室町幕府

細川藤孝(細川幽斎)~武道・文芸・芸術・コミュ能力と多才多芸な武将~巧みに世を渡り、運も引き寄せる

細川藤孝(細川幽斎)






細川藤孝細川幽斎)】

細川 幽斎 ・ 細川 藤孝
(ほそかわ ゆうさい / ほそかわ ふじたか)は、
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で大名。
歌人でもあります。
幽斎は雅号で法名を玄旨といいます。

【概要】
初めは室町幕府13代将軍である
足利義輝に仕えていました。
足利義輝が暗殺されてからは、
15代将軍である足利義昭の擁立に尽力しました。
後に織田信長に従い、
長岡藤孝(ながおかふじたか)を名乗り、
丹後宮津11万石の大名となりました。
本能寺の変の後は、
主君である織田信長の死に殉じて剃髪し、
家督を嫡男である忠興に譲ります。
その後も豊臣秀吉徳川家康に仕えて重用され、
近世大名肥後細川家の礎となりました。
また、二条流の歌道伝承者・三条西実枝から
古今伝授を受け、
近世歌学を大成させた
当代一流の文化人でありました。

【生誕】
天文3年4月22日(1534年6月3日)
【死没】
慶長15年8月20日(1610年10月6日)
【改名】
細川藤孝⇒長岡藤孝⇒幽斎玄旨(細川幽斎
【別名】
幼名:万吉(萬吉)
通称:与一郎
【号】幽斎玄旨
【墓所】
熊本県熊本市の立田自然公園(泰勝寺跡)
京都府京都市の南禅寺
京都府京都市の大徳寺高桐院
【父】三淵晴員
【母】清原宣賢の娘
【養父】細川元常
【異母兄】三淵藤英
【正室】沼田麝香
【子供】
細川忠興
細川興元
伊也一色義定のち吉田兼治室)
細川幸隆
千(長岡孝以のち小笠原長良室)
細川孝之
加賀(木下延俊室)
栗(長岡好重室)
仁伊(夭逝)

【生い立ち】
天文3年(1534年)4月22日、
三淵晴員の次男として京都東山に生まれました。
(和泉上守護家細川元有の子で、三淵氏の養子)
幼名を萬吉(まんきち)と称していました。
天文9年(1540年)、
7歳で伯父である
和泉半国守護である細川元常(三淵晴員の兄)
の養子となったとされていますが、
これについては異説があります。
天文15年(1546年)、
13代将軍である足利義藤
(後の足利義輝)の偏諱を受け、
藤孝を名乗ります。
天文21年(1592年)、
従五位下・兵部大輔に叙任されました。

【足利幕臣】
幕臣として13代将軍である
足利義輝に仕えていましたが、
永禄8年(15655年)の永禄の変で、
足利義輝が三好三人衆に討たれ、
義輝の弟である一乗院覚慶
(後に還俗して足利義昭)も
興福寺に幽閉されてしまいました。
そして、異母兄である三淵藤英をはじめ、
一色藤長、和田惟政、仁木義政、米田求政
らと協力して覚慶を救出し、
近江国の六角義賢、
若狭国の武田義統、
越前国の朝倉義景らを頼って
足利義昭の将軍任官に奔走しました。
当時は貧窮して、
灯籠の油にさえ事欠くほどで、
仕方なく社殿から油を頂戴することも
しばしばあったとのことです。

その後、明智光秀を通じて、
尾張国の織田信長に
助力を求めていくことになります。
永禄11年(1568年)9月、
織田信長が足利義昭を奉じて入京し、
細川藤孝もこれに従いました。
細川藤孝は、山城勝竜寺城(青竜寺城)を
三好三人衆の岩成友通から奪還し、
以後、大和国や摂津国にて
度々戦をすることになります。
勝竜寺・外観





【織田信長に仕える】
足利義昭と織田信長の対立が
やがて表面化すると、
元亀4年(1573年)3月、
軍勢を率いて上洛した
織田信長を出迎えて
恭順の姿勢を示しました。
足利義昭が織田信長に対して、
逆心を抱くふしがあることを
密かに細川藤孝から
織田信長に伝えられていたことが
織田信長の手紙から判明しています。
足利義昭が追放された後の7月に、
桂川の西に位置する
山城国長岡(西岡)一帯
(現長岡京市、向日市付近)の知行を許され、
名字を改めて長岡藤孝と名乗ります。

