鎌倉殿の13人

虎御前~曽我兄弟の兄・曽我十郎祐成の愛妾、山下長者屋敷(住吉要害)で生まれ育ったとされています。

虎女(虎御前)住庵の跡



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虎御前

虎御前(とらごぜん、安元元年(1175年)⇒
嘉禎4年(1238年)?)は、
鎌倉時代初期の遊女で、曾我祐成の妾です。
お虎さん、虎女(とらじょ)
とも呼ばれています。
富士の巻狩りの際に起こった
曾我兄弟の仇討ちを描いた「曽我物語」で、
この物語を色づけ
深みを持たせる役割となっています。
「吾妻鏡」にも出てくることから
実在した女性とされており、
彼女にまつわる史跡もあります。
江戸期に制作された
多数の曾我物にも登場し、
虎御前の名は広く知られることとなりました。

【虎御前の生涯】
曾我十郎祐成と弟の曾我五郎時致は
早くから父の仇を討とうと
考えていたとされており、
妻妾を持つことを考えていなかったと見られています。
が、弟の曾我五郎時致の勧めもあり
妾を持つことになった曾我十郎祐成は、
自分が死んだ後のことを考え
職業を持つ遊女を選んだといわれています。
虎御前と曾我十郎祐成は
会ってすぐに恋に落ちたとされています。
虎御前17歳、曾我十郎祐成20歳の時でした。
(若い二人じゃのう・・・。
現代なら女子高生と大学生のカップルじゃのう。)

虎御前が19歳の年、
建久4年(1193年)5月28日に
源頼朝が催した富士の裾野での狩りに
夜陰に乗じて忍び込んだ曾我兄弟は、
父の仇の工藤祐経を討ち取りました。
けれども、曾我十郎祐成は
その場で仁田忠常に切り殺され、
曾我五郎時致も生け捕りになった後、
源頼朝直々に取り調べられて処刑されました。

曾我十郎祐成の死後、
虎御前は曾我兄弟のである満江御前
曾我の里に訪ねたあと箱根に登り、
箱根権現社の別当の手により出家しました。
熊野や諸国の霊場を巡りながら
曾我兄弟の菩提を弔い、
兄弟の一周忌を曾我の里で営んだとのことです。
その後は曾我兄弟の供養のため
信州の善光寺に参り、
首にかけた2人の遺骨を奉納したとのことです。
大磯にもどった後、
高麗寺山の北側の山下に庵を結び、
菩薩地蔵を安置し、
夫の供養に明け暮れる日々を過ごした事が
山下(平塚市山下)に現存する
高麗寺の末寺であった荘巌寺に伝わる
「荘巌寺虎御前縁起」に記されています。

虎女住庵跡と五輪塔

虎御前は曾我兄弟の供養を片時も忘れることなく、
「曽我物語」の生成に深く関わりながら
その小庵で63年と言われる
その生涯を閉じたのでした。
虎御前の生涯はそれまでは
嘉禄3年(1227年)2月13日没、
享年53歳といわれていましたが、
最近の研究では没年は
嘉禎4年(1238年)とされています。
ちなみにこの時の鎌倉幕府執権は
3代目となる北条泰時
鎌倉大仏の建立が始まった年とされています。

【「吾妻鏡」における虎御前】
「吾妻鏡」によりますと、
建久4年(1193年)5月28日に
曾我兄弟による仇討ち事件が起こった後、
6月1日に曾我祐成の妾である
虎という名の大磯の遊女を召し出して
訊問しましたが、無罪だったため
放免したと記されています(建久4年6月1日条)。
6月18日には虎御前が
箱根で曾我十郎祐成の供養を営み、
曾我十郎祐成が最後に与えた
葦毛の馬を捧げて出家を遂げ、
信濃善光寺に赴いたとのことです。
その時19歳であったと記されています。
(建久4年6月18日条)。




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【「曽我物語」における虎御前】
【出自】
虎御前の出自については諸説あります。
「重須本曽我物語」では、虎御前の母は
平塚の遊女である夜叉王で、
父は都を逃れて相模国海老名郷にいた
宮内判官家永(藤原実基の乳母の子)
だとされています。
虎御前は平塚で生まれ
大磯の長者のもとで
遊女になったとのことです。

虎御前の母の夜叉王がいた
平塚の遊女宿は
現在の平塚市の黒部が丘あたりに
あったと言われています。
大磯の長者は高麗山の近く(現在の平塚市山下)
であるので余り離れた場所ではありません。
花水川が間にありますが、
歩いても一時間は掛からない程の
距離にあります。

