史跡・城跡

黒井城~丹波三大山城~250年間続いた中世から戦国時代の貴重な城郭

黒井城址



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黒井城

黒井城(くろいじょう)は、
兵庫県丹波市にある日本の城跡。
別名を保月城(ほげつじょう)、
保築城(ほづきじょう)とも称します。
国の史跡です。

【所在地】
兵庫県丹波市春日町多田
【築城主】
赤松貞範
【築城年】
建武年間(1334年ー1338年)
【主な改修者】
赤井直正斎藤利三堀尾吉晴
【廃城】
天正12年(1584年)
【形態】
連郭式山城
【遺構】
石垣、空堀、郭跡、堀切、土塁等

【概要】
標高356m、猪ノ口山の三方尾根伝いに
曲輪群を配置し全山を要塞化しています。
建武年間に赤松貞範が築城。
戦国時代には赤井直正の居城でした。
天正7年(1579年)、
赤井直義の時、明智光秀に攻められ落城。
其の後は明智光秀の重臣である斎藤利三が城主となり、
今日の規模にまで改修したとあります。
山崎の戦いの後、堀尾吉晴が入城しました。
関ヶ原の戦いの後、川勝秀氏が城主となりましたが、
そのの後廃城となり、
約250年間続いた城の歴史に幕を閉じました。

2017年(平成29年)4月6日、
続日本100名城(163番)に選定されました。

スタンプ設置場所は春日住民センターです。
詳しい登城地図もあるそうです。
【所在地】
兵庫県丹波市春日町黒井496−2
【電話】
0795-74-0225
<場所>

<駐車場にある黒井城の山頂写真>
黒井城の山頂の写真

【城郭】
猪ノ口山の山頂部には本丸・二の丸・三の丸と呼ばれる曲輪があります。

【主曲輪】
山頂部分の曲輪は、主曲輪部分の曲輪の配置、
石垣の組み方、
本格的な建物跡から近世風との指摘があるそうです。

【本丸】
南面と二の丸方向を石垣で固め、他は土塁です。
石垣は土塁の上に築かれており、
鉢巻石垣と同じ構造です。
登り口東横の石垣の囲まれた部分には、
天守の礎石とみられる石の配列があり、
これは天守台の祖型であると推察できるそうです。
また、分厚い瓦が出土しているとのことです。
昭和初期までは、
建造物の礎石が並んでいたと言われていますが、
現状確認はできない状態となっています。

【二の丸】
南面と本丸、三の丸側に面した所に
石垣が築かれていますが、
三の丸側の石垣は崩壊が進んでいて危険です。
また崩壊があることから
櫓台跡とも推定されているそうです。
また並瓦、軒瓦、冠瓦などの遺物から、
室町時代特有の大きな瓦葺きの建造物が、
本丸東部と二の丸北西部に
建設されていたと実証されています。

※※本丸と二の丸にある「張り出し石垣」は、
野づら積みの高石垣で迫力満点とのことです。




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【三の丸】
隅櫓の石垣と二の門の礎石がある曲輪です。
本丸、二の丸は直線上にあるのに対して、
三の丸と東曲輪は「くの字」型をしており、
矢掛りがかかるように配置しています。
この構造は、黒井城の特徴の一つとのことです。
城門の礎石は二列が確認でき、
ある程度の規模の門があったと
推察できるとのことです。

【周辺曲輪】
主曲輪の一段下に東曲輪(25m×15m)と
西曲輪(10m×30m)と
幅3mから10mの帯曲輪があるそうです。
石垣は野づら積み、
隅部は算木積みと言われる工法で築かれています。
これらの石垣は、
いずれも天正年間の石垣と考えられています。

【山麓曲輪】
山頂部以外に、山麓にも北の丸、
西の丸、水の手曲輪、
太鼓の段(見張り櫓と太鼓櫓があった場所)、
石踏の段、三段曲輪など多数の曲輪群が配されており、
山頂部の防御を固めている構造とのことです。

特に、西の丸曲輪は「小城」とも呼ばれており、
西北に約200mにわたり、
4段の土塁に囲まれた曲輪があり、
下から二番目の曲輪に
馬蹄型の土塁の中央部が崩されて、
(上辺約2.5m×高さ約1.5m(堀切から高さ約3m))
急斜面となり堀切を切っているそうでする。
西からくる敵に対して防御を固めるとともに、
「詰の城」の機能をもった
曲輪跡と考えられているそうです。