8月には池田勝正、三淵藤英と共に
岩成友通を山城淀城の戦い
(第二次淀古城の戦い)
で滅ぼすという功績を挙げました。
以後は織田信長の武将として
畿内各地の連戦となります。
●高屋城の戦い
●越前一向一揆征伐
●石山合戦
●紀州征伐

山陰方面軍総大将である
明智光秀の与力としても活躍しています。
黒井城の戦い
黒井(保月)城・ゆるやかコース

そして、
天正5年(1577年)、
織田信長に反旗を翻した
松永久秀の籠る大和信貴山城を
明智光秀と共に落としました。
●信貴山城の戦い

この戦いの後、
後羽柴秀吉は中国征討へ、
明智光秀、細川藤孝は、
第二次丹波国征討に
向かうことになるのでした。

【嫡男・忠興と光秀の娘・玉との婚姻】
天正6年(1578年)、
織田信長の薦めによって、
かねてより婚約中であった
嫡男である細川忠興
明智光秀の娘・玉(ガラシャ)の婚儀がなります。
明智光秀の与力として、
天正8年(1580年)には
長岡家単独で丹後国に進攻しましたが、
同国守護一色氏に反撃され失敗します。

<細川忠興と玉(ガラシャ)>
細川忠興と玉(ガラシャ)

【丹後の南半分】
後に明智光秀の加勢によって
ようやく丹後南部を平定し、
織田信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)
の所領することを認められて
宮津城を居城としました。
なお、北半国である
中郡・竹野郡・熊野郡は
旧丹後守護家である一色義定が
引き続き、
織田信長より領有を
認められています。
其の後の甲州征伐には
一色義定とともに出陣しています。

【クジラ肉は皆で御裾分け】
織田信長は正月12日付の
長岡藤孝(長岡)宛ての黒印状で、
知多半島で取れた鯨肉を
朝廷に献上したうえで、
家臣である長岡藤孝(細川藤孝)に
お裾分けする旨を述べています。
鯨は多くの人に分ける
習慣があったことが指摘されています。

本能寺の変・光秀を断る】
天正10年(15822年)、
本能寺の変が起こります。
細川藤孝は上役であり、
親戚でもあった明智光秀の
再三の要請を断ります。
自害した織田信長を弔うために、
剃髪して雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)とし、
田辺城に隠居し、
嫡男である細川忠興に家督を譲りました。
同じく明智光秀と
関係の深い筒井順慶も参戦を断り、
窮地に陥った明智光秀はほどなく
山崎の戦いで敗死しました。

<光秀が討たれたとされる明智藪の辺り>
明智藪の辺り





【何故、光秀の要請を断ったか?】
「老人雑話」によりますと、
「明智(光秀)、始め(は)細川幽斎の臣なり」
とあります。
両者の上下関係は歴然としていることから、
細川幽斎には、
明智光秀の支配下に入ることを
潔しとしない風があったとされています。
家柄も、元々は細川幽斎の方が上でした。

また、明智光秀と細川幽斎の仲は、
あくまでも織田信長あってのものでした。
織田信長亡き後は、
その絆はなくなってしまった、
と考えていたかもしれません。
明智光秀は、
細川幽斎に何の相談もなしに
本能寺の変の行動を起こしています。
その辺りも、細川幽斎にとっては、
不意をつかれたようなことだったのでしょう。
でも、事前に相談していたなら、
細川幽斎のことですから、
明智光秀は本能寺の変を起こす前に、
謀反の企てありとして
討たれてしまったことでしょう。

このように、「盟友」と称された
明智光秀と細川幽斎ですが、
明智光秀の思惑とは異なり、
細川幽斎は、明智光秀との「盟友」は
主君である織田信長の存在があってこそ、
成立していたという
ドライな考えだったかもしれません。
そこも明智光秀の誤算
であったかもしれませんね。

また、細川幽斎は、
自分自身がリーダーシップをとって
上に立つ、ということはせず、
常に、時勢を読み、その時々で
最も権力のある人物を見抜き、
その下へつくという
巧みな処世術を身に着けています。
このころ、既に羽柴秀吉の力は
急速に拡大し、明智光秀よりも
権力を掌握していると
見極めていた可能性もありますね。
その辺りの行動を見ると、
分析能力・情報収集力・先見力に
優れていると思います。
現代の職業でしたら・・・
アナリスト、に向いているかもしれませんね。

