鳥羽院(後鳥羽上皇)、承久の乱を起こし文武両道多芸多能で怨霊伝説もあるスゴイ人物。

藤原兼子~後鳥羽天皇の乳母で院政で権勢をふるい朝幕関係に手腕を発揮するも承久の乱後に権力を失う。

北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。

大江広元~四男の毛利季光は毛利氏の祖となりやがて戦国大名の毛利氏へと続きます。

源頼家~悲劇の2代目~北条VS比企、時々朝廷、そして東国武士の権力闘争が渦巻く時期。

大姫~源頼朝と北条政子の長女~生涯をかけて愛を貫いた儚くも一本気な姫、静御前と心を通わせる

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