石踏の段と太鼓の段の中間地点に、
湧き水を溜める「水の手曲輪」があり、
山頂部の北側と、山頂部の南下側には
横穴式の用水機構がある
水の手曲輪が確認できるとのことです。

【下館と出砦】
猪ノ口山の登山口には、
興禅寺があり
下館(しもやかた)跡であると推定されています。
この下館は赤井直正が黒井城に入城した時に、
奥村氏の屋敷跡を改修し、
水濠と石垣などの防御施設も備えている点から、
単純な居館とは一線を
画しているという指摘があります。

<興禅寺の石垣>
興禅寺の石垣

山城は山麓に居館を設け平時はそこで暮らし、
戦時には山に立て篭もるのが
一般的とされていました。
この下館を中心に家臣屋敷も建ち並び、
職人町、商人町もあり、坂が多く、
道も折れ曲がっている点から
江戸時代の城下町とは異なり、
戦国時代の城下町の面影を
今も色濃く残していると言えます。
また根古山、丸山、太刀野、幟立、馬縄手等の
城の名残を思い浮かべる地名が数多く伝承されています。

<黒井城下の町並み>
黒井城下の町並み




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下館以外にも3つの尾根筋の突端には、
北西に千丈寺砦、北東に龍ヶ鼻砦、
百間馬場、南東に的場砦、
東山砦と山頂部を中心に
「Y」字に出砦があるとのことです。
また、千丈寺砦、龍ヶ鼻砦、的場砦、東山砦は
山頂部から1km前後と等しい間隔にあり、
これらの砦では似通った曲輪跡が認められています。

【登城口】
<駐車場にある地図>
黒井城・登城コース

<ゆるやかコース入り口>
黒井(保月)城・ゆるやかコース

<急坂コース入り口>
黒井(保月)城・急坂コース

【交通アクセス】
【電車】
JR 福知山線「黒井」駅⇒ 徒歩登山口約10分
【車】
舞鶴若狭自動車道 春日IC⇒ 国道175号⇒興禅寺
猪ノ口山の登山口に無料駐車場あり
徒歩でのアクセス
登山口⇒主曲輪部分 徒歩約40~60分

<駐車場付近の石碑>
黒井城の石碑(駐車場)

【登城される際の諸注意】
【1】
登山用または
トレッキング用シューズで登城しましょう。
【2】
水分補給をしっかりできるように
飲料水を持ち歩きましょう。
【3】
熱中症対策も必ずしましょう。
【4】
虫よけ対策も行いましょう。
【5】
服装は長袖長ズボンが望ましいです。
【6】
トレッキングポール
杖があるといいと思います。
【7】
途中に猪垣門扉がありますが、
開けたあとは必ず閉めてから登り降りましょう。

<黒井城の場所>
青印は登城者専用の無料駐車場入り口です。

【城の歴史】
赤松氏時代】
赤松貞範が足利尊氏に従軍し、
新田義貞軍と戦った功績により
建武2年(1335年)12月12日に
丹波国春日部荘を所領され、
この時に築城が始まったと推測されています。
しかし、猪ノ口山にはまだ築城されていなかった、
という考えもあるそうです。
軍事的な緊張があって、
初めて城が築かれるという考えがあり、
戦闘が終息する時期に築城するのはおかしい、
というのがその理由とのことです。
その後、赤松五代、約120年間にわたり、
この地を統治していたとのことです。

【赤松春日家】
【一代】赤松貞範
【二代】赤松顕則
【三代】赤松満則
【四代】赤松貞村
【五代】赤松教貞

しかしながら、
赤松氏が春日部領を
直接統治していたという記録はなく、
代官を代々配置し、
遠隔統治していたのではないかと
推測されているそうです。




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荻野氏・赤井氏時代】
その後の経緯については、
現在史料が確認されておらず、
詳細は不明であるそうです。
赤松氏に代わり荻野氏が
春日部領を次第に納めていったと
推測されているそうです。

大永6年(1526年)11月の
八上・神尾山両城の戦いで
時の黒井城の城主である赤井五郎が
3000の兵を率いて、
神尾山城の包囲軍を背後から
襲い掛かったという記録があります。