なお虎女(虎御前)が開いたとされる
大磯・延台寺の縁起では、
山下長者の本名を、
伏見大納言藤原実基卿としています。
山下長者屋敷には、
伏見大納言藤原実基が
住んでいたともされており、
虎御前の父(養父?)は
藤原実基の可能性もあります。
藤原実基は、40歳になっても、
子宝に恵まれず、夫婦で、
虎池弁財天に日夜願うと、
虎の刻に女の子を
授かったという伝承があります。

【この時代の遊女について】
平安時代~鎌倉時代頃の遊女と言うのは、
夜の宴会などで、
芸や歌を披露する職業をもった女性
と言う意味になります。
芸を披露する教養も必要な事から、
村の貧しい娘が武家や
公家相手の遊女になると言う事は、
あまり考えられず、
武家など身元がきちんとわかっており、
身分もそれなりの格のある娘が、
武士の宴会などで接待役(遊女)と
呼ばれる場合が殆どでありました。
旅の途中に宿泊した際に
宴会に遊女が来たりしますので、
有名な鎌倉御家人には、
遊女に産ませた子も、結構、見受けられます。
例えば、源義朝の6男である源範頼の母は、
遠江・池田宿の遊女とされています。

【「虎」という名前について】
寅年の寅の日の寅の刻に生まれたので
三寅御前と名づけたと「曽我物語」にありますが、
徳川家康みたい)
実際には虎御前は未(ひつじ)年の生まれです。
なぜ虎という名前をつけたのかについては
本当のところは不明ですが、
トランと呼ばれた、仏教、道教を修めた巫女がいて、
トラ石と呼ばれる石のある場所で
修法をしていたのではないかと
推測する専門家もいます。
虎御前が生まれた場所は
近くにもろこしが原があり、
その向こうには高麗寺山があるという
異国の面影があったともされています。
唐(もろこし)の枕詞は
虎であるらしいのですが
その為かどうかは判らないとのことです。
当時の呼び方として「ごぜん」ではなく
短く「ごぜ」としたようで、
後の瞽女(ごぜ)に通ずるとも。
また、俳句などでは
虎御前と書いて「とらごぜ」と
読ませることもあるとのことです。




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【虎が石と伝承】
各地には虎御前の伝承と
結び付けられた虎が石が
存在しているとのことです。
大磯町の延台寺に伝わる虎が石は、
子宝祈願のため
虎池弁財天を拝んだ
山下長者の妻に与えられ、
やがて夫妻は虎御前を授かったとされています。

花水山 東光寺

虎御前の成長とともにこの石も成長し、
曾我十郎祐成を賊の矢から
防いだことで身代わり石とも呼ばれています。
静岡県の足柄峠に伝わるものは、
曾我兄弟の仇討ちの成功を案じた虎御前が、
仇討ちの場所となる富士の裾野を
常々眺め暮らすうちに
その念が石と化して残ったもので、
美男が持てば軽く上がるということです。
大分市に伝わる虎御前石は、
曾我兄弟の菩提を弔うため
尼となって諸国を巡った虎御前が、
この石に座って体を休めたと伝えられています。

【山梨県の伝承】
また、山梨県南アルプス市芦安安通では
虎御前はこの地の出生と伝えられ、
曾我十郎祐成の死後は
同地に帰って亡くなったという
伝承があります。

【兵庫県の伝承】
兵庫県朝来市では虎御前が
この地を訪れた際に足を患い、
同地で没したとの伝えがあり、
虎御前の墓が存在しています。

【伝承が生まれた背景】
こうした虎御前の伝承が
諸国に広くみられる背景として、
曽我伝説を流布していた
各地のトラと呼ばれた
巫女達の行為及び活躍が、
虎御前そのものとして
後世に伝わったのではないかと推測する
専門家がいます。

【虎が雨】
俳句の夏の季語に
「虎が雨(とらがあめ)」という言葉があります。
これは旧暦の5月28日に降る雨に
後世の人びとが虎御前の悲しみを
重ねたものであると云われているそうです。
この日は曾我兄弟の仇討ち決行の日であり、
曾我十郎祐成の命日に当たります。
この雨は曾我十郎祐成の死を悲しんだ
虎御前の流す涙が雨となって
降り注ぐものとされ、
曾我の雨、虎が涙とも
称されていると云われているとのことです。
元来、5月28日には少量でも
雨が降ると伝えられており、
それに仇討ち決行が大雨の中で行われたこと、
曽我物においての虎御前の
貞女な様が涙雨を呼び起こすことなどと
結び付けられたものと
考えられているとのことです。

【山下長者屋敷跡蹟】

この辺り一帯は中世土豪の遺構のあるところです。
東西20m、南北110mの屋敷跡と
空堀や土塁が残されています。
高麗山に続く小山から緩やかに花水川へのびた
微高段丘上に位置しています。
この単郭方形の遺構は平安時代末期のころに
造られた館の址とされており、
広い屋敷を土塁で囲み、小山を造り、
池を掘り周囲に濠蹟も残っています。
現在は大きな欅の木が二本、
土塁らしき場所に植えられています。
根元には頭大ほどの古石が納まっています。