【秀吉に重用される】
その後も明智光秀を討った
羽柴秀吉(豊臣秀吉)に重用されます。
天正14年(1586年)に
在京料として
山城西ヶ岡に3000石を与えらます。

天正13年(1585年)の紀州征伐、
天正15年(1587年)の九州平定にも
武将として参加しました。
また、梅北一揆の際には
上使として薩摩国に赴き、
島津家蔵入地の改革を行っています。
これは後に薩摩御仕置と称される改革です。
この功により、
文禄4年(1595年)には、
大隅国に3000石を加増されています。
後に、越前国府中に移封となりました。

千利休の高弟】
細川幽斎は千利休や木食応其らと共に
豊臣秀吉側近の文化人として寵遇されました。
嫡男である細川忠興(三斎)も
茶道に造詣が深く、
千利休の高弟の一人となりました。
一方、徳川家康とも親交があり、
慶長3年(1598年)に、
豊臣秀吉が死去すると家康に接近しています。

関ヶ原田辺城の戦い
慶長5年(1600年)6月、
細川忠興が徳川家康の会津征伐に
丹後から細川家の軍勢を引きつれて参加しました。
そのため、細川幽斎は、
三男の細川幸隆と共に
500に満たない手勢で
丹後田辺城を守ります。
7月、石田三成らが家康討伐の兵を挙げ、
大坂に居住していた細川忠興の正室である
ガラシャは包囲された屋敷に火を放って
家臣に胸を突かせて果てました。
田辺城は小野木重勝・前田茂勝らが率いる
1万5000人の大軍に包囲されます。
しかし、細川幽斎が指揮する
籠城勢の抵抗は激しく、
攻囲軍の中には細川幽斎の歌道の弟子も多く、
戦闘意欲に乏しかったこともあり、
長期戦となりました。





【田辺城の戦い】
田辺城の戦い(たなべじょうのたたかい)は、
(現在の京都府舞鶴市)
慶長5年7月19日(1600年8月27日)から
9月6日(10月12日)にかけて、
丹後田辺城をめぐり起こった戦いです。
広義の関ヶ原の戦いの一環として戦われ、
丹波福知山城主であった小野木重次、
丹波亀岡城主であった前田茂勝らの西軍が、
田辺城に籠城する細川幽斎(東軍)を攻めました。

<田辺城・城門>
田辺城・城門

【開戦までの経緯】
豊臣秀吉の没後、
政権の首座に就いた
大老である徳川家康は、
度重なる上洛命令に応じず
敵対的姿勢を強める会津の
上杉景勝を討伐するために、
慶長5年(1600年)6月に、
諸将を率いて東下しました。
これを会津征伐と称します。
徳川家康と対立し、
佐和山に蟄居していた石田三成は、
徳川家康の出陣によって畿内一帯が、
軍事的空白地域となったのを好機と捉え、
大坂城に入り家康討伐の兵を挙げたのでした。

【狙われた田辺城】
西軍は、まず畿内近国の
徳川家康側諸勢力の制圧に務めます。
上杉討伐軍に参加していた
細川忠興の丹後田辺城もその目標の一つでした。
小野木重次・前田茂勝・織田信包
小出吉政・杉原長房・谷衛友・藤掛永勝・
川勝秀氏・早川長政長谷川宗仁
赤松左兵衛佐・山名主殿頭ら、
丹波・但馬の諸大名を中心とする
1万5000の兵が包囲します。

細川忠興が殆んどの丹後兵を
連れて出ていたので、
この時田辺城を守っていたのは、
細川忠興の実弟の細川幸隆と
父の細川幽斎および
従兄弟の三淵光行(幽斎の甥)
が率いる500人にすぎませんでした。
田辺城・外観

【西軍15000VS幽斎500】
細川幸隆と幽斎は抵抗したものの、
兵力の差はあまりにも大きく、
援軍の見込みもなく、
7月19日から始まった攻城戦は、
月末には落城寸前となります。

【幽斎死すば、古今伝授も滅ぶ】
しかし西軍の中には、
当代一の文化人でもある細川幽斎を
歌道の師として仰いでいる諸将もいました。
従って、「師匠に弓矢をひくなんて」
と攻撃は積極性を欠いたもの
であったとされています。