ただし、赤井五郎という人物が
後に黒井城で活躍する
赤井直正一族とどのような関係があるのか
現在の所、不明です。
その後の記録では
天文年間(1532年ー1554年)に
荻野秋清が黒井城主となっています。
一方、赤井氏は
氷上町の後屋城を拠点としていました。
赤井時家の次男である赤井直正を、
荻野正元に質子として朝日城に送っています。
荻野正元の息子が、
その時の黒井城の城主であった荻野秋清でした。

【黒井城の乗っ取り戦】
赤井直正は荻野秋清へ
年初の挨拶に黒井城に出向いていました。
その後、荻野秋清を暗殺し、
黒井城を乗っ取ります。
原因や経緯については
諸書にさまざまな説があり、
正確な理由は現在でも不明ですが、
同年8月5日付の
「赤井時家書状」によりますと、
赤井直正は再び
朝日城に預けられていることが
確認されているので、
荻野昭清の父親である
荻野正元が放った
刺客ではなかったかと推察されています。

【赤井直正、勢力拡大】
赤井直正は悪右衛門直正と名乗り、
黒井城を拠点に戦国武将の道を歩み始めます。
赤井直正は細川晴元派であったとのことです。
そのため、細川晴元の没後も
その政敵である三好氏との戦いを続けていました。
永禄7年(1564年)に多紀郡へ侵攻、
翌年の永禄8年(1565年)には、
三好氏方の松永久秀の弟である
松永長頼(内藤宗勝)を
福知山市にある
和久城付近で夜襲にて討ち取り、
丹波国から反細川晴元勢力を一掃し、
但馬国、丹後国へ
勢力を拡大させていきました。

【第一次黒井城の戦い】
天正3年(1575年)、織田信長
明智光秀を総大将に
丹波国征討戦に乗り出します。
赤井直正は黒井城に帰城して
戦闘態勢を整えます。
明智光秀は黒井城を包囲し、
攻城戦が2ヵ月以上となった
翌年の天正3年(1575年)1月15日、
波多野秀治ら率いる波多野兄弟軍が
明智光秀軍の背後をつき、
明智光秀は総退却となりました。

【第二次黒井城の戦い】
天正5年(1577年)10月、
第二次丹波征討戦が開始されました。
まず明智軍は多紀郡にある籾井城
桑田郡にある亀山城を落城、
この二城を丹波征討戦の本拠地とします。
第一次丹波征討戦と異なり、
明智光秀は一挙に
黒井城を攻めようとはしませんでした。
慎重に周りの城から攻城していく
個別撃破戦略をとったのでした。
織田信長は細川藤孝・忠興父子の援軍を送り、
翌年の天正6年(1578年)3月に
八上城と氷上城の包囲を完成させます。

【丹波の赤鬼の死去】
この時に赤井方では、
主将である荻野直正が
3月9日に何と病死してしまいました。
病名は当時の言葉で「首切り疔」で、
これは化膿してできる腫れ物、とされています。
享年は50歳であったとのことです。




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【弟が統率するも・・・】
赤井直正の死去後、
一度は明智光秀を裏切った丹波国人衆は、
八上城を攻囲するのを見ると
再び明智光秀に降っていきました。
赤井家では、
赤井直正の弟の幸家が後見となり統率していきます。

更に織田信長は同年4月に、
羽柴秀長軍と明智秀満軍の増援を送り込み、
山垣城
細工所城
栗住野城
玉巻城
岩屋城
霧山城
等の
八上城、黒井城の支城を
次々と落城させていきました。
なお、明智光秀は攻囲中に、
軍勢を八上城に置きながら
別所長治荒木村重
謀反にも対処していました。
三木合戦、有岡城の戦いと呼ばれる戦でした。

翌年の天正7年(1579年)3月に、
八上城と黒井城の分断を目的に
柏原に金山城を築城します。
各支城を落城し、
金山城の効果が表れ始めた模様で、

<5月5日 氷上城落城>
極度の飢餓状態になった八上城に対し、
信長公記」によりますと「調略をもって」
という記載がある事から、
八上城兵に対して働きかけがあったと推測できます。

<6月1日 八上城落城>
捕えられた波多野三兄弟は明智光秀護送の元、
洛中を引き回され安土城に出向き
織田信長の命により磔になりました。
明智光秀は7月に再び丹波に入国し、
いよいよ最後の城である黒井城の攻城にとりかかります。

【黒井城での戦い】
赤井忠家軍は、第一次黒井城の戦いの時とは違い、
波多野家からの援軍もなく
黒井城の支城もほとんどが落城してしまい、
兵力も激減していたと推測されます。

