史跡・城跡

疋壇城~越前国境守備~刀根坂の戦い 斎藤龍興終焉の地

疋田城跡




疋壇城
所在地:〒914-0302福井県敦賀市疋田1-3-43
北陸本線の線路のすぐそば。
付近の町並みは、水路もあり昔ながらの風情があります。
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疋壇城(ひきだじょう)は、福井県敦賀市疋田にあった山城です。
越前の戦国大名であった
朝倉氏の近江・越前国境守備の役割を担っていました。
疋田城と表記されることもあります。
福井県の史跡に指定されています。
別名は塩山城(えんやまじょう)とも称します。
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<概要>
疋田は、古くからの交通の要衝であり、
近江から越前に向かう複数の道が集合する地点でした。
主要な道として、七里半越(国道161号)、
新道野越(国道8号)、深坂越、刀根越が挙げられます。
軍事上も重要な地であり、
奈良時代には三関のひとつである愛発(あらち)関があったといわれています。
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戦国時代初期には朝倉氏により疋壇城が築かれ、
その後、織田信長との戦いを経て廃城となりました。
現在、城跡付近は大半が畑ですが、本丸跡、石垣、堀の遺構が残されています。
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<歴史>
文明年間(1469~1487年)、
朝倉氏家臣の疋壇対馬守久保により築城。
以後、疋壇氏は、城主として七代百余年にわたって続きました。

元亀元年(1570年)4月26日、
織田信長による越前攻めで、金ヶ崎城・手筒山城と共に疋壇城が落城。
4月27日 
浅井長政の裏切りで、信長が撤退。
その後、疋壇城は修復され、栂野三郎右衛門尉景仍らが布陣。
天正元年(1573年)
8月12日 
信長が二回めの越前攻略、疋壇城は再び攻め落とされました。
8月13日 
刀根坂の戦いで朝倉軍大敗。
この戦いで朝倉軍は三千名以上の戦死者を出したそうです。
8月20日 一乗谷にて朝倉氏滅亡。

<遺構>
曲輪、堀、石垣

【交通アクセス】
<車>
北陸自動車道敦賀インターチェンジから国道8号を滋賀方面へ車で10分。
<JR>
JR西日本・北陸本線「新疋田」駅から徒歩10分。





<地図>
ほぼ畑で少し高台の処に石碑があるようです。
城跡の前の道は大変狭く、勾配があり、
自動車での侵入は難しい模様ですが
地図の下の城跡への道から城跡へ向かえば、車で何とか入れます。

記帳用のノートがあります。
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城跡の広場は小学校の跡地でもあり、
北陸本線の踏切があります。

<特急・サンダーバード>

【刀根坂の戦い】
刀根坂の戦い(とねざかのたたかい)は、
天正元年8月(1573年9月)に
織田信長と朝倉義景の間で行なわれた戦国時代の合戦で激戦でした。
大嶽砦の陥落を知った義景は形勢を判断。
織田軍総勢3万に対し、朝倉軍は2万。
朝倉勢は主力重臣らを欠いた上、戦意も低く、
勝ち目がないことを悟った義景は撤退を決断します。
朝倉軍が撤退を開始するや、信長は本隊を率い、
自ら先頭指揮を行って朝倉軍を徹底的に追撃します。
しかし織田方の先手武将達は、
事前通達を受けていたにも関わらず信長より遅れてしまい、
後に叱責を受けています。

元々近江出兵に際し家中の意思統一も成されず、
織田方の内部懐柔工作などで戦意もない朝倉軍は、
退却戦の混乱に織田軍の猛追を受けて撫で斬りにされてしまいました。
義景は疋田城への撤退を目標とし、
経路である刀根坂に向かいましたが、ここでも信長自らが率いる織田軍の追討を受けます。
余呉から刀根坂、敦賀にかけての撤退中、
朝倉軍は織田軍に押され、
織田方の記録に拠れば3000人以上
(但し「武将38人、兵3800人」)と言われる死者を出します。
朝倉軍も果敢に奮闘しましたが、
北庄城主朝倉景行や当時17歳の朝倉道景といった一門衆を含め、
山崎吉家、斎藤龍興、河合吉統など
大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していた
名のある武将が多数散っていきました。
織田軍は翌14日まで朝倉軍を徹底的に追撃しました。
これにより朝倉本家の直属軍勢と部将はほぼ壊滅してしまいました。
義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還しましたが、
10人程度の側近だけだったようです。