更に、当時細川幽斎は、
三条西実枝から
歌道の奥義を伝える
古今伝授を相伝されておりました。
「古今伝授」がわかるのは細川幽斎ただ一人。
死んでしまうと、
もう誰もわからなくなります。
弟子の一人である八条宮智仁親王や
その兄後陽成天皇
細川幽斎の討死と
古今伝授の断絶を恐れていたのでした。
細川幽斎の弟子の一人だった
八条宮智仁親王は
7月と8月の2度にわたって
講和を働きかけました。
しかしながら、細川幽斎はこれも謝絶して
引き続き籠城戦を継続させます。
使者を通じて
「古今集証明状」を八条宮に贈り、
「源氏抄」と
「二十一代和歌集」を朝廷に献上します。
この細川幽斎の行動は、
朝廷を更に慌てさせ、
講和への働きかけに朝廷も
更に本腰を入れます。

【天皇の勅命で幽斎救出】
朝廷の本気度はすごく、
ついに八条宮が兄である
後陽成天皇に奏請します。
幽斎の歌道の弟子である大納言三条西実条・
中納言中院通勝・中将烏丸光広が
勅使として田辺城に下され、
講和を命じるに至りました。
勅命ということで、
流石の細川幽斎と
細川幸隆はこれに従いました。
時に関ヶ原の戦いの2日前の9月13日、
勅命による講和が結ばれたのでした。
これにて、細川幽斎は2ヶ月に及ぶ
籠城戦を終えて9月18日に田辺城を明け渡し、
敵将前田茂勝の居城である
丹波亀山城に身を移されることとなりました。

【細川幽斎の功労】
この戦いは結果的には西軍の勝利となりました。
けれども、小野木ら丹波・但馬の
西軍1万5000もの兵が
この間田辺城に釘付けにされ、
開城から2日後の
関ヶ原の戦い本戦に間に合わず、
大局的にみれば、
西軍の戦力を
削ぎ落したことになったのでした。





【晩年】
細川忠興は関ヶ原の戦いにおいて
前線で石田三成の軍と戦い、
戦後豊前小倉藩39万9000石の大封を得ました。
この後、長岡氏は細川氏に復し、
以後長岡姓は細川別姓として
一門・重臣に授けられました。
その後の細川幽斎は、
京都吉田で悠々自適な
晩年を送ったとされています。

【廃嫡された孫一家の面倒を見る】
細川忠興の嫡子であった
細川 忠隆(ほそかわ ただたか)の
正室である千世は前田利家の娘でした。
細川忠興は、
忠隆に対して千世との離縁を迫ります。
離縁の理由として挙げられるのは

【1】
ガラシャを連れて行かずに、
自分だけ逃げて助かったこと。

【2】
前田・細川の姻戚関係を
徳川家は好ましく思っていない。
従って忠興はこの際に千世を離縁して
前田との関係を絶とうとした。

ですが、母であるガラシャの壮絶な死の直後に
妻との離縁を命令された忠隆は、
当然のごとく納得がいかず反発します。
しかも千世をかばって何と、
前田家を訪ねて助力を求めたりしました。
そのため、忠興は大激怒となり、
慶長9年(1604年)、
細川忠隆を勘当して廃嫡してしまいます。
細川忠隆は剃髪して、
長岡休無と号し、
千世と長男の熊千代を伴い
京都で蟄居しました。

廃嫡後の長岡休無の京都での生活を
支えていたのは、細川幽斎でした。
6000石の固有所領を持ち、
京都に隠居在住していたのでした。

慶長15年(1610年)8月20日、
京都三条車屋町の自邸で死去しました。
享年は77歳でした。 

【財産分与】
幽斎の所領6000石や
そのほかの資産は死後に整理されました。
内訳は、次男の細川興元の
下野茂木藩1万石立藩の足しとして、
細川忠興から廃嫡された
孫である長岡休無(細川忠隆)への
細川家からの京都隠居料(3000石)として、
それぞれ受け継がれました。

【人となり】
【何でもこなせる多才多芸な人物】
剣術等の武芸百般、
和歌・茶道・連歌・蹴鞠等の文芸を修め、
さらには囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深く、
当代随一の多才多芸な教養人でした。
剣術は塚原卜伝に学び、
波々伯部貞弘・吉田雪荷から弓術の印可を、
弓馬故実(武田流)を
武田信豊から相伝されるなど
武芸にも高い素質がありました。
腕力も強く、京都の路上で突進してきた
牛の角をつかみ投げ倒したという
逸話もあります。
また嫡男の細川忠興と共に
遊泳術にも優れていたそうです。