戦いは8月9日早朝開始。
明智光秀は慎重に攻め込み、
仮想陣地に火をかけたり、
ほら貝を吹いて混乱を装い、
攻めると見せかけて退いたり、
勢いに乗って追う黒井城兵を誘い込み
挟撃したりしたとのことです。

そうした中、
明智軍の四王天政孝隊が手薄になった
千丈寺砦から攻め落とし、
主曲輪に向けて総攻撃を仕掛けたそうです。
明智軍の誘導作戦で主曲輪には
僅かな手勢しか置いておらず、
赤井忠家も奮戦したそうですが、
最後は自ら火を放ち敗走したとあります。

この戦いで、丹波征討戦は終了しました。

【丹波平定の後】
また、この戦いの後に
したためた明智光秀の書状が
見つかっています。

この書状は黒井城落城から
15日後の8月24日付のもので、
戦勝祈願した京都の威徳院へ
送ったものになるそうです。
内容は、勝利することができたので
約束どおり200石を奉納すると
伝えているとのことです。
また、文中には、
赤井忠家の居城であったと
思われている高見城がまもなく落城し、
一両日中には
和田方面に進軍すると報じているそうです。
書状の中段に「高見之事、執詰陣候、」
という記載が見受けられるとのことです。

【丹波を明智光秀、丹後を細川藤孝】
上記書状のように、若干の反対勢力との
小規模な戦闘や和睦などを片付けて、
明智光秀、細川藤孝らは
10月24日に安土城に凱旋し、
織田信長に拝謁し
丹波が平定できたことを報告するのでした。
翌年の天正8年(1580年)に
織田信長は丹波を明智光秀に、
丹後を細川藤孝に与えることにしました。




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【斎藤利三時代】
明智光秀は重臣である
斎藤利三を氷上郡に置き統治させました。
斎藤利三の娘である福(のちの春日局)は
この地で生まれました。

<生誕地である興禅寺の庭>
興禅寺の庭

本能寺の変で織田信長を討ち取った
明智光秀でしたが、
山崎の戦いで敗れると
明智光秀の勢力は完全に
丹波国から駆逐されてしまうのでした。

【堀尾氏時代、そして廃城】
その後、黒井城に入城したのは
羽柴秀吉の家臣の堀尾吉晴でした。
天正12年(1584年)、
羽柴秀吉と徳川家康の間で
小牧・長久手の戦いが起きると、
赤井直正のもう一人の弟である
赤井時直が黒井城と余田城(市島町)で
徳川家康に通じ立て篭もったとあります。

これを最後に黒井城は歴史からはその名が
記されることはなく、
約250年間に渡る
城の歴史の幕を閉じて廃城になったと推測されます。

槇島城・足利義昭が籠城し、室町幕府の実質的な終焉の地~忘却の城跡~巨船出現す!!

足利義昭・最後の室町幕府将軍、懲りずに粘って兄の分まで生きる!歴代足利将軍の中で最も長生き!

赤井直正~丹波の赤鬼・悪右衛門~光秀を追い詰めた武将、黒井城攻防と丹波平定

天橋立~九世戸~明智光秀が細川藤孝・細川忠興の招きで訪れた日本三景、同行者には愛宕百韻の里村紹巴も

細川忠興~正室は明智光秀の娘・ガラシャ~文武両道のハイスペック武将で何事にも極め人。

亀山城(丹波国)~明智光秀の丹波経営の拠点~やがて本能寺へ向かう

福知山城~初代城主は明智光秀~領民に慕われた証の御霊会、城代は婿で重臣の明智秀満

四王天政孝・四王天政実~明智光秀家臣~先祖は武蔵武士団・児玉党の党祖、青木氏から家康次男・結城秀康の家臣となる

波多野三兄弟と八上城~七度の攻防戦があった城~光秀によって陥落、波多野氏とは?

内藤如安~明智光秀の丹波攻め~ナゾに包まれた八木城と丹波内藤氏の栄枯盛衰

松田政近~明智光秀の家臣~山崎の戦いでは並河易家と共に戦う・丹波国とは?

並河易家~明智光秀の家臣~またの名を明智掃部、交通事情に詳しく、光秀をナビする

興禅寺~黒井城の下館~明智光秀の重臣・斎藤利三が治めた春日局の生誕地

荒木村重と残された女性や家臣たちの悲惨な最期~有岡城の戦い~

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