力根坂で亡くなった武士たちの供養塔及び野仏
刀根坂の戦いで戦死した武将の墓と言われるものが疋田にいくつかあります。
そのうちのひとつは、
五位川と笙の川の合流地点の橋のたもと、
国道8号沿い、山麓にあります。
国道工事の際、多数出てきたそうです。
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一乗谷城の戦い】
義景は15日に一乗谷(一乗谷城)に帰陣しましたが、
義景の手勢は近習含めわずか
500人となってしまっていたと伝えられています。
従弟である朝倉氏の同名衆筆頭の大野郡司朝倉景鏡が、
一乗谷を捨てて
越前北部の大野郡にて形勢の建て直しを図るように進言します。
大野郡は盆地であり守るに堅く、
当時朝倉氏と同盟関係にあった
平泉寺を頼りに再起を期そうと促しました。
平泉寺は勇猛で知られる僧兵集団があり、
近江出兵で丁野城の守備についていました)。
けれども既に平泉寺の僧兵も所領安堵などを条件として
信長と内通していたのでした。
信長は一乗谷の市街地を襲撃制圧して焼き払います。
往時は1万人余もの人口にて繁栄を誇った街は灰燼に帰します。
一乗谷突入の際の信長方で、
最も際立った働きをしたのは当主武田元明
朝倉の捕虜にされていた若狭武田氏旧家臣らであり、
中でも国吉城主の粟屋勝久は一乗谷に一番乗りしたそうです。
またこの時、朝倉氏になおも忠義を尽くそうとする者数百名が
織田軍と戦ったと伝えられています。

手勢のみを率いて一乗谷を逃れ、
景鏡に促され大野郡へと移動していた義景は、
仮の宿所として景鏡に指定されていた六坊賢松寺を、
周到に主を裏切った景鏡の手勢200に囲まれます。
近習らが奮戦・討ち死にする中で義景は自刃しました。
享年は41歳でした。
景鏡は義景の首を持参し信長に降参します。
義景の嫡男・愛王丸や義景の愛妾小少将など、
義景の極近親者は降伏を条件に助命され捕らえられます。
しかし織田軍により義景の係累たちは
護送中に処刑されてしまったのでした。
こうして北陸越前の戦国大名であった朝倉家は滅亡しました。

【斎藤龍興】
斎藤 龍興(さいとう たつおき)は、
戦国時代の美濃国の戦国大名です。
斎藤義龍の庶子として生まれたと伝わりますが
嫡子との説もあります。
永禄4年(1561年)、
父・義龍の死により14歳で美濃斎藤氏の家督を継ぎます。
しかし父の代から続く尾張国の織田信長の侵攻、
祖父の代より続く家臣の流出
森可成・坂井政尚・堀秀重・斎藤利治明智光秀
などにより家臣の信望を得ることができませんでした。
そして信長によって稲葉山城を落とされ、亡命します。
その後、縁戚関係にあったことから
越前国の朝倉義景のもとへ逃れ保護されます。
そして刀根坂の戦いで
命を落としますが(享年26歳)生存説もあります。

<生存説>
家宝系図を持って永禄12年(1569年)、
3月に越中国新川郡布市村に来て、興国寺に隠れます。
天下の情勢から家を再興する事かなわずと悟った龍興は、
九右ェ門と改名し、付近の原野を開拓します。
慶長16年(1611年)、九右ェ門は家督を子に譲り、
興国寺で出家、住持となります。
興国寺には、龍興が持参したという
鎧鞍と念持仏(木造阿弥陀如来立像)が伝えられています。
寛永9年(1632年)6月19日に示寂(他界)。
墓は富山市経力の本誓寺の前にあると伝わります。
享年は87歳とのことです。

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