【古今伝授の唯一の継承者】
三条西実枝に古今伝授を受け、
その子である三条西公国とさらに
その子の三条西実条に返し
伝授するまでの間、
二条派正統を
一時期継承していました。
当時唯一無二の古今伝授の伝承者であり、
関ヶ原の戦いの際、
後陽成天皇が勅命により
細川幽斎を助けたのも
古今伝授が途絶える事を
恐れたためだといわれています。
門人には後陽成天皇の弟宮である八条宮智仁親王、
公家の中院通勝、烏丸光広などがいました。
松永貞徳、木下長嘯子らも
細川幽斎の指導を受けていたとされています。
島津義久は細川幽斎から直接、
古今伝授を受けようとした一人であり、
細川幽斎が足利義昭に仕えていた頃から
交流があったそうです。
八条宮が細川幽斎から古今伝授を受けた
「古今伝授の間」は、
細川幽斎の孫で、熊本藩主となった細川忠利が
造営した水前寺成趣園(熊本市)に
大正時代に移築され、
2010年(平成22年)には、
熊本で細川幽斎没後四百年祭が開催されました。
2011年(平成23)には
水前寺成趣園内に銅像が建てられています。

【足利義昭の葬儀を主催】
足利義昭が後に幕府を追われ、
其の後、豊臣秀吉のお伽衆までなったのですが、
足利義昭が死去した後に、
葬儀を執り行う者がいませんでした。
これは・・と見かねて細川幽斎が
葬儀を主催したそうです。

【足利将軍家の御落胤??】
細川幽斎の智慶院は第12代将軍であった
足利義晴の子をみごもったまま、
三淵晴員に嫁いで細川幽斎を生んだと記してある
史料が存在したそうです。
その記述が事実であるとするならば
細川幽斎は、
足利義輝と足利義昭の庶兄にあたります。

なお、2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」では、
眞島秀和(ましまひでかず)さんが演じられることが決定しています。

【田辺城】

田辺城(たなべじょう)は、
京都府舞鶴市にある
戦国時代から江戸時代にかけての日本の城。
別名は舞鶴城(ぶがくじょうと)と称します。
鎌倉幕府・室町幕府の
八田守護所(丹後守護所)の後身ともされています。
舞鶴市指定史跡です。

<田辺城・模擬櫓>
田辺城・模擬櫓

【所在地】
京都府舞鶴市字南田辺15-22
【別名】
舞鶴城
【築城年】
天正7年(1579年)
【築城主】
細川藤孝
【主な城主】
細川氏、京極氏、牧野氏
【形態】
輪郭式平城
【廃城年】
明治7年(1873年)
【遺構】
石垣、堀、庭園
【指定文化財】
市指定史跡
【再建造物】
櫓・門・塀、模擬櫓

<石垣>
田辺城・石垣

【室町時代】
室町幕府の丹後守護所は
加佐郡の八田にありました。
丹後守護の一色氏は八田の守護館において
若狭武田氏との抗争中は除く間、
この地で政務をとっていました。
この館は平地にあるため、
有事の際は背後の建部山にある
建部山城に籠って
戦うこととされていたのでした。
<建部山城跡>
建部山城跡・遠景

【戦国時代】
天正6年(1578年)、
織田信長の命によって
守護大名の一色義道を滅ぼし、
丹後の南半分を領有した
長岡藤孝(細川幽斎)は、
はじめは宮津城を居城としていました。

<宮津城の石>
宮津城の石

やがて、京都に近く交通の要所であった
旧丹後守護所の加佐郡八田に、
地名を田辺と改めた上で、
田辺城を築き、経営の中心としました。
隠居後は、嫡男である細川忠興を入城させています。

【江戸時代】
【京極氏時代へ】
こののち細川忠興は豊前国小倉に転封され、
京極高知が丹後一国12万3千石を与えられ、
仮に田辺城に入城します。
が、宮津城を再築し
宮津城へ本拠地を移しました。
このとき田辺城の建造物は、
一国一城令により、
ことごとく破壊されたと伝えられています。
京極高知の遺言によって京極家は
嫡男である京極高広が
宮津藩7万5千石、
次男である高三が
田辺藩(舞鶴藩)3万5千石、
養子である高信が
峰山藩1万3千石を相続しました。

初代舞鶴藩主となった京極高三により、
石垣の修復や櫓の再建が図られ、
荒廃していた田辺城は再興されました。
再建された田辺城は、
絵図によると二の丸を中心に再建され、
二の丸の南に御殿、
二の丸北に二重櫓、
二の丸に櫓門2基、
三の丸に櫓門が3基建てられていたそうです。