山下長者屋敷跡蹟

この遺構は山下長者屋敷跡と云われており、
多くの伝承があります。
その一つとしては、曽我兄弟の仇討で
知られている兄の曾我十郎祐成を助け
愛妾となった虎御前は
この屋敷で生まれたとされています。
「山下長者」については諸説あるとの事です。
この地にあった宮内判官家永または
其の縁者とされております。
また藤原実基であるともされており、
現在はその山下長者屋敷跡の東側に
虎女(虎御前)を祀る祠や
住庵跡の碑や虎女住庵跡の碑があります。

虎女(虎御前)住庵跡の碑

【住吉要害】
時は戦国時代初期に飛びます。
永正7年(1510年)6月、
伊勢盛時北条早雲)は側についた
扇谷上杉定正氏の家臣である上杉政盛が
武蔵国の権現山城で挙兵します。
扇谷上杉家の上杉朝良と、
山内上杉家の上杉憲房が、
武蔵・権現山城を包囲したので、
その援軍として、伊勢盛時(北条早雲)が、
同年7月、高麗山城や、
住吉城郭と言う古城を改修して、
後方からの攻撃態勢を取ったとのことです。
山下長者屋敷の背後に、
高麗山城があることからも、
この住吉城郭は、
住吉要害の場所、即ち
山下長者屋敷だと考えられています。
さて、勝敗ですが、
武蔵国の権現山城は陥落し、
上田政盛は討死したとのことですが、
上田正忠ら一族は、
伊勢盛時の許に逃れたともされています。
なお、住吉要害については
逗子・小坪の住吉城説との説もあります。

山下長者屋敷跡(住吉要害)

【所在地】
〒254-0911 神奈川県平塚市山下382−1




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※付近に駐車場はありません。
虎女住庵のある東光寺観音堂前と
八幡神社のある
公園の辺りの道端に停車しました。
山下長者屋敷跡の辺りは住宅街で、
道幅も狭く道路もかくんかくんと曲がっており
停車できるスペースは一切ありません。

八幡神社のある公園

【虎女住庵の跡】

虎御前は平塚宿の遊女夜叉王と
宮内判官・家永(藤原基成の乳母の子)
もしくは藤原実基との間の娘であるとされております。
曽我兄弟死後、虎御前は19歳で出家し
兄弟鎮魂の廻国行脚した後、
大磯に帰り高麗山北側の山の下で、
現在の「東光寺観音堂」横の
空き地の部分に庵を結んだとのことです。

虎女(虎御前)住庵の跡 五輪塔

この地は「高麗寺山下」の地名であったとの事です。

【所在地】
〒254-0911 神奈川県平塚市山下399

【交通アクセス】
平塚駅北口下車 神奈中バス 
平33系統松岩寺行き
平36系統二宮駅行き 
「下万田」下車200m

曽我兄弟の縁の地・富士宮市~井出の代官屋敷・曽我八幡宮・曽我兄弟の供養塔・曽我の隠れ岩・音止の滝 

曽我兄弟の縁の場所(富士市)~化粧坂少将(姫宮神社)・曽我寺・曽我八幡宮・五郎の首洗い井戸

満江(万劫)御前~曽我兄弟を含めて5人の子供のお母さんで狩野茂光の孫娘です。屋敷跡やお墓があります。

曾我城跡~曾我兄弟が育った曽我氏の館。北条氏康に滅ぼされたが嫡流は足利将軍や徳川家に仕え出世した。

河津三郎祐泰と血塚・伊東祐親の嫡男で曽我兄弟の父親であり曽我兄弟の仇討はここから始まりました。

伊東佑親~源頼朝の配流地の監視役で八重姫の父であり、北条義時・曽我兄弟・三浦義村の祖父。

工藤(狩野)茂光~伊豆半島最大の勢力を築いた狩野氏~末裔に絵師集団「狩野派」がいます。

工藤佑経~復讐の連鎖の果てに~曽我兄弟の仇討の相手で後見人の伊東祐親に所領と妻を奪われてしまった人

真田城~神奈川県平塚市にある真田の郷、真田與一義忠(佐奈田義忠)について。

扇谷上杉管領屋敷跡~扇谷上杉氏の遠祖は足利尊氏の叔父。鎌倉公方を補佐する関東管領家として鎌倉に居住。

伊勢盛時(北条早雲・伊勢宗瑞)の登場~小田原北条初代~名門一族の出自で関東に覇を唱えに行く!

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