<田辺城・城郭復元図>
田辺城・城郭復元図

【牧野氏時代へ】
京極氏は3代続いた後、
豊岡藩へ転封となりました。
代わって牧野氏が寛文8年(1668年)、
3万5千石で入封すると、
田辺城の大手門その他の城門や
石垣などが改築され、
それを代々世襲し
明治の時代まで繁栄しました。

【舞鶴藩への改称】
明治2年(1869年)には
版籍奉還が行われ、
その後、紀伊田辺藩との
同一藩名を解消するため太政官より
田辺藩の名称変更を命じられ、
同年6月に田辺城の雅号・舞鶴城に因んで
舞鶴藩に改称しました。

【現在の田辺城】
現在の田辺城跡は
舞鶴公園(無料・無休)になっています。
1940年(昭和15年)に
復興された二層櫓の彰古館、
本来の外堀上に1997年(平成9年)に
復興された城門には田辺城資料館、
天守台石塁などがあります。
また濠はすべて埋め立てられていて
現在では存在していません。

<舞鶴公園>
舞鶴公園(京都)

【田辺城資料館】
再建された田辺城城門内2階にあります。
【所在地】
京都府舞鶴市字南田辺15-22
【電話】
0773-76-7211
【休館日】
月曜、祝日の翌日、12月31日~1月3日
【大人】
200円
【学生】
(小学生~大学生)100円

【交通アクセス】
【電車】
JR舞鶴線・西舞鶴駅から徒歩4分。
京都駅より特急まいづるに乗り、
約1時間30分で西舞鶴駅着
【車】
舞鶴若狭自動車道・舞鶴西ICから車で10分。
【駐車場】
駐車場6台 無料
満車の場合舞鶴市営駐車場を利用(有料)

<場所>
青印は田辺城・城門辺り

無料駐車場の場所がわからなかったので
城門の向かいにある警察署の駐車場に停めました。

足利義昭・最後の室町幕府将軍、懲りずに粘って兄の分まで生きる!歴代足利将軍の中で最も長生き!

槇島城・足利義昭が籠城し、室町幕府の実質的な終焉の地~忘却の城跡~巨船出現す!!

興聖寺と足利庭園~朽木氏岩神館跡~室町幕府12代将軍?義晴、13代将軍・足利義輝の安全地帯

細川忠興~正室は明智光秀の娘・ガラシャ~文武両道のハイスペック武将で何事にも極め人。

細川ガラシャ(明智玉(珠))~父は明智光秀~聡明で気高く、愛と信仰に殉じた細川忠興の正室

天橋立~九世戸~明智光秀が細川藤孝・細川忠興の招きで訪れた日本三景、同行者には愛宕百韻の里村紹巴も

熊川城~沼田麝香(細川マリア)の出身地・細川藤孝正室で細川ガラシャの姑~

一色義定と一色義道・義清~かつての幕府の四職~明智光秀に味方し丹後一色氏は散りゆく

稲富祐直~百発百中の砲術家~細川ガラシャをおいて逃げたけど、やがては徳川幕府の鉄砲方に!

内藤如安~明智光秀の丹波攻め~ナゾに包まれた八木城と丹波内藤氏の栄枯盛衰

亀山城(丹波国)~明智光秀の丹波経営の拠点~やがて本能寺へ向かう

福知山城~初代城主は明智光秀~領民に慕われた証の御霊会、城代は婿で重臣の明智秀満

黒井城~丹波三大山城~250年間続いた中世から戦国時代の貴重な城郭

赤井直正~丹波の赤鬼・悪右衛門~光秀を追い詰めた武将、黒井城攻防と丹波平定

興禅寺~黒井城の下館~明智光秀の重臣・斎藤利三が治めた春日局の生誕地

波多野三兄弟と八上城~七度の攻防戦があった城~光秀によって陥落、波多野氏とは?

伊勢貞興~名門・伊勢宗家の若き武将で明智家重臣~二条城で織田信忠を攻める

三淵藤英~細川藤孝の異母兄・足利幕府の奉公衆の立場を貫く~

諏訪盛直(諏訪飛騨守)~明智光秀家臣~山崎の戦いでの激闘で華々しく散る!淀古城・京都諏訪氏とは?

聖衆来迎寺・森可成の墓~織田家の重臣で森蘭丸の父~

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